【記録】奄美大島 タイヤひっぱり(2022)
タイヤひっぱり探検旅行開始までの準備期間
奄美大島へ
久しぶりに投稿する用の日記を書くことにする。
おれはここ2年ほど、朝になると、紙の大学ノートを広げ、昨日の出来事や、考えたこと、なんとなくのモヤモヤ、部屋に虫がいること、今日こそは洗濯をやらなきゃならないこと、等の有象無象を思いつくままに、これに飽きて身体を動かしたくなるまで書き連ねる、ということを断続的にやっている。
それは日記というよりも一種の健康法みたいなもので、デトックスのように、気持ちや思考を吐き出しきった後で、今日やりたいことをやる、という点でよい感触があり、これが継続できている時期はすっきりとした気持ちで過ごせるのだ。
おれの場合の特にわかりやすいメリットは、喧嘩をしなくなること。だいたいの喧嘩は自分が不安定な時に発生するくだらないもので、ちゃんと自分の気持ちを理解し、乗りこなそうとしてみれば、喧嘩なんてほとんど起こらない、ということをこのノートをやって初めて知ることとなった。
ちなみにここ数ヶ月は、友達が死んだショックでノート以前にほとんど生産的な活動をしなくなっていたため、無意味な喧嘩することが多かったような気がする。
最近になって引っ越しをしたり(同じアパート内で)、天神のビルの屋上で蛸みこしをつくったり、ご近所でやる読書会が楽しかったり、ちょうどよい感じの刺激がつづき、徐々に前向きになれるようになってきて、ノートも再開、そんな感じの時期に奄美大島へいくことを決めたのだった。
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この島で初めての朝を迎えたおれは、ファミマでコーヒーを購入し、イートインコーナーで昨日の出来事を大学ノートに書き留める。
昨日は一睡もしないまま早朝のバスに乗ったため、移動中はずっと眠っていた。一番安い方法で、福岡天神、鹿児島空港を経由、奄美空港についた時には夕方になっていた。
滑走路にでると、少し湿ったぬるい空気が身体をつつみ、濃緑の蘇鉄や熱帯樹でびっしりと埋まった島山が目に入る。おなじみの激烈な感覚が沸き起こる。南国にきたのである。
徹夜で装備を吟味したこともあって、ザックがとても軽い。今までの旅で一番よくできたパッキングになったと思う。荷物は多いと重くなり、必要なものがすぐに出てこなくなる。そうなるとすべてが足をひっぱりあうように、身体の動作も、現象の感度も、行動の選択も、ひたすら鈍くなっていってしまう。荷物はすくない方がいいのである。
異国の風と荷物の軽さにご機嫌になったおれは意気揚々と空港をでる。まずは右にいくか、左にいくのかを決めなくてはならない。今回はこの島について本当になんの下調べもせずにやってきたのだ。少し考えて、とりあえず友人が紹介してくれた空港の近くで農園をやる人に電話にかけてみることにしたが、留守だった。
少しほっとした。
これでどこにいくのも完全に自由だ。
こんなにも無縁の状態は久しぶりだ。不安なほどの自由さが、骨身に染み込んでくる。ここからはすべてが遭遇の毎日になる。おれは芸術探検家。環境、生物、文化、制度、自分以外のすべてと遭遇し、その遭遇にゆらぐ自らの心身と遭遇し、またそれら遭遇の意義を考え、遭遇の方法をつくる人なのだ。遭遇はどこでもつくれる。だけどその根源にして原体験はどこまでいったって、偶然の出会いとタイミングによって次の行き場所が照らされいくような「旅」なのである。この状態に触れている時ほど、強い充足を感じることはなかなかないなと思う。
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ファミマでこのあたりまでノートに書いて、わりと旅行記っぽい雰囲気に気づき、これをワープロでちょいと編集すれば、人が読める日記にすることもできるのではと思った。ワープロは5年ほど使っていなかったのだが、電池をいれるとちゃんと起動してくれたので、文体を整えながら書き写すことにした。
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自由になったおれは、なんとなく左にあるくことにした。坂道をのぼる途中に海がみえる、薄曇りの天気だけど水色の海がきれい。
たまに後ろから車がくるので、音が近づいてきたら振り返って手をあげることにすると、すぐに乗せてくれる車があり、母と年頃の娘2人と一緒に名瀬という町にいくことになった。娘たちは興味深そうにおれのことを観察し、その気持ちを代弁するかのようにお母さんが質問、その応答にふたりがきゃっきゃするという楽しい時間がつづく。
「海の底に沈むタイヤを見つけだし、陸に引き上げ、ロープをくくりつける。それをひっぱりながら島を一周する。」
とはなした後の、独特の沈黙と、序々に気まずい感じになる車内の空気がおもしろかった。
名瀬につく。
ここは奄美大島で一番大きい町らしく、母と長女は繁華街で島料理の店をやっているとのこと。数日後の島唄のイベントのタイミングで食べにいく約束をして、3人と別れることにした。
小雨が降っていたが、ふらふらあるいていると、鉄板焼屋の路上に面したカウンターでビール片手にたこ焼きを食すおばちゃん2人に声をかけられたのでそこに混ざることにした。ひさしはあるものの、その面積が狭く、3人とも雨にあたりながらたこ焼き食べるという妙な感じなった。たこ焼きにビール2杯と黒糖焼酎で完全に気持ちよくなったところで雨が上がり、お会計を頼むと、なんと1000円。やすい。
繁華街の色彩がやっぱり南国って感じ。カラフルで、いろんな時代の建物が入り乱れ、ネオンがきらきらで、生き生きとした植物たちも負けじと存在を主張する。
雨は降ったりやんだりだから、テント泊は微妙かなと考えていたところ、ちょうどさっきのおばちゃんが言っていた安いゲストハウスに通りかかったので、今夜はそこに入ることにした。
昨日の徹夜もあって、泥のように眠るのであった。
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という昨日の出来事を書き終える。ファミマは混んできたので図書館に移った。
郷土資料のコーナーが興味深い。とくに太平洋諸島としての日本列島、琉球弧という思想(ヤポネシア)についてここならじっくり調べられそうな感じ。
窓の外は晴れてるのに小雨がパラパラきたりしている、そういう島なのだろうか。
名瀬での1週間
奄美大島にきて一週間が経った。
今は名瀬という街のとあるアパートの一室で一人暮らしをしている。ここはビルの3階角部屋で、たまたま同じタイミングで島にきていた昔の友人が貸せると言ってくれたのでここ数日棲みついているのだ。2つの窓を開ければたちまち心地よい南風の通り道になり、そよ風を感じながらベッドに腰をかけバナナを食べたり、夜は南国の蛙や鳥の怪しい合唱をきいたりするのがよい。
前日までは、雨や強風、酔っぱらいに煽られながら公園暮らしをしていたので、壁があること、屋根があること、風呂やトイレがいつでも使えること、使わない荷物を置いて街を歩けること、などにいちいち感動しながら過ごしている。
名瀬は小さい地域に建物が密集する街で、人口密度でいえば鹿児島県で鹿児島市に次ぐ第二位だそう。まわりにもこのようなタイプのビルやアパートがたくさんあって、離島では珍しく、「隣に誰が住んでいるのか知らない」という都会チックなことが起こる街らしい。おれはまだこの街に知り合いがほとんどいないので、縁もゆかりもない土地の小さいアパートにぽつんと一人、のような気分を味わうこととなった。
定住生活では縁の豊かさと重さ、漂泊の日々では無縁の自由さに着目しながら活動してきたが、都市型生活の無縁の状態を体験してみると、これはまた興味深いことだと思う。半袖半ズボンで街を闊歩し、誰にも気にかけられない成人男性Aでいられることが不思議と心地よい。
そう言えばまだきて間もないのに、連続してわりかし色んなものを食べている。豚飯、油ぞーめん、ゴーヤーちゃんぷる、島らっきょの天ぷら、へごの天ぷら、いのししの皮、アバスの唐揚げ、ウナギのさねん蒸し、豚足煮、黒糖焼酎各種。
特別意識している訳ではないが、宮本常一の父の言葉にある「金があったら、その土地の名物や料理は食べておくのがよい、その土地の高さがわかるものだ。」という旅の心得を思い出す。金はないけど、30手前にしてようやくその意味がわかるようになってきたのかもしれない。
素潜りの練習もした。耳抜きという鼓膜の圧力を調整する技をなかなか拾得できず(しかも鼻をつまんでフンッとする度に鼻血がでて大変だった)結局耳が痛くて3メートルくらいしか潜れなかったけれど、たくさんの魚や珊瑚礁の中を縦横無尽に泳ぐのはめちゃめちゃ楽しかった。ウミガメも3匹いた。海底のタイヤの場所も教えてもらったが、がっちりと岩に挟まっていてゲットは叶わず。
練習終わりに使わなくなった足ヒレをもらったので、帰りにシュノーケルのマスクも買った。暖かい日に漁港をめぐってタイヤを探してみる。
本屋に地形図をみにいった時に気になった本2冊を購入する。島尾敏雄「死の棘」と、島尾ミホ「海辺の生と死」。
島尾ミホは奄美群島のうまれで、戦時中特攻隊長として島にきた島尾敏雄と出会い、戦後に結婚。「死の棘」は敏夫の不倫によって狂ってしまったミホを題材にした私小説で、「海辺の生と死」はミホによる幼少期の島での豊かな自然や民俗の思い出を書いたものだ。並行して読み進めているが、「死の棘」で圧倒的な凄みをもった狂女として描かれるミホが描く、ただ美しく切ない島の情景たちは、ふとした時に目の前の島の風景、夕日に染まる海や、無邪気に遊ぶ子供たちと重なり、その度しみじみとさせられる。
島尾敏夫は、日本列島を「日本国」ではなく、島々の連なりとして捉える「ヤポネシア」という概念をつくった人物でもある。これは「琉球弧」とともに南西諸島が日本列島において果たした役割や、近世から続く被収奪・被抑圧の歴史を表現する際の重要なキーワードとなっている。
琉球と大和、そして戦争の間で翻弄された奄美、またその自然や文化の豊かさと遭遇してゆくはずのこれからの旅の入り口で、良い本と巡り会えてうれしい。
ある夕方、毎日のように通っている図書館がいつになく賑やかな感じで、どうやらホールで音楽のライブをやってるとのこと。
あまりにも盛り上がってるからおれも入ってみることにすると(へごの天ぷらを食べたお店のマスターが受付だったから特別枠で入れた)、前のめりになる大勢の島民の前で喜納昌吉という人が沖縄の歌とかを歌っている。電子ピアノの人とコーラス兼ダンサーの人との掛け合いが独特で、絶妙に息が合ってないような気がするが、なにかのバイブスは確実に共鳴してる感じの演奏がめちゃめちゃ良い。「なきなーさーいー、わらいーなーさあい」の歌が始まった時に、その人をテレビで見た記憶が蘇った。2回目の「はいさいおじさん」の途中から、太鼓を叩きエイサーを踊る若者10人ほどが登場し会場の熱量はぐんぐんあがり、会場のおばちゃんや子供も手をあげて踊り始める感じになっていって感動した。
島にきてから芸術探検家としてのプロフィールを変えた。
年に2回くらいのペースで更新し続けていて、最初のほうは、節操ないなあと思っていたけれど、最近はこれはこれで一つのプロジェクトのような気がしてきた。おれの場合は、作家としてのコンセプトに沿った活動をするという感じじゃなく、芸術探検家という肩書きと、それに関係あるのかないのかわからないけどやってきた活動の数々と、なんとなくこれからやりたいことがあり、それらがちょうどよく相互作用を及ぼしあえるような言葉を、現在の自分にむけて添えていくというような感じかなって思う。
noteに投稿してみたら、ちょうど去年の同じような時期(種子島の旅が始まる前)にも、同じようなことをしていておもしろかった。
そして昨日はめちゃめちゃでかい魚を釣る夢をみた。
体力気力ともに充実している今日この頃である。
名瀬での日々(1)ハブ捕り棒
奄美大島にはハブという強い毒蛇が棲みついており、これに噛まれると銃で撃たれたような衝撃の後、半端ない痛みとともに血管や筋肉が溶けてしまうんだそうな。これからの季節に最も活性化するらしく、島を一周あるいて遭遇しないことはありえないとのこと。
あまりにも多くの人にそう脅されるものだから、図書館にいって調べてみたが、たしかに恐ろしい。昔の人なんかは、噛まれたら最後、毒が全身に回る前に、その手や足を付け根から切り落としていたほどだ。
しかし単なる嫌われ者という訳でもないらしく、島や森の守り神といったようなニュアンスの言葉も散見された。そういえば去年種子島をあるいた時に物知りの人からきいた、「宇宙センターは当初、奄美大島に造られる予定だったが、多すぎるハブに怯んだ関係者らの恐怖によって、種子島に変更になったのだ」という話を思い出した。たしかに、ハブが開発に伴う環境破壊から島を守ったともいえるかもしれない。
夜行性なので夜に現れる、とぐろを巻いたら飛びかかる、などの習性を学んでいくうちに、どうやらハブ捕り棒というものが存在するようで、これを用いハブを掴んで無力化し、市役所に持参すると3000円貰えるという記述をみつけた。
ほう。
ふとよぎった(これをナリワイとして、貧しい旅の日々を凌げばいいのではないか...)という安直なひらめきは、意外にもどんどんと盛り上がり、ハブ捕り探検隊となった自分の姿を想像しては、ひとりにやにやするまでの熱量に達してしまった。
とりあえずハブ捕り棒についてネットで調べてみると、現代的なからくりのアルミ製の機械と、伝統的な感じの木の棒がでてきた。一般的に流通しているのはアルミ製の方だが、せっかくハブと遭遇し、挑戦するのであれば正々堂々(?)木にすべきだろうと思い、木の棒の方を詳しくググるとホームセンターのようなところでも売ってるところは売ってると書いてある。
さっそく図書館をでて滞在先アパートの向かいにある資材屋にいってみるのであった。
「ハブ捕り棒はありますか」と行くと当たり前のように、「こっちですよ」と案内してくれた。
幸運にも、置いてあったのは伝統的スタイルの方の木の棒で、140センチある。島の大工さんがつくったとのこと。ハブの首根っこをつかむための金属製の簡易的な仕掛けもついていて、種子島で触った火縄銃を連想させる。結構かっこいい。しかし持ってみると思っていたよりも長く、ずっしり重い感じで、これを担いであるくのは一苦労だな、、と渋い気持ちになりながら店内をうろうろするが、結局4000円を支払い購入するのであった。
アパートに戻り、ハブ捕り棒をほかの荷物たちの横に並べてみると異様に長くて、なんとなく仲間になれない感じがしている。140センチっていったら小学5年生くらい?
