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【記録】台湾環島 タイヤひっぱり(2019)



片道切符で桃園へ

ああ、版木を買いたかった。
結局昨日の夜から考えることはそればっかで、飛行機の窓から光る雲や海をみたって、その残念さで景色が濁る。
版木というのは、木版画の版のことで、おれは大抵ベニア板を使っている。
台湾では出会った人に版画を売りつけて生計をたてようと考えているのだけど、
その唯一の商売道具をもってこなかったということになってしまう。
どういう了見だってんだ。
ベニア板なんて現地でみつけなよ、という意見もごもっともなのだが、今回の旅は本当に一円ももってきていない。
それはすなわち、少なくとも板を入手し彫刻刀でほりほりし版を完成させるまで、おれは乞食をする以外の生きるすべがないということなのである。
商売道具をもって歩くなら、たとえ一文無しでもまあ行商人のような気持ちで多少は胸を張れるかも知れんが、
無一文で外国にやってきて、真っ先にすることが乞食活動というのは、少し情けなさすぎるのではないだろうか。。
野口竜平、今年27歳である。

よくみると、雲の下にあるのは陸地で、さらにじっくり観察すると浜松のあたりであることがわかった。
天竜川がどおと通り、一拍おいて右に浜名湖がみえる。
海側にある橋、あれはケンタとシュギョウと3人でガードレールを引っこ抜いて遊んだところだな。
おもえば浜松は何度も訪れてきた。チャリでもヒッチハイクでもリアカーでも。
天竜川をいかだ下りしたり、ご当地ギャルと遊んだり、旅館の屋上露天風呂で夕日に染まる湖を眺めたり、パンクなお茶農家たちから発電機を貰ったり、、、楽しい思い出ばかりだ。
そして必ず思い出すのは長屋にいた婆ちゃんのこと。
あの時は突然雨が降ってきて、駅の近くにリアカーを駐車できるスペースはないかと探してまわると、東側のアーケードから少し逸れたところに古い長屋が目に入った。
その無頓着な古び方は、周囲を取り巻くマンションやコインパーキングなどとのコントラストもあってか、駐車オーケーオーラがプンプンで。それはすなわち付け入る「隙」があるってことで、きっと空き巣なんかも同じような視点で街をみているのだろうなと思いつつ早速その長屋の庭に駐車させてもらうのであった。
リアカー。何年も前からずっとそこにいたかのような馴染みっぷり、、、。しかし一応住民に声をかけておこうと、長屋に侵入・靴を脱ぎ、一番最初の襖を開けるとそこにいたのが、あの婆ちゃんなのであった。
6畳間の真ん中に背を向けてぽつん座っている。
やけに小さい婆ちゃんだなと思ったが、近づくと実際にすごく小さい人だった。
耳が悪く、目も見えないので、突然現れたおれが横浜に住む孫じゃないことを理解するのに時間がかかったが、意識ははっきりしているよう。
そこに駐車していいかはわたしにゃわからんから、大家さんに聞きにいったらいいよ。ときっぱり言った後、ここで1人、目も耳も不自由、外にもでれない生活がどれだけ辛く寂しいかを、泣いたり笑ったりしながら語るのであった。春の甲子園が大音量で流れていた。
どこか違う世界に迷い込んだかのような不思議な気持ちで、おれは長屋を後にするのだが。


浜松も十分満喫した数日後、リアカーを長屋にとりにいった。
いざ出発!のタイミングでやはり婆ちゃんが気になり、今度は縁側の窓をあけてみると、彼女は新聞紙を折って箱をつくっているところだった。
目が見えないのに器用にやるなあ、って思い眺めていると、ふと(目が見えないのに新聞とってるのか?)という疑問が湧いてきた。
たしかに彼女が折っている新聞の日付は今日になっている。
尋ねてみると
「あたしゃ目が見えないから新聞はよまんって言ってるのに、新聞屋の人、いいから取れっていうからねぇ、仕方なくとってるのよ。毎日届くからわたし、こうやって全部箱にするのよ、しょうがないわねぇ」
と言いながら箱を作り続ける。
おれはずいぶん感心してしまって、さらに色々聞いていると、
「こっちにもあるよ」
と、押入れの中から山積みになった大量の箱がでてきた。その箱の1つ1つに几帳面に折り畳まれた箱がぎっしり詰まっている。
圧巻の量であった。
社会の今を伝える新聞は、毎日毎日、孤独な婆ちゃんの元に届けられ、読まれることのないまま、全てが箱に変わっていく。その日のうちに全部が箱になってしまう。
きっちりと角を揃えて、祈るような手つきで。
箱を少し貰って、香川に持っていきたいと伝えると
「香川まで歩くなんて大変じゃん」
と言った婆ちゃん。
縁側越しにサヨナラするとき、婆ちゃんの側にあった風車が音も立てずにくるくる回ったのが、なぜだかすごく嬉しかった。

桃園空港には、1時間半遅れで到着。
「たっぺいさんですか?」
日本語で声をかけてきたのはコウくん。
どうやら、すっすのお姉ちゃんの親友の彼氏がフェイスブックで呼びかけたようで、それに反応してくれたのがコウくんのよう。飛行場まで迎えにきてくれてたのだ!
すっすは仲の良いランドスケープデザイナー。とても優秀なので世界中に文化的な友達がいるみたい。おれは先週、高田馬場のカフェで「タイヤひっぱり」「温泉入りたい」「気功の達人にあわせてくれ」などの台湾語を教えてもらったのだが、その後日おれが困らないようにいろいろと根回しをしてくれていたみたいだ。
しかし、おれは無一文でタイヤをひっぱる以外のことは何も決めていないのに、すっすはどのように友人に相談し、その友人はなにを投稿したのだろうか。
「タイヤひっぱりの日本人が無一文でやってきます。だれか助けてあげてください。」
くらいしかいうことがなさそうだが…
そんな投稿、当事者のおれが不思議に思うくらいだから、きっといろんな人が不思議な気持ちになったに違いない。
よいことだと思う。
結局、今日明日の2日間。
コウくんの実家(社區という超豪華なマンション)でお世話になることになった。
コウくんは論文にコンペに大忙し。
ムサビに留学していたらしく、共通の話題もいくつかあった。
バスチケット・鍋料理・風邪薬・コーヒー
を買ってくれ、コーヒー屋ではタイヤひっぱり道中に掲げる“のぼり”の文言や、版木・彫刻刀の調達方法について相談に乗ってくれた。
コウくん、すっごく優しい人。
コーヒーを淹れる道具の新しいデザインを考えているらしい。
おれは腹痛と頭痛で少し体調がわるい。


美しいやりかた

今日は朝からコウくんとご飯を食べに外にでたが、お正月なので店がぜんぜん空いてない。
結構遠くまで歩いたのに、結局セブンイレブンで済ますことにした。
おれは相変わらず腹痛で、卵とコーヒーだけ買ってもらう。
卵は黒くて熱い液体に浸っていたからおでんみたいなものかと思ったが、殻つきで熱くてむけない。「茶葉蚕」というも食べ物らしい。
コウくんはダイエット中といって、小さい牛乳と蒸した芋を食う。
ちっとも太ってないのだが、先日南の方で行われたバレーボールの試合でユニフォームがピチピチだったのが恥ずかしかったらしい。
台湾にきたのは昨日の夕方だったからわからなかったが、台湾、すっごくあったかいぞ。
半袖半ズボンにサンダルでぶらぶらしてる人が大勢いる。
なんて過ごしやすいのだろう〜
帰り道、コウくんは台湾で一番頭のよい大学に通う超エリートなことが判明た。

今日のミッションは
⚪︎“のぼり”をつくる
⚪︎版木をつくる
の2つ。
コウくんのお父さんがのぼりになりそうなアイテムをいろいろと探し集めてくれて、その中から良いの選ぶ。
のぼりに書く言葉は
「環島 タイヤひっぱり 版畫500元」
となった。環島は「台湾一周する」という意味。
台湾には日本語読める人が多いし、タイヤひっぱりを中文で略したって意味不明なことには変わらないから、そこは日本語にしようとコウくんが言ったのだ。
画は畫と書くらしい。
台湾人は難しい漢字を使えることに誇りをもっているとのこと。
お昼にお父さんが水餃子、豚を煮たもの、貢玉という魚の練物などを作ってくれた。
全体的に薄味ですっごく好みだった。

車で文房具屋に連れて行ってもらう。
やすり・接着剤・墨汁・絵皿・ビニール紐・布テープ・ごまタピオカ
を買ってくれた。
タピオカ屋(飲み物をうる店)は大通りに沿いのいたるところにあって、たくさんのメニューがある。砂糖と氷の量を選べるから、こちらも超好みの味になった。
タピオカは入りすぎでお腹いっぱいに。
近所の公園で、木のパネルを解体して版木を作ることにした。最高な作業日和。
蚊が飛んできたのには笑ってしまったが、これで腹痛さえなおればなあ・・。
綺麗になった板に、鉛筆で下書きをする。白黒だけでどれだけ面白い絵にできるか、一生懸命やっていたら2時間くらいかかった。
コウくんが持っていた彫刻刀みたいなもので彫ってみたがぜんぜんうまくいかない。
耳かきみたいなものなど、木を彫るには使い物にならないやつばっかで、これはきっと粘土の彫塑とかで使う道具なんだろうと思う。
切り出し刀に似ているやつでなんとかしようとするも、まったくだめだめで悲しくなってしまった。綺麗にやすった表面をバキバキにしてしまうばかりである。
当たり前にできると思っていたことも道具ありきだったんだなぁ・・。
落ち込んでいたら夕飯に呼ばれ、ワインも飲んで元気が出た。
錦織は読み方も発音も難しすぎるといっていた。

コウくんの卒業制作がめちゃスゴかった。
プロダクトデザインと科学技術と幽玄の思想が高度に融合した時計のような作品で、数字ではなく水・霧・氷が起こす現象で時間を示す。
興奮したおれは、ありとあらゆる角度でこの作品を褒めたくて仕方なくなり、でもあまり難しい日本語はダメだから丁寧に言葉を選んでゆっくりそれを伝えた。
今やっている修士の卒制も、時間に関するテーマで進めており、
コーヒーを淹れるプロセスをもっと楽しく豊かなものにするため、いくつかのプロダクトをつくり、それらをつかったコーヒー淹れパフォーマンスを発表するらしい。
論文でいくら説明したって、その場の体験には敵わないとのこと。
彼の思想への手がかりは、時計や温度計や定規などの「目盛り」から人間を解放することにあるように感じた。そのためのデザインであり、科学技術である。
おれは千利休のことを話す。
茶室と茶の湯のパフォーマンスが当時、アートとして演劇として政治としてビジネスとして宗教として精神修行として建築として、どれだけのパワーを持っていたか。
コウくんとの意見交換は加熱しつづけ、夜遅くまでつづいた。
彼は、プロダクトデザインと科学技術の世界を横断しながら思考している。
さらには、中国語・日本語・英語の世界もいったりきたり。
そのダイナミックな横断により問われ磨かれていく自身の態度を、丁寧に、繊細に、果敢に、余情たっぷりに表現する。
リスペクトできる素晴らしい表現者だと思った。

ひとりの人間として感知した
つながり、関わり、揺れ動き、の中から「意味」をみつけ、それを形にする。
その活動に肩書きなど必要ない。主義主張なんてなくたって良い。
おれは、そんなやり方が最も美しいと思うのだ。

20キロ歩いたら疲れた

めちゃくちゃヘトヘト…

足が棒のよう。盛大に転んだりもした。
膝小僧ぶつけて痛いし、山越えでは野犬が群がってくるし、原チャリがスレスレで走ってて怖いし。
しかしこんなに疲れるだろうか。たったの20キロくらいしか歩いてないのに。

レコード屋まではあと8キロ、そして今は21時。もう今日は諦めた方がいいかもしれない。

とにかくリュックが重い。
これに加えてタイヤひっぱりとなると相当やばいかも。そしてそれを1000キロメートルやるのだ。

アンビリーバブル…

コウくんの両親がお守りとしてくれた悠遊カードの500元は早くも底を尽きかけている。
一周し終わった時に、未開封で返すつもりでいたのに。。あいかわらず情けないぼくちゃんだ

それはそうと、やはり台湾の食べ物は安くて美味しい!
街は小さい飲食店であふれかえり、どこを歩いても美味しそうな匂いが漂っている。串揚げみたいなものを一本もらったりしたが、一口食べればそりゃもう元気もりもり。
食は喜びであり活力であるのだ。

現金は持っていないので、食べ物を買えるものは悠遊カードしかなく、今のところコンビニでしか使えてないが、たとえそんなコンビニの食べ物だけでも、ついつい日本と比べその台湾的食文化を支える意識の分厚さに嫉妬してしまうのだ。

日本の料理が好きなだけに。

例えば日本のコンビニは、牛丼・スパゲッティ・カレーライス・ハンバーグ・鮭弁当など大人用お子様ランチ的なラインナップで、精神的未熟な学生・OL・サラリーマンなどの幼さにつけ込み、文化破壊的な態度をごまかすべく商品の整列に精を出す。
愚かな消費者たちは、 どれがいいかな迷っちゃうわ、なんて呟きながら5分悩んだ末、目新しさでチーズタッカルビなぞに飛びつき。うまいのかうまくないのか評価できぬまま流行が過ぎたら皆忘れ去る。なんとも節操のない行動様式。

それに対して台湾は…
レジ隣の中華まん温蔵庫なんかわかりやすい。これは日本でもお馴染みのシステムなのだが。
さっき入ったコンビニは、12種ものまんがあるにもかかわらず、それが「肉とスパイス系」「豆と芋系」のそれぞれ6種類のみで構成されていたのである。ストイック…!
トロトロピザまん、本格インドカレーまん、クリームチーズまん、チョコまん、バナナクレープまん、スライムまん、なぞ邪なものが付け入る余地なぞ一切ない。

「肉グループ」には、たけのこを混ぜて食感を変えたり、おそらくスパイスの配合を変えただけのもの。
「豆グループ」には、同じ小豆でも色の違うものなどを使っているようにみえた。

おれは豆グループの黒いやつを買ってみたが、正体は「ごま」。上品な甘さにうっとりするのであった。

台湾のコンビニは日本と同じ、セブンイレブンとファミリーマートだ。
にもかかわず、弁当にしても揚げ物にしても紛れもなく自国の味にこだわり、自ら築いてきたものの上に立つ姿勢。

日本の食文化について、近頃、特定のジャンルの人々が主導する「守るべきもの」としての再発見ムーブメントばかり目につくが。そもそもどうして守るマインドになってしまうのだろう。
この国のように超大衆レベルで、自国の食文化を愛しまくる日本もありえたのだろうか。

すっすが語った文化大革命の悲しさと同様に、「歴史のif」を思わざるにはいられないのである。

疲れ果て、iPadの充電もついにゼロに。
昨晩充電し忘れたのが悔やまれる。

寝床を探してさまよい歩くこと30分、やっとのことで良さそうな公園みつける。(途中に至るところから水が噴き出してる変な公園があった)

ベンチに腰かけ公園を観察。どのあたりにテントを張ればいいかだろうか・・
街でテント泊する場合、目立ちすぎず、怪しすぎず、という微妙なポジショニングを維持しなくてはならない。
目立ちすぎると通報される確率が上がり、逆に隠れるなら徹底的にやらないと見つかった時のリスクがでかくなる。

これは案外、公園の中心にあるカラフルな遊具の近くに張るのがいいかもしれないと思った。

計画は成功。
テントは新しいダンロップのやつで綺麗な水色をしており、赤・黄・ピンク・緑などの遊具によく馴染んだ。

安心して寝袋にはいり、眠りにつくのだった。

はずが、、、

2時間後くらいに雨の音でめざめてしまう。降ってきてしまった。

このまま無視しようかと迷ったが、こういう時、後悔することの方がおおい。
テントは濡れたら重くなってしまうのだ。

どこか濡れない場所に引っ越そう。テントは気休めで滑り台の下に移し、遊具にのぼってあたりを見渡すと、道路を挟んだ向かいの建物の軒下で本を読んでる男がいた。あの人に頼もう。あの軒下なら濡れない。
近くまでいって話しかけるてみると、最初は多少訝しんだもののの、すぐに快くスペースを使わせてくれることになった。
テントの移動が済みひと段落すると、一緒にテーブルでお酒をのむ感じになっていった。

彼はピーターといって、日本の歌謡曲が大好きな警察官。テコンドーの世界チャンピオンでもある。お正月なので実家で1週間のんびりしているところらしい。おれが知らないような日本語の歌をたくさん紹介してくれる。高粱酒という強い酒と烏龍茶を飲みながら、キューバの葉巻吸いながら、雨の音を聞きながら、

といってもおれは葉巻の嗜みかたが未だに理解できておらず、肺に入れず口に含んで吐き出すのの何が楽しいのかわからない。
それを質問すると、グーグル翻訳機が登場。

「私がそれを説明するには、それよりも先に、あなたがたくさんの葉巻に囲まれる必要があります。それが世界なのです。」

と返ってきて、超楽しくなり2人で爆笑。
ピーターも翻訳機の性能を信じておらず、拙い英語と翻訳機によるふわっとしたコミュニケーションはつづくが、一番の意思疎通になるのは、やはり紙に書く漢字なのであった。

龍の話が一番もりあがり、近くの寺に連れていってもらった。


彼が読んでいた本は「江湖」。
その意味は「官民」「兄弟」「侍」らしい。

うむむ。なんとなくわかるような。。
最高の時間は4時まで続いた。

そろそろ寝ようってことになり

「あしたは神さまを迎える儀式だ。おれの父さんは早起きだから、一緒にお茶をのむといい」

ピーターはそういうと、建物にはいっていった。

お茶屋で儀式

たくさん寝ようと思っていたが、結局8時前にはテントを抜け出してしまった。
今日は本当に、神さまを迎える儀式をするのだろうか。

ピーターが貸してくれた寝袋は敷布団としてつかったらびちょびちょになっていた。
やっぱりマット的なものが必要だな〜と思う。
枕元に置いておいた昨日の烏龍茶もこぼしてしまったので、テントと寝袋を椅子にかけて乾かそうとしていると、ピーターのお父さんが現れた。

会釈をしてみたが、わけがわからなそうな顔をしている。
おれもどうすればいいのか分からず変に気まずい。

荷物の片付けにもどる。
ダンロップのテント、片付けが超簡単。高性能で嬉しい。これからはこいつと旅するのだ。だけど下に敷く銀マット的なものはいるな〜、地面との温度差でいちいちビショビショになっていたらきりがない。

