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日本式のコーヒーの飲み方はどこから来たものでしょう?

(Quoraより、回答を転記。リクエスト回答)

回答リクエストありがとうございます。

私も駆け出しの珈琲屋なので実際に見聞きしたところで

お答えしたいと思います。

ちょっと長いですがお付き合いくださいm(__)m


日本式のコーヒーの飲み方ですが、文化的には日本で醸成されたもの。

と考えています。


日本人と珈琲との出会いは、江戸時代後期、長崎の出島で

オランダ船にて珈琲を飲んだ記録から始まります。

ただこの時は、珍しい黒く苦い液体という扱いで

特に定着したわけではなかったようです。

時代は流れて、明治期、珈琲が徐々に入ってきます。


恐らく最初期に珈琲が提供されていただろうというところでは、

「鹿鳴館」が挙げられます。

本格的なコーヒーハウスはその数年後に鄭永慶氏による

「可否茶館」が開かれます。

その前後から、横浜や神戸などの日本各地の貿易港で

取引があったのではないでしょうか。

私は関西の出自なので、関西で調べた情報も記載しておきます。

明治後期にブラジルへの移民により、結果的にブラジル国内で

コーヒー農園を大きく広げる実績を残した「水野龍」がいます。

慶応義塾の出身で、その後輩に、現阪急阪神ホールディングスの

創始者「小林一三」がいます。


小林一三は、私鉄を使った周辺土地の利用を行った人物ですが、

明治末期から大正にかけて、当時の電車の終点である宝塚と箕面に

テーマパークの娯楽商業施設を集中させる思惑がありました。

その際、水野龍との話がもたれたのかわかりませんが、

ブラジルからのコーヒー豆が使用され、

宝塚、箕面、心斎橋、のちに銀座でカフェーパウリスタという

喫茶店が開業します。


箕面については、箕面動物園の一部として

現在の阪急電鉄箕面線箕面駅の北側にある交番の位置に

カフェーパウリスタがあったことが確認されています。

なお当時の建物は、阪急電鉄宝塚本線豊中駅の北西側に

移築されており数年前に一部保管、立て直しが行われました。

取り壊し前に中に入らせてもらったことがあるのですが、

窓の形状や、アメリカ製の鉄板プレスの飾り天井など、

当時の洋館といった雰囲気を楽しめる建物でした。

今はファミリーマート&自治会館になっています。


宝塚については、当時の情報が少ないのですが、

温泉街の一角の建物の中にあったのではないかと、

現存する写真画像から推測されています。

これらの起こった時期が明治44年ごろといわれています。

日本とブラジル政府とのやり取りが活発化するに伴い、

大正期には特にブラジルのコーヒー豆に浸透してきたようです。

大正期・昭和期の間に恐らく、ブラジルの珈琲文化も

導入されていると考えられます。


現在あまり残っていませんが、昭和中期、高度経済成長期まで

よく利用されていた方法で、ブラジルの「カフェジーニョ」に

近い飲み方をしていたと、シニアの方によく聞きます。

深煎りにした珈琲(大体フルシティからフレンチくらい)を

大型のネルドリップ(ヤグラネル)を使って大量に抽出して、

それを湯煎式の珈琲保温器コーヒーアーンに入れて、

蛇口をひねるだけで珈琲が飲めるという提供の仕方をされていました。

会社に出かける際に、一杯ひっかけていったそうです。

現在の値段で一杯、大体100円から200円くらいと聞いています。

このころ付近でよく使われていたカップが「デミタス」です。


少し戻って第二次世界大戦後ですが、コーヒー豆の供給が途絶え、

生豆の輸入再開(貿易再開)まで、確か10年くらいは要したと思います。

そんな中、大阪堺の大型老舗珈琲ロースターの会長から

大戦中にドイツ将校が駐屯した時、自分たち用に、

堺の山奥に大量のコーヒー豆を保管していたらしく、

戦後しばらくはそれを拝借して、商売を続けていたと伺いました。

ここで考察なんですが、日本移民はブラジルやハワイ、

ドイツ移民はグアテマラなど、コーヒー農園の開拓を行った経験のある国です。


また、この二つの国は、第二次世界大戦まで、

熱帯に植民地を持たなかったことによりコーヒー豆を常に外から

買い付けていた国でもあります。

そういう意味で、珈琲を現地からよく知っている、

どうせ買うなら美味しいものを。

というスタンスが結構定着していた国なんじゃないかなと思ってます。


日本式のコーヒーの飲み方という点では、このあたりに帰着してきます。


①豆は選んで買うもの、幅広い生産国の選択肢

⇒戦前戦後のコーヒー生産国との付き合いや、植民地移出とは違う

購入というプロセスから、割とフェア(あるいは日本不利くらい)な

コーヒーの貿易が行われていたと思われます。

昭和の喫茶店ブームのころには、エチオピアモカ、イエメンモカ、

ブラジル、コロンビア、グアテマラ、インドネシアマンデリン、

タンザニアキリマンジャロなど多くの国から割と品質のいいものが

手に入れられていたと考えられます。


②豆が割と良質なため、焙煎度合いは自由に選べた。

⇒低質な豆は中深煎りなどのミドルレンジでムラが出ます。

質が高いからこそのハイからシティローストです。


③淹れ方は各国の淹れ方を選べた。

⇒ブラジル経由の布フィルター、オランダの水出し、

ドイツのペーパー式など、各国の淹れ方を楽しめたのでは、

と考察します。ただ、ノンフィルター系(エスプレッソ・ボイルド)は

独特のオイル感が苦手な人が多く、日本では最近まで

定着しなかったように思います。

実際のところ、第一次エスプレッソブーム(仮)が

昭和45年ごろにあったそうですが、だれも覚えていません。。

 

結論としては、明治期以降のお付き合いからいろんな国の文化が

混じりあって、日本独自の多様性のある珈琲文化を築いている。

ということで、私は確信しております^^

 

コーヒー生産国やコーヒー先進国のおかげで成り立つ

素晴らしいという意味で変わった国です笑


なお、歴史などに関しては、全日本コーヒー協会、

珈琲文化学会で詳しい方がたくさんおられると思います。

ご紹介まで。


それでは、今日もよい一日と珈琲を。

※今日は飲んだことのない国のコーヒーを飲んでみてください!

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