タイヤをひっぱりながら、テント、着替え、雨具、三脚、カメラ2台、日記帳、巻紙、墨汁、刷毛、じゆうちょう、サンダル、スピーカー、シャンプー、ひげ剃り等が入ったリュックを背負い、さらに小学5年生くらいの長さの棒も持ち歩くのである。
しかも今回の島は広くリアスな山だらけで、すでに毎日雨だというのに、来週から梅雨入りときた。
さすがに少しひるんでしまい、なにか打開策がないか頭を回転さすが、結局は「全部もってあるこう」という気持ちになった。
リュックに括り付けるのは無理だったから、野球のバットケースのように斜めかけのベルトをこしらえるのが良さそう。
手頃なベルトを探しに再び町にでるのであった。
名瀬での日々(2)海底タイヤ
島の東側までいって素潜りの練習をした日のこと。
うまくできなかった無念を味わいつつ、のんびりあるきながら帰ることにした。
気が向いた時に背後の車に手をあげるような感じであるくこと1時間、南国な顔立ちのかわいいおばちゃんが乗せてくれて、そのままアパートの前まで送ってくれることがあった。
おばちゃんは龍郷で居酒屋をやっているらしく、ちかいうちに飲みに行きたいと話し、店の名前をきいて別れるのであった。
その数日後、海底タイヤの目撃情報があったので、先日ゲットした足ヒレとシュノーケルを用意するのだが、なぜか口に咥えるパイプの部分がみつからない。結局ゴーグルと足ヒレのみで泳ぐ日があった。海は不慣れなので、変な形の貝が密集している様子とかが恐ろしく感じ、そういうのが近くにあるとテンパってバタバタ無駄に体力を消耗してしまう。パイプがあればもうちょいマシなのに、と、見つけだすことを心に誓う。
ちなみにこの日は、海底タイヤを5個ほど発見した。嬉しい反面、水深8メートルくらいのところにあるタイヤをどうやってひっぱりあげるかについて頭を悩ませながら帰るのであった。海に入った日はぐっすりと眠れる。
翌日。
タイヤをひっぱりあげるためには、とにかくシュノーケルセットを万全な状態にすることが絶対条件である。パイプを確認した最後の記憶を必死に掘り返していくと、どうやら、居酒屋のおばちゃんの車のなかに置き忘れた可能性があるように感じてきた。お店の名前はメモってあったので、インターネットで検索するも、地図は表示されるが電話番号が記されていない。今夜あたりバスに乗って飲みにいこうかな、と考える。ちなみに車で20分くらいの場所である。
昼寝したあと、本でも読もうと思い町にでる。帽子を買った店の前を通りかかったので、店長に挨拶してみると「タイヤはみつかったか?」というような話になり、みつかったが少し厳しそうな事情をはなすと、いろいろと一緒に考えてくれた。ついでにシュノーケルのパイプがない話もすると、おばちゃんの居酒屋の電話番号をすぐに調べはじめてくれた。島中に散らばる仲間や先輩、後輩らに電話をしているようで、島の人はだいたい繋がっており、それくらいのことならすぐにわかるとのこと。
本当にすぐにわかり、居酒屋の電話番号を入手したおれは居酒屋に電話してみる。「ヒッチハイクしたものです」と話すと、「あ!シュノーケルわすれてったね」と声が聞こえほっとした。近いうちにとりにいきます、というと、「いやいやいいから!いまから届けにいくから!」と言う。ちなみにそのときは、もう夕方の17時過ぎで、これから忙しくなるでしょといっても、大丈夫大丈夫と言ってきかない。40分後に本当に家の前まできてくれた。
おれは、せっかくならと、そのまま車にのりこみ、居酒屋にご飯を食べにいくことにした。途中おじさんをひとり(常連さんらしい)をひろい、3人で店へ向かう。ヒッチハイクの人がシュノーケルを忘れていったことは、近頃の話題だったようで車内はその一部始終の話で一通り盛り上がった。
お店はなんというか、森に埋もれるような立地にぽつんとある建物に、ザ居酒屋というような提灯や看板がついていてかなり独特な佇まい。店内は、カウンターにテーブルが2つにといったこじんまりとした感じで、だいぶディープなオーラが醸し出されている。
とりあえずビールを頼み、黒糖焼酎をロックで飲むおじさんと乾杯。おばちゃんは、すぐに厨房にいきお通しの島らっきょの天ぷらをもってきてくれる、うまい。おっちゃんとたのしくしていると、さらに3種類の小鉢がきて、(お通しが多いな)と首をかしげるうちに、刺身、唐揚げ、島おでん、ピザ、サラダ、タケノコなどが次々と登場する。
それが全部おいしくて、どんな料金システムだろうか、と若干不安におもいつつも酔いに任せてすべて平らげる。ちなみに、隣のおっちゃんは食欲がないのか、酒をのんでばかりでほとんど食べてないのに、同じ量の料理がでてきて、カウンターに載りきらないほどの感じになっててうけた。
そろそろ帰ろうとお会計を頼むと、なんとこれだけ飲み食いして2000円と言われた。さすがにびっくりして、そんなことあるか?!と大きな声をだす。どうやら、いままで出てきた料理は全部お通しで、これに1000円、ビール2杯と焼酎一杯で1000円、合計2000円とのこと。となりのおっちゃんも「そんなもんだ」とうなずいている。そういうもんなのかなあ、とおもいつつ、2000円を渡して、外にでようとすると、おばちゃんもついてきて、「送ってやる」というのであった。
店内には、常連のおっちゃんがもう一人増えている上、完全におばちゃんがひとりで切り盛りしてる感じだから「本当に大丈夫、自力で帰れる」と言うも、またしても聞いてくれない。
おっちゃんたちは、こっちはこっちで勝手にやるから行っといでというようなことを言っている。結局おばちゃんは、往復40分かけておれを送り届け、店に残されたおっちゃんたちは40分間勝手にやることなった。
なんだかお世話になりっぱなしだし、次は万全を期して華々しく飲みにいこう!と思い、一週間後、奄美に遊びにきた大阪のリッチな友人と居酒屋にいくのだが、おばちゃんはまたしても同じ調子で採算にあわなそうな感じでもてなしてくれ、ぼくらは無限に出てくるお通しに苦笑しつつ、「稼ぐためにやってるんじゃないのだろうね、」「不思議でたのしいですね、」と妙なきもちで面白い夜を過ごすのであった。
無事、シュノーケルセットを揃えたおれは、素潜りの練習に精をだす。6メートルくらいならいけるようになってきたが、息がぜんぜんもたない。これではタイヤまでたどり着けたとしても、そこからがぜんぜんだめそうである。
名瀬での日々(3)黒糖焼酎
それとは別に、こちらに移住して数年の同い年の人と知り合う。数回たのしく遊んだのち、「すてきな人がいるから」と、ヨットで生活している人のところに連れてきてもらった。
驚いたことにヨットの主は20代半ばの女子で、その年齢よりもだいぶ頼もしく見える彼女は、奄美大島と加計呂麻島の間の大島海峡を縦横無尽に移動しながら気ままに暮らしているとのこと。全くもって定住のルールに縛られておらず、ケータイ代、食費、燃料費以外に特に出費がないのだとか。現代の漂海民ともいうべき彼女には、それを伝授した師匠がいるようで、この近辺にはそういったライフスタイルの人たちが他にも数組いるらしい。
30分ほどの航行でヨットがたどり着いたのは「楽園」と呼ばれる白い砂浜で、美しい珊瑚が広がるパーフェクトなプライベートビーチ。女子だけの時は、みんなで全裸になって遊んだりするとのこと。そこでたき火をしたり、海に浮かんで珊瑚を眺めたりした。
きれいな海をみながら、みんなが人生とかについて語っているとき、どういうわけかそれに乗っかって語れなくなっている自分に気づく。目の前のそれぞれに強く共感したり、反発しながら、一生懸命語るのが自分だった気がするのだが。
それができないし、その理由について深く考えることも嫌になってしまった。そういうことに寂しさや不自由さを感じながら皆の話をきいていた。
「沖縄までだったら実質500円でいけるよ」
といった彼女に、ふと、つい最近死んだ親友の姿が重なる。
彼は、探検部で出会ったもっとも深く大切な友達で、しばらくは中国の方言への興味から現地の大学で言語学と文化人類学を専攻していた。横浜の実家に帰省していたタイミングでコロナが広がり中国に戻れなくなり、だったらということで、別府に引っ越してきて、以前より憧れていたヨットをやろうと船舶免許をとり、ヨットを貰い受ける手はずも整ったタイミングで海の事故で死んでしまった。
「ヨットだったら、風の力だけで気ままに好きなところへいけるんだよ」
とヨットユーチューバーを見せながら語っていたことを思い出してしまう。
先日聞いていたラジオで、決断という言葉の決も断も「切る」という意味があるという話をしていた。やらないことを決める、切り捨てることを決めることが、決断なんだとか。
そう思えば、彼は決断が得意なのか苦手なのかわからないような奴だった。思いつきでどこまでも遠くへいくし、その場その場で出会う人を心から大切にし、離れる為のコミュニケーションに毎度丁寧に苦心していた。
おれが彼が貰うはずだったヨットを引き受けるとしたら、どんな決断が必要なのだろうと考える。
タイヤのひきあげは、仕事終わりの素潜り漁師さんが手伝ってくれることになった。10匹ほどの鮮やかに青い魚が船の傍に放られており、これを明朝の市場にもっていき現金収入にしているらしい。なんだかとても憧れる仕事である。
一緒に海に潜る。
当たり前だが、水中でのパフォーマンスがまるで違う生き物のよう。無事、いい感じのタイヤをひきあげることができた。タイヤには、貝っぽいものや、白やオレンジのペンキを散らしたような跡(おそらくプランクトン)などが付着し、とても豊かな表情をしており、内側には、大きいウニの仲間が住み着いていた。毒があるとのことで、慎重に引っ剥がして海にかえす。
離島のアパートでの一人暮らしはとても快適で、これまでどうにも向き合いきれなかった仕事を存分にとりくむことができた。たくさんの文章を書いたし、自分の活動についてじっくりと考える時間になった。
そんな日々にもベランダに置いた海底タイヤからは、磯の香りが漂い、天候によっては、それが強烈な感じになることもしばしば。そのことを友達に話すと、それは海の生き物が死んで腐っていく臭いだよ、と言われてはっとする。
タイヤの質量観測用の錘(おもり)には、黒糖焼酎の瓶を使おうと思い、その情報を求めるうちに、ディープな古本屋にたどり着いた。数日、そこに通い、店長とはなしながらおすすめの本を読ませて貰う日が続く。
奄美は、琉球時代、薩摩支配時代、明治日本時代、アメリカ時代、現代日本時代、といくつもの統治の間で揺らいできた地域である。
特に、薩摩藩が江戸幕府を倒す際、その資金源となったのは、実質的な植民地支配をしていた奄美大島からの黒糖収奪によるところが主であるというのは有名な話である。
私のこのプロジェクトは、私の前提としてきっと死ぬまで逃れられない「日本」という国家システムやアイデンティティについてを考え、自分なりの態度を決断するためのものでもあるような気がする。
錘の黒糖焼酎瓶には、「ネリヤカナヤ」という銘柄のものを使うことにした。これは、沖縄におけるニライカナイの奄美の言い方であり、海の彼方にある理想郷のことを指す。
この島にとって、海の彼方からきたものはなんだったのだろう。
一ヶ月におよぶ名瀬での滞在は今日で終了。
快適なアパートを離れ、明日から嘉徳浜の方へあるくことにした。そこは、生活の場が天然の浜辺とつながる非常に稀有な地域であり、行政が強権的に押し進めようとする護岸工事の是非にゆれる地域でもある。2.3日で着くだろうから、数日滞在してみたい。
ひとつだけ忘れないでいたのは、タイヤひっぱりは遭遇のための方法であるということ。遭遇とは、よいことも、わるいことも問わず、予期せぬ出会いそれ自体を指す言葉だということ。
おれはそのためにあるいているのだということ。
タイヤひっぱり探検旅行
5.18 (晴れ)名瀬→グスク
ハブ捕り棒の改造を手伝ってくれている金物屋さんのところで朝食のサンドイッチをご馳走になり、文房具屋で版画を印刷し、再び金物屋さんのところでハブ捕り棒の最後の調整をおこなっていると、いつのまにか間に時間が経ち、どさくさにまぎれ昼ご飯のカレーまでご馳走になった上、さらにおにぎりも持たせてくれた。
とても良い天気の日に出発ができてうれしい。
おれの健脚は相変わらずで、上り坂でもぐいぐい進む。
すれ違うおっちゃんたちが
「足腰きたえてるのか?」「ハブ捕るのか?」と声をかけてくれる。
そのすべてにこやかに返事をして颯爽とあるく。
まっすぐなトンネルを避け、起伏の激しい山の道の方を選ぶ。ケータイはつながらず、車もまったく通らないので、ハブにかまれたら一巻のおわり、周囲を警戒しつつもあるく。
ふいに現れる生き物を、鬱蒼とした森を、巨大な植物のたたずまいを、隧道から吹き付ける冷たい空気と暗闇を、タイヤから漂う強い磯のにおいを、それらのおそろしさが嬉しい。張り詰めるようなこの感覚から、過去にここを歩いた誰かを想像できるのだ。
日が沈みはじめる。まだ森が深いので急ぎ足で山を駆け抜ける。次第に視界がひらけ、反対側の海がみえた。すこし下ると城と書いてグスクと読む集落にたどり着いたので、区長さんにお願いし、公民館の庭にテントを張らせてもらった。
こどもたちが集まってきて、テントやタイヤを興味深そうにみている。
そのお母さんがスープとおにぎりをくれた。
クキキキキキキ、ホッホッホー
ザーン、リンリンリン
クリリリリ、シャンシャンシャンシャン、
ジジジジジジ
リーリーリーリーリー、
横なるといろんな音が聞こえてくる。
今日は珍しく終始良い天気だった。軽くストレッチして眠る。
5.19(晴れ)グスク→ 市
6時に目覚める。すこしボーっとしてから顔を洗い、ゆっくりとテントを片づける。海水を汲むために浜辺をあるくと徐々に体が起き始め、そこからは天秤観測、撮影、日記書き、ドローイング三枚、指示書制作等の記録を淡々と片付けていく。
10時30分に出発できた。
早起きして連続で活動することに思いの外体力を消耗したようで、なんとなく気怠く、歩くことに集中できない。すぐに座り込んだり、眠くなったり、本を読んだり、弁当屋に寄ったり、いっこうに進まない。
ちなみに弁当はめちゃめちゃおいしく、店内で油を売っていたおばあちゃんの向かいを空けてもらってそこで食べたんだけど、角煮やら肉団子やらのおかずを口に運ぶ度に、「それは手作りで評判がよい」「それは味付けが最高」などと、一つ一つ解説してくれた。
しだいに口振りが「結婚しなさい」というような内容に変わっていき、「どうやって相手をみつけるのかわからない」と言ってみると、「好きな人の前でハンカチを落とすのがいい」と、その作戦の肝や段取りまでを懇切丁寧に伝授してくれ、それもまた楽しかった。
弁当屋をでると、猛烈にコーヒーが飲みたくなった。カフェを探そうとおもって歩き始めると再び長いトンネルにさしかかった。
全長2キロメールの起伏のないトンネルを、無心にたんたんとあるく。トンネル内に放られた空き缶や、排気ガスの気流によって生まれた天井の模様を眺めながらあるく。
トンネルを抜けてしばらくあるくと、サボテン園という施設が現れたのでそこに入ってみた。誰もいない園内の日陰に腰をかけ、巨大なサボテンたちを眺めながら、冷たい缶コーヒーを飲む。強ばった全身の筋肉がすーっと弛緩していく。極楽。
しばらく遠くの巨大サボテン群をみていたら、だんだんその形状の不思議さに興味がわいてきて、ひとつひとつを見てまわることにした。気になった数種類をスケッチ。(どうしてそんな変な形をしているのか、、)独自の生命力を存分に炸裂さすサボテンたちに、すっかり元気をもらうのだった。1時間半程度の滞在だった。
コーヒーとサボテンで気だるさは消え、すっきりとした心身でタイヤひっぱりを再開。遠浅の内海に沿ってあるく、マングローブもとてもかわいい。制作に竹を扱うようになってから、植物への興味がぐんと増した気がする。
18時すぎ、市という美しい集落についた。公民館の水道で一日の汗を流していると近所の人や区長さん、子供までもが集まってきて、和やかな談笑になる。集落の人たち同士でとても仲がよさそう。
ここにテントを張らせてもらうことにし、近所の商店に腰をかけお酒を飲んだり、区長さんと一緒にハブを探しにいったりした。
夜の林道は動物達の楽園で、黒うさぎ、おっとんカエル、ねずみ、蛇各種と何度も何度も遭遇した。黒うさぎは、噂通り赤い目をしていて、丸っこくて耳が小さい。動作がいちいち鈍くさく、険しい森との対比がおもしろい。
林道の真ん中で鎌首をあげて、こちらを見つめながら仁王立ちする大きいハブと出会った。
区長さんが棒で捕まえ箱に入れるが、すぐにそのしなやか肢体を躍動させ飛び出してきた。逞しくもすかさず棒の柄に猛毒の牙を打ち込む。大きく顎を開き、何度も打ち込み続ける。
息をのむ美しい情景だった。
5.20(雨)市
7時。区長さんがおにぎりと味噌汁をもってきてくれた。さらにそのすぐ後、近所の中村さんが、おにぎりと缶コーヒーを差し入れしてくれる。ありがたい。
奄美のおにぎりは、握ったお米に薄くのばして焼いた卵を包み、その上にのりを巻くというタイプのものが一般的なようで、これがとてもおいしい。金物屋でも、弁当屋でもこのタイプのものを貰ったし、区長さんがもってきてくれたものもこれだった。
旅先でもらうおにぎりは本当においしくて、いつだってかじる度にしみじみとしてしまう。
今日はずっと雨の予報。午後から激しくなるとのことで、この天気で林道をいくのはどうなんだろうね、と区長さんが相談に乗ってくれた。
最初の目標としている嘉徳浜は、ここから金川岳という山を越えることで着くのだ。もろもろを考慮して、出発は明日に延期することにした。
日記を書いていると、8時40分頃からぞくぞくとおばちゃんがあつまってきた。「ころばん体操」なるエクササイズが始まるそう。早くもタイヤひっぱり男は噂になりはじめているようで、「どこどこでみかけた」「誰々からきいた」とひっきりなしに声がかかる。
20人弱のメンバーは輪になってパイプいすに座り、区長さんがみんなに冗談混じりで挨拶し、「そして、ゲストの野口くんです」と自己紹介する機会をくれた。みなが興味をもってくれている状態だと、格段に話しやすい。感心したような感じの反応してくれる人もいた。
エクササイズはなかなか変わっていて、島の歌や歌謡曲にあわせて、重りを巻き付けた腕をゆっくりと上げ下げする動作を繰り返す。
輪になった20人が大音量の音楽にあわせて、ゆっくりと同じ動きをする様子がおもしろく、最初こそニヤニヤしてしまっていたのだが、真剣にやっているとだんだんと身体が内側から温まってくるのを感じ、音楽が「翼をください」のサビの部分になると、心も体も華やかにフィーバーするのであった。
やはりこの村の人たちは、それぞれがみな仲が良さそうで、常に冗談を言い合い和気藹々とした空気が流れている。中でも、一番たのしげだったおじさんシゲニイが「山羊汁があるから泊まりにきたらいい」といってくれたので、お言葉に甘え、夜になったらおじゃますることにした。
その後、区長さんと一緒に昨日捕まえたハブを役場に売りにいく。うじゃうじゃと絡み合うハブケースに昨日の一匹をいれて、3000円をもらい、そのお金でラーメンを食べさせてもらった。
夕方は、商店の店主さんから奄美と沖縄の話をきく。奄美出身だが、アメリカ占領下の沖縄でも育った店主は、威張るアメリカ兵が嫌でたまらなくなり上京するも、東京で入った大学で「おまえは日本人なのか?」と聞かれ、それが自分でもよくわからず混乱したという話をしてくれた。
薩摩藩による植民地支配の歴史ばかりを調べていたが、アメリカによる統治もひどい出来事がたくさんあることを改めて知る。琉球弧の島々にとって、海の外からきたものによって暴力的に環境や生活を変えられることは、珍しいことではないのだ。そしてそれは、過去の出来事に限った話ではないと思う。
とはいいつつ、おれは自分がどうしたいのかがよくわからない。種子島の馬毛島基地問題も、賛成反対、たくさんの人の話をきいたが、おれにはなにがよいのかわからなかった。
金川岳を越えた向こう、護岸工事の是非にゆれる嘉徳浜の状況も、きっとわからないだろう。
ひとつ思うのは、「当事者」という言葉の扱い方について。おれは日本国民という当事者にもなれれば、自然保護のために心を震わす当事者にもなれるし、目の前の生活をまもるために主張する当事者にもなれる。
そんな当事者のスケールの可変性を利用して、常になにか被害の当事者でいるためのポジショニングに気をかけ、発言力を担保しようとする人だっているし、それをビジネスとしてやる人だっている。おれはそういうのは嫌い。
なんの当事者として生きるのか、それを自ら決められるのならば、この列島に生まれたものとして納得できる距離と時間のスケールを探してゆくしかないなと思う。おれの場合はそのためにあるく。
夜の山羊汁パーティーには、この村に移住してきた家族も参加。なんとその人たちは、東村山の八坂という、おれの育った富士見町から自転車で5分くらいの町からきたようで、中学生の息子が、おれが通っていた中学の運動服をきていてびっくりした。
5.21(くもり)市