だいたい整理がつくと、歯磨きしに公園へ。

朝から結構たくさんの人が集まってて楽しげ。じいさんが集まってるところに初めてみるボードゲームがあった。5分くらいでなんとなくルールがわかってくる。将棋と神経衰弱が合わさった感じだと思った。

おれも楽しいボードゲームつくってみたい。

お茶屋(ピーターはお茶屋の息子だった)の前に戻ると、お父さんがなにかを話しかけて来た。
どうすればいいのかわからないので、とりあえず昨日ペーターと使った筆談の紙を見せてみる。「環島」「拉輪胎」をみてなにを思うのだろう。

おれは、椅子にすわり日記などの作業をはじめる。
集中していると、ピーターのお父さんがおれの水筒にお湯をいれてくれた。

謝謝!というとニコッとしたので安心。
表に立って体操を始めたお父さん。
腕をぐるぐる回して手を叩く運動は、おれがかけてる音楽とシンクロするときがあった。

お母さんも起きてきた。
顔を洗いたいジェスチャーをしたら、水道の場所を教えてくれる。

ピーター、やっと起きたと思ったら「its ok ok!」と言いながらどこかへいった。

1時間後。

おれは茶会に招待されている。
お父さんがお茶を淹れて、おれとピーターの友人が飲む係。

新しいお茶と、8年なにかをしたお茶を飲んだけれど、どっちもすごく美味しい。
8年のお茶のほうは、香りを楽しむために2つの茶器を重ねたりひっくり返したりしながら飲む。

急須のドラゴンがすごいかっこよくて感動。トイレにあった箒もナイスでめちゃ欲しくなる。箒はお気に入りのものを成田までは持って来たんだけど、手荷物検査に引っかかってしまい台湾にはもってこれず。
無念だが、あの旅でこの形状の箒をゲットできたらいいな〜

軒先では神さまを迎える儀式が行われていて、
机いっぱいのお菓子・いろんな線香・爆竹などで華やかな感じ。

不思議なことは片っ端から質問していった。
道教と仏教についてたくさん教えてもらった。けどほとんど忘れてしまった。

1日にいろんなことが起こると、全部がどうでもよくなる。

儀式について覚えているのは、
紙を1000枚くらいの紙を燃やす行為の意味について。

あの紙はお金で、それを燃やすことで死んだご先祖たちに仕送りしてるらしい。

ピーターとピーターの友達に台北まで連れて来てもらった。車、酔う。未だに体調がわるいのか、この人の運転が荒いのか、台湾の交通マナーが悪いのか、きっと全部だ。
香港料理屋に到着、辛い鳥丼とフレンチトーストとアイスカフェオレをご馳走になったんだけど、どうしてこんな組み合わせ?
ピーターは別れ際「中国人は運命を信じる、君とあったことにはなにか意味がある」と言っていた。

レコード屋にいた日本人、竜崎くんに台湾の詳しい歴史を教えてもらった。
台湾、思ってたよりもだいぶ複雑だった。原住民・1600~1800年代に来た人・海賊・日本による統治・蔣介石一派、 といろんな背景をもった人が暮らしている。
竜崎くんは台湾大学で中国の古い哲学を研究してるらしい。明日はサイケなんちゃら?という種類の音楽のライブをやるようで、おれも行きたいといったらスタッフとして入場させてくれるとのこと。きっと耳が壊れるようなやつだと思う。奨学金をうまく貰えばバイトしないで生きていけるといっている。来年は香港へ留学するらしい。ロン毛。

版木はリンさんが買ってくれた。感謝。

レコード屋とポンプ

レコード屋の混沌がすごい。
実は昨日の日記は2回かいた。1度かいた後に翌朝2度目をかいたのである。データを紛失したとかではなく。明らかに文体が変だったから。
このレコード屋のせいで。

ムサビや高円寺の非生産的な謎の集会を思い出す。
狭い部屋なのに、どういう訳かどんどん人がはいってきて大変な人口密度。
なにをするでもない人たちが、ひたすら集まりだらだらする感じ。今日はなにかの集会か?と聞いたが、これがいつもどおりとのこと。タバコの煙で喉が痛くなり、ネズミがチューチュー走りまわり、やばい音楽が爆音で流れる。
超大量のレコード、調味料、CD、カセットテープ、空き缶、漫画、アングラ演劇のポスター、誰かの落書き、お菓子のゴミ、缶詰、自主制作の冊子など、なにが商品でなにがそうじゃないのかわからんが、とにかくものが散乱し、溢れかえる中、さらに人が詰め込まれているのである。

ここ2年ほどこういうノリの場所にいなかったこともあり、すこし気後れしてしまったおれ。もう寝ようと地下に降りると、ぷりぷりのデブが裸で横たわっていた。
おれが扉をあけたことにびっくりしてちんこを隠している。意味不明。髭を生やした親父が絵の具のチューブを咥えながら、110分間開けないでくれ、2時になったら俺たちは消えるから。という。おれが寝ていいって言われた部屋なのに、、。
しかしデブ、肌つやつやだったな、どうしたらあんな風になるんだろう。年もあんまり変わらなそうなのに。血行の良いデブ。ちょっとかわいい。仕方なく上に登ると、みんなですき家のカレー牛丼を食ってる。優しいリンさんが、Tappeiさんの分もあるよといって1つくれた。2時も近づくと次第に人も減り、おれは冷水シャワーを浴びる。

デブとオヤジが地下から出てきて、オヤジの手には10枚ほどのドローイング。肉かうんこかわからんような絵を、なぜだかレコードの隙間にそっと差し込んで帰っていった。

そんな、カオスっぷりに当てられたおれは、疲れてるのに頭が冴えて、目をぎらつかせながら超高速でワープロを叩きまくる。トランス的なものだろうか。出来上がったそれは日記と呼ぶにはぶっ飛びすぎていて、翌朝消してしまったのであった。

消すこともなかったかな。

おれが寝れたのは2時半で、こんな埃っぽいところで寝て病気が再発しないか心配だったが大丈夫だった。

起きたのは昼の12時すぎ。隣でロックンローラーっぽい人が寝てた。

近くの公園で作業する。3時間くらい一応それらしいことはやっていたはずだが、どういうわけかこれといった成果物はなく、なにを考えていたのかも忘れてしまった。

犬の散歩はヒモを繋がないひとが多い。
3匹の愛犬が勝手気ままに走り回り、収拾がつかなくなって困ったおばさんの表情はよく覚えている。

5時くらいに竜崎くんが迎えにきた。今日はスタッフという名目で竜崎くんのライブを観れる。

大きいアンプを運ぶのを頼まれ、1人で持ち上げ運んだらみんなに驚かれた。
そう、おれはものを運ぶのがすきなのだ。

ライブハウス。素敵なところだった。リバーサイドにあってキラキラしてる、ウッドデッキがあったり、洗練されたデザインの小さい屋台みたいが立ち並ぶ。

ライブハウスの室内には、巨大な緑のドカンみたいなものが5つあって、それは日本統治時代に作られた水組み上げポンプ?らしい(英語で聞いたからちょっと曖昧)。よくみるとHITACHI製だった。

つまり、ポンプがあった施設をかっこいいライブハウスに仕立て直したいんだけど、ポンプは大きく重すぎる上に地面に埋まってるため撤去できない。邪魔だよな、でもまって、このポンプ少しかっこいい?いっそ残してみるか!的なノリだったのかも知れない。

大日本帝国の未来のために生まれた巨大ポンプたちは、70年後、思いがけない空間に覆われることにより、形を変えずしてその意味を変える。
重厚感、存在感、鉄塊感。
この無骨な佇まい。絶対的な隙のなさ。有機体との相容れなさ。単純に惚れ惚れしてしまう。
そしてそんなポンプたちも、こんな風に見られることは満更でもないんだろう。

揺れ動く台湾音楽シーンを支える助石として
この土地の古層に流れる文化を組み上げるポンプとして

…異質で象徴的な存在を前に、そんなことを考えずにはいられないのであった。

竜崎くんの音楽は最高だった。
ここまでかっこいいとは思わなかった。こんな感じの6つくらいのネジが4次元にくるくるしてるような音楽すき。ちゃんと勉強してみたいな〜。
そしてお客さんがたくさんいて驚いた。結構売れてるみたい。

竜崎くん、最後のほうは叫びながらエレキギターを投げ飛ばしたりしてた。

その後、竜崎くんに鍋を奢ってもらう。ツケだよ、と言ってくれる優しさ。
血で固めた米、最初見たときはギョッとしたけれど、いまはもう結構すき。

4人のうち3人が日本人だったため会話が日本語になってしまい、1人いた台湾の女の子に悪い気がして集中できなかった。

その夜は竜崎くんの住むシェアハウスに泊めてもらうことになる。

竜崎くんは帰り道
「あのライブハウス、ポンプとかのせいで音がバラバラしちゃってあんまり好きじゃないんだよな〜」

と言っていた。

ゆれころがる

竜崎くんのシェアハウスのソファで1日過ごした。
ネットをみたり、版画をほったりして1日がおわる。なんだったんだ・・。
こんな日も日記を書いた方がいいのだろうか。
いや、こんな日だからこそじっくりと書くことに向き合おう。
例えば、昨日や一昨日なんかは起こったことが多すぎて、それを文章にするためにだいぶ不自然な編集をした部分がある。その過程でカットされてしまった事象について考え直してみるのもありだし、これまでの日記を読み直して考えたことをまとめておくってのもグッド。
そもそも、劇的とも言える環境の変化に頼りすぎていたかもしれない。
すでに目の前にある現実から些細な揺らぎに反応することも芸術探検の1つの要素なはず…
そういえば猫アレルギーやホコリアレルギー、ほとんど発症しなくなってる。すごく嬉しい。

台湾について1週間。
どんな旅にしようかと考え続けているわけだけれど。
なんとなく
「台湾に謎をふりまく」
という感じで決まりかけている。
とくにいうなら、幼い子供の目にタイヤひっぱり男を焼き付けたい。
子供の頃に出会った不思議の数で、その人生は豊かになっていくものだと思う。少なくともともおれはそう。
あと、老人が幼い頃の不思議な体験を孫に聞かせるのを見るのが大好き。その親密なコミュニケーションが扱う世界の広さ深さに胸の奥が熱くなるのだ。
たくさんの不思議が同時におこって、それぞれが思ったように振る舞えるような、ゆるく優しい世界であってほしい。
ならば、いっそここは徹底して、
道中掲げる看板も、売りつける版画も、自身の態度も、タイヤひっぱり男の謎をより深めるものとして設計してしまったほうが良いかもしれない。
親しみやすくする
絵をたくさん売る
良い出会いをつくる
とかではなく。
謎をふりまく
に一点特化するのだ。
そんな感じでいってみよう。

こんな短い文章を書くのに、すごく時間がかかってしまった。
やっぱり純粋な自分の考え事を、文字に起こすのはよいが、人に見せるのはちょっと抵抗がある。
ここに書いてあることは本当におれが思っていることか?誰かによく見られようとしてないか?とすぐに疑ってしまうのだ。
普段の日記は、目の前で起こったことから着想しているから嘘も本当もなくすんなり書けるんだけど・・・。
詳しくいうなら、その3つの行為(思考・記述・発表)を統べる「態度」が見あたらない感じ。

つい昨日あった人が、
「社会のためになる表現か」「オナニーみたいな表現か」
みたいなことを、後者はダサいみたいなニュアンスで話していたけれど、おれは表現ってそんな単純なことでもないと思う。
社会のためといってありきたりな主張を押し付けられるくらいなら、目の前でオナニーを見せつけられたほうがよっぽど良い。
ただし、本物のオナニーだ。
ストリップショーのようなプロでなくてもよい。
覚悟を決めた表情だったり、しかしためらいがでてしまったり、恥ずかしがったり、ちゃんと勃たなかったりすることも含めて、目の前のそれが人間であることを感じたい。
理由は知らないがオナニーを人前でやろうと決めたこと
人前でその行為をすること
それを見ている人がいること
そこで起こることの可能性は無限大である。
なんの具体的な動機やメッセージがなくなって、感動する人はいるし、救われる人も、勇気づけられる人もいる、怒る人もいれば、悲しむ人もいる。
その可能性を守ることのためになら、おれは一生懸命社会に関われるぞと思う。
しかし、忘れてならないのが、その行為/表現の大前提となる「態度」。
これが偽物であった場合、そこで生まれる可能性も歪んだものになってしまうと思う。
その行為は、切実で、強く心に結びついていなくてはならない。
切腹という超不自然な行為を遂げることで、自身の生命すらも魂のコントロール下に置けることを証明する武士のように。
ライブに呼ばれれば全力で駆けつけ、それがどんな小汚い古民家や田んぼの真ん中であろうと、全力でロックンロールするかもめのジョナサンのように。
また、パフォーマンスのワークショップで2分間なにかをやってと言われて、30人に注目されている中、「わたしにはなにもできません」と頼りなくも2分間言い続けた等身大の女の子のように。

それらは、人の心に強く揺さぶりかけてくる。

ならばおれは、1人の表現者として、「生と生の反応を信じ続けること」を態度で示したいなと思った。
そのためのタイヤひっぱりなら絶対に続けられるぞ。
おれは元来、物を運ぶのがすきなのだ。
しかしそこで起こる出来事については、少し引いて観察し記述したい。
不思議な世界に出会うこと
それを記述すること
を両立させるための知恵が芸術探検なのかもしれない。

無限の可能性から、最適の方法をデザインするのではなく。
自分が揺れ転がることで、世界を広げてゆくこと。
タイヤひっぱりという「ルール」があって、
それを記述する「行為」があって、
それを表現する「感性」がある
そこの中心にあるのが芸術探検と言う名のロックンロールであればよい。
今はわかりにくいけれど、そのうちシンプルで力強いものになると思う。
難しいことじゃない。
きっと、そんな感じでいいのだ。

先行一車

台湾での個展がきまった。
6月1日からの10日間。台北の芸術村の奥にある広いカフェギャラリーで行う。
タイトルは「芸術探検ポイント2 -拉輪胎-」にしよう。

2階建ての古い木造の家をリノベーションしたみたいなスペース。清潔な感じ。
3つのカフェスペースと1つの独立した小部屋、すべて使えるということで、かなり気合を入れないといけないし、広い壁が多いので平面で見せれないとしょぼくなっちゃいそう。
過去の展示やイベントの写真をみると、これもまた思い切りが良くハイクオリティなものばかりで気が引き締まる。

ビザは90日。
もう10日目なので、のこり80日で台湾を一周した後すぐに出国できればよいのだが、80日後はちょうどゴールデンウィークで航空券が買えるかわからない(高額すぎて)という状況。ビザなんて無視すればいいと思っていたが、それをしてしまうと罰則で何年間か台湾への入国が禁止されてしまうらしい。となると展示もできなくなるという雁字搦め…
そもそも80日で一周できるかってのも少し怪しい。

理想はこの旅を4月中旬くらいに終わらせて、飛行機が安いうちにいったん出国、沖縄かどっかで一泊して、すぐに台湾に戻り5月の1ヶ月間まるまる制作に使う、というスケジュールになるわけなんだけど。
うーん。あんまり現実味がないな。

ここに来た最初の日にリンさんが版木を買ってくれた。
リンさん、ほぼ毎日この退廃的なレコード屋にいる25才。すごく優しくて声や仕草がキュートな上に英語が堪能。レコード屋にいない日はなにしてるのか、と聞くと、「医者の助手」と「ノーベル賞関連の仕事」と言っていた。謎だな〜
竜崎くんと同じく台北大学卒らしい。台北大学というのは台湾でトップの大学である。

レコード屋のごちゃごちゃの鉛筆立てから彫刻刀を発見する。2年前、オーナーの王さんが気まぐれで木版画を作った時のものらしい。おかげで版画の制作に取りかかることができている。ついでにその時の作品を見せて貰ったら芝生の絵だった。
出会った人に売りつける絵、どんなものにしようかいろいろと考えこんでしまったが、結局、人間がタイヤをひっぱる図にした。それを黒で摺り、そこにこの前貰った固まった粘土で着彩する感じにしようと思う。

タイヤを持ってないのにずっとのんびりしている俺に気を揉んだレコード屋の人たちが、ここに行けばタイヤは手に入ると地図くれた。それと一緒に渡された紙には、中国語で書かれた文章。
「タイヤをもらう時にこれを見せればOK」とのことである。漢字の羅列の中に「日本人・廃棄的輪胎・訓練・謝謝」の文字が目に入った。

地図の場所はここから片道10キロ・・。廃タイヤごときで20キロも自転車を漕ぐのは癪だが、仕方なし、どうせ途中に落ちてるだろう。早々に見つけて帰り、みんなを驚かすべしと思っていたが結局見つからず。地図の地域にあった自動車屋でタイヤを貰うのであった。もうすこし小さいのがあれば良かったけれど、まあしょうがない。

花屋の前で看板を修理している男がいたので、彼がもっていたインパクトドライバーでタイヤに穴をあけて持参したロープを通して貰った。日本語を話せるおじさんだった。

帰り道で迷ってしまい、結局全部で30キロくらい自転車を漕いだと思う。
そういえばこの前も道に迷った。おれは方向感覚がよいはずなのが、どうしてだろうと考えていたが、台北がいつも曇っていて太陽の位置がわからないからという結論に至る。

アイパッドの電池も切れ、仕方なしにいろんな人に道を聞いたが、なんとなく8人に1人くらいは日本語話せる感じだと思った。すごいな〜

このレコード屋の名前は「先行一車」。読み方は「センコウイッシャ」
友川カズキの歌の名前が屋号になっている。
その曲を聴かせて貰う。

前向きに何かをしようとすることがとても大事なんだと
訳知り顔に誰ぞが耳元にささやいてくるが
その言葉も耳もいらないと思った
手足をひろげているだけではダメなのか
ギザギザの雲を見ているだけではダメなのか
いっそ「言葉など覚えるんじゃなかった」

妄想の危険なカタマリはタマネギなのかロックなのか
若年の魂は屈折だけ覚えて思春期を終えたぞ
苦しい脳みそも楽しい脳みそもいじらしくある
欲望とプライドを捨てたら自由になれるんだとさ
そんな自由ならいりませぬこのウソツキ!
いっそ「言葉など覚えるんじゃなかった」

ズバ抜けた緑だ サティの足音を聴いている
ひしめき合う声はアリバイに他ならない
ふざけた自信も誤読のうつつも大切なオモチャ
アップアップの道行きなり低能の極みなり
発言の無味乾燥もまたしかりである
いっそ「言葉など覚えるんじゃなかった」

獣のような迫力の歌だった。豪雨の新宿で叫ぶ獣のような歌。

「前向き」とか「自由」とか、そういうのを振りかざしてくる人はたくさんいて、おれはそれに出会う度に、その甘美な響に吸い寄せられてしまうんだけど、そろそろもう騙されるのはやめようと思う。
この歌のように、ひたすら、尖らせた魂を転がしていこう。ぶつかる度に真剣に悩んだり怒ったりしよう。

ありがとう「先行一車」


そういえば昨日友人が教えられたアルバムがすっごく良かった。電撃が走るようだった。最初から最後まで聞き入ってしまった。

マヒトゥ・ザ・ピーポー「不完全なけもの」

このミュージシャンは、4年くらい前からいろんな方面から勧められ続けてきた人だが、今まであんまり好きになれなかった。
どうしてこのタイミングでこんなにしっくり来たんだろう。

どうでもいいか、おれはこのアルバムが好き。

明日のよる出発しよう

『タイヤひっぱり』で台湾を一周します


こんにちは〜
現在、台北のレコード屋の地下に居候している芸術探検家の野口です!

