恥を知る。99.『月下』

先日、広島の青少年センター大ホールにて、出演させていただいた短編映画『映画製作室 月下』の完成披露上映会がおこなわれた。

この作品にでることになった経緯は以前ここでもお話ししたので改めてぜひ読んでみてほしい(恥を知る。61.『道標』)。

上映会は1日に2回おこなわれ、私は1回目の舞台挨拶と1回目と2回目のどちらともで弾き語りライブをすることになっていた。当日までのあいだ、どう気を紛らわそうともいつものライブとは違う緊張感に襲われる日々が続いた。この感覚は言葉ではとてもあらわせそうにない。

1人でステージに立つのはいつだってこわいし心細い。よく『度胸がある』と褒められることがあるが、度胸なんて褒められるものじゃないと思う。知識や技術のように努力で育てるものではないからだ。ただ、こうなるしかなかった。それだけだと私は思う。

今までにないような言葉であらわしきれない感情で迎えたライブは意外にもクリアだった。なんというかとても、鮮明でわかりやすかった。邪念が立ち入る隙がない、というのが1番近いかもしれない。私は、1人で立つには大きすぎるステージの真ん中でこれまでにないほどまっすぐに歌いきり、楽屋に帰りながら考えていた。

あそこに立つのは何度目だったろう。

正直、正確には思い出せなかった。ダンス、バンド、そして今回の弾き語り、全ての形の私が立ったステージはもしかしたらここだけかもしれないな。そんなことを考えているとまたおかしな感情になってきて、私はギターを片付けて急いでステージ袖へと戻った。

ステージ上ではDDK dance createのみなさんが劇中でも披露していたダンスを踊っていた。DDKは私がかつて所属していたダンスチームである。

ステージ袖から見るその光景は、当時私がそこで見ていた景色そのものだった。

10年前もたしかに、私はまさにこの場所でこれと同じような景色を見ていた。信じられないけれど、本当にそうだった。たしかに私はこの目でこの景色を見ていたし、この体で、この足で、ここに立っていた。

気がついたら涙が溢れていた。何の涙なのかは分からなかった。どんなことばも当てはまらないような、全てのことばが当てはまるような、不思議な涙だった。私はただただ、単に懐かしいとも違うその景色をじっと目に焼き付けた。

私はお芝居に挑戦するたびに、演じる役柄からたくさんのことを学ぶ気がしている。私が今、お芝居に熱心に取り組んでいるのはきっとこのためだと思う。向田芽衣、ひいてはムカイダー・メイとして生きていくだけでは一生経験することがなかったであろう感情や感覚も、その役を演じることによって自分のものになる。私の中には今までに演じたいろんな役のいろんな感情や美学や生き方が蓄積され始めている。

踊っていた頃の私も、歌っていた頃の私も、それらと同じようにいつまでも私の中にある。私は何かを捨てたり、何かに捨てられるたびに、それらを大切に体内におさめ、また新しい私を0から始める。

今まさに、私はまた、始まろうとしている。

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