朝ご飯を食べていると、シゲニイが、明日3年ぶりにひらかれる「浜下り」というお祭りの話をしてくれた。聞いていると、大漁旗を掲げた村中の船で列をつくり海に繰り出し、手漕ぎのボートでレースをしたり、虫を包んだ葉っぱを海に投げたり、輪になって石ころを回したりと、だいぶ楽しげな様子。せっかくなのでそれまで滞在させてもらうことにした。
シゲニイは、山の方で飼っている紀州犬にエサをやりにいくというのでついていく。ついでに昔のお屋敷の跡や古いお墓などを案内してくれた。
この市(いち)という集落は、太平洋側に突き出る岬にあり、その昔、東にある喜界島(奄美群島のひとつ)との交易で港に市場が生まれたことが名前の由来のよう。
そういえば、どういうわけなのか、この村の物語ではなにかと喜界島が引き合いにだされてる。
市の湾の象徴的な小島「トビラ島」は昔はもっと沖合にあり、市集落と喜界島の女神様が競い合うようにトビラ島を招いたところ、市の女神のほうがかわいかったからこっちにきた、だとか、美しすぎたがゆえ薩摩の殿様の目に留まり、それを拒絶したことで喜界島に流された美女が、そこで生んだ娘もまた美しく、女友達に妬まれ海に落とされ死んだかわいそうな「むちゃ加那」の話だとか、害虫を海になげる行事のかけ声が「喜界島へとんでいけ〜」だとか。
死者の骨を洗う風習、「洗骨」の話も教えてくれた。シゲニイが子供のころはふつうにやっていたそう。聞いた内容を箇条書きにすると。
・人が死ぬ
・死後硬直が始まる前に、膝を曲げ、立方体に近い形の棺に入るようにする。
・近所の人らが集まって「山入り」をし、葬儀に必要な棒などをとってくる
・旗や棺、松明をつくる
・棺にいれる
・杖1人、旗2人、棺桶かつぎ4人、松明2人、その後ろに親族で並び、墓地へあるく
・墓地の近くに穴を掘り、棺を埋める
・8年後、日柄をみて棺を掘り起こし、骨を集める
・親族で集まり、海で骨をきれいに洗う
・数日後、集めた流木の上にトタン板を置き、その上に骨を並べる
・流木に火をつけ、骨を焼く
・脆くなった骨を骨壺にいれて、先祖の墓に納骨にする。
という感じ。
骨をあらう時は皆で静かにやったそう。親族なので怖くはないらしい。
「骨を海で洗う」いったいどんな気持ちになるんだろう。
シゲニイの家にかえって昼寝をしたり日記を書いたりし、夕方になったので商店の森先生のところへいくことにした。もう3日連続できている。
お決まりの発泡酒を買い、店内のビール箱に腰をかけ、この島の歴史や民俗について教えてもらう。
森先生は74歳、今日は奥の書斎に案内してくれた。たくさんの本がずらっと並んでいて、奄美と沖縄で棚が分かれている。本は東京で集めたものが多いらしい。
今日が最後かもしれないので、改めてしっかりお話を聞いてみるとにした。ノートだけじゃ心許ないので、録音もする。
先生は奄美で生まれ、小学生からは親の仕事でアメリカ統治化の沖縄と奄美をいったりきたり、中学生から高校卒業までは沖縄で過ごす。威張っているアメリカ人がイヤになり、大学から東京へいき学生運動のまっただ中で民俗学などを勉強。その後は高校教師として町田、清瀬、新宿、小金井、日野など東京の高校で歴史や公民を教えつつ、独自に奄美と沖縄、日本、アメリカについての研究を行い、定年後、奄美にもどってきたという経歴の持ち主。
一足はやく日本に復帰した美しき奄美で幼少期を過ごし、中学高校と多感な時期に占領下の沖縄で、沖縄、アメリカ、日本の関係の歪さを肌で感じ、その後東京では政治的主張を叫び戦う同世代を目の当たりにした、という訳である。
その中で感じてきたもどかしさの訳を知りたい、というのが彼の研究の原動力である。
もう一つ、高校を卒業する際の教師が語った「沖縄はこれではいけない。君たちは島をでても、島をよくするためになにかをしてくれることを信じている」という言葉が胸に刻まれ、これまでの忘れることがなかったという。それがきっかけか、東京で受け持っていた歴史の授業では、沖縄のことを熱を込めて教えていたらしい。
おれは次第に、先生の人生のテーマは「アイデンティティとはなにか」という問いそのものなのではないかと感じ、そう質問してみると
「物事を考えるための土台であり、基準だと思います」
と返ってきて、なんと説得力のある言葉なのだろうと体の芯が熱くなるのであった。
奄美、沖縄、日本の土台の間でゆらぐ自らのアイデンティティについて、その生涯を通して向き合い、生まれた基準から紡がれる言葉は、一貫して、静かで柔らかく、思想的であった。
その後、シゲニイにお好み焼き屋に呼ばれたのでいってみると、最近関西の方から移住してきた若者夫婦(同い年)とお好み焼き屋さんと一緒に飲み会をしていた。
この集落の人たちのコミュニケーションは、フリ、ボケ、ツッコミ、が至る所に散りばめられていて、常に大爆笑で楽しいんだけど、いつ鋭いボールが飛んでくるかわからないので一時たりとも気が抜けない。そしてうまく返せたときはとても気持ちがよい。
本当、この集落の人たちは、いつでも集まって冗談を言い大爆笑して過ごしている。
5.22(快晴)市
カーテンをあけるとすばらしい快晴!
今日は3年ぶりの「浜下り」の日である、天気予報の通りそれにふさわしい最高の天気になった。そしてやっぱりお祭りの朝は心を弾ませてくれる。(どんなお祭りなのかは知らんのだが)
お祭りは14時くらいからと聞いていたが、おそらく準備もあるだろうと思いシゲニイにきいてみると、さっき放送してたけどよく聞き取れなかったとのことで、そのまま区長さんに電話してきいてくれた。できれば準備の様子からみてみたいのだ。
島の人同士のコミュニケーションは島言葉を使うんだけど、電話だとより一層なにをいっているのか聞き取れなくてすごい。電話の内容は簡単な質問なはずなのに、まったく何一つわからなかった。電話をきったシゲニイは、「準備は8時からだ」といった。
昨晩のお好み焼き屋さんも縁側にやってきて4人で談笑する。
生まれて一週間の赤ん坊を初めて家の外に出すタイミングで、赤ん坊の額に鍋のすすをつけて、その付近に小さいカニを這わせる、というなんとも独特な習わしについて教えてもらっていると、いつのまにか8時に。シゲニイいこう!というと、いくか!となって港の方へいってみた。
旧公民館に置いてあったボートは、はやくも浜に運び終わっており、男たちは運動会本部のような大きいテントを組み立てている。おれは、遠巻きにその様子を撮影したり、砂浜の枝を端によせたりをした。
準備はなんてことない感じで終わり、いつの間にほとんどが家に帰ってしまった。おれは東村山から移住してきた東田さんと話していると、本間さんという男性を紹介してくれた。本間さんは、絵を描いているというので、みせてもらうため本間さんの家にいくことにした。
本間さんは、東田さんの家のすぐ向かいに住んでおり、部屋が3つもあって、広々としたいい感じ。
至る所に、額にいれた絵やパネルがあり、だいぶ多くの枚数を描いている様子。壁際にたくさん積まれていたので、一枚一枚、リビングの床に並べてみてみることにした。
しかししばらく動かしていないのか、額に埃やカビがついていたので、雑巾を用意してもらい、きれいに拭き取ることにした。リビングの床全体が埋まるほどの絵も、みんなでやったらすぐにきれいになった。
色や形の関係を探求するような不思議なアクリルの抽象画シリーズが一番多く、ほかにも、油絵や水彩を用いてさまざまな試みのものがある。
床に並べるとまた迫力がでるね、と皆も喜んでいたので、すきな絵を3枚選びそのセットに一つの名前をつけてみる、ということをやってみることに。
近所のおじさんや、東田家の子供たちも集まり、じっくり鑑賞。
最初は「やっぱ芸術はわからんな〜」という感じだったけど、だんだんと皆自分の解釈を話す感じになって楽しかった。
おれが選んだのは、
「向かい合う2つのおっぱいが衝突しそうになっているような絵」
「青空のもと目の前に立ちはだかる土器のようなワンピースのような絵」
「アンバランスな卵のような絵」
の3つ。不穏な予感、というタイトルをつけた。
ちなみに作者の本間さんが選んだ3つのうちの1つも、アンバランスな卵のような絵だった。
シゲニイと昼食を食べた後、港に向かうと、皆おのおのの船に長い竹の先端部分をさしたり、旗をたなびかせたりしている。やはり大漁旗は立派で、それがたなびくだけで絵になる。4隻ほどが掲げていた。ほかは思い思いな感じで、派手だからという理由で、パチンコ屋ののぼりを横にしてつける船もあった。シゲニイは小さい鯉のぼりを一匹、ちょこんと垂らすだけって感じで、気が抜けててよかった。
20隻ほどの船が一列になって、集落の湾をぐるぐるまわるとのこと。シゲニイの船は6番目くらいで、おれもそこに乗せてもらうことにした。
隊列を組み出港!桟橋や浜辺から村の女性や新聞記者が手を振っている。
シゲニイは舵をとり、おれは船首の方で写真をとったりする。
お好み焼き屋さんの船はまわりよりも小さく、荒波に揉まれて四苦八苦しているのが遠目にもわかった。そこ乗り込んでいた移住男子は着岸した頃には、荒波に揉まれてぐったりしていた。
とくに誰が指揮や号令をとる訳でもなく、ふわっと始まってふわっと終わる感じが新鮮。特に新しいことをする必要のない、恒例行事のよさである。
その後は浜辺に移動し、子供たちが葉っぱに包んだ害虫を海に放り投げる。本州の農村で行われる虫送りと同じ意味合いのものだろう。海に背をむけ、後ろに放るという所作になにかまた意味があるらしい。皆で息をあわせて力一杯に投げたのに、吹き付ける海風でそのほとんどが戻ってきてしまったので笑ってしまった。子供たちは慌てて拾い、海に投げる、を繰り返す。
次は、ボートのレース。
7人のりの2隻のボートが競争する模様。乗りたい人が浜辺に集まり、なんとなく7人づつのり、せーので勝負する。
(つづく)
5.23(晴れのち雨)市→嘉徳
昨晩の泥酔にも関わらず、しっかり6時半頃めざめた。10時に出発するので、早めに荷物をまとめて日記をかきたい。と、装備の整理をするのだがどうにもカメラが見あたらない。
村中を巻き込んで盛大に捜索するも結局見つからず、いったん諦めて、そのまま旅立つことにした。
シゲニイが皆に声をかけてくれたようで、公民館では集落の人たち10人ほどが見送りにきてくれた。こんな風に見送られることは初めてで、どういう風にあるくのがよいか迷ったが、志村けんの東村山音頭を流しながら颯爽と別れることにした。はじめての試みである。
おばちゃんたちが「あ、東村山だからだ」と気づいてくれた。それににこやかに答える。
振り返らずにあるく。大音量であるく。
実は、志村けんをテレビでみたことはほとんどない。
おれにとっては、ゆく先々で「ああ!志村けんの東村山ね!」と楽しそうにする旅先で出会う人々の笑顔の総体が、志村けんなのである。
「東村山4丁目、そ〜れ!東村山4丁目♪」
市集落の農道に、志村けんと、元気な子供たちの声が響く。
おれはどんどん変なおじさんになって、どんどん東村山が好きになっていく。
嘉徳までは、一番険しい上り坂が続く山であったが、市の人々に英気を分けて貰ったおかげもあり、すいすい進む。ぱらつく小雨も体を適度に冷ましてくれて助かる。
途中、不穏な気配が漂う場所があるも、なにごともなく森を抜けることができた。出発して5時間であった。崖の上からみる嘉徳浜は、天然のまあるい湾に囲われたきれいな砂浜で、そこに護岸はなく、アダンなどの植物群を境に集落が広がっている。息をのむ美しい景観。これは是非とも、後の世に残っていてほしいと思った。
浜辺まで降り、端から端まであるいてみる。だいぶ広大な浜である。その下にはロープが張られ、護岸工事にまつわる看板が立っている。その奥には集落の墓地があった。
一番端まであるくと、川に面した奥まったところにテントが張ってあり、そこに男女3人がいる。護岸工事の反対運動をしている人たちのテントがあるという話をきいていたので、もしかしたらその人たちかもしれない。
そっちの方にテントを張ってよいか、ときくと快諾してくれた。
しかし、その後がなにか妙な感じで、3人のうちのひとり、おそらく西洋人の男に、たき火はするか?と聞かれて、「しない」ときっぱり答えたのにもかかわらず、どういう訳か、一カ所でやれ、火を大きくしすぎるな、炭をちらかすな、燃え広がらないように注意しろ、煙がウミガメの邪魔(?)にならないようにしろ、等をしつこく語り続けてきて閉口してしまう。おれの話を聞いてないのか?そもそも昼からずっと雨がぱらついているのだ、こんな日にたき火はしない。
その後は、浜辺の植物を踏むな、汗を流すのは川の水がよいなぜならカルキが、、というような説教なのか、なんなのか彼基準のルール説明がくどくどと続き、完全に気が滅入ってしまった。バイトの初日に、変な先輩に冗長な話を一方的に聞かされている時のような気分だった。
「夜はハブがでるから注意しろ」というこの島お決まりの説明が始まったので、それはもう心得ているから大丈夫(はやく解放されたかった)という意味で、ハブ捕り棒をみせると、「それはハブを殺す道具だ、ハブは島の守り神だから殺すな、静かにしていれば襲ってこない、見つけたらおれに電話して、わかったね?ハブを殺すのは愚かなことだ、島の人がハブを殺すのは狂っている、とにかくおれに電話すること」と圧をこめて語りかけてくる。
彼の目は、自らの正義を疑わない、また、それに背く人を弾圧することをいとわない人特有の光り方をしていた。
なんでこんなにも強制されなきゃならないんだ?どうしてこうも一方的に他者の行動を指図できるんだろう。さすがに嫌気がさす。
ちなみにおれは、このハブ捕り棒を、単独の旅の用心棒として、足場の悪い場所では杖として、物干し竿として、漂泊の単位を計る天秤棒として、また恐ろしくも美しいハブとの遭遇に備えるものとして、持ち歩いている。単に殺すために持ち歩いている訳じゃない。
ちなみにここまでの間、お互いの自己紹介っぽいものはほとんどなく、背景の違いなど存在しないかのように、彼はただただ、私はこの浜の厳格な管理者である、といわんばかりに、彼のイデオロギーが大いに反映された禁止事項を示し続けるのみであった。
おれは、社会生活の中に自ずと発生するイデオロギーがもたらす個人への抑圧、不寛容、不自由さから一時的にでも離れるために、どこにも属さず歩いているのである。彼の主義主張が嫌いなのではなく、それを出会ったばかりの他者に押しつけることに疑いを持たない態度が嫌なのだ。
彼らの活動は、アーティストの友人や島で出会ってきた知識人たちからよくきいており、もともとリスペクトをもっていた。
もし会うことができたら、この浜のこと、自然のこと、生態系のこと、自然保護活動の現状、彼らの出自や想いなどにじっくり聞けたらよいと思い、まず初めにこの嘉徳を目指して歩いてきたのである。
しかし、とても一緒に話せるタイプではなさそうな印象をうけた。この世のすべての事象に対して善悪の基準を設け、同じ種類の人とつるむのを好み、それに反するものを攻撃し、その短絡的な二元論では扱いきれない問いに直面すると、理不尽に怒りだすタイプ。
彼の正義の型を押しつけられるのもごめんだし、今後なにが彼の気に触るかわからない、(テントはここではないところに張ろう)と思った。護岸工事のリアルな話については、もともと村にすむ人からも聞けるのである。
出しかけたマットを直し、なるべく刺激しないように「やっぱり違うところもみてみてます」といってリュックを背負うと、なんだか嫌な雰囲気に。早く立ち去りたかったが、「どうして?」「なにが嫌なの?」と質問してくるので、「すみません、ちょっとルールが多いのが苦手でして、、」と話すと、「え?」とさらにぐいぐいくる。
もういいやと思い、
「バブ捕りを一方的に野蛮なものを決めつけるのは受け入れられない。これは今この島にある一つの営みであり、文化でもあると思う。」
というと、男性は発狂「ハブ殺しは文化じゃない!愚かだ!他の国なら許されない!!この国は遅れている!」などと怒りに任せ大声で叫びはじめた。
よその国からきた彼が、もってきた信条を押しつけ、土地の人の行動の一側面だけを切り取り、それを劣ったものと否定し怒鳴る姿は、極めて暴力的で、かつての植民地主義を連想させる気色悪さがあった。
おれは、夜の森で大きいハブをみて、その神々しいまでの美しさに全身で感動したし、ハブ革なめしの技術や風合いにとても感銘を受けた。ハブが、ロケット発射基地を含む開発から島を守ったことが、森の守り神という信仰とも繋がりとても興味深いことだと思っている。今朝までいた市集落では、ハブによって死んだ仲間のことがしょっちゅう話題にあがっていた。
ハブは、奄美大島を形成する大きな特色なのである。その生態や島内の生態系における役割はもちろん、人間との関わり、そこで醸成される思想や精神性、政策の失敗や反省、駆除や利用も含めてである。
その後はもうすさまじく、
「そんなもの(ハブ捕り棒)を持つやつは人間じゃない!」
「タイヤをひっぱるな!」
「なんでタイヤをひっぱる、おまえはキチガイか?!」
「カニがつぶれるだろ!」
「カニをつぶしてもいいのか?キチガイ!」
「キチガイ!!!」
とありったけの熱量で支離滅裂な罵倒を繰り返し、顔を近づけてきて大声で叫び、しまいには、おれのタイヤを強奪し、道路にもっていきそれを地面に叩きつけるのであった。
衝撃でタイヤについている貝が剥がれ落ちてしまう様を想像し胸が痛んだ。
同行の女性に「あの人は狂ってるの?」と聞くと、女性もまた「私の旦那をバカにするな」とある種の人特有のばっきばきの目で睨んでくる。
その後も男性は、生態系の話などを早口で叫び続けるので、たまにおれも意見をいうと「おまえはバカか!!キチガイ!」と火に油を注ぐ感じになる。
まったくもって予感どおりのことが起きた。正義を振りかざす人たちの共通した性質。浜がどうこう、自然保護がどうこうの以前に、おれは正義があれば強制してよい、乱暴してよい、攻撃して良い、というような態度が心底きらい。
しばらく叫んでいる様子をみていると、次第に熱が冷めてきのか、生態系について専門的な雰囲気の話をするようになり、メモを取りたくなる気持ちがわいてきたが、またいつ怒るかわからないのでやめておいた。
さんざん叫んで気が済んだようなので、おれはタイヤやハブ捕り棒が、自分にとってなんなのかを説明する。
すると男はなにを思ったのか
「今の道には小さいカニが通ることがある」
「最近いやなことがあって、神経が立っている」
「自然保護の仲間にはもっと気性が荒い人がいるから気をつけて」
などと言いながら謝ってききた。彼に謝る選択肢があることが少し意外だった。
タイヤは作品でもあることを毅然と伝え、それを強奪して投げたつけたことについても謝罪させ、おれはその場を立ち去るのであった。
もう関わりたくない。
おれは、5時間ぶっ通しで歩いた疲労に、今の出来事が加わり、くたびれ果て座り込んでしまった。しばらく途方にくれた後、やはり寝床は探さなきゃならないので、歩き始める。
途中、軒下のベンチに座っていたおばあちゃんと目があったので、挨拶すると家に招いてくれた。コーヒーやじゃがいものの煮物、島の味噌などを出してくれて、ズタボロの心身に染み入ってくる。
特に味噌はお茶請け用として食べられるものらしく、鰹なりが混ぜられていて、大好きな食べ物だった。
おばあちゃんは
「あの人たちは、草とか生き物をとても大切にするんだけど、よそからきた人にそんな意地悪をするのはだめだね。島の人はそんないじわるしないよ、ごめんね」
「浜はあの人たちのものじゃないんだから、あんたは自由にテントを張りなさい」
「ハブをみたら殺すのはあたりまえだよ、私はこの島でずっとそう教えられてきたんだから。ハブに打たれたらこっちが死んじゃうからね」
「でも、女の子の方はとっても良い子なんだよ、困ってる人がいたら助けようとするとてもよい子」
などと優しく語りかけてくれた。
しばらくおばあちゃんと話していると、雨が強くなっていたので、感謝を伝えて外へでる。区長さんのもとを訪ねると、公民館の軒下を使って良いとのことで、ありがたくテントを張らせてもらった。
公民館では、地域のおじさんたちがやさしい感じで話しかけてくれる。やはりさっきの男性の評判は悪い。護岸関係で、村に住む女性と口論になり、叫びながら家の中まで追いかけ回した、という想像に容易い話もきいた。
この浜では、近年、台風がくる度にどんどん砂が流されていき、浸食されているそう。海岸沿いの墓地の前に植わっているアダンなんかも一緒に流されていき、このままだと墓が流されてしまうのも時間の問題なんだとか。当たり前のことだが、工事に賛成している人たちは自然を壊したいわけではない。
昔から村に住んでいる人たちはほぼ全員が護岸工事に賛成していて、反対しているは移住してきた少数の人たちだけとも言っている。おそらく、集落の人たちの意見は工事による権益や日頃の関係性、ほかこの集落で培われた合意形成の方法などのも反映されるだろうから、それぞれの本音の本音は知れないのだが、そういうことらしい。
ちなみに、さっき発狂した男性はアメリカ人で、数年前に引っ越してきたとのこと。
ついさっき彼が発した「この土地の人の話をきけないのか!キチガイ!」という怒鳴り声を思い出す。
夜、テントで本を読んでいると「たっぺーい!」という声が響き、なんだ?!と思って外にでると驚いたことに市集落のシゲニイだった。
なんと昨晩なくしたカメラをみつけだし、険しい林道を通って届けにきてくれたのだ!