ぼくはここ1週間、台北でタイヤひっぱり旅の準備(タイヤ探し・ギャラリー探し・版画制作)をしていたのですが、ついに出発!ということで

今回の旅の目的である『 タイヤひっぱり台湾一周 』の活動を発表します~
いえーい


そもそも「タイヤひっぱり」ってなに?

タイヤにロープを括りつけたものをひっぱることです。
一般的に、タイヤと地面の摩擦で生じる身体的負荷を利用した筋力トレーニングとして行われます。「スプリントの加速局面」「下肢筋持続力」「下肢パワー」などが強化・改善されます。

上記のような一般的(筋トレ的)タイヤひっぱりに対して、芸術探検では
⚪︎自身の感覚や思考に向き合う
⚪︎環境や人間同士の見えない関係性を可視化する
⚪︎トランス状態になる
など、目に見えないものに意識をむけるため
また、すでに目の前にある世界を新たな視点で捉え直すため
その方法として「タイヤひっぱり」を活用できないか研究しています。



「 タイヤひっぱりとは人生である 」

これはおれが初めて、ロープ付きタイヤの貸し出し屋台『感謝タイヤ祭り』を開催したときに耳にした言葉である。たしか23歳くらいのとき。

三鷹のおまつりで実施したこの企画。
通りがかりのおじさんに「15分間、ご自由におひっぱりいただけます」とタイヤを貸し出したところ、「なんの意味があるんだ?」とクビを傾げながらひっぱりはじめたのにも関わらず、その15分後、帰ってきたおじさんが感慨深そうに言っていたセリフが「わかったよ、タイヤひっぱりは人生なのだね」だったのでした・・

ちょっとしたウケ狙いでやっていたおれは
この言葉をきいたとき、まさに打ち震えたのを覚えています。

そうか、人は「タイヤひっぱり」に人生を見出したりできるのか☝︎


読書とタイヤひっぱり

読書という私的な営みから、文学や絵といった途方もない他者という外部に自己を見出し、自己の内面にその発見をのこしていく。そのような孤独でゆとりのある時間は、誰の人生にとっても、いついかなる時代においても必要不可欠である。

嶋田智文 「想像力のための挿絵とはー未明童話と初山童画の親和性ー」2019年 67頁

これは母校の卒業制作展でみつけた論文の最後のページに書いてあった文章です。超すてきな文章。
つまり「読書とはひとりぼっちな出会い」ということなのだと思うけど。

おれはこれを読んだ時に、ここで対象とされている「読書」という行為は、「タイヤひっぱり」に言い換えることもできるなと思いました。

「タイヤひっぱり」という私的な営みから、地球やすれ違う人々、さらにはタイヤをひっぱる自分といった途方もない他者という外部に自己を見出し、自己の内面にその発見をのこしていく。そのような孤独でゆとりのある時間は、誰の人生にとっても、いついかなる時代においても必要不可欠である。

タイヤひっぱりとは、いわば他者です。だいたいわからない。
どんなに何度「タイヤひっぱり」しても、屋台をやっても、レースをやっても、街コンをやっても、そしてそれについて熱く議論し、言葉を尽くそうとも。基本的に無意味で虚無な行為であることに変わりはない。

しかし…
地球上で物を移動させる際の最も偉大で普遍的な発明品を不能にし、かつそれを引きずるという愚かさが身に降りかかる時、そもそもぼくたち人間は損得を超越した次元で「なにかを信じる」ことができる生き物であったのでは?と気づかされる瞬間があるのである。それによって救われてきた無数の世界を想えるのである。この行為が祈りっぽいものになってゆくのである。
意味から所作がうまれるか、所作から意味がうまれるか。
それが人間であるならば、別にどちらでも構わない。


小5の時、穴を掘る本を読んでいたら夜が明けたように。

湖にダイブして、地球に存在していることを確かめるように。
パジャマで表参道を歩くと、さすがに少しソワソワしてしまうように。
ひとり屋上から唾を垂らすように。
学校が燃えてる時、夕焼けが綺麗だったように。
皿洗いのバイトをしながら、「私なんでこんなことしてるんだろう」と考えるように。

それらのきらめく発見を自らの内に秘め、おれの信じる物語を紡いでいこう。
それこそが自己と向き合う時間であり、孤独でゆとりのある時間であり、タイヤひっぱりの人生なのだと思う。



タイヤひっぱり台湾一周

そんな『タイヤひっぱり』を今回。

⚪︎台湾を時計回りで一周する
⚪︎その移動はすべてタイヤを引きずりながら徒歩で行う
⚪︎一切のお金をもっていかない

というルールで実施します。

台湾は一周約1000キロ。
1000キロというのは、直線で東京から鹿児島の先っぽくらい、もしくは九州一周くらいの距離です。

リアカーをひっぱって歩いた時(その時も無一文)は、800キロを52日間だったので、順調にいけば2ヶ月半くらい。今回は「移動の時間」「記録の時間」「生きるための時間」のそれぞれを確保しながらの「タイヤひっぱり」になります。

加えて、テントや寝袋、版画などが入ったリュック(7キロ)も背負ってあるくため、なかなかハードな感じになると思う
ちなみにビザは90日間。それを過ぎてしまうと罰則があるらしいので、それまでにはゴールしたい、、!


どうやって生きるか

基本は版画を売りながらやろうと思っています。
しかし旅人という身分はどういうわけ訳かなにかと助けて貰えるもので、無一文で飛行機に乗り込んだにもかかわらず、この10日間言葉の通じない国で何不自由なく生活できています(謝謝!)
「版画売り」と「旅を助けてくれる人」
すなわち人との出会いで、いきる!あるく!


謎のタイヤひっぱり男

その中でひとつやってみたいことがあって、それは。
おれがどれだけ、意味不明な人として一周し続けられるか。という実験です。
言い換えれば、偶然おれを目撃した人に
『いかに、深い謎を与えるか』
謎や不思議と出会いは、人生を豊かにするものだと思います。
わからないことがあるから、人は想像力をはたらかせ
知らないことがあるから、人は勇気を奮い立たせ
隔たりがあるから、人はそこに憧れを感じ
どうにもならないことがあるから、人は物語をつくる
知らないこととの向き合い方で、人生はもっと面白くなると思うのです。
さらにいえば、それが生きてゆく上での支えになったりすることもある。
終始、そんな命題に向き合いながら、
タイヤをひっぱろうと思っています。



6月の個展で、「タイヤひっぱり」を展示する

6月1日から10日間。
台北で個展を開くことになりました。

芸術探検家として2回目の個展なので、タイトルは「芸術探検ポイント2-拉輪胎-」。
テーマはその期間に起こることをどう「記述」するか。
多くの出来事と同じように「タイヤひっぱりの体験」は、どんな切り口で、どんな媒体でそれを発表するかによっても、だいぶ意味がかわってきます。
そしてとことん無意味なタイヤひっぱりだからこそ、その選択について深く問われることになる。
おれは芸術探検家として、そこに向き合ってみます。
タイヤひっぱりの記述がまた誰かのおもしろい体験になるように、、!


今のところやろうと決めてることは

⚪︎noteでの日記
⚪︎ツイッターでの自撮り
⚪︎家計簿
⚪︎自己/環境の変容、また人との関係性のドローイング
⚪︎地図の作成
⚪︎タイヤひっぱり動画

などになります。
かなりの割合でiPadをあてにしてるので、充電のことは本当に気をつけなくては・・!

ツイッターで更新するので、よければフォローしてください〜

装備について
自転車やリアカーとは違い、完全な徒歩+タイヤの摩擦になるので、体への負担が大きくなるとおもいます。なのでなるべく荷物少なく「生活と制作」のために必要な最低限のもの以外は持っていかないようにしなくては。とにかく軽量化!
⚪︎ロープ付きタイヤ
⚪︎パンツ 3枚
⚪︎tシャツ3枚
⚪︎靴下3組
⚪︎運動靴
⚪︎サンダル
⚪︎ハーフパンツ
⚪︎はかま
⚪︎薄いパーカー
⚪︎ウルトラライトダウン
⚪︎タオル
⚪︎アイパッド
⚪︎アップルペン
⚪︎WiFi
⚪︎充電器
⚪︎ボールペン
⚪︎鉛筆
⚪︎版木
⚪︎馬連
⚪︎絵の具5つ
⚪︎絵の具を伸ばすスポンジ
⚪︎マットフィルム
⚪︎絵皿
⚪︎墨汁
⚪︎粘土
⚪︎ヤスリ
⚪︎彫刻刀1
⚪︎ダンボールの看板
⚪︎棒
⚪︎筆
⚪︎歯磨き
⚪︎歯磨き粉
⚪︎ハサミ
⚪︎つめきり
⚪︎オロナイン
⚪︎ワセリン
⚪︎ピンセット
⚪︎テント
⚪︎寝袋
⚪︎パスポート
⚪︎スケッチブック






2年ぶりの旅!
2年近く体調を崩していて、ほとんど動けませんでした。もう旅は無理だろうと何度思ったことか・・
しかし本当に今、再びこうやって少し無茶なことができるようになれて、本当に嬉しい!

ワクワクが止まらないです。。

助けてくれた人たちみんな本当にありがとう〜!


おれはいくぜ!

タイヤひっぱり1日目

ついにはじまるタイヤひっぱり台湾1周。
実は昨日の夜。22時頃レコード屋を発っていたんだけど、4キロ歩いただけだから今日(2.16)をスタート日にすることにした。あのままレコード屋にいたらまた出発のタイミングを逃してしまいそうで、無理やり飛び出してきたのだ。
昨日のことを聞かれたら0日目と答えることにしようと思う。
台北のランドマークタワー、101の前を通った。
雲が低すぎるのか、塔が高すぎるのか、てっぺんが見えない。
たまーに雲(霧?)の切れ間から、うっすらと明かりを確認できて、あれがきっとてっぺんだと思う。ずっと見上げてたら首が痛くなった。
台湾はスケールの大きい建物が多い。桃園にも映画にでてくる王宮みたいなマンションがたくさんあった。
台湾の公園は、子供用遊具エリアの床がふかふかしてるところが多くて、とくにダンボールとかを拾ってこなくても全然寝れる。今回もお茶屋の前の公園の時と同じような感じでカラフルな滑り台の脇にテントを張った。

ばあちゃんたちの体操の音でめざめる。
テントの隙間から覗いてみると、おれの知らない変な動き。
ばあちゃんたちが去ると、今度は犬っころが集まりはじめた。
台湾の犬はほとんどリードをつけないから、みんな好き勝手に走ったり木の匂いを嗅いだりしていて、おれのテントも定期的にくんくんされていた。シッコかけられないように内側から驚かす。
おれは、昨日ワンさん(人間・レコード屋のオーナー)がくれた食パンを一枚食べる。
まだ9枚余っていて、これだけでも3日は余裕で生きていけそうだ。さらにキウイも持っているぞ。キウイはここぞって時に食べようと思う。

北にむけて歩き始めて2時間。とにかく美味しそうなものが並ぶ市場を通った。
おれはお金を一切持ってないから、ただ眺めるだけなんだけどすっごい楽しい、羨ましい。
豆や米みたいなものを量り売りしてたり、醤油系のなにかにつけてあるタプタプした肉、漢方的な根っこを手にとって見比べる人々…
特に肉まんとかそういう種類の、白い生地で包んだ(ふわふわ・つるつる・しとしと・ほかほか)のやつ、あんなかわいらしいものをたくさん作りまくるカルチャー、超いい!

ほんとに霧が濃くて、目印にしていた山なり建物なりがすぐ見えなくなってしまう上、太陽も見えないからなかなか方向を保つのが難しく。アイパッドの地図を開く度に、方向を修正しなくてはならない。
おれは結局、台湾を時計まわりで一周することにした。
台湾は楕円形のアイランド。日本のように縦に山脈が通っていて、右側(東)は崖と海、左側(西)は平地が多くて台北・台中・台南・高尾などの大きい都市がある。
台北は文字通り北(上)にあるので、ここから時計まわりとなると、最初に海と崖の間を南下し、一番下まで、そこからの折り返しターンは台北に向けて北上、道中に大きい街や畑をみてあるくことになる。
つまり今は海に向かって歩いているわけだ。

突然、目の前に白い車がとまり、メガネをかけたおじさんが出てきて「がんばれがんばれ」と1000元くれた。すごい。
版画をわたそうとしたが、すぐに行ってしまう。
1000元というのは、3500円くらいである。
台湾の食事は贅沢しなければ日本の半分以下の値段で食べられるので、
日本での貧乏旅になぞらえると、突然7000円を貰ったような感じになる。
(次の食パンを何時間後に食べようかな)と考えを巡らせていたおれは、意図せぬ一瞬の出来事により、めちゃ金持ちになってしまったのだ。
すっごく楽しい。
おれはこういう未来の読めない環境に身を置くのがやっぱり好きだ。
1秒後になにが起こるか分からない世界で生きることが好き。
ちょっとした出来事でぐらりと揺らいでしまう頼りない思考や身体、価値基準を観察するのが好き。
不安と期待がないまぜになった状態で前に進むことが好き。
ものすごい偶然の連続で生きていることを実感できる瞬間が好き。
おれが選択しなかった行為から続く無数の「今」を想うのが好き。
自分の意思で、体力で歩くおれが好き。

昨日ツイッターで、アメリカをヒッチハイクで横断しようとした中学生を大勢の大人が叩いているのを見たけれど、どうしてあんなにも叩くのかちょっとわかんなかった。
プロフィール欄に「ワンピースLOVE。自分の船を作って、仲間を集めて世界中を旅したい」って書いてある。涙がでちゃうくらい良いじゃんか。涙ちょちょぎれる。俺が叶えられなかった夢を叶えて欲しい。
おれはその衝動がなによりも美しいとおもうよ。

老婆心ながら、少しだけ経験がある大人から一つだけ身勝手なアドバイスをするとすれば…
『無理にSNSで人を煽る必要はない、人を勇気付けようとする必要も』
ということ。そういうやり方で有名になって、現にお金を稼いでいる人は大勢いるけれど。(そして、おれもそれに憧れた時期があるけれども…)
「冒険は、それ自体が純粋に批評性をもった身体表現なのである」
これは、探検部の先輩(会ったことないが)の角幡さんの本「新冒険論」の受け売りである。

冒険とは批評的性格を兼ね備えた脱システムという身体的表現である。
そして冒険という批評行動はリアルな経験そのものなので、ロジックや修辞に頼らざるを得ない言論による批評よりも強いインパクトを与えることができる。

いかに脱システムし未知なる混沌の世界へゆくか。自力で自由な状態を経験できるか。結果以上に過程の充実を重視する。


角幡雄介 「新・冒険論」
※アイパッドの読書メモをひらいたらあった。メモなので原文通りが自信なし。

つまり、
冒険には、冒険の時点ですでに
「おれはこうするけれど、おまえはどうする?」
という深く痛烈な問いかけが内在しているのだ。

まてよ、となると。
彼のヒッチハイクに対する、過剰なまでの大人たちの批判(リスクを考えろ、非常識だ、など)も、彼の表現の一部となったりするのか?(寺山修司やバンクシーのように)。 うーん。本当にそうなのだろうか。


すみません。ちょっとわかんなくなったので出直してきます。
現状のおれは、自身の「行為とアウトプット」の関係を理解し、態度を整えることで手一杯。
いずれそのあたりも、しっかりとした意見を言えるようななりたいな〜
そしてきっとその時には、展示やパフォーマンスの表現にも迫力がでてくるんじゃないだろうか。


果たしておれは、
メガネおじさんに版画を渡さなくて良かったのだろうか。
そのことをずっと考えてしまう。
版画はその場で摺るから、相手の時間を5分くらい奪うことになる。それに遠慮して呼び止められなかった。
そしてきっと、彼も版画がほしくて1000元くれたわけではないと思う、のだけど。

この“施し”について。
彼には、「お金の余裕や寛容さ」があって。
俺には、「旅を許してくれる身内と時間」がある。
そんな感じで「お互いが持ってないものを与えあう」といえば多少聞こえはいい。
基本的には、おれはそうやって自分を肯定してきた。
だがここで、両者が「自身のもつ価値を自覚的に相手に与えあう」って状況が本当に起こっているのだろうか。
ご飯を食べさせてもらったり、家に泊めさせてもらったり。それは、とても楽しく嬉しいことなのだけど。
そこには、どこまでも「〜してもらう」という“やましさ”がついてまわり、どこかでバランスを取ろうとしてしまう自分がいる。貨幣経済の元で育ったおれはどうしたって、「交換」でもの考えてしまう。
⚪︎おれの旅を面白く話さなくては
⚪︎向こうの楽しみに合わさなくては
⚪︎強烈な体験にしなくては
この不自然な気持ちは、「〜してもらう」ことが多いほど(お金がかかるほど)、強く働く。そしてその時間が長引けば長引くほど、関係がこじれてゆくのだ。
だれも対価を期待してるわけじゃないのに…
そんな真面目なおれの救済のために『モーメント小平』や『よそものアート』の思想はうまれた。
“よそものはハレの日を生む可能性をもった表現者である”
このロジックを旗印に多少乱暴なことをしてきたが、自分の関わる社会(コミュニティー)を設定して行動するにはおれはまだ幼すぎたかもしれない。
見落としていた、もっとささやかで面白いことがあると思った。

旅に版画とタイヤを組み合わせること。

10年後、押入れからペラっと落ちる 一枚の紙
棒人間と線で繋がったドーナツ?、気味の悪い絵。ああ、そういえばこれはタイヤだ。
これを500元で買ったんだよな…意味わかんないな 環島してた人、どうしてるだろう

