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芸術探検について

 私は「芸術探検家」という独自の肩書で活動しています。これは、武蔵野美術大学で学んだパフォーマンスアートやソーシャリーエンゲージドアートと、同時期に所属していた早稲田大学探検部で培った探検論をもとにつくったものです。

 「エベレストの頂上までヘリコプターでいける時代の“探検”とはなにか?」当時の探検部では、こうした議論が日夜繰り広げられていました。その内容が、美大の人らと語っていた「コンテンポラリーアートとはなにか?」という問いとそっくりであることに気づいてから、両者を並列に考えるようになり、2017年、その思考と実践を「芸術探検」と名付けました。

 そして現在、芸術探検家としての私の活動指針を「遭遇の方法をつくる」としています。遭遇とは、思いかけず巡り会うこと、予期せずに出会うことという意味で、よい出会いにも、悪い出会いにも使う言葉です。
 「それがよくても悪くてもいい」という態度は、その時代の社会通念や一般常識から離れて、独自の視点で世の中を見つめ、自らの方法で未知なる世界や感覚を探索してきた、探検や芸術に通ずるところがあるように感じています。

 以上の前提のもと、「遭遇」を軸に芸術探検家としてのステートメントを書きます。(2021.5.6更新)



遭遇すること
-人間の行為と知覚から脱システムへ-

 生き物の行動原理は「環境の探索」と「自己の変容」です。幼児が片っ端から触って舐めて、世界と遭遇し、自らの身体のあり方や次の行動を変容させてゆくように、これは、全ての生き物に、個や種という境界を越えて共通する性質です。これを人間ならではの必然性をもって、創造的な活動まで発展させたものが芸術や探検であるように思います。

 しかし、エベレストの頂上までヘリコプターでいける現代では、「探検:未知なる環境との遭遇」「芸術:未知なる感覚との遭遇」というような単純な区分けはほとんど意味をもちません。現代の探検家は、それぞれの信念のもと、それでも地理的未知をもとめる/方法や過程に探検をもとめる/精神的な変化を探索するという形にわかれ、それらの活動の表現性や社会批評性は、より注目されるようになっています。

 探検家・角旗唯介氏は「新・冒険論」において、探検を地理的な極地へ赴くことに限らず、「脱システム」というアイデアを用い「一般常識や社会通念の外側に飛び出すこと」と定義づけました。これにより、ジャングル暮らしの初期人類の中で初めて猛獣のいる草原に飛び出した個人の行動から、探検史を編み直すことができるようになります。既存のシステムから脱した少数の突飛な行為の先に、未知との遭遇があり、それに伴う社会的影響の歴史、ひいては人類の発展があったのです。私はそこに、芸術家の活動も数多く含まれることになると考えています。

遭遇の場をつくる
-移動行為に起こされる共異体-

 複雑な現代社会システムによって行動をデザインされているともいえる現代人が、そのシステムをひとつでも認識し、その外側に出てみることで再び、他者(自然、生物、文化、人らすべて)や自己(自らの心身の多様性)に遭遇する方法が、「脱システム」です。
 脱システムの実践において、私は「探検」と「逃避」は、ひとつの行為の裏表だと考えています。ジャングルから草原に飛び出した個人の動機が、未開の地への「探検」であろうと、ジャングルコミュニティからの「逃避」であろうと、結果的に人類の世界は広がり、内面の多様化が起きたことには変わらないからです。

 コミュニティを日本語にすると「共同体」となります。共同体は基本的に“同質な者たちの集まり”であり、その中で安心して過ごすためにシステムがつくられます。対してコモンズを、「共異体」と訳すことがあります。これを私は、異質な他者同士が共存しあう、遭遇の場として捉えています。
 私は現在、探検や逃避を含む「移動行為」によってその周辺に共異体が生じる事象から、その意義を考えています。そこで起こるのは、知らない価値観で生きている人、あるいは身近な人の知らなかった一面、またそれを受けてゆらぐ自己との遭遇です。
 たとえば、<タイヤひっぱり台湾一周 2019>というプロジェクトでは、タイヤひっぱりであるく私に出会った人々と、言葉もお金も介さずに、不思議な出合い方をしたというだけで仲良くなり、ともに過ごす時間がありました。

 私はこれまでの経験(ポートフォリオ参照)から、移動行為はそれだけで、所有とその保護を前提に形成される社会通念(システム)を一時的に脱し、たまたまそこに居合わせた人々が非日常な高揚を胸に、一緒にいれる場を生み出すポテンシャルがあると感じています。これは、折口信夫「まれびと論」に描かれるような、コミュニティにおける来訪者とハレの場のようでもあり、複数の価値観が共存しあう場(共異体)であるようにも感じています。


 計り知れないものや、得体のしれぬ他者、初めての感覚と遭遇する体験は、いくつになっても人間がよりよく生きようとする中で、なくしてはならない瞬間だと思っています。私は、現代における「遭遇」の意味を考え、探検や芸術の歴史や態度を参照しながら、同時代の表現を模索していこうと考えています。



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