奥さんも一緒にきてくれて、菓子パンやコーヒーをくれた。先ほどの出来事とのギャップもあり、なんとありがたいことだろうと、胸の奥がじんとなる。
ちなみにカメラは、昨晩のお祭りで酔っぱらったおれが、道ばたの軽トラの荷台のフックにひっかけたようで、今日の昼頃、軽トラの主がマングローブパークのあたりを走っていた時にそれに気がついたよう。どおりで出てこない訳である。
シゲニイ夫妻は帰り、おれはテントにはいる。
嘉徳の浜から鳴り響く、荒々しい波の轟音を聞きながら眠りにつくのであった。
5.24(雨)嘉徳→節子
テントで目覚める。
雨風が強く、公民館のひさしではすべてを防ぎきることはできなかった模様。テントの前方と出入り口側の下の方が濡れていて嫌な気持ち。
日記や絵をかくが、なかなか雨は弱まらない。
天気予報をみるとこれから数日ずっと雨とでており、これではもう待っていてもしょうがないなと思い、テントを片づけ出発することにした。
途中、自然保護活動をするアメリカ人の家の玄関で声をかけると、昨日の女性がでてきた。
「おれは旅の様子をnoteに公開していて、昨日のあなたたちとの出来事は良くは書かないと思います。数日以内に投稿するので、もし読んでみて、どうしてもおれに言いたいことがでるようでしたら、こちらに連絡してください。」と伝え、名前とメールアドレスを書いた紙を渡した。
女性は「気をつけてね」と見送ってくれた。
少し歩くと、左側に猛烈な草木で生い茂った道が現れた。
しっかりアスファルトの道なのだが、幅が狭い上に、左右の森が激しく身を乗り出してきており、小さいながら脇に通行禁止の看板もでている。
地図で近隣の集落の位置関係をみてみると、たしかにこの道を通る必要がある人はほとんどいない。強いて言うなら、節子という集落と嘉徳間の移動だろうか。しかし、くねくねの山道なので、遠回りした方が快適で早いようにも見える。
なるべく大回りで島を一周するなら左を選ぶべきだが、ここまで草木で覆われていると、ハブの不在を確認しながらの藪漕ぎ歩行となるので、だいぶ時間がかかる。そして、もしハブに噛まれた場合は、電波も通じず車も通らないので、集落に戻る途中に毒が回り、100パーセント野垂れ死んでしまうだろう。降り続ける大雨が嶮しい印象をより強める。
5分ほどジャングル道と睨めっこをし、意を決するのであった。
境界を飛びこえ異界に突入。張りつめた興奮が全身の感覚器官を鋭くさせる。ハブ棒で藪を払い、頭上の木を確認し、路面の石をどけ、一歩一歩進んでいく。
ハブの動き方はもう色々と見てきたので、遭遇のシュミレーションができるようになったのがよかった。
ハブには、もともとイメージしていたような、獲物に高速で接近し、有無を言わさず噛みつく!といったような獰猛さや機敏さはそこまでない。
やはり一番こわいのは、近くにいることに気がつけないことなのである。
放置された道といえど、アスファルトなのでそこまで歩くのに苦労はしない。路面が視認できる箇所ではずんずんと、藪に差し掛かると慎重に、を繰り返しながら進む。
黒うさぎの丸っこい糞がいたるところに落ちている。最初こそ避けていたが、途中から面倒になって、そのまま進む。
だんだんと標高が高くなり、あたりが霧に覆われはじめる。路面は川のように水が流れ続け、その中州には枯れた植物が土となり、草木を育み、新たな森を作りだろうとしている。巨大なヘゴの葉が道の真ん中まで飛び出してきていた。近づくと、おれの身体をまるまる包みこめるほどの大きさで、さすがにぎょっとする。水たまりに差し掛かると、おれを避けるように左右にいくつもの波紋が生まれる。たくさんのオタマジャクシであった。ルリカケスという青い鳥がびっくりして飛び立っていくのは、これで5回目。
獣臭さを感じ警戒していたところ、すぐ目の前を2メートルほどの巨大なイノシシが猛スピードで横切っていった。この山の主だろうか、あれに突撃されたらひとたまりもないだろう。
徐々に藪の通り方も心得てきて、スピードも上がっていく。下り坂で駆け足をしてみたら、ぬるぬるの路面に足を取られ、すっころんでしまった。ちなみに、タイヤひっぱりでは、タイヤがバランスをとってくれるので前方には倒れない。転ぶとしたら後方で、その場合でもリュックがクッションになり大したダメージを追わない。
顔も、身体も、服も、装備も、タイヤも、棒も、全部が雨と汗と泥と葉っぱとにまみれ、自然と笑みがこぼれる。
恐ろしい土砂崩れの現場や、荘厳な滝、妙な気配が漂う場所などを、とおりすぎ、なんとか節子集落にたどり着いた。よかった。
集落のおばあちゃんが、嘉徳のジャングル道からきたことに目をまるくしている。区長さんが廃校を利用した施設の管理人を紹介してくれた。シャワー室で汗を流し、廊下にテントを張らせてもらうのであった。
節子はセッコと読むそう。
5.25(雨)節子→勝浦
テントの入り口をあけると、目の前にカニとヤドカリとアシタカグモが並んでいる。仲良しなのだろうか。
8時過ぎに区長さんと管理をしている女性がきて、3人ですこしはなす。
ベットは使わず廊下で寝たので、お金はいらないといわれたのだが、毛布をかりたり充電をさせてもらったので、500円を渡す。
きれいに整備されたこの廃校の施設には、畑があって、ピザ釜があって、キッチンがあって、山羊なり、鶏なり、ダチョウなりの家畜がたくさんいて楽しげな感じ。管理の女性が校舎内のきれいなカフェスペースに案内してくれたので、そこで作業をすることにした。
となりのキッチンでは、地域の女性が集まりたのしそうにグリーンカレーのお弁当をつくっている。彼女たちとは蛸の話で盛り上がったので、北斎の春画の話もしてみたら、みな突然そっぽを向いて気まずい沈黙が流れしまった。
カレーはめちゃめちゃうまかった。
結局夕方まで長居させてもらい、絵をプレゼントして出発。
節子集落には路地が交差する箇所に岩が置いてあり、それがなにかの神様とのこと。動かしたらバチがあたった人がいたらしい。システマナイズされる以前の信仰の名残りが密かに生きついでいる。
すぐに夜になる。湾にそって点在する集落の一つ、勝浦の郵便局のおじいさんに声をかけてもらったので、そのままその敷地内の雨が防げる場所にテントを張らせてもらった。
5.26(晴れ)勝浦→蘇苅
夜がわりと寒かった。
もっている服を全部着込み、靴下を枕に二度寝する。
日が昇り、テントを片づけけていると、おじいさんが「私がつくったミックス」といって、コップにいれたスムージーを持ってきてくれた。とてもおいしい。オレンジ、バナナ、リンゴ、ヨーグルト、を混ぜたこれを毎朝飲んでいるらしい。おじいさんとそのまま雑談。
おじいさんは、ゆっくりとうごき、ゆっくりとはなすんだけど、おれの荷物やタイヤに興味しんしんで、そのギャップがおもしろい。
片づけの手際の良さに感心したり、荷物の少なさに疑問をもったり、タイヤを持ち歩くのをやめるよう説得してくれたりした。
計測のために天秤を吊したときは、近くにきてたのしそうに見てくれていた。
絵をプレゼントして出発。今日は快晴である。汗をかきつつあるく。
阿木名の集落では休憩がてら浜辺で一人あそぶ、浜に埋まるカニをみつけ、つついてみると、風のように軽やかに海に駆け抜けていった。
その次の集落、伊須に到着したので大きな蘇鉄の木陰で休憩していると、集落からお兄さんが歩いてきて「旅ですか?」と声をかけてくれた。どうやら瀬戸内町(この集落が属する町)の議員さんのよう。いろいろと質問をしてくれて、おれが「芸術関係の活動をしている」というと、「この集落にも芸術家がいますよ、会いますか?」といって芸術家の家まで案内してくれた。
紹介してもらったのは、青木薫さんという画家さんで、なんか聞いたことある名前だなと思ったら、数日前に市集落の本間さんにみせてもらった絵画公募展のカタログで、最優秀賞を受賞されていた方だった。みんなで彼の絵の写真をみて「これ本当に絵?写真じゃないの?」とはしゃいだのを思い出す。
「タイヤひっぱってます」というと何じゃそりゃと笑ってくれた。
彼は東京の美術大学を卒業しており、どうやらいろいろ話が合いそうな感じがしたので、リラックスしようと靴と靴下を脱ぐと、青木さんはスパゲッティをつくるといってくれた。
広い土間のあるすてきな家で、奥さんと一緒にDIYで作ったらしい。
庭の木陰の机でおいしいスパゲッティをごちそうになる。
制作の話にはじまり、奄美の気候風土と不思議なお祭りの話、異界の感知と集合的無意識の話、アプローチとしての探検と芸術の話、遭遇の再演とプレイバックシアターという方法の親和性の話、、
年に数回あるかないかの、お互いをゆっくりと深堀し、そこから徐々に共通の問いが浮かび上がってくるようなとても刺激的な時間だった。
潮が引いたら伊須の浜からの道が顕れる崎原島についての神秘的な話をきいたので、荷物をおかせてもらい、そこまでみにいくことにした。
潮は引いておらず、岩場にしがみつきながら少しずつ近づいていく。岩場の隙間にハブがいたら嫌だなと思いながらすすむと島がみえてきた。カメラを海に落とさないように集中しながら、異界の島を数枚撮る。
家にもどると、薫さんはいなくなっており、奥さんのさとみさんがいた。
さとみさんは、こちらに移住してから徐々にカニの魅力に惹きつけられ、カニの絵を描いたり、カニの生態をモチーフにワークショップを制作したりしているよう。月のリズムでいきる、かたい甲羅で身をまもる、自切して身を守る、などのおもしろい話をしている。〈蛸みこし〉と通ずるところがあり、人間の外側から人間をみてみることについて、たのしくはなせた。去り際に奄美の植物を漬けた焼酎をくれる。これがとてもよい香りでおいしい。
山を越えると、加計呂麻島がみえてきた。島の南端大島海峡側についたのである。青木さんの家に長居させてもらったこともあり、蘇刈の集落についた時には、もうあたりは薄暗くなっている。
アダンの林をぬけると、広い砂浜に凪いだ海。奥の方では小学生の男子2人が遊んでいる。なんとも美しい景色だった。
浜にテントを張ろうか考えるが、ひと雨きそうな空模様。子供たちに屋根があるところはないか、と聞くと、周辺の流木を集めて家をつくってくれはじめた。しばらく眺めていたが、途中であきらめて「区長さんにききに行こう!」といってくれた。浜辺を走る子供たちについていく。
区長さんには、この集落に泊まるところはない言われるが、結局男子2人のお母さんがうちの客間に泊まってよいと言ってくれて、お言葉に甘えることにするのであった。
シャワーを浴び、泥だらけの衣類の洗濯をさせてもらう。
パパイヤをはじめてちゃんと食べた。とてもよい食べ物だと思った。
5.27(くもりときどき雨)蘇苅
昼過ぎまで作業をさせてもらったところで、もう一泊させてほしいと頼み、たまった日記を片づける。
岬の方のホノホシ浜やヤドリ浜をみにいったり、大島海峡を背景にアダンの樹のトンネルでタイヤの計測をしたりした。
夜は、カスミさん一家と同じ時期に引っ越してきた家族も遊びにきてみんなでシビ(マグロの稚魚の刺身)のパーティーだった。子供たちは一年生から六年生まで5人、塊となって縦横無尽に暴れまくる。
星をみに浜へいった。いつのまにか雲は消えていて、満点の星空となっていた。青い体をしたヤドカリがたくさんいて、子供たちは、それを拾っては一カ所に集めるあそびをする。
女子たちは帰っていき、男子4人は磯の探索をする。
4人で2つの懐中電灯を取り合いながらあるき、気持ち悪い生き物をつついたり、貝やカニを捕まえたりした。貝とカニは持って帰り、茹でて食べた。
5.28(雨)蘇苅→清水
すっと目覚めて荷物をまとめてからゆっくりし、10時ちょうどに出発しようとしていたんだのだが、帽子がみつからない。
帽子は、いつのまにか旅の必需品になっていて、特に雨から頭部を守ってくれる効果は絶大である。
子供たちに話をきくと、おれは昨晩の浜に帽子をかぶっていって、帰ってきた時にはかぶってなかったとのこと。泥酔していたため、どこかにいおいてしまったのだろう。
浜をさがすが、一向に見つからず。あきらめて出発することにした。
見送りにきた子供たちに「なんでタイヤをひっぱっているの?」と聞かれるが、またしても歯切れのよい言葉が思い浮かばず、「筋トレ」とだけいって立ち去るのであった。
林道をあるいていると、道の真ん中にハブがいた。ごろごろしたり、あくびをしたりして、のんきな感じ。どうして昼間のこんなところにいるのだろう、ハブは夜行性なのだ。
ハブ棒でつついてみるも特に大した反応はなく、やる気がないのか、弱っているのかよくわからない。
おれは、その場に10分ほど立ち尽くし、これを捕まえるべきか、逃がすべきかを考えるのであった。
嘉徳のアメリカ人の「ハブを殺すな!」という声が脳内によみがえる。
様々な葛藤があったが、このかわいらしい蛇を捕まえることにした。役場にもっていって3000円で売るのである。ハブ棒でひっかけ、持参した土嚢袋にいれ、口を縛る。抵抗するそぶりもなく、あっけなく捕獲。なんとなくフェアじゃない感じの遭遇であった。袋は棒の先っぽに吊し、再びあるき始める。
嘉鉄の集落についたので、ハブを商店の人に見せてみると、「これは姫ハブだからお金にならない、残念だったね」といわれた。姫ハブは体が短く、おとなしいとのこと。
商店でサバの缶詰を買い、今朝持たせてもらったおにぎりと一緒に食べる。店主はこの町の区長さんで、今年は浜下りを決行したとはなしている。浜下りは、家の女性たちに一日くらい家事をやめて、浜におりてのんびり遊ぼう、という意味があると教えてくれた。
奄美大島は集落ごとに風習や精神性、お祭りの形式が異なっている場合が多いとのこと。8月踊りにしても、3キロほどしか離れていないような集落同士で、メロディーや踊りがぜんぜん違うらしい。嘉鉄集落のお祭りは、きっかり時間を決めて厳粛に執り行われると言っている。市集落は、冗談がおおく、のんびりふわっとした感じだった。
姫ハブは、集落の外の山に逃がすことしたが、みると土嚢袋に赤い血が付いていて、袋からだしてもぜんぜん動かなくなっていた。
区長さんが「姫ハブはみつけたら頭を叩いて殺した方がいい」といっていたが、もしかしたらこの蛇は、出会ったときにはもうすでに誰かに叩かれた後だったのかもしれない。
なんだかかわいそうな気持ちになった。悪いことをしたような気がする。
山を登っていると雨が強くなってきた。帽子がないぶん、体力的にも精神的にも消耗が大きい。大島海峡が一望できる見晴らしのよい東屋があったので、そこで雨宿りすることにした。風もあるので雨が横から入ってくる。濡れない席は少ししかない。すこしすると、どういうわけか、美しい女性が現れ、同じ東屋に入ってくるのであった。
どことなく物憂げな顔で海をみていて、どうしたのかときくと、「家にいるといっぱいいっぱいになっちゃうから、たまにここにくるんです」とのこと。はなしていると、彼女はおれと同い年で、旦那の転勤でこっちにきたが、知らない土地の会社の社宅、助けを求められる人がすくなく、小さい子供2人の世話をするのに大変だそう。他にもいろいろと抱えているようで、会話の節々で目に涙が浮かぶ。
「たまに同世代で独身の人をみると、うらやましく感じることがある」
という。泣いてる美女を放っておくのも気が引けるが、吹き付ける風で体が冷えてしまったので、「次あったときはお酒でものんでエンジョイしましょう」といって再び歩き出すのであった。
この島では、出会う人出会う人があまりにも結婚しなさいといってくるもんだから、歩きながらそういうことを考えるようになった。もし本当に勉強と仕事と育児をしようとすると、この社会ではなかなか難しそうで、どれをどの順番でやるかで、その後の日々の融通がきかなくなりそうな息苦しさがある。
もしおれが女性だったら十代の早いうちに子供を産んでしまって、子供に手が掛からなくなってきてから勉強をし、35歳くらいから満を持してバリバリ働くのが体力や気力的にも合理的な気がするなと思ったが、今までそんな人には会ったことがない。
どちらにせよ、これまで結婚して子供を育てるなんて、ただつらそうなだけで一切現実味がわかなかったのだが、この島でのんびりと、浜であそんだり、パパイヤをとってサラダにしたり、集落の人と仲良くしながらだったらあり得るかもという気がするのであった。
清水と書いて、セイスイと読む集落を通ると、「海の家」とかかれた楽しげな施設があったので、声をかけてみると雨宿りをさせてくれた。
近所の女性であつまり、日曜日の昼にカレーなどを出す食堂をやっているらしい。今日はその仕込みとのこと。この食堂の座敷のところに泊まっていったらいいと言われて、まだ16時だったが、泊まらせてもらうことにした。
おばちゃんたちは、平成16年に難しい8月踊りを集落の老人から教えてもらい、それをマスター。歌の内容を質問したら、歌ってきかせてくれた。裏声が混じり気持ちよく響く。