そんな未来の可能性をちょっとだけでも感じられること。今はそれくらいがちょうど良い。

メガネのおじさんは、おれに1000元をくれた。
彼は勝手におれに1000元をくれて、勝手に去っていった。
「がんばれがんばれ」と手を振り、笑顔でそれに答えるおれ、紛れもなく良い一瞬である。
あれが彼の信じる美しさなのかもしれない。
だけど、彼との出会いに印をつけたかったおれがいるのも確か。
うむ、答えは出ないな、また今度考える。

結局、はじめて版画を買ったのは「バイクのおじさん」だった。
2枚目は「若い人妻」。
版画500元は特別高いわけではないようである。
終始笑顔のコミュニケーションの中で、しかし版画を摺って渡すその瞬間だけは、会話がとまり、(なんだこれは?)という間があった。嬉しそうでも残念そうでもない、そのなんとも言えない表情。
この瞬間があってよかったと思う。
おれと彼(彼女)の間に生まれた奇妙な余白(よくわかんない1枚の絵)が、純粋で奇跡的な出会いをもっと味わい深いものにしてくれていた。
そしてなにより楽しいのは
どんなに打ち解けた人でも、誰一人おれがタイヤを引くことに共感を示す人物がいないこと
この旅はおれに合ってるぞ

25キロ歩き、丘の上にある大きい寺に泊めてもらう。
寺の団欒室?にて、みんなでお茶飲んだりせんべい食べたりした。
今日は旅に戻ってこれた日。
内側から溢れてくる幸せな気持ちでいっぱいだった。
昔からおれを助けてくれてる人に、感謝のメールをおくってから寝た。

夜雨の動力

タイヤひっぱり2日目。
寺で目覚める。
早めに荷物を片付けて、日記や地図の作業に取り掛かった。
慣れないことばかりでとにかく大変。
そもそもの集中力が低いのにかかわらず、寒いし、蚊が飛んでくるし、お祭りの練習はじまるし、でなかなか捗らない。
日記なんかもいつもの感じで書けなくて、こんな文章やだなって思ってしまった。
環境が変わることは好きなのに、なんで文章の質感が変わるのは嫌なんだろう。単純に経験不足ってだけかな?
結局12時を過ぎても日記が終わらず、もう諦めて歩き始めることにした。
日記が終わってないの、すっごくモヤモヤする。
全然テンションがあがらない。
なるべくこれから劇的なことが起こらないで欲しいと思ってしまう。
日記のことばかり考える。今までのノリで書くには1日がハード過ぎるのだろうか、せっかく文章慣れてきたのに・・。
しかしずーっと雨降ってるな・・
しかも昨日、寺の人たちがくれた大量のみかんなりお菓子なりバナナがあって、単純に荷物が重い。
昨日の今頃は、パンとキウイしかもってなくて、その食料を大事に大事にしていたのに・・。今は食料を持ち運ぶことの馬鹿らしさで参ってしまう。
別に山を登るわけでもないのにな。こんなに食べ物もって歩くことないじゃんか。
だったら食べればいいだろ、と思いながらも、それもめんどくさい、にもかかわらず、ちょっと歩いたら目に入った飯屋に入ってしまった。
ぐだぐだすぎ・・。
そういえば台湾にきて初めての一人飯屋だ。
漢字をよめば肉の種類と麺or米かがわかるけれど、どんな料理なのかは不明。
適当に指をさしていたら、大盛り肉丼と大皿おかず3皿がでてきた。一人で食べる量じゃない・・・
あまりの馬鹿っぽさ楽しくなっちゃって、コンビニでビールも買ってきてバクバク食いまくり完食。うまかった。
わかりきっていたことなんだけど、全てを平らげた後に残るのは絶望的な虚無感である。別に腹減ってたわけでもないのに。なんて馬鹿なんだろう。
おれはお金があるとすぐこうなってしまうのだろうか。
やばいじゃんか。
いつまでも座って絶望してるわけにもいかず、重い腰をあげて歩き始めることにした。
どうやったら日記かけるんだろう。
広く書こうとしないで、毎回なにかのテーマに絞って書いたらやりやすいかな。
正直この旅で起こるであろうだいたいのことは、掘り下げたり、抽象化したり、一般化したりできると思う。ノリもボケもツッコミも任せてくれって感じ。
そういえば、たまにヌルッとしたアスファルトがあって焦る。
2回滑ったけど転倒せずに済んだ。足腰、ちょっと強くなってきた?
台北や桃園にはタピオカ屋がいたるところにあって超びっくりしたけれど、田舎になると一切のタピオカ屋がなくなり檳榔屋ばかりになった。
檳榔屋、ビンロウと読む。めっちゃたくさんある。街道沿いのちっこい店で女の人たちが葉っぱを折ったりと黙々と作業している。
写真集でみたことがあるから存在は知っていた。
ミャンマーでいう、クンヤなのかな?
多分そういうタイプのものだと思う、気の実やスパイスが包まれた葉っぱを噛む、スースーしたり、頭がちょっとくらっとしたりするやつ。
違ってたらすみません。
いつか気が向いた時に食べてみようと思う。
こんな適当な文章でも、ないより絶対あったほうがいい。
おれの中では、「旅」と「記録」が同じくらいのウェイトを占めるようになってきた。
今までは旅(現場)に集中し、その場に面白いことを起こすこと、面白いものに出会うことにエネルギーを使っていたし、それが粋なことだと考えていたんだけど。変わった。
日記だけじゃなくて。
ここでパッと出せるカメラがあったらどんなに良いだろう。とか
ビデオカメラであの人が窓拭いてる様子を撮ったら良いだろうな、なんてことばかり考えている。
おれが目指す方向のためには、好ましい変化だと思う。

寺で夫婦に版画をあげると、さらに食料が増えてしまった。お金も。
夫婦も、寺の住職もみんなめちゃめちゃくれる・・。
みかん、いも、とうもろこし、ペットボトルの水。
昨日の幹線道路でみかん一個もらった時はあんなに嬉しかったのにな。
みかんと芋は、「やっぱり重くなるからいらない」と何個か返した。
お金も食料もいっぱいある。
「物」「腐る物」「お金」
それらを移動させることで消費する「エネルギー」と
それらを移動させることで享受できる「安心や便利さ」
「腐る物」の場合、早めに使わなくちゃっという精神的プレッシャーも加わってくる。
どう考えればいいんだろう。
こんな風な考え事をすることは滅多にない。
「お金」は便利だと思う。軽いし腐んないし。ずっと街道を歩くわけだから、お金が使えなくなる状況はまずないだろうし。
考え込んでいると、タイヤがおっきい葉っぱをひっかけてガサガサって音をだした。
(タイヤ運んでるやつがなにをまじめに考えちゃってるんだろ・・)
またどうでもよくなった。葉っぱは取ってやった。

日が暮れ(太陽は昨日から隠れっぱなしだけど)、雨がもっと強くなる。
村のはずれにきた、ここからさきは森?山?わかんないけど人が住む場所ではなさそう。
正直もう萎え萎えだからこの街で寝たかったけれど、どうしてか暗い森に突入した。寝床を探すのも面倒だったのかも。
広くてながーい道。すっごくゆるやかに左にカーブしている。
右には鬱蒼とした森。
左の空が赤いのはなんでなんだろう。
広い世界でぽつんと一人、ひたすら歩いた。
歩くこと以外やることがない。なんてシンプルな自由だ。
雨が口にはいってくる。
立ちションしたら湯気がでた。おれの体からも湯気がでる。
森の斜面にたくさんの墓をみた。
超大量の箱みたいな墓、ここだけ空気が冷たい。
水たまりを避けずに突っ込む。
びちゃびちゃの靴で歩くとなぜかいつも父のことを考える。
幽霊とか天使とか天国とか地獄とか。
そういう絵描いてみたいって思ってるけど、まだ一度も描けてない。
どんな気持ちで背中に翼生えた人描くのかわかんない。
タイヤの中にもいっぱい水がたまってる。
これをこのまま放置したら蚊が発生するのだ、今は動いてるから大丈夫。
流れてるから大丈夫。
雨もふって、シッコもでる。
さっきのトウモロコシが熱になって、肌におちた雨を温める。
タイヤの摩擦が、水たまりを温める。
あのお茶が、シッコになって雨と混ざる。
犬はおれを見たら吠える。見なくても音を聴いただけで吠える。
こんな夜のタイヤひっぱり。
おれが生命であったことを思い出す。

瑞芳での休息日

昨晩は、雨の森を抜けてからもコインランドリーが見つかるまで歩き続けた。

(明日の朝のおれのために)
という気持ちが強かった。

朝から臭くてびちょびちょの靴履くのなんて最悪じゃんか。


たどり着いた瑞芳という町で、やっとコインランドリーをみつける。

近くでテントを張ろうとしていると、通りがかりのおじさんがおれをゲストハウスまで連れてゆき、宿泊代を払ってくれた。ここで寝ろとのこと。

綺麗なベッドなんて何日ぶりだろう・・。

洗濯と乾燥も済ませて、安心してぐっすりとねむる。

朝起きて、今日は休憩の日にしようと決めた。

今回の目標は6月の個展を成功させることであると思ったからだ。
この旅は題材であると同時に、制作期間でもある。

最初から飛ばし過ぎて変な感じになるのも良くないだろうし、旅と記録に体を慣らせていこうといこうとおもう。

といって、お洒落なカフェで8時間くらい作業した。
初めて漫画もかいてみた。
良いドローイングもかけた。

文章だけ長時間書いてると頭がおかしくなるけど、途中に絵描いたりすれば結構気力が持続することがわかった。

ひと段落し、千と千尋のモデルになったという街にいってみる。
昨日の夜、ゲストハウスのスタッフが教えてくれたのだ。
バスで10分。15元。

街といっても山の上、すっごい霧がかかってる。

日本人の声が聞こえたから、ついてゆくと、なにが千と千尋なのかわかった。
千尋が、湯婆婆の世界に迷い込んでしまった時の、赤い提灯や屋台がある街並みがまるっきりここなのだ。

花巻の旅館で働いてた時、同じく派遣できてた家出娘が事あるごとに
「ここの旅館って千と千尋みたいでいいですよね」
っていってたことを思い出す。

その口ぶりちょっと可笑しくて、いつも失笑してしまっていたのだが。


実際におれがこの街での第1の感想は

(千と千尋みたいだ・・)

だった。


1つ違うのは、千尋のあの街は確か、湖か川かが近くにあったはずなんだけど、

モデルになったこの街は、山の上にある。
うねり狂う山の斜面にへばりつくように細い石畳の路地が、縦横無尽にのびまくる。四方八方はおろか、上にも下にも道があるから本当に立体迷路みたいな感じ。そしてふかーい霧。5メートル先がもう見えない。赤い提灯があわくかすみ、妖しい街をぼんやりと包む。細い分岐路だらけだ。人一人通るのがやっとな抜け道的なトンネルもある。

おれはなんの下調べもしてないし、パンフレットもみてないから全体のどれくらいを把握できているのか知らんが。すっごく面白かった。親しい人ときたいなって思った。

帰りはバスを乗りそびれてタクシー200元も取られてしまう。

というか今日はまじでお金使いすぎ・・。
コーヒーでっかいの2杯のんで、ビール飲んで、パスタ食べて、おにぎり食べて、汁なしラーメン食べて、、、
全部で1144元もつかった。

アホみたい。罰当たりそう。

ことばの意味を考えたこと

タイヤひっぱり4日目。
おとといの雨で看板がふやふやになって破けたので、新しいダンボールをもらって作り直した。
ゲストハウスの人が、「このテープでぐるぐる巻きにしたら、雨が降っても壊れないよ」と親切にアドバイスをくれたのだが、このままでいい。
強いような弱いようなダンボールが、この行為にあっていると思うのだ。
ダンボールに書かれた、不特定多数に向けられた言葉と絵。
「環島 タイヤひっぱり 版畫500元」
これはそのまま「自分に向けた言葉」でもある。
「芸術探検」という旗印によっておれが支えられているように、この看板もおれの使命や態度を整えてくれる。
壊れるたびに作り直そう。
文字を入れるたびに、この看板の意味について考えようと思う。

とうとう海が見えてきた。海もうっすら霧がかってる。
これからは当分、この海沿いをあるく。
まさに断崖絶壁。
超特大スケールの凶暴な地層が迫り出している。
ゴツゴツした岩の景色は山形や秋田の日本海に似てるけれど、海の色はこっちのがだいぶ薄い感じ。
そらの色と溶け合って曖昧な水平線。
そんな海と陸の際をあるく。

目の前で車がとまり、困り顔のお兄さんがでてきた。
なにかを伝えようとしているが、まったくわからない・・
結局、グーグル翻訳が登場。
「私はあなたを助けられますか?」
と書いてあるぞ。
そうか、さっきの変な仕草は
よければ車のせてあげますよ?的な意味だったのか。
お兄さんの性格上、ちょっと遠慮が出てしまうんだろう、それが伝わりにくくさせてしまっていたのだ。
「ヒッチハイクは大丈夫だからレストランの場所を教えてくれ」と頼むと、ここら辺にはない、と言われた。
うーん、ちょっと温かいものを食べたいと思ってたんだけど。
「タイヤはなんで運んでるのですか?」
次の質問がきた。
おれはグーグルに向かって「意味はありません」と答える。
スッキリしないお兄さん
突然、なにを思いついたのか「OK!」といって車で行ってしまった。
しばらく歩き、ビチョビチョのトンネルを抜けたところにまたお兄さんがいた。
おれが来るのを待っていたのだ。
「プレゼント!」といって、チーズパスタの弁当・ウィダーゼリー・トマトジュースをくれた。
あと持ち運び充電器。スティッチの顔が書いてある。これは助かるありがたや。
版画も買いたいといったので、1枚摺っていると、「マイジャパニーズフレンド」といって、電話を渡された。
電話口の女の人に「なんでタイヤをひっぱっているの?」と聞かれる。
なんて答えようか迷ったが、さっきと同じで「あんまり意味はないです」といった。
女の人
「意味ないのに?重いじゃん」
おれ
「そもそも環島やること自体が無意味だからいいんです」

お兄さんの行為のすべては、あの質問に詰まってたんだと思う。
おれが電話してるときは、ワクワクした表情でそれを見守っていたが、
電話口の女の人がちゃんと中国語で説明すると、徐々に諦めの顔になっていった。
別にタイヤをひっぱる理由なんて100個くらい話せる。そしてこれからもっと増えてゆくだろう。
仮に、その中に彼の納得できる答えが7くらいあったとしても、それを言い当てることが正解だとは思わない。
そして、「無意味だよ」という俺の答えも全然正しくないと思う。

せーの!で意味を飛び越えちゃうような、そんな言葉があったらいいのに。
すべての境界をぼかす霧をみながら考える。

膝のカクカク、それでも夜は

タイヤひっぱり5日目。

やっと晴れた!
とウキウキして出発するも、太陽の熱ですぐに汗ビチョに。
こんなんだったら雨の方がよかった・・。
道が乾いてると滑らないからタイヤも重いし…
この時期の台湾は一度濡れちゃうとなかなか乾かない。
こまめに休憩して汗を乾かしながら進む。
しかし、連日の雨でタイヤのロープがめっちゃ臭くなってしまっているぞ。
この臭い。
おれが初めて探検部の合宿に参加した時、フェリーで一緒だった先輩がくれたひもに似てる…
おれのひもが付いてないコンパスをみて、「そんなのはダメだ、コンパスは首に掛けれなくては使い物にならんぞ」とおもむろにザックからひもを取り出し、おれのコンパスに付けてくれた。
それは、とにかく臭かった。本当に絶句した。底知れぬ未知であった。
硬派な雰囲気に憧れて探検部に入ったはいいが
(おれは、こんな臭い物を平気で人に渡せるような豪快な男になれるのだろうか…)
と不安になり、まっすぐにおれを見据える先輩の瞳の黒さに戦慄するのであった。
大丈夫!
7年後のキミは、この臭いロープを人に触らせまいと心に誓っているよぞ!
少し短いと思っていたし、ロープ屋があったら新しいのに取り替えよう。

丘を上ったり下ったりしてる。
だんだん村の雰囲気が良くなってきた。
ここはもう田舎なんだろう。静かで柔らかくてのんびりした空気が流れる。
犬もむやみに吠えてこない。
人々の顔つきや振る舞いだったり、壁の色だったり、雑草の生え方だったり、日の当たり方だったり。
田舎の生活がよいっていう人とかは、きっとこういう村をイメージしてるんだと思う。
そして、こういう雰囲気の村って実はなかなかない。
ベンチで座ってたら微笑んでくるお姉さんがいたので、近づいてみると、例の檳榔を作ってた。
試しに1つ貰ってみると、ん、これはやはりクンヤだ!
この渋いような痺れるような、そして1分後くらいにやってくる熱っぽい目眩。
溜まった唾液をぺっと吐き出すと、真っ赤に染まった血のような汁!
ミャンマーに行った時、おれはこれを知らずに飲み込んで死にそうになったんだった。(本当に苦しくなって息が詰まった)

白い漆喰、大きい葉っぱ、極彩色の寺、寝転ぶ犬、木陰のベンチ、こじんまりした小学校、エネラルドグリーンの漁船、レンガのトイレ、小鳥の鳴き声、波の音。
とにかく気持ちがいい。
おれは北野武のソナチネという映画が大好きで。
沖縄とヤクザの話。
亜熱帯の低い樹木に囲われた白い砂浜で、気だるくも無邪気に遊ぶヤクザたち。
重々しい空気や、無慈悲な暴力の応酬にも、
雄大な海の、水色、青が
刹那に濃縮される、ヒリヒリとした生と死にも、
森、雨、踊り、のおおらかな時間が
そこにある という映画。
どんな乱暴者が極悪をしたって、この大自然を前にすると、こうも滑稽で可愛らしく、そして美しくみれてしまうのか、と静かな感動があった。
勝手ながら、あの映画で描写されている自然観は、ここに住む人々にも根付いているように感じた。
強く、優しく、包み込むように。ここにある。
ここの空気。大好きだな〜
夕方、良い感じに気の抜けたコーヒー屋があった。
海とコーヒーがこんなにマッチするのか。最高。
海水浴にきたら楽しいだろうな、窓際に並べられた貝殻をみて思う。
外にもたくさんの丸机が並んでいて、石垣の切れ目の坂をジャンプして砂浜にでる。
裸足になって踊ってみたら、おれ、すごく筋肉質になっていることに気がつく。
力づよく、砂を蹴りあげる。
舞った砂、潮風にふかれる。
コーヒー屋が気持ちよくて、終わりまで居座った。