どうやら体が冷えてしまったようで少し熱っぽい。持ってる服を全部きてさらに座敷にテントも張り、ぽかぽかで眠る。
5.29(晴れ)清水→油井
6時すぎ、食堂の女性の旦那さんが起こしにきた。金を稼げ、結婚しろ、先祖の墓をまもれ、というような話に適当にうなずきながらテントを片づける。
入り口に置いたタイヤをみて、「これは害!」といったのには困惑したが、まあしょうがない。そういった反応すべてを含めて、タイヤひっぱりなのであって、おれがいきる世界と、いま目の前に出会った人がいきる世界の距離を測るスケールとしても機能している証である。
おばちゃんたちがつくる激安激うまカレーを食べてから出発。夜ご飯用のお総菜もいくつか購入した。
「なんでタイヤをひっぱるか」という質問は一日3回は聞かれるのだが、毎度その度に考え込んでしまう。だけどそれは悪いことではないと思っていて、この行為によって起こる遭遇や広がりの可能性に、意味や目的をつけてしまうのがもったいないからというものがある。
意味や目的というものはとても強くて、なにかの問いに対して、暫定的だったとしてもそれを言い続けているうちに、自分自身がそれを信じ込むようになってしまう。タイヤひっぱりという行為自体がもつ豊かさを、自身を洗脳することによって狭めてしまわないか、という不安があるのである。
ちなみに今回は、「遭遇の方法」という言葉を事前に用意し、文章にしてきたが、これを出会った人に直接伝えたことはほぼない。絶対、個別の関係性に適した言葉があるはずだし、そうでなければ奇跡的に出会えた目の前の人を、不用意にラベリングすることになってしまいかねない気がしてしまうのだ。
「なんでタイヤをひっぱるか」に気持ちよく答えられるのは、状況的に一言で済ませるときに「筋トレです!」か、ある種の関係性が生まれてきた上で、そのコミュニケーションから生成された、いまここにある本当の言葉だけなのである。
そんなことを考えながらあるいていると、今度は、タイヤひっぱりは芸術でも探検でもなく、ただタイヤをひっぱっているだけである!という論争が、脳内で勃発する。これは、歩いている時特有の現象であり、家にいるときなんかは決して起こらない。
繰り返される移動行為は、心身とイデオロギーの分離を促す効能がある。土地に由来するアイデンティティ、培った価値判断や、政治的な信条、活動範囲によって自明のもとされている行動原理や態度など、土台とされてきたものを揺るがし、自らのなりたちや、構成する要素とじっくり向き合う機会をくれる。
結局、芸術だって探検だって、ひとつのイデオロギーである。固執せずに勉強していきたい、勉強したらまたあるく。
10年間ぼんやり考えてきたようなことが、どんどん湧き上がってくる。いま頭に思い浮かんでいるものをメモってみようと思い、その場にすわりこんで、ノートをひらき、殴り書きしていく。
するといつのまにか、タイヤひっぱりのすすめ?的な箇条書きのテキストができた。
「タイヤひっぱりのすすめ(仮)」
・タイヤはバランスをとるための尻尾になる
・タイヤから伝う振動と、心身と呼応させてみる
・土地に癒着し、肉体から遅れる魂をみる
・浮遊する心身をつなぎ止めるタイヤをみる
・陽光やのぼり坂で体温をあげる
・木陰や風雨で体温をさげる
・タイヤの音から熱の移動をみる
・タイヤの輪をみる
・タイヤの屑で地上に描かれた移動の軌跡の輪をみる
・通り過ぎる異質な他者になる
・通り過ぎる異質な他者が起こす事態をみる
・通り過ぎる異質な他者に芽生える精神をみる
・お互いがいきる世界の距離を測る
・かわり移ろう自らの心身をみる
・以上すべてを忘れてあるく
悪くない気がする。ここ数年、何回かこんな感じのものをつくろうと試みたことはあったが、うまくいかなかった。
これがぽろっと出てきたのは、寝かせていた期間にうまく醸成されていたということ。よかった。
油井という集落についた。これが「ゆい」と読むことを知り、先日の青木さんにきいたお祭りをやっている集落であることに気がつく。縄をひっぱり、きり、むすび、ひっぱり、きり、むすび、ひっぱり、きり、それで土俵のような輪をつくり、そこを神聖な場所とするという、古来の人々の精神性を感じずにはいられない不思議なおまつり。
庭先で、熊竹蘭(月桃ににた植物)でよもぎ餅を包み、蒸しているおばあちゃんがいたので、お祭りについて聞いてみると詳しい人を紹介してくれた。いわく、つい先月、図書館の学芸員さんが主動となりこの集落のお祭りについてをまとめて記した冊子をつくったとのこと。
それを渡せるか、きいてみるから明日までまってて、といわれたので、近くの公園にテントを張ることにした。
その夜は、波のリズムできしむ船が接近する怪しい足音に聞こえたり、突風がテントを倒そうとしたりで、ぜんぜん眠れなかった。
5.30(くもり)油井→篠川
風や波の音のせいでぜんぜん眠れなかったが、夜が明けてきたのでぐだぐだとテントを片づける。だいたい片づいたころ、昨日の男性が豊年踊りの冊子をもってきてくれた。売ることはできないが、プレゼントならできる、とのこと。一緒におにぎりもくれたので、その場で食べる。雑穀米に島の味噌がはいっていてうまい。
天秤で重さをはかる。どういうわけか、錘の瓶は、昨日の清水と同じ位置を示しており、このとおり読み取るなら、タイヤの質量は変わっておらず、よって、おれは歩いていないということになるが、実際はそうじゃない。
タイヤに付着するゴミ、海水の濃度、空気中の湿度、など、この結果がでた要因をいろいろと考える。
すべてが変わり移ろう旅の日々の中で、その日々を観測するためのよりどころとなるのは「重力」である。天秤棒を吊すひもは鉛直に緊張し、水平を取った天秤棒はゆっくり回転する。不思議な静寂に包まれる。毎朝のこの時間に昨日の旅を振り返るのだ。
学校の校長先生がみにきて、興味深そうに質問してくれる。好奇心で行動するおじさんはかっこいい。飲み物をたくさんくれた。
出発。あまり寝てないのもあって、元気がでない。
ひとつ山を集中して越えたら、へばってしまい護岸に腰をかけぼーっとする。
すると通りがかりのおばさんが声をかけてくれて、これから先の道はお店も休憩所もないよ、雨もふるよ、私の旦那が小屋をつくってるから、そこで休憩していいよ、といって場所を教えてくれた。
いってみると、黒糖工場の裏に大きな櫓のような木造の建造物があり、その隣の小屋でおじさんが作業をしている。挨拶してすこし手伝う。
おじさんは、農薬も肥料も使わずにサトウキビから黒砂糖をつくって販売しており、全国からの来客も多いから泊まれる家をつくっているという。次は竪穴式住居もつくる予定らしい。
竪穴式住居は快適なのか?ときくと、いろりの煙が隅々まで循環するように設計されていて、じめじめしないし、屋根の藁もいぶされるので、虫も近寄らないようになっている、とのこと。すごい。
ほか、ドイツでの公共土木工事の3分の1は、これまで作った不要なものを壊すために行っている、ということを教えてもらう。
また、余計に過剰に、政治家や利権者が懐を肥やすために、ダムや護岸をつくりまくって、森の力を弱めるのはバカみたいだ、そのために選挙にいかなくちゃならない、といっていた。
奥さんが大きい魚の煮付けをつくってくれたので、それを爆食いする。うまい。櫓にテントを張らせてもらい、森の生き物たちの鳴き声に包まれながら安心してぐっすり眠る。
5.31(雨)篠川→西古見
おくさんが淹れてくれたコーヒーをいただき、1030に出発。黒糖やおにぎりも持たせてくれた。ありがたい。
去り際、小屋をつくっていたおじさんが「タイヤをひっぱるなんて、なんて独りよがりだろう」とつぶやいていたことを考える。批判めいた口調だったので、滞在中なにか失礼があったかな、と振り返ってみるがわからない。
もし「独りよがり」という言葉だけを受け取るなら、おれは、おれ思うことを勝手にやっていて大丈夫で、独りよがりな印象はむしろ良いことかもな、と思った。タイヤひっぱりが誰かのためになるなんて考えないし、考えようとすることもおこがましい、人の数だけ、生き物の数だけ、石の数だけ、世界はあるのだ。
リアス式の丘を越え、丘を越え、丘を越え、をしているうちに、雨がふりはじめ、それでもかまわず、丘を越える。
途中車がとまり、中のおじさんに「なんでタイヤをひっぱっているんですか?」と聞かれた。しばらくずっと山の中で一人考え事をしながら歩いていたので、ふいな人間との接触にドキッとする。おれは立ち止まって考え込み、雨はふりつづける。
「無意味なことから、どんな意味がうまれるのかを見ています」という言葉が口からでた。こんな変なことを見ず知らずの人に言ってよいものなのか、と思いつつ、なかなか適当な気もした。
「そうですか、すっきりしました」
といっておじさんは去っていく。
無意味なことから、どんな意味がうまれるのかを見ている。
制作だって、生きることだって同じだと思う。
ぐちょぐちょになって西古見という集落につく。奄美にきて一番長くあるいた日になった。
女性の区長さんが民泊をやっている人のところまで案内してくれ、広い一軒家に2000円で宿泊する。
風呂場に大きいアシタカグモがいる。
6.1(雨のち雲)西古見→阿室
布団がきもちよく2度寝3度寝をして、昼過ぎになった。
おれは大分の自宅では、いつもこんな感じの自堕落な生活をしている。
定住生活と米をたべる生活は、おれにとっては心身を鈍重にさせる毒であり、用心して付き合わなくてはならない。
しばらく鼻をほじり、2時になって意を決し、3時になってようやく出発した。
しかし出発したと同時に大雨が降り始め、いったいどういうことだ?!と叫びながら家主の加(くわえ)さんの商店に駆け込む。
加さんに、今からあなたが向かう屋鈍集落は、険しい山を越えなくてはたどり着けず、道も未舗装である。こんな大雨では無理だからもう一泊して行きなさい。といわれたので、ならば宿の全体的な掃除機がけをするから1000円にしてくれないか?と提案すると、それは助かると快諾してくれ、もう一泊する運びとなった。
しかし外は、宿に戻ることもままならない激しい雨、加さんと雑談がはじまる。
加一族のファミリーヒストリーを聞いたので、ここに記すことにする。
太平洋戦争がはじまる前の話。
加さんの母方のおじいさんにあたる太郎さん(仮)は、だいぶ立派な人だったようで、西古見という奄美大島最西端だいぶ辺境の地に生まれたのにも関わらず、若くして出世し、満州の一集落の警察署長を勤めていたそう。
1935年そこで生まれたのが、加さんのお母さんにあたる早苗さん。警察署長のお嬢さんとして、使用人が大勢いるような豪邸でのびのびと暮らす。
しかし日本の敗戦により、生活は一変。所長である太郎さんはシベリアに連行されてしまう。早苗さんは、おかあさん、弟、親戚のおじさんの4人で、機関車の石炭車に忍び込んで移動し、夜は草木に身を潜め眠り、中国朝鮮の盗賊やソ連兵と戦いながら、いのちかながら両親の故郷、奄美に帰りついたのである。
しかし悲しいことにお母さんは奄美につくなり死んでしまい、幼い弟とふたり、西古見の親戚宅を転々とする日々が始まる。この時11歳であった。
親戚宅ではだいぶこき使われたようで、薪拾いに水運びと大変だったよう。中学卒業と同時に意を決しひとり島をでて、沖縄でバスの車掌をしたり、呉の食堂で働くこと12年、親戚同士の談合により、西古見出身で東京で大工をしている男性との結婚がきまる。早苗さんは、旦那さんのいる東京へ移住。飯場(ハンバ)と呼ばれる、建築現場の近くに簡易的に作られる建築労働者の寄宿舎で集団生活し、高度成長期の東京のビル群を作りまくったそう。
飯場はいつもにぎやかで活気に溢れ、早苗さんは女性たちと一緒に飯をつくったり洗濯したりして過ごす。そんな生活の中うまれたのが加さんであった。加さんは飯場の人たちにとてもかわいがられたようで、「車がほしい」というと、その夜には、労働者のおじさんたちのそれぞれがミニカーを買ってきてプレゼントしてくれるので、おもちゃに困ることはなかったとのこと。
東京オリンピックが終わり建設ラッシュもいったん落ち着いたところ、次は大阪での万博関連の仕事がたくさんあるらしいとのことで移住。その後は長いこと大阪にすみ、旦那さんの仕事の引退を期に西古見に戻ってきたらしい。
西古見では集落の人に、商店をやってほしいと頼まれ、加商店をひらき、古仁屋にいくついでにスーパーで色々と買い物をし、それを店に並べている。観光客の面倒をみたり、奄美のことを歌った詩集を出すなど、西古見の名物おばあちゃんになった早苗さんは去年なくなり、今は息子の加さんが店を守っているとのこと。
近代日本の時代の波と共にいきた加一族の話を前のめりにきいていると、いつのまにか雨があがっていた。
やっぱり出発しようかと考える。加さんも一緒に天気図や地形図をみながら考えてくれた。現在16時、これからの山越えは登り4キロ下り4キロ、ってかんじで距離的には暗くならないうちに越えられるはずだが、なにぶん、工事関係者以外ほとんどだれも通ったことのない道のようで、加さんも途中まではいったことがあるが、途中から車が通れない道になったので、引き返したのだとか。持参している国土地理院の地図にもその道は記されてない。
つまり、その道がどんなになっているのかわからないのだが、雨上がりの夕方に透き通る空気に吸い込まれるように、山にむかってあるき出すのであった。
途中までは舗装された道路で、特に問題なく進む。頬に落ちる小雨が、上り坂で上昇する体温を適度に冷ましてくれる。上り坂ではこれくらいの雨が好き。うっそうとした谷間や、明るい尾根道などのぼり、立ち入り禁止の看板の前まできた。
工事の説明を兼ねた看板なので、地図もついていて、いろいろと情報をよみとることができる。
この道は、瀬戸内町と宇検村をつなぐ道として計画され工事が進められていたのだが、山間の一部区間の持ち主が判明せず、しばらく工事は中断されていたとの話である。最近になってやっと見つかって、工事が再開されたらしい。
立ち入り禁止の先に進むときだけ、越境に伴う緊張や高揚があったが、基本的には工事用車両が通れる幅があり、ぐちょぐちょの沼になってしまっている箇所を除けば特になんてことなかった。嘉徳ー節子間のジャングル道に比べると大抵がかわいく思えるようになった。
下り坂で気を抜いて盛大にずっこけたが、これは毎度おなじみで、リュックがクッションになって怪我にはならない。
雨が強くなったので、あまり休憩もせずそのまま歩き続ける。地形図をみながら歩いたが、途中からどこにいるのかぜんぜんわからなくなってしまった。やっぱりちゃんと地形図を読むには方位磁石をもたなくちゃだなと思う。
道は続いているので、それに従って歩くこと2時間、宇検村の深い湾、焼内湾が見え始めた。地図をみても、だいぶ秘境なイメージのあった宇検村にやってきたのである。
屋鈍(やどん)という集落につく、加さんにプリン屋さんを訪ねるといい、といわれていたので探してみるが、それらしきお店はみつからず、区長さんには、浜辺の奥なら秘密でテントを張ってよいと言われた、どうやらこの集落はほかのところよりもコロナで神経質になっている模様。
迷惑がられるのも悲しいので、2キロ先の集落まであるくことにした。
さっきからなにかがふわふわ飛んでいるな、と思っていたが、それが次第に尋常じゃない数になってきて、噂の羽蟻だということがわかった。少しでも口をあけようものなら、すかさず数匹が口内に進入してくるほどの群で空間を漂っている。
髪の毛のなか、服の中もお構いなく入り込んでくる感じで気持ち悪い。
すっかりあたりは暗くなり、次の集落が見えてきた。
街頭が大きい膜に覆われていると思ったら、それは灯りに群がる無数の羽蟻であった。背筋がぞわっとする。
最初の民家に声をかけ、どこかで眠りたい、という話をするが、現在区長さんが不在とのこと。区長さんがいない今、どうやって決めるべきか、とご近所の人等が集まってきて、みなで考えこんでいた。
区長さんという仕組みは、今まで巡ったどの集落にも存在していて、だいたい2年ごとの交代制で、頼まれた人がやるよう。集落の人は、基本的に区長さんが決定に文句を言わない。
みるに、奄美大島の集落におけるこの仕組みは、合意形成の方法としても、その制度を扱う人々の態度としても、とても理にかなっていて美しく感じるのだが、この制度の起源を知る人には会ったことがない。
結局みんなで区長代理のところへいき、アシャゲで寝ればよい、ということになった。アシャゲとは、琉球由来のノロ信仰に伴う祭儀を執り行う東屋のような建物である。大抵の集落で子供たちが相撲をとる土俵のとなりにある。土俵の上にも屋根がついているのだが、旅人が一晩を明かすのに土俵はダメだけど、アシャゲならよい、という価値判断はどの集落も共通している。