夜、さらに心地良い気候。
温度・湿度・風の強さ、すべてパーフェクト。おれのための夜だ。
小鳥の鳴き声は、カエルや虫にかわる。車の走らない道をあるく。
東京だったらこんな気候、年に3度くらいしかないんじゃないか。
去年の吉祥寺での個展に、1日だけ良い天気の日があったことを思い出す。
東京、5月と10月しかなければ愛せるのに。



野良犬がいたら、いかにして戦わずして勝つかってのを研究してるんだけど、
昨日発明した新技が、犬と目が合った瞬間すべての動作を5秒停止し、その後、突然足をカクカク震わせるという技。
あまりの気味の悪さに、3匹中3匹全部が尻尾巻いて隠れてしまうほどの威力がある。100発100中ってわけだ。
22:00頃、4匹目に遭遇。
注意深くおれを観察している。
しめしめ。
と、一旦停止、5秒後、猛スピードで足をカクカクさせる。おまけに口をすぼめて、少しうつむき、寄り目にして、かつ上目遣い…これ以上気味の悪いものはないだろう。そもそもとして深夜にタイヤをひっぱるってだけで相当不審なのだ。
犬、びっくりして瞬間的に5メートル下がる。やはり効果は絶大!
しかし犬、
どういうわけかおれではなく、山に向かって吠え始めた。
なんで山?と思っていると、すぐに意味がわかる。
こいつ、仲間を呼んでいるのだ。
山の各所から無数の犬の怒号と猛スピードで山を駆け下りる音が聞こえる。
おそらくこいつの遠吠えには
「我敵発見セリ、至急応援求ム、抹殺スベシ害悪ナリ」
的なメッセージがあったのだろう。
すぐに20匹くらいの犬たちに囲まれてしまったおれ。

みんな敵意むき出し、がむしゃらに唸ったり吠えたりしている。めっちゃ興奮してるじゃんか。おれはただ事じゃないぞ。

もちろんおれも一瞬怯んだが、負けてられない!
さらに速く膝をカクカクさせて応戦する。
おれだって本気で生きてるのだ。
わんわん!
カクカクカク
わんわんわんわん!
カクカクカクカクカクカク
わんわんわんわんわんわんわんわん!
カクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカク
わんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわん!
カクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカク
わんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわん!
カクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカクカク!
まさに一進一退。
上がりつづける熱量。
「どっちが先に力尽きるか、だろ?」
「わん!」

だけれども。
こんな夜だっていずれは明けるのである。
それだけは信じられるからこそだ、おれは膝をカクカクさせつづける。

バラバラでも一体でもないような

タイヤひっぱり6日目。

どうにもテンションが上がらず、電池の消耗を無視して音楽をかけながらあるく。
やっぱり「不完全なけもの」。すっごいアルバムだと思う。
幽体離脱?グッドカルマ?的な…
どこからなにを見てるのかわかんない歌詞が、でも確かに一つの世界を作っている。
こういうのを天才っていうんだろうな〜
日常会話の中だと、天国とか解脱とかそういう世界の話、あんまり好きじゃないし、入り込めないんだけど
そうして文学になって、芸術になると、こうもすうっと入り込めてしまう。
入り込めるというよりも、体ごと世界が溶け合っていくというか。

この世のことも、あの世のことも、なにも知らされてない。
生きているのか、死んでいるのか、それすら忘れてしまった。
想像できるか、また体を、持てなかった日のこと。
思い出せるか、初めて海に触れた日の耳鳴り。
割れた太陽、弾けた破片、広い集めた指。
畳に射した、西日はたしかに、私を呼んでいる。
会えない人を、想う彼方で、虹を編んでいる。
幽霊でもいい、もののけでもいい、から今すぐ会いに来て。

バラバラでも一体でもないというか…


1キロあるいて休憩。みたいなやる気のなさでだらだらと進む。
昨日のカフェが良すぎて、ずっとカフェ探しながら歩くんだけど。
ここの道、本当に崖と海で、カフェどころか建物すらない。
ごくたまーに店っぽいものが見えて期待しても、ことごとく檳榔屋か釣り道具屋である。
つらいなあ。

夜になって、真っ暗闇になる区間があった。3キロくらい電灯がない。
こう暗闇だと、ちょっと意識が遠くなる感じ。自分の体が自分じゃないみたい。

遠く海で、一列にならぶ、漁船たちの光。
水平線の、少し右から、吹いてくるこの風。
歩幅のリズムで、鈍くもならす、繋がれた塊。
岩場でなにかを、さがしさまよい、うごめく人の影。
巨大な岩と、夜空の線で、カエルがないている。
山から水が、どばどば落ちて、鼓動が速くなる。
でかいトラック霧を巻き上げ、そのまま走ってく。

ここは台湾の最東端。少しとんがる岬である。

ゆらめくピント

タイヤひっぱり7日目。
ここ3日、収入が途絶えている。
食べ物はちょいちょい貰えてるんだけど、版画がちっとも売れなくなってしまったのだ。商売あがったり。
看板を変えてからか?
文字が下手だから?
サイズが少し大きくなったから?
まずかったパンを海に投げ捨てたから?
都会から離れたから?
困ってないから?
ビジュアル的なこと、マインド的なこと、スピリチュアル的なこと。
ついついいろんな原因を考えてしまうけれど、どれも直接的には関係ないのだろう。いくら考えても無駄なタイプのことだと思う。
確かなのはお金が底が尽きかけており、残りは200元だということ。(ちょっと上品な喫茶店のコーヒーが120元)
だけど食べ物は貰える訳で、特別困ってるって感じじゃない。むしろ飽食気味・・。
ぱっと思いつく不便なことは、好きなタイミングで珈琲屋に入れないことだろうか…
(だけど今朝は珈琲屋でコーヒーとオレンジジュースをご馳走になった)
別に版画は売れなくたって、それはそれでいいのだ。
大事なのは「タイヤひっぱり」によって引き起こされる現象と、変わっていく体や心なのである。

そいうえば
「乗ってくか?」と便乗を勧めてくる人がたくさんいる。
ヒッチハイクの誘い、今日で通算10回くらいになったんじゃないか。
さっきはピチギャル5人旅の車が目の前で止まって、助手席のギャルが簡単な日本語で話しかけてきた。
「私たちも向こうに行きますので、のりますか?」と後部座席を目配せする。
後ろの3人も笑顔で手招きしているが、どう見ても、そこにもう1人乗れるだけのスペースはなく、もしお言葉に甘えるなら、ぎゅぎゅうのギャルの群れに無理やり入り込む感じになってしまう。良いのだろうか?ギャル達もそれを望んでいるってことなのか……?
シチュエーションがシチュエーションなら、おれは是が非でもギャルに埋もれたい。
だがしかし、今回はきっぱりと「自分で歩くと決めているので.!」と断ったのであった。

言うまでもないことなんだけど…
置かれた環境や状況が変わると、人の思考や価値観なんていともあっさり、ガラリと変わってしまう。
そういうの、好きな人と嫌いな人がいると思うんだけど、おれはすごく好きで。
そこでしか起こらない“ゆらめき”に触れることに生き甲斐に近いものを感じている。
それは 冒険的には、型から抜け出すって意味で「脱システム」って言うらしい。
型っていうのは、「社会の型」とかだけじゃなくて、学校にも、地域にも、家族にも、友達同士でも、自分の中にもあるし、さらに言えば、骨と関節があることは人間の身体にとっての型であるし、日本語を使うっていうのも思考の型であると思う。
冒険の場合は、「なるべく根源的なシステムから脱する」ことに加えて、「主体的に命を危機に晒すこと」が条件とされる。めちゃ難しそうでめちゃカッコいい、、!そしてそれを記録することも冒険の活動の範疇にはいる。本とかが多いんじゃないだろうか。
逆に(?)、芸術作品の定義で最近しっくりきているのは、
「意味を形にすること」「夢を形にすること」という話。
そして芸術の場合、その形が人と出会うことによって起こる可能性に目を向け続けることも、その形以上に大切なことだと思う。
現代美術の歴史は新しいなにかを作るためにあるし、探検の歴史もまたしかり。
しかし
アートの世界でもはや業界全体を揺るがすような革命は起こりようがないし、
地理的未知がなくなった地球上で狭義の探検を行うのは物理的に無理だ
物質が飽和(もしくは枯渇?)し、それを超越しようとする時、人間は「意味」に意識が向くのだと思う。
交換と保存のためにお金という「意味」をつくり、それを紙に宿したように。
おれは本気で、芸術と探検の間を探してみたいと思う。
芸術探検つくって、そう言い切れる活動を一度でいいからしてみたい。

だけど現時点のおれは、大きいスケールで動くことにも、命の危機を感じることにも、そこまでの興味はない。
おれは、生きる世界のシステムを、いちいち見つけだし、それを脱してみたい。そのシステムの規模感は小さくていい。
ならば「タイヤひっぱり」は、日常生活で気づけない些細なシステムを確認するための行為なのかも知れないと思った。
「タイヤひっぱり」というルールに身をゆだねることで現れる、意図せぬ他者、それに触れることによって起こる自身の“ゆらめき”、というものはたしかに存在しているのだ。

おれはギャル達の誘いを断ってまで「タイヤひっぱり」することで、はじめて、おれの人生に責任を感じるようになる。
もしこの無意味な選択によって、つまらない人生になってしまったらギャルと遊べなかった自分に顔向けできないじゃんか。
「タイヤひっぱり」はおれがまじめになれる数少ない行為。自分に酔える、数少ない時間であるのかもしれない。
きっとおれは、まじめなおれが好きなのだ。

一生懸命書いてみたけれど、どうも言葉が追いつかない…
曖昧な言葉を使いすぎてる。どうしようもない散文ができあがってしまった。
でも言葉が先にゆくよりよっぽどいいなと思う。
足りないところは、絵で写真で地図で家計簿で、そして態度で示してゆこう。

結局、この夜、どういうわけか1750元(6300円)くれる夫婦が現れ、お金問題は唐突に解消されてしまう。
彼らが紹介してくれたサーファー用のゲストハウス(徒歩環島の人は無料)に泊まるのであった。

ずっと前方で霞んでいた島影は、気付けばもう、後ろになってしまっている。
亀島というそうだ。屋上からそれをみる。
今日も霧に包まれている。
おれは
そのゆらめく影に、どうにかピントを合わせようとする。

アティチュード

タイヤひっぱり8日目

「ここに10日でも3ヶ月でもいればいい!」
これは昨晩、オーナーのキャンディーさんが言い放ったセリフである。

そう言われた手前、朝起きるなりせこせこと準備し出発しようとする自分がみみっちく感じてしまい、結局今日はここでのんびりさせてもらうことにした。

このゲストハウスは目の前がいきなり海!
相変わらず曖昧な色をしてるけど、なるほど、波が高い。ここはサーファーのゲストハウスなのだ。

まだ誰も起きてこないので浜辺を散歩することにすると、同じく退屈をしていた犬が尻尾を振ってついてきた。

お互いがなんとなく意識し合いながら好き勝手なことをする。
こんな風に犬と接するのははじめてだ。回転ジャンプの練習をしたら犬も加わってきた。

「おまえも回転、好きなのか?」

「わん!」

10時半から
香港のインリーとカナダのジュリアと一緒にヨガにいくことになった。

人生初のヨガにちょっとしたワクワクしていたが、最初の10分でその浮ついた気持ちはいとも簡単に打ち砕かれてしまう。

まずおれの認識として、ヨガというものは、お香のかおりとか神秘的な音楽によるリラックスムードの中、ゆっくり深呼吸をしてみましょう的活動だったはずなんだけど、、、これはどういうわけだ?
キビキビハキハキとした健康スーパーお姉さんに言われるがまま、前代未聞な体勢で苛酷な運動を繰り返しているではないか。
とことん追い詰められ悲鳴をあげる全身の筋肉。もう超汗だくだくで(はやく終われ!はやく終われ!)と願い続けていた。。こんな気持ちもいつぶりだろう…

解放された時にはみんなヘトヘトでげっそり。
帰り道、ジュリアが「私がカナダで通ってるヨガはこんな風にキツくないよ」とおどけながら耳打ちしてきた。

キャンディーさんは、おれに来週末に開催されるお祭りのお神輿をつくるのを手伝って欲しそうにしている。

亀島にちなんで、それぞれの仲間内で亀の神輿や山車をつくり、街を練り歩くのだそうだ。
審査員賞、オーディエンス賞、神さま賞、のそれぞれがあり、入選すると賞金が貰える。(神さま賞は下駄を投げて、表と裏が同時にでたら当たり)

このゲストハウスはサーファー仲間でチームになり、
海のゴミを目撃している当事者として、浜辺に流れ着いたゴミを組み合わせて亀をつくるとのこと。お腹にはたくさんのゴミを詰め込み、ゴミを食べて死んでしまうウミガメのことをみんなに伝えたいらしい。

ジュリアは、女の人だけど身長が180センチある。
昨晩は少しだけネイティブカナディアンとカナダ政府の対応についての質問をした。別にだれそれが良いだ悪いだのの話をしたい訳ではなく、純粋な興味で聞いたんだけど、結果、すっごく神経を使う感じのコミュニケーションになってしまった。

なんでこんなぎこちなくなるんだろう。と考えてみたけれど、おそらく。
おれは基本的に日本語で日本人としか話してないからってことが主だと思う。

中学生よりも下手な英語だが、自分の旅や作品の話なりは結構すんなりできる。
なんだけど、なにかの社会的な主張が入り込んでいる可能性のある話題はめっきりダメみたい。

すこし嫌な風に言えば、
社会的なマイノリティーやタブーの話になりそうな時は、彼らのメインの文脈からは外れた適当なポジションを選んで、あざとくしたたかに、無邪気を装って聞きたいことだけ聞くっていう、日本でのおれの態度に気づかされただけであった。虚しい。

おれは寂しがりやではあるけれど、わかり合うことや寄り添い合うことにあんまり興味がない。
1年半前、病気してずっごく絶望的な気分になっていたけれど、今はもう忘れてしまっている。
熱海の女将にタイヤひっぱりに台湾行くので1月末で辞めますって言ったとき、
「貴族の遊びでしょ?」と言われたことを思い出す。

ちょうど東京で個展をしている友人にメールを送ってみると、親切にも展示のステートメント文と展示風景を送ってくれた。

高校で不登校した体験を根っこに、幹をつくり派生してゆく彼の人生

見えないものへ
わからない他者へ
遠くで起こった出来事へ
目の前で起こっている出来事へ
精神的な病を抱えている人々へ

実体のないものへ、それに対する自分自信へ

賢く冷静で、繊細で優しく、
でもどこか突き放したような、ぶれない態度があった。

むしろ、態度こそが彼のすべてなのではないか。だからこそだ。この題材でここまでカチリとした展示を堂々と行える。

ジュリアはこれから南下して花蓮の方へゆくとのこと、去り際に版画を買いたいといったので、一枚摺ってあげた。ありったけの迷いをもって、おれはそこに海を描き加える。

ジュリア、のっぽな美人さんである。

なみのり男

タイヤひっぱり9日目。
ニュージーランドに留学中の友人とメールしている。
そこではマオリ族へのリスペクトが生活の至る所に浸透してる感じらしい。
美術館のキャプションにマオリ文字の解説がついていたり、マオリの挨拶をしたり、マオリの踊りや刺青をありがたがったり…
でも住む場所は別れていて、街の中で見かけることはないっていってた。
興味深い。
台湾、カナダ、ニュージランド、にはわかりやすく「原住民」という概念が存在しているけれど、東京にいると考えることがほとんどないな〜
昨日に引き続き、少し複雑な気持ちになったけれど、別にそんなに考え込む必要はないのかもしれない。無理に彼らの境遇に共感してみようとする必要はない。
原住民=虐げられてる っていう考えを前提にすることに抵抗があるだけだ。
歴史を知り、自分で考えて、行動する。
そしておれはあくまでも、個人と個人としての出会いを大切にしていこうと思う。
とにかく本を読みたくなりアマゾンで歴史本を眺めていると、なんとなく「司馬遼太郎 街道をゆく 台湾編」がいいかなって思った。

街道。
おれは街道が好きだ。
ロマンが詰まってる。
川が低いところに流れるのと同じように、道は人が歩きやすいところにできる。
そこを通ると便利だなってところにできる。
そこからヒト・モノ・コトの移動がうまれ、文化は生まれ、距離と時間への憧れが生まれる。
人間が生活しやすいところ、移動しやすいところ、は大昔から変わらないのだ。この身体があるかぎり。
道と自らの身体を照らしあわせようとする行為自体が、その文化に対し等身大のリスペクトをもつことなのではないだろうか。
文化は生活から生まれ、生活は地形から生まれるのだから。

地形から文化に出会う方法。
これは去年の夏、秋田で参加したプロジェクトで考えたことである。
「旅する地域考」って企画で、おれはこれを主催する代表やコレクティブのファンなんだけど、どうにも、この時の企画には、地形と道(=生活と文化)へのリスペクトが足りてなかったように思う。
どういう意図で、どこにゆくのかよくわかんないまま、促されるがままマイクロバスに乗っては降り、また乗っては降りの繰り返し…
観光バスでツアーすることと、自分で運転することの体験が違うように、
ナビに言われるまま進むのと、地図をもって進むので違うように
地図をもって進むのと、土地の人にきいて「あの山の左を抜けたらいいよ」と言われるのが違うように
移動は、それ自体が途方もなく得難い経験の予感で溢れた、尊ぶべき可能性の塊なのだと思っている。削減すべきロスでは決してないのだ。
うんざりしたおれがそれを指摘すると、あなたが勝手に道を感じてれば良いでしょ、的なこと言われてしまった。
近代的な生活に毒され
地形という抗いようのない制限に置かれた、自分の身体の不自由さを忘れた状態で
「これからのための芸術と生活のあり方を旅を通して考えよう」
なんて言われたって、こっちが恥ずかしくなるだけだ、
そんな芸術クソ食らえ、思考停止の恥をしれって思う。
(結局その企画はすごく楽しかったです、感謝)