阿室集落のアシャゲは今までで一番広く平らで快適だった。
区長代理は、ここに連れてきてくれた夫婦に「おいのんでいけ」といって、旦那の方だけ家にはいり、奥さんの方は一人家に帰っていく。
女性たちは楽しそうな集まりには参加しない。奄美ではそういった光景をよく目にする。なんとなくさみしさを感じる。
テントの中には、追い出しても追い出しても羽蟻が進入してきて大変だった。
6.2(晴れ)安室→タエン浜
62 阿室→タエン浜
朝5時、阿室のアシャゲで目覚める。テントをでると、上の隅に神棚のようなものがあることに気がついた。お祭りの時に使うのだろうか。
昨晩舞っていた無数の羽蟻はすべていなくなっていて不思議な気持ち。しかしテントをめくると、地面との接地面にぺちゃんこにつぶれた蟻たちがびっしり、、うう。
水道で顔を洗う。
排水溝のところにきらりと光るものがあり、なんだろうと手に取ると、薄く透明な蟻の羽だった。よく見ればそこらじゅうに落ちていて、よそ風でひっくり返るときに光を反射さす。
通りかかった散歩のおばあちゃんが、羽蟻の群が3回くると梅雨があけるんだよ、と教えてくれた。
天秤棒で昨日の山越えの磨耗量を計測していると、「あ!タイヤの人だ!」と声をかけてくれる人がいた。話してみるとどうやら、西古見の加さんの知り合いだそう。プリン屋さんをやっているときいて、「あ、屋鈍の」と、おれも加さんの話を思い出す。
南米で出会った旅人同士が、結婚して移住しプリン屋をやっている、会ってみるといい、と言われていたのだ。
プリンの夫婦がくれた名詞にはチェゲバラの絵、と思いきや旦那さんの顔をチェゲバラの白黒肖像画のように加工した写真であった。確かに、チェゲバラそっくりの顔立ちだった。「向こうの港にいるから寄ってみてね」と言って車を発進させる。
その後、歩き始めるのだが、リュックサックがとにかく重い。昨日の雨や汗や泥をたっぷりと染み込み、ものすごい重量になってしまっている。連日の疲れか肩も痛いしで、ぜんぜんやる気がおきない。
港に人が集まっているので近づいてみる。もずくを洗っているよう。おもしろくて写真をとっていると、プリン夫婦もそこにいた。この集落の人たちで、もずくを育てて販売するビジネスを始めたのだとか。集落の男女20人ほどで楽しそうに作業している。おばあちゃんに、採れたてのもずくを食べさせてもらった。
また歩き始めるのだが、やっぱりやる気がでない。一キロほど歩いた先に商店があったので入る。元気がでるものを探しうろうろするが、特に食べたいものもなく、もういいやと自棄になってハイボールとポテトチップスを購入、向かいの公民館のベンチに座って食べる。これがかなりたのしく、すぐに一缶と一袋を平らげてしまい、同じものをもう一セット買うのであった。朝の10時に公民館のベンチで一人、ハイボール2杯飲んだおれは完全に上機嫌になり、にやにやしながら目の前の植物を撫で回したり、ふざけた歌をうたったりをする。するとどういうことか、プリンの奥さんがやってきた。どうやら、もずく作業の人たちはこの公民館のトイレを使っているよう。完全な醜態をさらしてしまったおれはうろたえる。
しかし奥さんは、朝からべろべろになっている情けない男にも態度を変えず、優しく話しかけてくれた。
疲れてあんまり歩く気がおきなくて、ひとり酒をのんでいた。と正直にはなす。
奥さんとしばらく談笑し、連絡先の交換をして別れる。正気にもどったおれは気怠くもあるきはじめるのであった。
海沿いの坂道をこえると、きれいな浜がみえてきた。休憩できそうな施設もみえるのでそこまでがんばろうとおもった。
東屋で荷物をおき、施設についていた水のシャワーを浴びる。
ここはタエン浜というところのようで、おそらく夏にくる海水浴客のためのシャワーだろう。だれもいない施設でひとり、静かにのんびりとすごす。コーヒーがのみたくなってきたので、自販機がないか探してみると、なにやら奥のほうに赤いのぼりがみえる。近づくと道路から生け垣を一つはいったところにぽつんと一軒小さい食堂があった。こんなところにお店があるとは思わなかった。
ポテトチップスでおなかいっぱいになっていたのだが、食堂におじちゃんがいたので、せっかくなのでなにか食べることにした。
おじちゃんはだいぶおしゃべりで、浜を清掃していたら珊瑚が復活したこと、東京の寿司屋で働いていたこと、一族が昔からの豪族なこと、昔の右翼団体のこと、近頃の若者のこと、なんかを息をつく間もなく話し続ける。
注文した豚頬丼は、さすがもと寿司屋なだけあり本格的なおいしさだった。
トイレにいくタイミングで防波堤を歩きながら透き通った海を覗く。底に波消しのコンクリートブロックが敷き詰められており、なんとそのブロックの上に色とりどりの珊瑚が広がっていた。
人間の都合で投下されたものものしいコンクリート群を一面に覆う珊瑚。勇気をもらえる光景だった。
プリンの人から連絡があり、今日はうちに泊まらないか?とのこと。ぜひ!と返信する。もずくの作業がおわったらタエン浜まで迎えにきてくれることになった。
プリンの旦那さんが車できてくれて、一度もずくの港にもどる。
もずく作業をおえた男たちが楽しげに酒を飲んでいたので混ぜてもらった。若い男性が素潜りで捕ってきた蛸三匹の刺身もあり、ふざけた話に大変もりあがる。沖縄からカヌーを漕いでくる冒険家の話をきいた。よくこの集落に寄っていくらしい。
子供たちが騒いでいるので、海を覗くとウミガメが堤防の縁で体をくねらせている。港にくると餌をもらえると気づいたウミガメが寄ってくるらしい、ウミガメも餌付けできるのか、と驚く。
プリン夫婦と小さい子供3人で車にのり、屋鈍まで戻った。夕焼け空に凪った透明な海。吸い込まれるように泳ぐと、子供たちも一緒に海に入ってきた。
ぐちゃぐちゃで異臭を放つ荷物や衣類はすべて洗濯させてもらい、夜ご飯の宴会は小学校の先生もきてくれて、夜12時まで盛り上がる。
先生には学校で蛸みこしをやってほしい、と声をかけられた。
6.3(晴れときどき雨)タエン浜→名柄
ソウジさん、アイコさん、子供たち3人と一緒に朝食をたべて、末っ子を保育所へ送るついでに昨日のタエン浜まで送ってもらった。2人は、これからプリンをつくりにいくとのこと。
タエン浜はとっても静かでよい天気。柔らかい陽光が透きとおる海にふりそそぎ、おだやかな風がアダンの葉を揺らす。ずっとここにいたいような気がした。深呼吸をしてストレッチしたり、のんびり日記をかいたり、絵をかいたりする。ただ海をみたり。
ゆっくりとした幸せな時間。おれは一人でいる時間をこんなにも楽しめるようになったのか、と考える。
ヒョーヒョホーヒョヒョー
という縦笛を練習するような音が森から聞こえてくる。そういえば深い森を歩いている時にも聞こえたことがあった。きっと鳥なのだろう。
海の様子をみにきた食堂のおじさんに、「ありゃまだいたのか」と言われるが、そんなのおれの勝手で、おれは歩きたいときに歩くし、のんびりしたいところでのんびりするのだ。
数時間そうやって優雅に過ごしていると、プリンをつくり終わった夫婦の帰路に出くわし、「まだここにいたのか、ぜんぜん進んでないじゃないか、今日の出発は断念か」と半ば呆れながら笑われてしまうのであった。
人目があるところでのんびりするのはよくないのかな。
15時すぎに出発。
途中雨雲がきて降ってきたが、かまわずあるいていていると、電話がかかってきて、「車で迎えにいくから今日も泊まっていけ」とソウジさん。こういうのは事の運びであるから、身を任せるのがよい、「では、お言葉に甘えさせてもらいます、よろしくお願いします」と伝える。30分後くらいから車で追いかけるから、距離を稼いでおくのがよい、と言われる。
次第に雨はやみ、雲間から水色の空がみえはじめ、山はきらきらと輝き、静かな焼内湾がそれを映す鏡になった。あたりは涼しく透き通るみずみずしい空気、息をするだけでうれしさが込み上げてくる。ひとつの呼吸に感動するほど、すべてが澄んでいる。全身の細胞に呼応するように、道ばたの植物たちは生き生きとしていて、そんな道をすいすいあるく、泳ぐようにあるく。五感のすべてが祝福されてて、おれはこのままずっと自由にあるいていけると思った。
そんなタイミングで迎えの車が到着。後部座席の子供たちはタイヤをひっぱるおれをみて大喜びしていた。
再び屋鈍の集落へ。夕暮れの海で子供たちと遊ぶ。
家にもどると、鬼滅の刃を読んで強い気持ちになった子供たちに殴られたり、棒でつつかれたりして大変だった。子供はかわいい瞬間と、憎らしい瞬間と、不思議な瞬間がある。
おれは不思議な瞬間がすき。
子供たちが自然と一体になるように浜で遊んでいる姿はなにか不思議で、どこか不気味で、そこに計り知れない美しさがある。
6.4(快晴)屋鈍→部連
今日は学校の子供たちの水泳の授業である。
この家の子供たちがいく学校の水泳は海で行われる。こんな美しい海で水泳の授業なんて奄美はなんとすばらしい、と思いきや、このような学校は少数とのこと。
岸には集落の人たちも集まり、子供たちの海に浮かぶ練習や、溺れる人を助ける練習の様子を見守っていた。おれは末っ子と一緒に波打ち際であそぶ。
家にもどって日記を書いていると、長女と次女が学校から帰ってきた。今日は土曜日だから午前授業とのこと。帰るなり次女の機嫌が悪く、風呂に入りたくないなど駄々をこねたりしている。俺がソファに座って作業をしていると、ソファに座るなと言ったり、おれの筆記用具を払いのけ悪態をついたり、仕舞いには「ぱっぺー(おれのことをそう呼ぶ)嫌い」と連呼するようになってしまった。たとえ小学生でもずっと嫌いと言われ続けたり、唐突に殴られたりするのは、なかなか心の負担であり、おれはすっかり元気がなくなってしまった。
乾かしていた靴に水をかけられた時には、もはや笑顔で受け流す余裕もなく、早くこの子供から離れたい、と思うようになっていた。
ソウジさんとアイコさんに、もう出発すると言い、驚く2人に申し訳ない気持ちになりながらも、そこから立ち去る準備をはじめる。棒を肩にかけているときに次女が謝ってきたが、それには反応せず「人のことを嫌いっていうと、自分も嫌われるんだよ」などと言って、おれは歩きはじめてしまうのであった。子供相手になんと大人げないんだろう、お世話になった人たちに対しなんと不義理なんだろう。
自らの度量の矮小さ、思いやりのなさ、情けなさ、による落ち込みと同時に感じる嫌なことから逃避できたことの開放感で、思考はぐちゃぐちゃになりながらもぐるぐるめぐる。
18キロほどあるき、やっと昨日まで歩いた場所まで戻ることができた。すでに一回通っていた道だったので、道中多くの人に、このあたりを往復しているのか?と聞かれることになった。以外にも多くの人がおれのことをみているんだなあと思い知らされる。
うれしい発見もあった。
一回目に通ったときには気がつかなかった昔の墓を見つけることができたのだ。
珊瑚の石が雪国のかまくらのように積まれていて、花が供えられている穴の奥には、ぼんやりながら複数の白骨が見える。看板の説明には、奄美最古の墓と思われる、身元の分からない水難事故による遺体かもしれないとかかれているが、詳しいことはわからないとのこと。奄美の歴史にはわからないことが多い。(あとで調べる)
部連という集落についた時にはもう6時になっていたので、ここで眠る場所をみつけることにした。区長さんを訪ねると、公民館をつかってよいとのこと。なにかあったら嫌だから身分証を預からせて、といわれたので保険証を手渡す。
公民館の机で作業をしていると、訪ねてくる老人あり。
湯湾でもずくを冷凍する作業をしているときに、「タイヤをひっぱる人がいるらしい」と人からきいたとのこと。一緒に飲むことになった。
独特なお祭りの話をきかせてくれた。
来年の豊作を願う部連集落だけのお祭りで、中学年生以下の男子が田圃のあぜ道に赤土で3つのくぼみのある盛り上がりをつくり、代々伝わる神様の石を置き、それに肉付けするように神様の顔をつくるのだとか。そこで中学三年生のリーダーが大声で神様への口上(呪文のようなもの?)「ミヤクチカンジョウ」を唱えるとのこと。
聞きたいと頼むと、その場で歌って披露してくれた。
島の言葉独特の抑揚とアクセントが生み出す、上品で優雅な歌声が2人だけの公民館に響きわたる。
その後は、ハブを薫製にして焼酎のつまみにしていたことなどの話でもりあがったりするうちに泥酔、テンションがあがり、二人で夜の山にハブをさがしにいったりした。彼はハブを捕まえるのに棒はいらないといって素手だった。
6.5 (雲) 部連→芦検
快眠だった。
栄さんが7時頃公民館にやってきて朝食に招いてくれる。奥の部屋に大きな仏壇がみえる、きくと、今年のはじめにお母さんがなくなったそう、99歳だったらしい。
栄さんは、山盛りのご飯に高級そうなレトルトのグリーンカレーをかけて出してくれた。おれはペロリと食べる。さらに栄さんは部屋に迷い込んでいたバッタを捕まえ犬の方になげる、犬は鼻先で転がしたのちペロっと食べた。
荷物がまとまったので、区長さんのところへ挨拶にいくと「ふれあい」という看板が掛けられた小屋で休んでいてよい、といってくれたので、そこで日記をかくことにした。すこし埃っぽかったが、きれいに整頓された小屋の中には、お花畑や滝のなどの油絵が掛けてあり、小さい人形なんかが並んでいる棚もある、全体にかわいらしく飾り付けられている。窓を全開にして真ん中のテーブルにノートをひろげる。
途中区長さんが様子をみにきたので、この小屋のことについて聞いてみると、どうやら油絵や部屋の装飾は、東京の病院と奄美をいったりきたりしている区長さんの奥さんがやっているようで、ふだんは地域のおばあたちが集まってのんびりするところらしい。
整理されているのに、埃っぽい感じの理由は、ここ数ヶ月おくさんが診療で東京にいっているからということがわかった。
うちのが自由に書き込めるノートみたいなのをやっているから、よかったら書いていってと、棚の上のノートを指さす。
表紙に「ときめき帳2017年3月」とかかれている。
ぱらぱらみてみると、そのほとんどすべてが同じ筆跡だった。奥さんだろう。
この集落はどんどん人が減っていて、今はもう老人ばかり20人ほどになっている。
おれが再びこの小屋にくることがあるとしたら、その時はきっと今よりも淋しいことになっているだろう。埃っぽい空気による気管の不快さは、そんな感傷に妙な説得力を与える。お花畑の絵とコアラの人形の写真を撮り、ふれあい小屋を後にする。
今日は日差しがあり汗がだらだらでる。リュックサックには、連日の汗、雨、竹酢液などが存分に染み込んでは半乾きを繰り返すことで、強烈な異臭を放っている。初めて参加した早稲田探検部の合宿で神津島ゆきのフェリーに一緒にのった先輩の使い込まれたザックから発せられていた臭いを思い出す。
探検部の先輩は、極めて真剣なまっすぐな目で「君にとっての探検を話してくれないか」と語りかけてきて、その奇妙な質問と臭いの強さに圧倒されるのであった。今までの自分の世界とは明らかにかけ離れた世界との遭遇の記憶は、19歳の心身に鮮烈に刻まれる。今でも瞬間の、色、におい、空気、なんとかそれっぽく取り繕おうと装う自分の心情までも、はっきりと思い出すことができる。
湯湾につく。宿泊施設やおみやげ施設、広いグランドなどがあり、集落というより小さめの町といった感じ。おもりの瓶に使用しているネリヤカナヤの奄美開運酒造もこの町にある。
ケンムンの里という立派なおみやげ施設でサンドイッチを食べたり、開運酒造で全焼酎のテイスティングをしたりする。
グランドには、大勢の人が集まりグランドゴルフをしている。70人くらいいるように見える。名瀬を出てからこんなに多くの人が集まっているのを初めてみたかもしれない。
元田さんという方に出会った。
倉庫をDIYした雰囲気のよい快適で広いスペースに水彩などの絵が飾ってあり、仲間と集まっている。
大阪でテレビCMをづくりをし、その後は宇検の役場の広報の仕事をするようになった方で、クリエーターらしい独自の視点で奄美の歴史や資料を集めているよう。
・戸籍制度や奇妙な氏名からみる、近代奄美のゆらぎ
・明治、大正、戦後、高度成長、時代の変化による宇検村人口の増減
・個人で撮影された写真をエピソードとともに収集し、整理する活動
・ブラジルやカルフォルニア、ハワイなどに渡った移民の子孫との交流
などの話を資料をもとに丁寧にしてくれた。(詳細はまたのタイミングでまとめる)
政治的な主義主張でなく、自らの好奇心をベースに歴史と向き合い活動している人との共鳴は気分がよい。
さらに歩き、あたりが暗くなった頃、芦検という集落にたどり着いた。
区長さんは、アシャゲで泊まるように言ってくれた。