なみのり男(50歳)に似顔絵を描いてあげた。
おれの話をきいて、ゲストハウスに会いに来たのだ。
なんでタイヤを引くだい?と聞かれ
「自由だと焦ってしまうから、タイヤを引くくらいのスピード
ちょうど良い」とまた変な口からでまかせをすると、
なみのり男は「それはなみのりと一緒だね」と微笑んだ。
フランス人のファニって女の子と一緒に、彼のなみのりを眺める。
彼もう15年やってるらしいよ、その割にあんまり成功しないね、ファニはいつも素直な意見を言えていいな、そう?、ずっと一貫して自分の芯がある感じ、ありがと
的な話をした。
フランス語、英語、スペイン語、中国語を話せるファニは、中国語より英語を話す時の方がサバサバした雰囲気になる。4ヶ国語を話せると世界はどんな風に見えるのだろう。
そして、なみのり男もまた、
一瞬のきらめきのために、思い通りにならない波を何回も何回もやり過ごす。
なみのりたちは世界をもっと諦めて、諦めた分だけ膨らむその一瞬への期待を寄せて海に入るのだろう。
人間が海に入って、波に乗っかろうとするなんて、、
「6月の展示が終わったら、ここに初サーフィンをやりにきます」
とキャンディさんに伝える。

「今」に集中すること

タイヤひっぱり10日目。
もう3日もここに滞在してしまっている…
キャンディーさんは事あるごとに、ここに住んでゆっくり絵を描きなさい、と言ってくれる、すごく優しいお姉さん。サーフィンしたり絵を描いたり旅人と話したりする生活、超いいじゃんか。
でもそう言われる度に
おれのやるべきことはなんだ?って思考がぐるぐると頭をめぐり、いくら考えたって、おれは展示と環島のためにすべてを捧げるべきだって結論に行き着く。
ただでさえ進みが遅い上に、おれは一度日本に帰り企画のプレゼンをする予定ができてしまっているのだ。ここでのんびり波を見てたりする時間はないはずなのだ。

しかし同時に、ここには歩く以外の全てをできる環境があって、ならばお言葉に甘えて、これからやるであろう制作の準備などを一気にやってしまうのもありなのでは?って気持ちも湧き起こっているのもたしか。
いったいなんなんだ、、。
「ここではないどこかへ」旅立つことは、自分を漂白するような美しい行為だと思うけれど、本来向き合うべきことからもあっさりと離脱できてしまう、こわいものでもあるんだよな、と普段考えないようなことを思ってしまう。
マイナス志向に陥っているぞ。
旅ってなんだろう・・


Facebookを遡り、旅について書いているものはないかと探してみたら、
去年の夏に発表した「劇場を旅する」ってパフォーマンスの際したステートメントがでてきた。


『不思議なものと出会うこと』
『世界の見方を増やすこと』

この2つが僕が思う旅のよいところで、できればそういう旅をしていたい。

そのために必要なこともきっとあって。
決断し飛び込み、反応の鮮度を更新し続けるような『能動性』と
ゆきあたりばったりな、偶然に身をゆだねただようような『受動性』。
そしてその対極にある2つ態度が自然と同居する身体をさぐることなのではと思いました。

今回はそれを『旅する心もち』と表現しています。


なるほどなぁ
なにに影響されてるのか、文体が気取っててちょっと嫌らしいけれど
過去に書いたこういうものに助けられたりする日もある。

「旅する心持ち」

結局、「今」に集中しようってことなのかな。
別に出発したって、しなくたって、「今」に集中できていればいい。
ついつい先のことを考えて段取りをしようとしてしまうけれど、そうじゃなくて。
「今」に集中した蓄積が、先の結果につながるようなやり方を発明すればいいだけなのかもしれない。
そうしよう、そうすればもれはもっと今を笑顔で過ごせる気がする。

結局キャンディさんの亀作りも少し手伝うことにした。
亀をつくる今に集中できていたかと言われるとそうでもないけれど、だいぶ心が楽になったような。
先行一車のリンさんが密かにマネジメントをしてくれているようで、おれの制作に芸術村からの助成金がでることが決まったらしい。
コウくんは、おれのやりたいパフォーマンスの指示書を翻訳してくれると言ってくれた。
ありがとう。
定住と漂泊
これを二項対立みたいに考えるのをしばらく辞めようと思った。
東京の重力だとか、定住の魔力だとか、そういう風に考えるの辞めよう。
おれは「今」に集中すればいいのだ!



看板の違和感

タイヤひっぱり11日目。
今日こそは絶対に出発するぞと心に誓うも、亀を作ったり、お茶をのんだりしているうちに日が暮れてしまった。
夜10時になってようやく出発の準備が整い、いざ!
ってタイミングで、キャンディーさんがおれの環島看板をリュックから引っこ抜き、
「その看板は変えた方がいい、これじゃみんなわかんない」
といって、亀づくりに来ていたミシェルと一緒に看板の装飾を始めてしまった。
看板の余白のスペースに「私は日本人です」「徒歩でやってます」と中国語で書き加え、
さらにその上にコピー用紙で作った日の丸の国旗を貼り付けている。
されるがままって感じで、おれはこれを止めた方がいいのか、そのまま委ねちゃったほうがいいのかわからなかった。
日の丸は少し意味が強すぎやしないだろうか、
日本人と強調した時に起こることと起こらなくなることはなんだろう、
そもそもこのタイヤひっぱりに国籍は関係あるのか、
これによっておれが起こしたい不思議は半減されてしまうのではないだろうか、
変貌を遂げる看板を眺めながら、あたまのなかでは超高速でいろんなことを考えまくっている。
おれの不安そうな表情をみたキャンディーさんは、
アーティストはマーケティングしない人が多すぎる、アーティストだってお金を稼がなくちゃだめ、国旗恥ずかしいの?、日本人だとみんな興味もってくれる、そしたらタッペイの展示にもたくさん人がきれくれる、メディアにも取り上げらる!版画も売れる!
展示に人来て欲しい?来て欲しくない?どっち?
と聞かれてしまった。
そりゃ来て欲しいけれど・・。
おれは遠慮がちに
「たまーにだけども、メッセージを伝えることよりも大切なことはあると思う」
と言ってみたが、あまり意味がなかった。
うーん、わかんない。
国旗がついてるのはなんとなくダサいと思うけれど、それが人の自発的な行為(善意)を制してまで貫きたい信念なのかと言われるとそれほどでも無い気がする。
そりゃ、珍しがって声をかけてくる人が増えることは予想できるし、そこから派生してテレビの取材がくるなんてことも全然あるだろう。
けれど、それをやってどうなるのか。
この看板のことはよくわかんない。

謎のタイヤひっぱり男

その中でひとつやってみたいことがあって、それは。
おれがどれだけ、意味不明な人として一周し続けられるか。という実験です。
言い換えれば、偶然おれを目撃した人に
『いかに、深い謎を与えるか』
謎や不思議と出会いは、人生を豊かにするものだと思います。
わからないことがあるから、人は想像力をはたらかせ
知らないことがあるから、人は勇気を奮い立たせ
隔たりがあるから、人はそこに憧れを感じ
どうにもならないことがあるから、人は物語をつくる
知らないこととの向き合い方で、人生はもっと面白くなると思うのです。
さらにいえば、それが生きてゆく上での支えになったりすることもある。
終始、そんな命題に向き合いながら、
タイヤをひっぱろうと思っています。

これは出発日に書いた宣言文にある一節。
「日の丸がついた看板を掲げたタイヤひっぱり男」

「看板の情報が少ないタイヤひっぱり男」
例えば細い路地で6歳に男の子とすれ違ったとして、どちらがより深い謎を彼に焼き付けられるのだろう…
うむむ。

ひとつだけはっきり言えるのは、youtubeでたまに見かける「東大生が〇〇してみた!」的な浅ましさは身につけたくないなってことだろうか。

ついでにキャンディーさん、「これ台湾おじさんの帽子!子供の傘!」といって、植物の皮でできた大きい帽子をくれた。
これはすっごく嬉しい!
こういう変な形だけど、実用的なもの、大好きだ〜
このツバの広ーい帽子をかぶって、リュックを背負って、看板を掲げ、タイヤを引く。
なんだか武士の武者修行みたいじゃないか、、!
そしておれが纏うそれぞれのアイテムの統一感のなさ!これもめっちゃすき!
キャンディさんのキラキラとした自信満々の表情をみてると、看板の一言一句でくよくよしてる自分が馬鹿らしくなってきた、この帽子のインパクトで看板の意味も薄まって気にならなくなったってのもあるかも。


と、書いていて気づいたのだが。

⚫︎ごちゃごちゃの中から意味を見出す。
⚫︎その意味を形にする。

これは似てるようで全然違う話なのかもしれないな。
両者が指す「意味」の内容が同じだったとしても、
前者にはアート的な、後者にはデザイン的な、プロセスがあるように感じてきた。(ここでのアート、デザインの意味はいずれ追記します)
なるほど…
おれはこの環島で、自身の身なりや行為を洗練させてゆく必要は一切ないんだ、
おれはタイヤひっぱり環島によって巻き起こるごちゃごちゃな有象無象から意味を見出し、それに形を与えて展示する。
こんなにもシンプル
そしてやはり、答えを生むのは問いだったのだ、、

キャンディさん、ありがとう〜
喜び勇んで出発するも、7キロくらい歩いたところで、wifiをどこかに落としたことに気づき大騒ぎ。
ジョセが車やバイクで何往復もしながら、おれを助けてれくれて、深夜2時ごろ、結局ゲストハウスに戻って来てしまったのだった。
感動のサヨナラをしたはずなのに、、みんな苦笑い。
(情けないな〜)と思いながら
いつものように3階に登り、5回目の布団に入るのだった。

夜々-ちらつく衝動

タイヤひっぱり12日目。

今日もまた、同じゲストハウスで目が覚める。
本当は昨晩出発したはずなんだけど、2時間くらい歩いたあとでWi-Fiを紛失してることに気づき、なくなく戻ってきてしまったのだ。
あーあ


いつも以上の気だるさでアイパッドを開くと、キャンディさんからメッセージがきてる。
「Jason found it」

えーっと。found は find の過去形だったな。
It ってなんだろう、、、もしかして Wi-Fi ?
そんなはずはないか、昨晩のゴタゴタで解散したのは深夜3時過ぎ、ジョセは翌日仕事があると言っていたし。

ベランダから海を見ると、太陽が海を照らしている。真っ白くて眩しい。
ここに来て初めて晴れた朝だ。


昼頃、キャンディーさんが起きてくる。

「タッペイおはよう〜、昨日ジョセがWi-Fi見つけたよ、車に轢かれて割れてるけどちゃんと使えるって言ってた」

眠たそうにそう呟く。

…. え?

なんと、信じられない
そんなことありえるだろうか。
ジョセは、深夜の3時から、あの距離(7キロくらい)間のどこに落ちてるかもわかんないタバコの箱サイズのものを探すことを決め、実際に探し、かつ見つけ出したという事か?おれが寝ている間に、、

驚きと感動でただただ愕然とするのであった。


ジョセは、この街にきた最初の日に出会った。
おれにお金をくれた夫婦が連れてきた男で、それは多分彼が民宿の息子だからだろう。彼は日本語も英語もできないから、自分の代わりに近所のゲストハウスのキャンディさんを呼んでくれたんだと思う。
年齢は聞いてないけれど、たぶんおれと同じくらい。
探検部の後輩に細貝ってやつがいたんだけど、そいつにそっくり。
体格がよくハンサムでいたずらっぽく笑う。これぞ純朴って感じの好青年。
いつも焚き火か何かで焦げた半袖Tシャツを着ている。
そしてなにを隠そう、彼は徒歩環島(歩いて台湾を一周すること)をやってのけた経験がある。1日に44キロ歩いたりしたと話していていた。おれは彼のことも、彼が連れてくる友達も大好きなのだ。こんな風に田舎で生まれて、幼馴染と一緒に大人になって、変なことが起こったら一緒に珍しがったりする生活が、すごくすごく羨ましい。


すっごく優しいジョセ。
昨日の夜、おれが粘土で作ったドーナツを忘れてしまったときも車で届けてくれたし、そのあとおれのWi-Fiがなくなった騒いだ時もバイクで様子を見にきてくれて、結局ゲストハウスに戻ることに決めた時も車に乗り換え迎えにきてくれた。そしてそのあとWi-Fi探しという…
おれのために何往復したんだ、、、


彼のFacebookには環島の循環と書いてあった。
胸の奥がじんわりと熱くなる。

「ジョセは仕事で夜まで帰ってこないからタッペイは温泉にいったらいいよ!」
とキャンディさん。
それはいいアイデアだと思い、電車で3駅のところにある温泉街にいった。
キャンディさんに勧められた森林温泉は、特別感激することもなかったけれど、いい湯だった。一緒に浸かってた老人(100歳くらい)が、突然、ビンの口に風が吹いたような音色の呼吸を始めた時はとにかく怖かった。
温泉はやっぱり大好き。
おれは将来温泉付きの家を借りて住みたい。
上がったあとモスバーガーにいったけど、これは日本のほうが美味しいかも。
温泉に入ったことで体の筋肉が弛緩しまくり、くすぐったいような違和感、表情までもがふにゃふにゃになって、気づけばよだれが垂れてる。

足湯だと思って近づいたらめっちゃ魚が泳いでいて、魚たち、群がって人間の足をつつく。




ジョセと仲間たちで、浜辺の花火をすることになった。

針金みたいな手持ち花火が面白い。折り曲げて高速回転させると光の輪ができる。おれの右手はライティンサークル。魔法みたい。

大きい筒を持たされて、空に向けるよう指示された。
ジョセがそれに着火する。
7秒まって、
するどい閃光、おれが指した空へ飛びだしまっすぐな線をひくと、、パンと弾け散った。
思えばこれは初体験だ。
おれが狙って、おれから飛び出し、向こうで弾けて、撒き散らかされる。
この快楽はなんだろう。

もう少し上に向けると、次の玉はそっちに飛んで、20メーター先、おれの見てた空を征服している。

こんなにも一人称で
きらめくこの映像は、おれだけが目撃し
村中に響くこの音は、おれが出している

あそこらへんの手触り、そんな優しい感じじゃない、自分の体が届けないところへ、容赦なくつらぬく美しさ、宇宙の色に鮮烈、溶け出しそうな脳みそで世界の平行がぐらつくと、また次の光が視線の先へ、無重力な没入はリアルな湿度で世界を繋いでいる。


最後の一発は低い弾道ですすみ、遠くの岩にぶつかり飛び散った。


ジョセありがとう。

もしも、世界がハンターハンターになったなら…(この妄想何度目だ)
おれは放出系能力者でもいいかもな、と はじめて思うのであった。



看板の違和感2

タイヤひっぱり13日目。
昨日出会ったやばいおじさんの家(基地?倉庫?)よくわからない場所で眠った。
やたら泊まれ泊まれっていってくるから、ゲイなのかなって思ってたけれど、
眠る前に「お前の臭い足を絶対におれの顔の方に向けるなよ、わかったな?」と3回も凄まれて、ますます意味がわかんなかった。
早朝からおじさんは雑草の空き地に大きい杭を打っていて、「なにしてるんだ?」と聞くと、風呂を作っているといった。
もうあんまり関わんないほうが良いなと思い、歯だけ磨いて(水道もなかったけれど)、すぐに飛び出す。
埼玉の田舎を通る国道のような、つまんない道がずっとつづいた。
途中、綺麗な小籠包屋があったので、朝ごはんにしたらめっちゃうまかった。あとごま豆乳ジュースが最高。
こんなにしっくりくる飲み物はあんまりないぞ、、!
美味しすぎてもう一杯買おうとしたら、店のおっちゃん「環島、加油!」といって奢ってくれた。

やっぱりなんとなくだけど、背中にさした看板が気になってしまう。
書き加えられた
「徒歩」
「我是日本人」
という意味の文字。そして日本の国旗。
昼間で明るいからか?いろんな人の視線が気になる。
笑顔でチャーヨー!と応援してくれる人々。全くの無視をする人々。興味深げに眺めている人々。彼らがなにを思っているのか気になってしまう。
看板を変える前は、人の視線なんて気にならなかったんだけど…
これはどうしてだ。
おれは納得したんじゃなかったのか。アートとデザインという言葉を用いて、身なり関するルールを固めたのでは?
もやもやと考え続ける。
だんだんと街が近づいてきて、車通りが多くなってきた。
歩道は停められたバイクでごった返し、仕方なく車道を歩いていたのだが、不意におれのすぐ横を猛スピードの車が通っていった。
むむ!
おれはすぐさま怒鳴り付けようとしたが、なぜかその声を押し殺してしまった。
え、なんでだ?
いつだって瞬間的に怒鳴ってるじゃないか、怒鳴りたいならやればいいじゃんか、溜め込んでストレスになったら健康にわるいよ、、
さらにドロドロとモヤつきは渦巻く。

ああ、わかった。
おれは、看板に書かれた「我是日本人」のせいで怒れなかったのだ。
おれは今、自ら掲げた看板により「日本人代表」を自ら表明してしまっている、おれにそんなつもりがなくたって、見た人たちはまず最初に(あの人は日本人だ)と認識する。
そこで、おれが喧嘩したら(なんか日本人が怒っているぞ)となる。

それが嫌なのだ。
日本の印象のためではない。
おれのためである。
おれはおれ、等身大の自分で居られない旅になぞ意味はない。
おれは1人の人間として、おれの命を脅かした奴に悔い改めさせなくてはならない。
相手の国籍も、ここがどこであるかも本質的には関係ないはずだ。
そして、これはなにも怒る時に限った話じゃない。

おれに「日本人だから」という理由で起こる出会いなんて要らない、そんな風に出会わされたくない。
おれが、日本で生まれ育った日本人であることは抗いようのない事実である、ここは台湾という外国であることもまた然り。
もちろん、その「差」を利用し、なにかしらの価値を生み出せることはしっている。
だがおれが掲げた芸術探検はそんなことではなかったはずだ。
そんな「差」生まれるシステムごと脱してしまおうという思想ではないのか。
「徒歩」の文字も無用である。
なぜ、おれが目の前で徒歩しているのに、それをわざわざ言葉で説明する必要がある。
そしておれがやってるのは徒歩環島ではなく「タイヤひっぱり環島」だ。
タイヤひっぱりは、おれが発明した言葉でおれの美学に乗っ取って行われている。

中国語では拉輪胎を訳すこともできるらしいが、少なくとも、「拉輪胎」と「輪胎拉」の違いを深く理解してからじゃないとだめだ。


モヤモヤを解消するようにミスタードーナツで豪遊する。
店が閉まるタイミングで、日本国旗は剥がして捨てた。
考えだけ先行してしまった悪い例だ。おれは体を動かさなくてはだめ。
1人の人間として怒鳴ればいいのだ
日本人を代表するなんてまっぴら御免!
強いて2日前の思考につなげるなら、委ねること、決断すること、拒否することそれにルールを設けたりするのではく、すべてを態度/直感を基準にすればいい。
今回のルールは「タイヤひっぱり環島をし、展示をする」のみなのだ
あとはおれの態度がきめる。



環島出発の日。
レコード屋で看板を作った時、
「ダンボール」に「環島 タイヤひっぱり 版畫500元」の文字と「タイヤひっぱり」の絵でちょうど良いと思った。
その時は言語化できなかったが、やっぱりこの類の直感はいつも正しい。

そこに生じる余白(情報の欠落)に、
予測不能なジャンプの可能性を感じたのだ。
気軽にアートとかデザインとか、大きい概念の言葉をつかうのもやめよう
なにかわかった気になってしまう。
体を動かし経験すること、言葉の出番はそのあとでいい。

とは言いつつ、
あの時のキャンディーとミシェルが、ありったけの好意を乗せて、おれの看板を書き換えてくれなきゃ、これは気づけなかったことなのだ。

違和感をくれたこと。
どちらにせよ、ありがとうって気持ちになる。

国旗を外し「徒歩」「我是日本人」の部分を破くと、すっごく体が軽くなったように感じた。
通り過ぎて行く人々の「チャーヨ!」に、笑顔で「シェシェ!」と答えられる。
その晩は、日本語の堪能な中国青年が家に泊めてくれた。
落ち着いてて賢そうな感じ。
5年前ニュージーランドに旅行に行った際、ゲストハウスで1日だけ同室だった日本人と話せなくて悔しかった気持ちをバネに、独学で勉強を始めたという。
どんな動機だ…

そういえば、タイヤがひきずられる音。
よく聴くとズルズルやシュルシュルなど、少なくとも4種類以上の音が同時に出ていることに気づき、それを感じながら歩くのがすごく気持ちよかった。

夜通し歩いて取りもどす

タイヤひっぱり14日目。

目的の街まであとたった3キロなのに、バイクの3人組にヒッチハイクを勧められて、夜12時過ぎで頭もぼーっとしてて、英語が出てこず、答えあぐねていたら、「君をのせるために向こうの村からやってきたんだ」と言われてしまい、なんかもう疲れちゃって、乗っかってしまった。
乗ってしまった瞬間からの後悔がすごかった。
たった3キロの距離が途方もなく長く感じた。
公園につき、3人組はかえってゆき、また1人になる。
虚しすぎて泣けてきた。
おれはなんでこうも弱いんだろう・・
荷物をおいて、ベンチに座ると、ロールしてビニール袋に入れておいた紙(描いてた絵を含む)がごっそりなくなっていることに気がつく。ビニールに穴が空いているから、バイクの風で飛んで行ったんだろう。
底なしの落胆と喪失感。
長いこと放心したが、やっぱり取り戻さなくちゃ先に進めないな、と思った。
絵もそうだけど、おれが歩かずに進んでしまった距離と時間をだ。
特徴のない一本道だったので、バイクの人たちとどこで出会ったのか思い出せず、結局前回休憩したベンチまで歩き、おれが散らかしたみかんの皮を見て初めて戻れたことを確認する。
そこからまた目的の街に戻り、往復7キロくらい歩くことになった。
もう汗ダクダクで、足腰肩全部痛い。
道を往復しても紙は見当たらなかったから、きっと、この街を周遊したときに落ちたのだろう。
ズルズルとタイヤを引きづり、狂ったように目をぎらつかせ街を徘徊する深夜4時。
犬も怖がって一目散に逃げてゆく。
曲がり角のところで、ようやくみつけた。
湿ったアスファルトの道に、おれの描いた絵がぶち撒けられていた。
回収し、その場でへたりこむ。

しばらくして、1人早朝の体操をしていたおばあちゃんと目が合い。
なにかを話しかけてきた。
「おれは日本人だ」というと
おばあちゃん、日本語を語り出す。
台湾の日本統治時代に日本語を習わされたという。
いつのまにか、おれはインタビューアーになっていた。


芋の皮
捕虜
芋の皮捨てる人
捨てるやつ、拾って食べたら
血流れてる、
かわいそう

ーそれは日本の兵隊が叩くの?

そう

ー台湾の人が捕虜?

違う、米国
アメリカ

ーアメリカの捕虜が、コメとか味噌を運んでて、それを、

田舎はいる
何時間も道歩く
かわいそう

ーアメリカの兵隊一生懸命働いて、こぼしたら叩かれる、それを見てたの?

そう。
その時、6歳、7歳
捕虜・・
12時くらい、ご飯食べてて
「捕虜だよ!捕虜だよ!」
友達が言ってて
「捕虜見る!捕虜見る!」
って捕虜見に行った

ー大きかった?アメリカ人?

うん

ー台湾で戦ってたアメリカ兵を捕まえてのかな?

戦争して負けたとき、だけど
小さい時だからあまりわからん

ーめずらしかった?

うん、
いま86でしょ。80年前は、6歳7歳の時。

ー日本の兵隊が怖いのは、アメリカ人に乱暴する時だけ?

捕虜、戦争して負けたら捕まえてきただけ。小さいからあんまり。

ーあんまり覚えてない?

うん

ーそれで小学3年生まで日本語習ったんだ?

そう、
小学4年生の時は、2ヶ月3ヶ月あいだ
「空襲警報ー空襲警報ー」
にげたにげた!

ー穴の中に?

山の中に入った、防空壕の中に入った
あんまり勉強してない

ー4年生から空襲になって

3年生の時は、あの時は田舎で勉強する。外出ない。田舎の学校で

ー疎開だ、疎開

田舎田舎!うちも田舎、もっと田舎の中で

ー爆弾ふってくるから?

ええ。

ーあれは?蒋介石がきて。
日本軍がいなくなって、蒋介石がきたときは?平和?

あの時も、あの兵隊は怖い怖い。
女捕まる。

ー蒋介石の兵隊?中国国民党?

蒋介石国民党。
あの兵隊ほんとに悪いよ。
お嬢ちゃんみたら捕まる。

ー蒋介石の兵隊わるい?

お嬢ちゃんみたら捕まる、お嬢ちゃんみたら捕まる。

ーじゃあ逃げたんだ?

あはは、

ーいま平和になってよかったね。

いまは、あの兵隊も死んでばっかり。
年寄り、80歳、90歳。病院つめる。
あの時、奥さんもらった人もある。
もらってない人、みんな病院の中。
奥さんもらったら子供娘あるの。家庭あるんでしょ。もらってない人はみんな病院の中で住んでるの。80、90何才でみんな歩けない。だから病院の中ですんでる。

ーおばあちゃんはここでいつも体操してるの。

台北からここまで、今もう63年くらい、ここで嫁に来た。53年に。私の主人は昨年の8月2日に、逃げた。

ー逃げた?

もう92歳。今もう93歳。

ーそうなんだ。

台北からここまで、もう63年。嫁にきて63年目。

ーこれ、日本の友達に見せてもいい?

えへへ。

ー台湾のおばあちゃんと喋れたよって

台湾のおばあさん、みっともない!

これは、アイパッドのインカメで撮った映像から文字起こししたもの。
カメラを向けるのではなく、一緒にうつるってやり方なら抵抗なくできた。
その後、おばあちゃんが近くのホテルで交渉してくれ、おれは格安で個室で眠りにつく。
おばあちゃんと話せたことはすごく嬉しいことで、おれが逆走して信念を取り戻したことのご褒美かとも思ったけれど、そんなことはやっぱりどっちだっていいな。
自分で選んだ現実の延長線上に 今があるのだから。

夕方に目覚めると

タイヤひっぱり15日目。
15時過ぎまで眠りこける。

「 夜通しあるき - 明け方ねむり - 夕方おきる 」
こういうことをすると、決まっていつも
学生時代にやっていた地下鉄のトンネルが歪んでないか調べるバイトのことを思い出す。終電が終わったトンネルを朝まで歩き回る変な仕事だった。
23:30くらいに地下鉄の駅に集合し、最終電車がいったのち、線路に降りて歩き始める。
「ホームから線路に降りること」あの感覚はまさに越境で、
ホームの端の狭いはしごを降り、線路の地平に立つと、そこからは全く違った世界が広がる。ここではない領域に踏み込む瞬間、何度やってもドキドキしていた。
等間隔に照らすオレンジ色のライト。
真っ直ぐに遠くまで伸びてることもあれば、右へ左へ上へ下へカーブしていることもある。
生温かく湿った空気、完全な無風地帯。
壁に触れると、黒い煤がつく。その手で顔をさわれば顔が黒くなる。
測量士が2人、荷物運びのバイトが4人という陣形だった。重い荷物を背負いながら、東京の地下を縦横無尽に歩き回る健脚の測量部隊である。
ちょうどその時期読んでいた本に、村上龍の「5分後の世界」ってやつがあって、それは戦争を終わらせなかった日本が地下のトンネルに籠りながらゲリラ戦を続け、独自の発展を遂げるという話。
特殊なスーツとバズーカで一騎当千の活躍をする特殊部隊のゲリラ兵を、
作業服やヘルメットに身を包み無駄にデカい測量三脚をガチャガチャ鳴らせながら歩く自分と重ね合わせ、勝手に昂ぶるのであった。
測量が終わるときには、眠さと疲れでふらふらで。始発電車にのって、ついつい寝過ごし行ったり来たりを繰り返し、なんとか辿り着いた彼女の家で泥のように眠るとそのまま夕方、下校中の小学生がはしゃぐ声でゆっくりと目を覚ますような生活だった。
確実にあの頃の方が稼いでいたな〜

寝ぼけまなこでフロントに降りると、
「こんな時間から旅立つのは無謀だ、これからは険しい山になる、金はいいからもう一泊していけ」
といわれ、お言葉に甘えることにした。
自転車をかりて、街を散策する。
ここは蘇澳という街、炭酸の冷泉が湧きでる土地で、夏はそこで泳いだりするらしい。
文房具屋があったので、紙を入れる筒を買うことにした。
辛いソーメンをくって、あずきタピオカを飲み、珈琲屋でのんびりし、コインランドリーにいき、待ってる間にピザとビールを頬張る。
コインランドリーで服を乾燥させるの本当に最高、気持ちいい、楽しすぎる。
関野先生にかりてる寝袋も一緒に乾燥させた。

巨大ミミズとチカチカ虫

タイヤひっぱり16日目。
山を歩いていると、すっごく大きくて太いミミズがいた。
本当に大きい。ユーチューブでみるようなびっくり動物的な大きさ。

大きすぎるなあ、それにしても大きいなあ、なんて大きいんだろう、、すっごく大きい。

アスファルトの白線に近いところでにょろにょろしてて、車に潰されるかもしれなかったから、森に逃がしてやろうと思った。
だけど元来おれは虫が苦手で、幼い頃から素手で触ったりはしない。

木の枝かなにかで引っ掛けて運ぶのが良いだろう、しかしこの大きさだから結構な強度がないとままならぬぞ、と思い、あたりを見渡す。路上観察がはじまった。

ふむふむ、これだと短すぎるし、こっちだとちょっと弱い。なかなか手頃なものはないもんだ、あそこの木に手が届けばいいけども、お、あれを使ってこうすれば、だけどあそこはぬかるんでるな、、

これは、、
なんという世界の変わり様。
同じ場所にいるのに、行動原理が違くなっただけでここまで世界は書き直される。視点も解像度も感覚もまるで違う。タイヤひっぱりでは感知できない世界がここにある。

すでに目の前にある世界から、新たな発見をするための方法。

芸術探検も、そんな風な希望の旗にならないだろか…?

ミミズ、ガードレール越しに森に落とすと「どすっ」と鈍く大きい音がした。

高いところまで登り、そこから遠くの海を見渡すと。
沢山の漁船が港から沖に向かって行列をつくっているのが見えた。



またしても、
山の中で完全な暗闇になってしまった。

この前もらったモバイルバッテリーはライトをつけれるので、それで足元を確認しながらあるく。
18歳のときこういう道に迷い込んで怖くてたまらなかったけど、今はへっちゃらだな。

もくもくと進む。

ふと、5メートルほど先の空中で、なにかが光ってるのに気がついた。

よくみると、そこらかしこでかすかに光ってる。光り続けてる感じじゃなくて、チカチカ点滅してるかんじ。

複数のそれがゆーっくり空中を移動している。きっと光る虫なんだと思う。

蛍ほど大きくない。
蛍はホワーンって感じだけど、これはもっと小さくてチカチカ光る。あと動きが遅い。

すっごく綺麗だった。
ナウシカの腐海をみて落ち着くような気持ち、映画をみながらこんな世界があったらいいなって思ってたけども、、、。神秘的だぁ

虫が風景というか
虫として認識するんじゃなくて、綺麗な雪や落葉を眺めているような


それはそうと、
なにか珍しいものをみたときの「ナウシカっぽい」とか、「千と千尋っぽい」とか、そういう感想になっちゃうのちょっと情けない気もする。

ふらふら歩法と原住民の故郷

タイヤひっぱり17日目。


わりと大きな山を1日かけて越え、「南澳」という村に辿り着いた。
日本語を話すばあちゃんに会ったのが「蘇澳」という街で、そこから「花蓮」までの70キロは険しい山道が続く。道幅が狭い上にうねうねと曲がりくねり、定期的に野良犬が突撃してきたり、猿が木の上から奇声をあげてきたりする。街灯もほとんどなくて夜は真っ暗闇。というと結構ハードに聞こえるが、実は車が通らなければほとんど問題ない。(あの影からなにかが飛び出してくるかも…)なお馴染みのドキドキ感も、なくなりこそしないが楽しめるようになってきた。波の音を聞きながら誰もいない山道を歩く。結構贅沢なことだと思う。
となるとそう、問題は車なのである。
昨日までは、バイパスと国道が分かれていたお陰で、暗闇にひとり歌ったり踊ったりできて快適だったんだけど、今日の道はバイパスと合流してしまい車の量がすごい。排気ガスを撒き散らし、猛スピードで走り去る車やトラック。もう神経すり減らしまくり。特に怖いのが大型トレーラーだ。
奴らが曲がるタイミングでその内側にいると、後ろの台車の部分がどんどんこっち側に迫って来て、崖から突き落とされる、もしくは、崖に押し潰されそうになる。
完全な恐怖体験だ。
だからなるべく急カーブなところは外側を歩くようにして、あまりにも危なっかしいところではむしろ道路の真ん中を堂々と歩くことにした。
すると大抵の車は「なにごとか」とスピードを落としてくれる。そしたらおれが「なんでもないさ」とジェスチャーし、相手も「よかったなんでもないのね、じゃあ気をつけて!」「おお、そっちもね!」というハッピーなコミュニケーションを伴った出会いと別れを演出できるわけだけなのだけど。
しかし時たま、おれをただの障害物としか認識せず、スピードを落とさずして俺のすぐ横を通過してゆくような不届き者もいるもんで、どうしたら奴らの素行を正せるか、と考えた結果、“ふらふらあるき”がよいということになった。
スピードを落とさずにおれの横を通過してゆくってことは、奴らがおれの足取りを信頼していることの裏返しである。おれがまっすぐを進むことを信じて、奴らはアクセルを踏むのだ。
ならば逆に“ふらふらあるき”をやって、奴らを不安にさせるのはどうだろう。
ふらふらしてるタイヤひっぱり男が道の真ん中にいたら
どんな暴走野郎も「うわ、道路の真ん中にふらふらとおぼつかない足取りでタイヤひっぱってる人がいるぞ、、」(ふらふら〜)「危なっかしいっ、こりゃ迂闊に近寄れねえな!」となり、最終的には「ぶつかったら面倒、ここは接触しないように慎重に進もう」という気持ちを取り戻してくれるはず。
グッドアイデア。
実際に2回やってみたがどちらも成功した。
しかしこの“まんなかあるき”も“ふらふらあるき”も、おれが車のドライバーを信頼して、かつドライバーがその信頼に答えてくれているからできること。
どちらにしたって、おれの命は誰とも知れぬ運転手たちに握られてしまっているのである。嫌だな。

辿り着いた南澳はのどかな田舎の村。蝉がミンミン鳴いてて笑える。
おととい寺で話した女の子(日本にワーホリにいく準備をしてるらしい)は、
「南澳に住む人たちの多くは台湾の原住民です。とっても優しくてステキですよ。」と言っていた。
たしかに。
肌の色が濃い人が多い。台北で出会った人たちは日本人との違いがわからなかったけれど、こっちの人たちは東南アジア系の色をしている。
おれは台湾にきてから「原住民」に興味が湧き、少しずつネットで調べていて、さらっと説明すると、台湾の原住民は文字通り、この島にもともといたグループで、基本的には16世紀から移住し始めた大陸の漢民族よりも前からここに住んでいた人たちを指す。政府に認定されている部族は16くらいあるので、実際はもっとたくさんあるのだろう。そのほとんどが台湾の東側(おれが今いる側・山側)に分布している。部族同士の交流はほとんどなかったらしく、それぞれの文化もまるで違うよう。島を拠点にする海洋民族がいたり、成人への通過儀礼として首狩りをしたりとバリエーション豊か。
1930年、日本統治時代に起こった日本との戦争(霧社事件)があり、それについて扱った映画『セディックバレ』が2011年に公開されていて、ホームページをみたらすっごく気合の入った感じ。竜崎くんは原住民の描写にすこし問題があるって言っていたけれど。この旅の間で観れたらいいな…。
もちろん、今は現代的な生活をしている人がほとんど。
しかし伝統的な衣装をきてる人がいたり、学校の壁に原住民の模様やイラストがペイントされていたりと、そこらかしこから原住民族の雰囲気が漂っている。
北海道でアイヌ博物館をやってるアイヌの人にあった時は、街中にポツンとあるその建物の寂しさもあいまって消滅してしまった文化のように感じたけれど、ここはそういう感じがしない。
そういえばキリスト教の墓地をよくみかけるようになった。ここでも西洋の宣教師が一生懸命働いだんだろう。
お医者さんが病院の待合室のようなところに泊めてくれた。定食屋は超豪華ご飯を格安で出してくれた。筆の形をした木彫を大量につくってるおじさんがいた。みんなすこしづつ日本語を話せる。
興味は尽きないし、思うことはもっともっとたくさんあるんだけど、なんかまだ書けないな。

自分のため

タイヤひっぱり21日目。

1000元のホテルで目覚めた。

実はここ3日くらい心ここにあらずって感じで歩いてるし、日記もあんまり書きたくない。おもしろい出来事はたくさんあるんだけど、それに感動しきれないでいる。

モヤモヤした気持ち。

今週の獅子座は
「フードをかぶってひたすら進め」
って書いてあったから、この一週間は文字通りレインコートのフードをかぶって毎日20キロ以上歩き続けてきたんだけど。もう今日は休むことにした。