もう19時をまわり、商店もしまっているので、リュックにいれておいたカップ焼きそばのためのお湯をくれる人を探してあるくと、男たちのにぎやかな笑い声が聞こえてくる。声の方へいくと消防団のあつまりのよう。お湯が欲しい、というと中に招いてくれて、ビールやイノシシの焼き肉をごちそうしてくれた。どうやら今日は、各集落の消防団対抗のグランドゴルフ大会の日だったよう。湯湾でみた盛り上がりはそれだったか、と合点。
途中で先輩たちは帰っていき、最後は一番の若手の人と二人で話すことになった。どうやったら若い人に集落の生活の魅力を伝えられるのか、真剣に考えているよう。
彼の今の目標は、奄美群島の強い集落が参加する7人乗りの舟漕ぎレース大会で優勝すること。宇検には情熱的な舟漕ぎチームがないので、大和村のチームに所属している。
仕事終わりに集まって毎日猛練習しているらしい。
6.6(嵐のち晴れ)芦検→宇検
昨晩からふり続けてた雨は明け方になって嵐にかわる。アシャゲの中まで容赦なく吹き付け、おれはテントごと公民館の中に避難する。
あまりの激しい雨に、区長さんがおにぎりをもって様子をみにきて、しばらくここで休んでいなさいと言ってくれた。ありがたい。
区長さんにもらったおにぎりを食べながら、しばらく公民館で時間をつぶす。装備の整理をしていると、タイヤの接地面の異変に気がついた。いくらすり減ってもひたすらゴムが平らになっていくのみだった磨耗面から、なにか素材の違う繊維質なものが見え始めたのである。台湾のタイヤひっぱりでは、400キロくらいの地点で磨耗面に穴が開いたが、もしかしたらこのタイヤもそれが近いのかもしれない。
昼を過ぎても雨は強い。
区長さんは、プレゼントした絵を気に入ってくれたようで、もう一泊していけばよいと言ってくれていたが、15時頃になってやっと雨が弱まったので出発することにした。
海沿いの道を歩いていると、護岸の上にバラバラになったカニがいた。カラスの仕業だろうか、カニがバラバラになっていることは珍しくないんだけど、今回のカニは、足が片側の二本しか残っていない状態で口からブクブクと泡をだしている。普通は本体もつつかれ、中身も食べられた状態で散らばっているものなのだが。このカニは生きている。
先週会ったカニアーティストのさとみさんによると、カニが泡を出すのは酸素が足りなくて苦しんでいるサイン、とのことだったので、二本足のカニを海まで運んでやることにした。
海に放ると、足が二本の脚が元気よく動きだし、なんだか人間の二本脚のようにみえて気持ち悪かった。
ちなみにカニは危機が迫ると、自切といって、自ら脚を切り離し本体を生かすという戦略をとる生き物らしい。そのうちまた生えてくると言っていたが、果たしてあんな体になっても復活できるのだろうか。
トンネルを避けて旧道の方をあるく。旧道は、いわば時代に取り残された辺境である。そこにいるとき、はじめて中心の存在を認識でき、その存在が中心たりえる現在のシステムに気づけるのである。
山がちの奄美大島にとって、トンネルの有無がそこでの生活を大きく左右する。
隣の集落まで険しい山によって隔てられていることで生活圏が重ならない、というのが、古来から続いてきた奄美大島における集落のあり方である。シマウタのシマとは、南の島のシマではなく、やくざ映画で使われるような、縄張りとしてのシマの意味合いが強い。
台湾東側の山岳地帯には、言葉も服装も食べ物も社会構造も違う原住民(日本の民俗学者が研究し名付けた)と呼ばれる部族が16種類もある。奄美大島における集落ごと違いは、台湾のそれを想起させるように、それぞれに個別の風習と性格があり、独自のアイデンティティとなっているように感じられる。
決してゆるがないように見える中心なるものも、人間がつくったようなものはすべて時代によって価値が変わり移ろうものであることは歴史が証明している。
トンネルの存在が、奄美の人の生活や精神性を劇的に変えた。次に革命をおこすものはなんだろう。50年後に、無用の長物として辺境となった暗いトンネルの中をあるく自分を想像する。
辺境の旧道をこえてようやく次の集落がみえてきた。
おれが旧道をおりてくる同じタイミングで、トンネルからでてくるおばあさんがいた。すてきな竹の杖をもっているので、それを写真にとらせてもらう。彼女の旦那さんが山の竹をとってきて、杖になるように磨いてくれたとのこと。奄美にこんな立派な竹があることを知れてうれしい。蛸みこしをつくれる可能性がでてくる。
宇検村、そして焼内湾最後の集落、宇検にたどり着いた。
ここは、住用の市集落を思わせるような楽しげな雰囲気、子供の気配もたくさんある。商店の表に人が集まっているので、そこの仲間にいれてもらいビールを飲みまくった。
商店には、次から次へと集落の人たちが出入りし、そのみんなが家族のようにいろんな話をしている。実際に家族や親戚だらけのよう。
宇検村の先っぽだというのに、未就学児から中学生までで20人もいて、そのほとんど全員が、だいだいここに住む一族の子供だとのこと。いままで子供がいなくて移住者を受け入れる施策をする集落ばかりをみてきたが、こんなこともあるのか、とすこし驚く。
集落の先にあるエビの養殖場の経営がうまくいっているらしく、そのおかげで、若い人たちの仕事があるのだとか。
商店がある集落とない集落とでも、活気がぜんぜんちがうなと思う。
この集落では、子供たちが高校生になるまでは、どうにか商店がある状態を保ちたい、という大人たちの想いによって、商店は集落の共同経営とし、朝昼夕にそれぞれ一時間ほど、時間を決めて開けるようにしているらしい。
商店があく時間になると、どこからともなく人があつまってくるのである。
6.7(晴れ)宇検→名音
商店の人に紹介してもらった空き家のベランダで目覚め、東屋でのんびり日記をかく。子供たちが元気に登校していく。東屋にはケンムンの像と看板がある。ケンムンとはガジュマルの木に住み、足が長く、なぞなぞや相撲が好きで、蛸を苦手とする妖怪である。宇検村のほうには今でも信じている人が大勢いると聞いていたが、結局そういう人とは会わなかった。
おにぎりをもらって出発。これから山を越え、東シナ海がみえたらもう大和村で、これで深い入り江の秘境、宇検村の旅が終わるのである。
すばらしい快晴で、すこし山を登るだけでどんどん体温が上がり、汗が吹き出てきてくる。こまめに休憩をとりながら進む。
だいぶ写真を撮るようになった、たのしい。一年前に買った結構いいカメラなんだけど、機能の多さに煩わしさを感じ、これまであまり使っていなかったものだ。
撮影の道具は、三脚、カメラ、ケータイ、自撮り棒、の4点。ほかにも手ぶれが起きない動画用小型カメラや小型印刷機なども持ち歩いているが、それらはほとんど使っていないので、名瀬にもどったタイミングでデポジットしようと思う。
撮影は、(あっ)と思った瞬間になるべくやるようにしている。それを逃すと後で後悔しちゃうし、気づいたことを気付いたときにやらないのは、自分の感性を鈍らせることのように感じて気持ち悪い。
5時間ほどかけて山をこえ、大和村ひとつめの集落、今里についた。
東屋で休憩すると眠くなり、昼寝をしてみることにした。40分ほど気持ちよく眠る。
学校の裏に奉安殿がある、湯湾でみせてもらったりりしい顔をした女の子が日の丸を持って踊る写真を思いだす。これは明治政府が天皇を中心とした国家体制を敷くべく〜(後日詳しく書く)
今日もトンネルを避けて、大きい山を越える。良い天気。トンネルは不思議なものである、これまでの線を分断し、溶かす異界のような印象がある。トンネルは越境のための、そして旧道は現在も使える過去の遺跡のような感覚。旧道は今でこそほとんどだれも通らないが、a集落とb集落の移動において、地表を通る際に最も効率のよい行き方であることを忘れてはならない。入り組む山々を越えるために、人間が自然環境を探索しつづけた結果としてこの道があるのである。
途中、からっとした広い道路の真ん中で横になる。
人間の放つ音はなにもしない、ゆっくり雲が動いている。
空に吸い込まれている?というような不思議な感覚に包まれる。ただ遠くを眺める。こんなシンプルな状態にただなることができる環境のなんと少ないことか。1週間の中で、こんな時間があるだけで救われる魂はいくつあるんだろう。
しばらく道をくだると、眼下に集落が広がる。やはり大和の集落は規模が大きい。集落全体に太鼓の音が響いている。学校で子供たちが練習しているのだろうか。
小高い丘の上に鳥居がみえる。集落のどこからでも見れて、集落の全部が見渡せるとてもよい場所に。
奄美における宗教のあり方については、奄美のもともとの自然信仰や民間信仰、琉球のノロ信仰、仏教、キリスト教、神道、と諸々が控えめにそれぞれ存在しているというような印象だが、集落における聖域の扱いは、かなり普遍的な感じにみえる。(つづきは調べてから書きます)
もう次の山を越えるパワーは湧いてこなかったので、この集落で夜を明かすことにした。区長さんのお宅をたずねると、天理教の施設にとまっていけばよいといわれ、ありがたく泊めてもらうことにした。
天理教の施設はまるで旅館みたいにきれいな畳と布団が用意されていて感激。天理教の人が泊まりにくることが多いから、そのための部屋なのだとか。冷房まで入れてくれて驚く。
ビールや焼き魚もごちそうになり、今までいっさい関わりのなかった天理教についての話をきく。どうやら江戸時代末期の天保の大飢饉の時に生まれた教えのよう。天理教の付属高校のストイックな寮生活や、天理市で行われるお祭りなどの話をきく。毎月26日に行われるおまつりは圧巻なのだそう。タイミングをみて、絶対みにいきたいなと思う。
ふわふわの布団でぐっすりと眠る。
壁と屋根と柔らかい布団の偉大さたるや。
6.8(晴れ) 名音→知名瀬
朝の7時からお勤めがあるとのことで、おれも6時前に起きて顔を洗ってまつ。
7時になって本堂へいくと、井上さんとご両親がいた。井上さんとおじいさんは、黒い教服で身を包み、井上さんが読経し、それに合わせておじいさんが太鼓をたたく。きのう旧道から降りてくるときに聞こえた集落全体を包むような太鼓の音はこれだったか、とはっとする。おばあさんは、おれの隣にすわり、お経に合わせて両手をひらひらとさせて踊る。お経はお経というよりも楽しげな歌のようで、リズミカルで抑揚もあり、おれも一緒に踊り出したくなった。
江戸時代の大飢饉の際に、そのつらさを乗り越えるためにうまれた歌と踊りが、今もこうして朝と夕、毎日欠かすことなく行われいる。すごいことだと思う。やはり、奈良の天理市にいってお祭りをみてみたいなと思う。
昼過ぎに出発、魚屋っぽい店があったので、近づいてみるとあからさまに気味悪がられて追い払われてしまった。あはは。
一時間ほどあるくと、西部劇にでてきそうなおしゃれな小屋があり、そこからカウボーイな感じに着飾ったおじさんが現れた。中から女子2人もでてきて、「カレーを食べていきなはれ!」といっている。西部劇な小屋はカレー屋さんのよう。しかしそのとき500円しかもっておらず、この集落に郵便局もないようでおろせない。おどおどしていると女子がおごってくれた。お礼に版画を渡す。
カウボーイのおじさんは、自由気ままに西部開拓チックな骨董品を集めたり、そのように着飾ったり、そういうものを作ったり、絵を描いたりして過ごしているらしい。カレーを作っているのは奥さんで、女子ふたりは明石からきている観光客だった。野菜カレーうまい。
おじさんのアトリエも案内してもらう。
廃校になった小学校の教室を贅沢に3部屋使っている。めちゃめちゃたくさん描きまくっている。彼はもともとはサラリーマンだったよう、突き抜けてるなあ。
おじさんのエネルギッシュな油絵の写真を撮りたいとおもったのだが、カメラが動かない。電源はつくもののすぐに固まる。壊れてしまったのだ。せっかく楽しくなってきたところだったのに、残念。次は乱暴な旅にも耐えられるカメラにした方がいいかもな、と思った。
そこからさらに3時間ほどあるくと、またまた楽しげなお店がある。眺めていると、店の人と目があったので「なんのお店ですか?」と聞くと、弁当屋さんとのこと、近所の人で集まって焼き肉をするからビールをのんでいけといわれ、これもまたありがたくいただくことにした。ビールに焼酎に焼き肉を爆食いし、めちゃめちゃたのしくなってしまった。
中に一人本を読むのが好きな方がいて、島尾敏雄が好きなら、ロシア文学の昇曙夢という人も調べてみるといい、と教えてくれた。どうやら、奄美出身で、明治末から大正にかけて、日本文学に多大な影響を与えたロシア文学の翻訳をやっていたらしい。昭和にかけては、柳田国男や折口信夫などの民俗学研究にも足跡を残したとある。その後は奄美の復帰運動に尽力とのこと。
文学といえば、すこしづつ読み進めていた島尾ミホの「浜辺の生と死」が読み終わった。島尾敏雄の序文から、ミホの描く奄美の情景、吉本隆明の評論、梯久美子の解説、とすべて通して最高の一冊だった。こうやって奄美を歩きながら、この本を読めたことがどれだけ贅沢なことか。これは是非とも、友人たちに薦めてまわりたい人生の一冊になった。
もう外は夜になり、完全に泊まりコースだったが、なんとなくまだ歩きたい気持ちになってきて、お礼の版画を渡し出発する。30枚ほど刷ってきたがこれで全てなくなる。
22時をまわっていた。
長いトンネルがあり、その隣に旧道があるが、さすがにこの真夜中に林道を突き進む勇気がでなかった。あした名瀬につくから、懐中電灯を買おう、そしたら夜の旧道もあるいてみよう。
24時をすぎ、知名瀬という集落の静かな港にテントをはる。
6.9(晴れ)知名瀬→名瀬
残りの10キロをあるき名瀬に到着。島の南側の旅を終える。ついにタイヤの摩耗面に小さな穴が空いた。
アパートにもどり、すべてのリュック、靴、服などドロドロに悪臭を放つすべての繊維類を漂白剤に浸ける。
昼は、市集落から様子をみにきてくれたしげにいがジョイフルで豪遊させてくれた。夜は大学の友人の紹介で、西平酒造の夫妻、アジアの起業家夫妻、焼酎起業ガールなどとたのしい飲み会。同世代のプレーヤーたちの活動や言葉の熱量に大いに刺激をうける。
6.10-13 名瀬
アパートで休息。
装備の整理。懐中電灯の調達。今年度実施するほかのプロジェクトの連絡や調整。たまった日記を書く。グリーンストアにて19時半の半額シールで250円になる8貫いりの寿司がめちゃうまい。
6.14(晴れ)名瀬→秋名
名瀬のゲートボール場にある大きなガジュマルの樹でタイヤの計測。ガジュマルという樹は、幹と根と枝の区別がほどんどつかない。見た目も同じだし、一般的な樹にみられるような構造的な秩序もない。たとえば幹の上の方の枝からさらに枝分かれして伸びているから、枝だと認識していたこれは、どういうわけか地底につっこんでしまっている。見方によっては、地表にでた根の一部にも、全体を支える幹にもなるのである。しかもこの自由な生態は一つ個体の中だけは完結せず、別の複数の個体と融合しているようにしか見えないものもある。
根とも幹とも枝ともつかぬものたちが縦横無尽に融合し支え合うことで生まれる、奇妙な柱から生まれる鬱蒼とした枝葉は、太陽を遮る広い屋根をつくり、人々があつまる憩いの場にも、けんむんが棲みつく妖気漂う場所にもなるのである。
荷物をおいている東屋には、涼しげな独り言をいうお上品なおばあちゃんと、仕事の休憩中か文庫本を読むサラリーマンと道具の整理をする自分。お互いを認識しながらも、お互い好き勝手なことをする、つかのまの共異体がうまれていた。おれはこういう時間にこそ、いちばんの安らぎとうれしさを感じる。
サラリーマンは同世代くらいにみえる、なにを読んでいるのか聞くと、「司馬遼太郎の竜馬がゆくです」とのこと。「おれは司馬遼太郎だとコウウとリュウホウが好きです」とかそういう会話を少しだけ交わして出発。
ものすごい真夏日、少し歩いただけで汗がだらだらと噴き出してくる。途中モスバーガーがあったので我慢できず店に入ってしまう。2つ買っただけで700円もして。高いなあと思った。おれは大分にいるときはこういうものを毎日のように食べているような気がする。対して奄美にはお店がほとんどないので、お金もぜんぜん減らない。
タイヤの人の目撃情報があったとのことで、しげにいと奥さんが会いに来た。モスバーガーの前で少し話をする。「なんどもいうけど、なにかあったらすぐに電話してね、すぐにとんでくるから」と言って帰って行った。本当になんどもそう言ってくれるので、なにかで呼び出してみたいんだけど、なにかあったらの「なにか」がいったい、どういうものなのかぜんぜん想像がつかない。崖から落ちたり、蛇にかまれたりしたときだろうか。
大熊峠という激しい上り坂を上る。途中から旧道があったので、そっちをえらぶ。大きい風車や自衛隊の基地がみえた。
誰にも会わないくねくねとした細い道を、ながいこと歩き続ける。その間ずっと、韓国の沿岸部を自転車でめぐってみたいなあ、とかそういうまったく関係ないことを考えていた。
集落におりたが、もう少し進みたいと思いあるきつづけ、秋名というところでやめることにした。
タイヤの摩耗面の穴は今日1日で大きく広がり、底の面は半分残して分離してしまっている。明日には完全に剥離してしまうだろう。
「峠で君をみかけたぞ、感心感心」といってくれる老人がいたので、お宅の庭の水道で汗を流させてもらう。ビールや牛肉もごちそうしてくれた。
しばらくすると区長さんが現れ、海沿いの静かな東屋に案内してくれる。
この東屋の近辺は、豊年祭で、陸の神と海の神にわかれる沖縄式の不思議な儀礼に使われる場所らしい。疲れててしっかりメモをする気が起こらなかった。機会があれば次回調べる。
雨もふらず、月もきれいで快適だったけど、変な男が遠くからちょっとづつ近づいてくるのが非常に気味悪い。
意を決して、なるべく大男に見えるように背伸びをしながら懐中電灯をもって、こちらの方からぐいぐい接近してみると追い払うことができた。その後はぐっすり眠る。
6.15(くもり)秋名→玉里
港の東屋で起床。一晩中よそ風が吹いていたので、ハンガーにかけておいた服はきれい乾いただろうと思い確認してみると、乾いてはいるけれどベタベタする。そういえば汗でビチョビチョの服を水道で濯がず、そのまま干してしまったんだった。汗のついた服ってそのまま乾かすとこんな風になるんだっけ、、、。気持ち悪いなあ、どうしようか、と考えていると、日差しがでそうな気配がでてきたので、いけると思い、水で洗うことにした。予想通り、すぐに夏日となり、よそ風も相まって濡れた服もすぐに乾いてくれるのであった。
日記をかきながらすももをたべる。大和村の方で道行く人が次々とすももをくれる日があった。皮も果実も鮮やかな赤いすもも。洗ってかじってみると、とても柔らかく甘くなっているものがあった。これまで運んできた甲斐があった。
痛んだすももはヤドカリにやろうと思い浜にいくと、海が昨晩の様子とまるで違っていた。すぐ目の前まであった波打ち際が、1キロほど後退し広大な潟ができているのである。潟の遠くの方に、海の生き物を探しながら歩く人のシルエットがみえる。
食べやすいようにすももを割ってヤドカリの近くに放ると、熟れた果実の断面が上を向くように着地した。陽光に実を輝かせている。ヤドカリたちはびっくりして逃げていってしまったので、いくつか捕まえてすももの上に置いてやる。遠くで潟をあるく人、鮮やかなスモモ、ヤドカリ、の組み合わせが思いのほか良くて心がざわざわする。写真を撮りたいと思ったが、カメラは壊れてしまったんだった。残念。おれは30歳を手前に、いままでほとんど興味がなかった写真に対して、なにかの気持ちが芽生え始めている。
そんなことをしていると、区長さんが相当な量のおにぎりや唐揚げやトウモロコシやお総菜、スイカなどを持ってきてくれた。ぜんぶ手作りだった。ありがたくいただき、いくつかをカバンにしまう。
日記やタイヤの計測などを済ませて12時に出発。べろんと半分はがれたタイヤがおもしろくて、その動画をsnsに投稿する。大学時代の版画の教授が「Great job」とコメントくれた。
2リッターの水が欲しく商店に寄ってみたが売ってなかった。店主のおばちゃんはタイヤをみて「がんばってね」と肉やコロッケなどの手づくりお総菜をたくさん持たせてくれた。お礼に版画を渡す。区長さんがくれたものも合わせてリュックは大量の食べ物で埋め尽くされた。安心。
龍郷の東シナ海側を海に沿ってあるく。起伏もすくなく快適。
陸に沿うようにどこまでもずっと潟が広がっており、そこに佇む人が何人もいる。目を凝らすと、腰に篭をかける人、棒状の道具をもつ人、釣り竿をもつ人、といろんなバリエーションがあり、それぞれの挙動から、磯にいる海の生き物を探していることは確かそうである。
おれはこの光景が大好きになった。
ことある毎に護岸に腰をかけ、その人たちが潟をあるいたり潮だまりを覗き込んだりしているのを眺める。
潟から上がってきた老人がいたので、なにか穫れたか聞くと、蛸を狙っていたが今回はだめだったとのこと。
潮が引いた潟をあるきまわり、蛸や貝や魚を捕ることを「いざり」と言う。月に2回、旧暦の1日と15日に大きく潮が引くに絶好の日がくるとのこと。夏は昼に引き、冬は夜に引く。夜は危ないけれど、その分、蛸がライトに白く反射して見つけやすかったり、魚が寝てるから捕まえやすかったりするとのこと。めちゃやりたい、いざり漁。
蛸を突く銛と、ひっぱり出す長い鉤爪の写真を撮らせてもらう。
西郷隆盛がなんどか奄美に流されてきた話は知っていたが、その場所はこのあたりのよう。西郷隆盛が愛加那と住んだ家や、砂糖運搬船で奄美に上陸した港など、ゆかりのスポットをいくつか通る。笹森儀助の碑もあった。明治時代、青森うまれの探検家で、当時実態がほとんどわからなかった千島列島や南西諸島をあるきまわり調査した人物である。
奄美では、薩摩藩による植民地支配「黒糖地獄」の名残りで、いまだ働いても働いても借金にあえぐ島民のために、その搾取的な構造を解き明かし、改善のために奮闘するという、政治家や実業家の面もある。彼の南西諸島の探検の記録「南嶋探検」は、柳田国男など後の民俗学大きな影響を与えたとのこと。読んでみたい。
護岸の下がすぐ海になっているところで、小さい階段があったので、おりて泳ぐことにした。位置的に誰からも見えなそうだったので全裸になってぷかぷか浮かぶ。奄美の海は、名瀬市街地の港以外全部透明である。どこでも透き通っていて、いつでも遊べる。
玉里という、龍郷の中心地までたどり着く。今日もちゃんと20キロあるくことができた。
「つよい心は、つよい肉体から!」というようなことが書かれている道場があったので窓から中を覗いてみると、師匠みたいな人が、弟子のような人に、刀を持ちながらなにかを語っている。なんて言ってるんだろうと聞き耳を立てていると、目があい、道場に招いてくれた。今日は泊まっていきなさいと言ってくれた。
宿と道場のどっちもやっているよう。サンドバッグの脇にきれいなベッドがあったりして不思議な感じ。弟子と思った人は、観光できている人で、しかし武道の心得もあるらしく。師匠が料理を作ってくれている間、ボクシングの稽古をつけてくれた。ジャブ、ストレート、フック、アッパーのミット打ちをする。ストレートからフックの足捌きが難しく頭では理解できても、体が追いつかない。なんども練習すると汗だくになった。
おいしい油ぞーめんや豚の角煮、などをごちそうしてくれた。ビールもいただき、24時過ぎまで3人ではなす。
6.16(雨)玉里→あやまる岬
起きて12時まで作業。
一緒にいた弟子のお兄さんは、10時半にここを出て昼の飛行機で東京へ帰るといっていたのに11時になってもまったく準備をせずに、ぼーっと卵の殻を細かくしたり、と思いきや床の雑巾掛けをしたい!と言い出したり、乾いていない洗濯物の乾きやすい場所を探して建物中をいったりきたりする。
(これは完全にADHDだ。。)と思いそう聞いてみると、そうです、といってすべての作業を中断してその特徴について語り始める。
おれも22歳の時にADHDと診断され、注意欠陥で、遅刻や忘れ物が多いという性質とどう折り合いをつけるか、と試行錯誤してきたが、29歳になった今わりとうまくいっているのではないか、と思った。遅刻も忘れ物もする機会のない、しても特別咎められることのない環境にいれている。
残り3分で500メートル先にあるバス停までいかなくてならないお兄さんが、スーツケースを転がしながら慌てて走っていく姿を見送り、おれは沖縄そばのマキへいった。マキさんが覚えていてくれて、おれは念願の沖縄そばを食べる。
その後は、龍郷の博物館へいき、西郷隆盛やその息子の生い立ちや、奄美の歴史にまつわる資料をみる。一階の図書館には、島尾敏雄とミホの関連書籍がたくさんあったので、それもぱらぱらめくる。いくつかほしい本があったので、大分に帰ったら購入しようと思う。
その後はひらすらにあるく
数時間あるいた頃、一体どうしてこんなことをしているのか、わからなくなってしまった。悲しくなってしまった。どうしてこんなことをしなくちゃならないのだろう。どんな悪いことをしたらこんな風になってしまうんだろう。と過去、もしくは前世を振り返ろうとする。おれは無意識のうちにおれに怒っていて、未だ許せないから、こんなことをさせているのではないか、というようなことも考えた。
ポジティブなことをすることが億劫になり、雨がふり、夜が更けてもあるいた。悲しみや、その奥底にありそうな怒りの気配に、なすすべなく、ただあるく。
23時をまわり、体力の限界がきたのか、足がふらふらして、吐き気がし始める、街頭の下に座り込むと、じわっと尻が冷たい、水たまりだったよう。かまわず荷物を下ろす。小さい蛾が寄ってきてTシャツに染み込んだ汗をぺろぺろなめる。
昨日の朝、秋名の区長さんにもらったおにぎりを思いだし、味噌と一緒に食べた。雨に打たれながら食べる。
6.17(雨)あやまる岬→赤木名
5時。あやまる岬の展望広場で目覚める。
ここは山の上を切り拓いた景勝地で、行政が力をいれているのか、カフェやセレクトショップなどが入るおしゃれな円形の複合施設やオーシャンビューの公衆トイレがあり、芝生の広場からは太平洋の遠くまで見渡せる。
昨晩はふらふらになりながらここに到着し、水道で汗を流し、テントを張った。朝早くから誰かくるだろうから、早起きしてテントを片づけようと思っていたのだが、ちゃんと5時に起きれた。
ゆっくりと荷物を整理する。
最近は、びちょびちょになった服に加え、リュックサックも干すようにしている。テントの付近の樹木や建築物にロープを張り巡らせ、そこにハンガーをかけるのだが、テントのある空間にリュックや衣類が風にたなびく様はなかなか絵になる。
次第に芝生を刈る人、カフェの店員、トイレ掃除の人、などがきて仕事を始める。せっかくなのでカフェのコーヒーを飲んでから出発することにした。コーヒーを飲みながら、本を読んで、日記を書いて10時に出発。出発と同時に雨が降り出し、その後はずっと雨だった。
奄美は毎日雨がふるが、こんなにも一日中ふりつづけることは珍しい。
太平洋側最北端の用集落から、東シナ海最北端の差仁集落へ抜け、その後は東シナ海沿海部を南下、赤木名という集落につくまで、ずっとつよい雨。各集落の公民館の軒下でそれぞれ30分づつくらい雨宿りしたので、あんまりすすめなかった。
奄美の集落の入り口には、その集落の歴史文化や行事をわかりやすく解説してくれる看板があり、これが内地の俺からするととてもおもしろく興味深いのだが、集落ごとに信仰や祭礼の特色が違いすぎて、キャパオーバーになりはじめている。浜下れや八月踊りの様相、交差点におく中国由来の神の石、沖縄由来の神の儀式、稲作文化のおまつり、古代を思わせる固有のおまつり、うた、おどり、集落の中心になる大きい樹木の種、日本由来の神社、日本軍が作った洞窟、誰がつくったかわかない墓、古墳、信仰の対象にある島、薩摩圧制時代に生まれた集落の歌、妖怪キジムナーの扱い。
当初こそ、奄美の気候風土から、それぞれ様式の前提となるなにかしらの直感を導き得ないだろうか、などと期待をして歩いていたが、いまではそんなおこがましいことをいっさい考えなくなっている。農耕ー狩猟、列島ー大陸、南方ー北方、などの思考のための対立軸なんかを自在にゆうゆうと越える、生き生きとした文化が、ばらばらなまま、この島の中に散りばめられているのである。これまで、軽視できそうな集落なんて一つもなかった。そして、ただ通り過ぎるだけの者が、なにかを言えるような薄っぺらいものものなんて一つたりともなかったのである。
ただ、この島内の多様性の前提となっている、集落と集落を隔てる鬱蒼と圧を発す山の存在感、また近世をすっとばしていきなり近代化が始まった奄美の象徴とも言えるトンネルのワープ感については、おれの身体に日々つよく刻まれいる。
これからの人生で、だからこそ聞ける話、読める本があるだろうと思う。
奄美は、おれにとって大事な島になった。
高級コテージのバーで、シャンパンのようなものを傾ける着飾った若い男女が見える。嵐の中ビチョビチョになりながらタイヤをひっぱるおれとの対比が可笑しく、1人吹き出し大声で笑う。
ひどい嵐の中、赤木名という集落につく。財布にはまったくお金が入っておらず、郵便局もしまっている。明日の朝支払いでどうにか、と付近の宿に電話するも、当日予約は受け付けていないとのこと。ならばいつものように区長さんをさがそうとするが、雨で人は表にでておらず、でていたとしてもおれをみたらみんな逃げていってしまう。
たしかに、暗い嵐の夜に180センチ近い俺がリュックごと紺のポンチョで被さることで生まれるシルエットは異形そのもの、それが140センチの棒をもち、びちょびちょになりながらのしのし歩いているのである。さらに、その後方に黒々としたタイヤがついてくる。これを不気味に思わない人がいないだろう。
おれ自身そのことは充分に自覚しているからこそ、積極的な声がけをためらってしまう。
長くて細い一本道の向こうから歩いてくる人がいる。おれもそっち方向に歩いている。きっと怖いだろうな、いやだろうな、と同情してしまう。なるべく怖がらせないようにフードをはずし、少し遠めの距離から、自分のだせる最大限の優しく明るい声で挨拶をする。すると向こうのおじさんも反応してくれたので、間髪をいれず、区長さんの家を訪ねるのであった。向こうの墓の隣の家だ、と教えてくれた、それだけで救われた気持ち。2時間くらいこの集落をさまよったぞ。
区長はさんは非常に優しく、集落の人が集まったりする施設に案内してくれ、ビール、焼酎、おにぎり、漬け物、などをごちそうしてくれ、まくらや毛布まで用意してくれるのであった。ありがたい。。。
廊下にロープを張り、水で流した衣類を吊し、巨大扇風機をセットし、送風乾燥機構をつくる。うまくできて満足。
ひとり、焼酎でよっぱらいねむる。
6.18(晴れ)赤木名→玉里
赤木名を出発。
この集落には、伝宿というおしゃれな宿泊業者があり、海沿いにきれいなコテージを建てたり、古民家を再生したりとなんかいい感じの事業をしている。今度お金があるときに泊まりにきたい。
タイヤの磨耗面の薄いところから空いた穴は、次第に、輪を描くように広がってゆき、ドーナツ型の円盤をつくっている。タイヤの本体(?)とは数センチほどしか繋がっておらず、まさに首の皮一枚という状況。
このタイヤを彫刻としてみた場合、今のこの状態が一番おもしろいかもしれない。本体も磨耗面もゴムとしての性質を存分に生かし、ぐにゃぐにゃと自由な形になる。「人」という字のように、通常のタイヤではあり得ないような形で自立させることもできた。
観測をして出発。今日で磨耗面もとれてしまうだろう。すこし寂しい。
快晴。終始たのしくあるく。
昼はソテツの実のでんぷんからつくったうどん屋があったのでそに入る。ソテツは奄美を代表する印象的な植物。特徴的な見た目と、どこにでも生えている感じから一番最初に覚えた植物だ。
黒糖地獄と並んで称されるほどの、奄美の悲劇「蘇鉄地獄」は、明治末期の大飢饉により、仕方なく蘇鉄を食べて死んだ人が続出したことによる由来する。蘇鉄の実には毒があり、ちゃんと処理をしないと食べられないのだ。うどんやのおばちゃんと楽しくはなしながら蘇鉄うどんを完食。ふつうにうまかった。
とちゅう、電動の三輪車?みたいなものに乗った老婆とむかしのかさり(潮のひいた磯をあるく漁)の話をきいたり、商店のおばあちゃんにおれにおれに似合う大島紬のマスクを選んでもらったりした。
「すずきあけみのアトリエ」という立て看板があったので、それが指し示す林道を上ってみると、海を見渡せる見晴らしのよいところに絵描きさんが住んでいた。アトリエを案内してもらい、画材や指示体、版画の技術などの専門的な話で盛り上がる。シャーベット状の焼酎もくれた。
その後は、方々で話題のコラージュアーティストがつくるピザ屋に予約をいれ、時間に間に合わせるようにピザ屋までの8キロを超早歩きのノンストップであるきつづけた。おもしろいお兄さんと少し作品の話とかをして、ピザを受け取り、高倉という東屋のような高床式倉庫で食べる。 おなかいっぱいになる。
雨がふってきて、暗くなってきたので、先日お世話になった道場の方に電話をし、再びそこで泊めてもらうことにした。
夜は道場の先生と晩酌。先生がバスの車越しにカラスと仲良くなった時の話をきく。
6.19(晴れ)玉里→戸口
今日も先生は島バスの運転手の仕事をするそうで、朝早くから出かけていき
6.20(晴れのちスコール)戸口→名瀬
6.21(晴れ)名瀬ゴール
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