休むことにしたって言ってもそんなに積極的な感じじゃなくて、目覚めたらそのままユーチューブを開いて、いつのまにかチェックアウトの時間に。いつもなら急いで片付けて出発しているが、面倒くさくなって、フロントに降りてもう1000元払い今日も泊まると伝えた。

そのままセブンイレブンのコーヒーを買って、ふらふら散歩したけど特に面白いこともなく、部屋にもどり昼寝をしようとベッドに入るも、最近の習慣に昼寝がなくなっちゃったからか寝付けなかった。

東海オンエアと信長の野望の実況動画をみて、水曜日のダウンタウンもみて、進撃の巨人のネタバレを探しはじめたところで、もう夕方の5時。

流石に罪悪感があり、異臭を放つ濡れた服をコインランドリーに乾かしにきた。
雨のせいで毎日靴下が臭くなる。

洗濯機を回してる間に、この日記を書いている。

モヤモヤの理由は、この前書いた日記を読んだ台湾の人から「傷ついた」と連絡がきたことだと思う。それからというもの、日記をかくことのモチベーションががくっと下がってしまった。

それに対するおれの答えは昔から決まってる。
「ごめんなさい。でもおれは歩く!」だ。

しかし、それと同時にツイッターでは、会田誠のセクハラ問題とゲンロンスクール成果展の話で盛り上がっており、いろんな人が表現活動のモラル的なものに自分なりの意見を吐き散らしていて、それらが上記の体験と融合しドロドロと重いものになってしまった。
おれも吐き出さないと先に進めないと思う。

表現とモラル。抽象的で社会的な話になるけれど。

今日のこの日記に関しては、結論めいたことは出ないと思う。複雑な事情が絡み合ってできているこの議題に明確の答えをだせるほど、おれは整理して考えられない。

今日はただ口から出まかせに任せる。

おれは基本的なスタンスとして、人間の存在もリンリン鳴る電話と同じように「現象の一つ」として捉えようと心がけている。おれにとっての他者へのリスペクトはそれ。
かけがえのない今の一瞬を作り上げている要素の一つであり、おれはそれを敬意をもって尊重し、そこから派生する無限の可能性を狭めないようにすること。
そしてそのために必要なのは適度な無関心だと思う。

これはパフォーマンスアートの発表をつづけるうちに、またヒッチハイクや自転車旅など、自分が属さないタイプの人とランダムに出会い関わるような旅を繰り返す日々によって、徐々に醸成されていった感覚だ。(戦争や災害時にもそう言えるのかとか言うのはナシ、おれは体験したことからしか主義主張をつくらない)

こういうことを書くと、饒舌に“思いやり”なり“寄り添い”なりの作法(?)的な、特殊な形容詞を用いた発言をする人たちのことが頭によぎるが…

正直、ひとりの人間が真剣に寄り添える人間なんて10人にも満たないんじゃないか。自分の家族と特別親しい人たちのことを大事するだけで十分じゃんか。おれはそう思う。

かれらの発言が他者を題材にする自分のやましさから逃れるための
詭弁のような、ポジショントークのような、マウンティングのようなものに感じてならない。

おまえは、圧倒的に理解できない人間と時間を共にしたことがあるか、理由を聞いたとしても絶対に納得できないだろうなって思うようなことをしてる人をみたことがあるか、その謎の行為が、超自然なことのように感じられてしまう風景に出会ったことがあるか。その場に立ち会えていることの奇跡に打ち震えたことはあるか。

おれはあるぞ。

もしお前が真剣に生きているのなら。
その圧倒的な他者を前にした時、彼らに思いやりを持とうなんておこがましいことは思わない筈だ。

たとえが少し極端になったが。
人間は理解できなくたって、一緒にいることができる生き物だと思う。

おれはこの旅でもやっぱり実感してる。

なんの気なしに休憩で座ったベンチで、ただ近くにいるばあさんと、目があった時に微笑みあって、犬が来たら一緒にそれを見る。
そのシンプルな時間の豊かさはもうすでに、おれたちがうじうじ考えるような問題を大きく飛び越えたところにあるじゃないか。

日記のタイトルは「ここではないどこかへ」

旅行記も、関係性を題材にする作品を作る時も、適度な無関心でその場を捉えてゆきたい。おれはおれ、ひとはひと。そこに嘘も本当もいらない、興味ない。

結局フードを脱ぎ捨て、虚無にむかって叫ぶ!みたいなことをしてしまった。

なんとなく誰かに向けているように見えるけれど、だれでもありません。
少なくともおれと話したことある人ではありません。

これが送られてきたメールや日本での騒ぎとどう関係あるのだ?
となってしまうけど、おれにとっての表現の中心はここにあって、これさえ吐き出せれば、これさえ確認できれば大丈夫!

かってにスッキリした

また明日から楽しいタイヤひっぱりだ

ツイッターのプチ炎上

3月11日
タイヤひっぱり24日目
東日本大震災から8年
昨日の夜(2019.3.10)は、幹線道路で話しかけてきたお姉さんの幼馴染が運営してるホテルに泊まった。セブンイレブンの2階にあったんだけど、すっごく広い。25畳くらいあった気がする…
夕飯はお姉さんのおばあちゃんの家にお呼ばれし、一族8名に混ざって円卓を囲む。
おばあちゃんはかなり流暢に日本語を話せて、きくと終戦時は14歳だったとのこと。ならば少なくとも小学校卒業までは日本語を教えられたことになる。終戦後は檳榔の木を山に植えて稼いでいたらしい。もっといろいろ聞きたいけど、ちょっと失礼かなと思ってほどほどにしておいた。
これからの予定を聞かれ、14日の夜に一度日本に戻らなくてはならないことを伝えると、みなでガヤガヤとどうすれば安く空港までいけるか調べてくれた。この家の離れに荷物を置いて一時帰国までの数日間ゆっくりすれば良いとも言われたけど、、どうしようか。
別れ際、お姉さんに。
マイルールはタイヤひっぱりによる環島なので、明日の朝、出会った場所(そこからお姉さんの車にのった)にぼくを連れていってくれないか?というと、「戻るの?!」と驚きつつも承諾してくれた。
ホテルにもどり、シャワーを浴びてアイパッドを開くと、ツイッターに見たこのない数の通知がきてて驚く。これが炎上(?)というやつか…
時系列を考えてみると、どうやらおれが先日お世話になった澳花の警察官とのエピソードを感動風に編集した台湾ニュースがきっかけのよう。
おれの複数のツイートと一緒に「台湾人の優しさをあてにして旅をするな!道徳がない!情けない!詐欺だ!犯罪だ!」的なコメントが、主に台湾好き日本人ツイッターコミュニティで拡散されている。
中には、おれの日記の中から「おれが散らかしたみかんの皮」などの一文に反応し、「この人!台湾でポイ捨てする人!わるい!」などのキャッチーな見出しとともに、そのリンクをはってツイートしてくれる人までいて。1ヶ月前の日記まで満遍なくやってくれてたから、1記事2000字だとすると×30だから6万字?くらいおれの文章を読んだことになる。この取り留めのないポエム日記を60000字・・
みるとこの人。この朝、出発前にちょっかいかけてきた人と同一人物だった。
青々とした田んぼのあぜ道を20キロ、野良犬と歩いたり、おじさんに爪切りを借りたり、すこし雨に降られたり、田舎のファミリーと食事を楽しんでいた同じ時間に…
彼はおれの60000字を熱心に読み込み、めぼしい記事をピックアップ、それに大衆ウケするキャッチコピーをつけ、自身のフォロワー7000人に拡散し続けて過ごしていたのである。
貴重な日曜日をまるまる潰して、だ。ものすごい関心・意欲・態度…
しかし冗談じゃなく、文章校閲力、マーケティングセンス、コピーライティング、ともに目を見張るものがあるよ。おれも編集者など知的な職能に憧れた時期があったが、きっと彼のような人が活躍するのだろうな(おれはむり)
noteのpvは4倍近くに跳ね上がり、ツイッターのフォロワーが80人くらい増えて面白かった。

そして今日(3/11)
お姉さんは9時に迎えにきてくれた。
お姉さんを待ってる間に話しかけてきたおじさんは「おれの爺さんは東京で教育を受けたのだ!水準がぜんぜん違う!超優秀だったのだ!日本はよいぞ!ほら、この缶コーヒーだって日本製!おれは日本製しか飲まん!」と一生懸命語っていた。
ちょうどおれはセブンイレブンのレジで注文するタイプのカフェオレを飲んでいて、(このコーヒーはどこ製なんだろう?そもそも製ってなんだっけ?)と思った。
車で出会ったポイントまで送ってもらう。
霧雨の中歩きはじめる、ツイッターに寄せられたこの活動への意見について考えていた。
能動的に批判をしてきたのは40人くらいのように感じる。おれのアカウントをフォローしてくれた人は80人くらい。
自己啓発本かなにかで、
『批判する人は1割・興味を持つ人は2割・あとの7割は興味なし』
的なことが書いてあったことを思い出す。
批判の内容は歯切れの悪いものばかりだったが、わかるものもあった。
実はおれも「旅してます!」みたいなSNSの投稿がちょっと苦手であんまりみないんだけど、その類のどうしようもない感情を、表す言葉を持たない人が無理やり言葉にしようとするとこうなるのかなって思った。
そしてなによりおれは、「活動について批判される状況」がうまれたことによる不思議な高揚感でドキドキするのであった。

川端康成の伊豆の踊子に

村の入り口に「物乞い旅芸人村に入るべからず」という立て札があった

的な描写があったことを記憶している。
また民俗学者・折口信夫の思想概念の一つに「まれびと」というのもがあって、簡単にいうとそれは

神さまは定期的に外界からやってくる(盆踊りなど)→外界からやってくるもの(異人)も神さま的な感じがする→結局世界は「自分たち」か「それ以外」だよね→「それ以外」は畏敬の念をもって歓待しよう→ 流浪者の派生

的な仮定を軸に、日本人の信仰や他界概念を探ろうと取り組みである。(詳しい人いましたらお会いしたいです)
おれがこの2つの考え方でしっくりきているのは、その根底ある、基本的によそものは「ここに現れた異質な他者」である。という感覚。
それがお坊さんであろうと乞食であろうとなにかしらの芸人であろうと同じ、よそもの。
おれは18歳の時からずーっと同じようなこと(金なし旅)をしている。
大学の頃からの友人は「助け合い」ではなく「助けられ」の実践と発言してくれていたが、それも頷けた、わかりやすいと思う。
でも現場からの報告としては、別にあんまり困っていなし、この道中困ったような態度をとることもあんまりなかった(困ってないから)
たぶん「お金はどれくらいで始めたの?」と聞かれた時以外は、「ゼロ円旅」であることを表明してないと思う。
ここで起こっていることは、困っているから“助けられてる”というよりもただただ“歓迎されもてなされている“という風なものに近い気がしている。
もちろん、彼らの中には日本が好きだからという理由で関わってくる人はいるし、おれも中国語を話せないことを表明してしまったほうが都合のよいなと感じ日本人であることを伝えることはあるけれど。
しかしこの「歓迎されている感じ」は、別に日本国内の放浪だって、ミャンマーを自転車で走った時だって、ネパールの山奥で過ごした時だって、バングラディッシュでパフォーマンスの修行をしていた時だって同じだ。
(ちなみにインド旅行の時は完全に観光マインドだったので特別歓迎されるようなことはなかった。)
おれには、彼らがどうして歓迎してくれるのか“わからない”し
彼らは、おれがどうしてタイヤひっぱりで台湾を一周するのか“わからない”だろう
だが現に、そういう状況は起こっている。そしてそんな風なことが起こるであろうことは、おれはなんとなく知っていたのだった。

小学校の前の軒下で休憩していると、学校からひとりの女の人がでてきて、こっちに向かって歩いてきた。
年齢はおれと同じくらいだろうか?うーん。おれは24歳を過ぎたあたりから、目の前にいる人が自分よりも年上なのか年下なのか、あまりわかんなくなった。どうでも良くなった。
ちなみにおれは「野口さん40代くらいだと思ってた」と言われたことがある。
学校からでてきた女の人は「あれ!女性だと思って話しかけにきたのに!」とおれが男であることに驚いていた。なんなんだ…

そういうえば、おれは今年から髪を伸ばしている。禿げる将来が見えたので、今のうちにできることをしておくのだ。基本的に邪魔だから、上で縛っていてて、それみた台湾の人が「桃太郎だ!」と言ったのには笑ってしまった。

彼女は小学校で英語を教えているらしく、とても話しやすかった。超自由にコミュニケーションがとれた。
この学校は原住民のアミ族の人が多く通うところで、彼らは目が良く足が速い!と言っている。気になっていた原住民について質問しまくり、彼女も一生懸命答えてくれた。心のもやもやがすうっと溶けてゆくようだった。
この1週間、おれが歩いているのは原住民の土地である。
そしておれは彼らに興味があるのにかかわらず、質問する言葉を持てず、調べる時間も気力もなく、結果なにもわからない、なにも発言できないまま進んでしまっていた。
日記を更新できなかった、主な理由の1つにそれがあると思う。
とめてしまった、17日目の日記の最後に

興味は尽きないし、思うことはもっともっとたくさんあるんだけど、なんかまだ書けないな。

と書いてあった。
おれは興味があるのに当事者性を獲得できない。不安定さを抱えていたのだとおもう。
例えば日本軍や日本統治時代の話なら、おれはその話題の際に整えるべき態度について考えることができるが。
原住民についてはおれは知らなすぎるゆえ態度がわからず、“興味のままに無邪気に聞く”ということもしちゃいけないような気がしていた。
彼女は原住民ではないけれど、かれらの文化に強いリスペクトを持っていて、その歴史に詳しく冷静に話す人だった。
40分くらい話しただろうか、だんだんおれの靴が放つ異臭に耐えられなくなり、もう先に進むことにした。
おれは近くのおばあちゃんの家に3日くらい滞在することにしたから、時間があえばまたゆっくり教えてほしいと頼み、さよならをする。




おれの活動を漂泊芸能者に重ね合わせて、

芸の良し悪しとはべつに、流浪民が差別されるのは古今東西伝統的なことだ

という旨のコメントをくれた先輩がいたけれど、おれも同感。
褒められるようなことをしてるつもりはないし、一般的に定住し働いている方からしたら拒絶反応がでてしまうのは普通のことだと思う。

さらに引用すると

⚫︎あんな版画を500元(1800円くらい)で売るなんて詐欺じゃないのか
⚫︎タイヤひっぱりが芸術なのか
⚫︎台湾一周が探検なのか
⚫︎これは観光なのか就労なのか、違法なのか

等の問題提起をしてくれる方も現れ、それらはまさにおれの重大なテーマであるので、おれの活動を通して少しでも考えてくれるような人が現れただけで、それは嬉しいことだなって思った。なによりおれ自身がもっと真剣になれた気がする。
通報したいと言っている人もいるけれど、全然やってくれて構わない。おれもちょっと興味ある。

たった1日でこんなに色々なことが起こる、、!『ツイッター』少し好きになったかもしれないと思うのだった。再開することにしてよかった。

同じくしてツイッターから岩手県の「獅子踊」の映像が流れてきた。海に向かって踊ってた。今日は3.11。
震災の年に仙台の親戚の家にいったこと。
翌年に国道45号を自転車で走ったこと。
その翌年に友人らと陸前高田でアートのワークショップを行なったこと。
その翌年、国分寺で震災を扱う展示を行なったこと。
ネパールの地震復興支援にいったこと。
みちのくアート巡礼キャンプに参加したこと。
陸前高田の広田という町で1週間タイヤひっぱりしたこと。
花巻の山奥の温泉で働いたこと。
その一つ一つで出会ってきた人たち。交わしてきた言葉たち。
を思い返す。




こちらは台湾・鳳林という田舎町。周囲は青々とした田んぼとヤシの木で美しく。
ゆっくりとした時間が流れています。

ツイッターのプチ炎上2

タイヤひっぱり25日目。

プチ炎上は30時間くらいで勝手に静まり、ぐずぐずと粘着しつづけた小さな叫びも、ピエール瀧の圧倒的引力によってかき消されどこかへ攫われてしまうのだった。
この騒動。
おれにとってははじめての体験だし、少し不安になったりもしたけれど、社会にとっては本当に取るに足らないどうでもいい出来事だったんだんだと思う。
台湾で1人「タイヤひっぱり」するやつが社会の話題になる方がおかしいと思っていた。
炎上っていうのは結局。
数名の煽りたて上手の暇人と、お祭り好きの大勢で作り上げるもので、そこに思想や美学はなく、ただ単に集まって騒ぎたい人むけのイベントなんだと感じた。
おれもお祭り大好きだし、野次馬するのも大好きだからよくわかる。
そして、その集団心理の中で勝手に正義感に燃えてしまった人が、不幸にもへんな方向に突っ走り、取り残され、最後は一番の孤独を味わう羽目になる。
あんたは素直にピエール瀧に乗り換えればよかったのだ。
これをみてちょっとでもハッとした人は、
地域のお祭りにでも行ってお神輿かつがせて貰えばいいと思う。クラブにいって音楽に身を委ねてみればいいと思う。
背中を丸めて液晶をこすり、よくわからん理屈に便乗し「いいね!」や「リツート」して一体感を得るよりもずっとずっとおもしろいし、自分の体の奥の奥から湧いてくるエネルギーや、自分が自分でなくなるような感覚にびっくりすると思うよ。


一方。
おれにとっては焼畑農業みたいな感じのイベントになって、おれの複雑な自意識によって形成されたジャングルが一気に燃えて消え去り灰になり、再び青空の見える清々しくも肥沃な農地が出来上がっていた。ここに作物は植えない、またジャングルをつくるのだ。
そしてすでに次の小さい芽が見え始めてる。
『イベントチラシから着想する“遊歩地図”』
について教えてくれていた飯島商店の人が、ついでにこの炎上にもコメントをくれた。

最初は金銭や法律のモラル意識的なところから、流浪者の役割、芸風についてと批判のカテゴリが推移してて面白かった。でも飛んでる鳥には石が当たらないね

議論が重なれば重なる程、たっぺいの持ってる移動に対しての他のもので置換不可能な美学(ほかにいい言葉ありそう)がタイヤひっぱりに体現されてて、ああ、これに対して真っ向からコメント出来る人はまだいないんだ、と思った。

「タイヤの中にもいっぱい水がたまってる。
これをこのまま放置したら蚊が発生するのだ、今は動いてるから大丈夫。」

これが一番好き。
いるのかな、俺が知らないだけだと思うけど。
とにかくこれを読んでると想像が掻き立てられる。移動によって際立つもの。

彼はタイヤひっぱりを「移動を顕在化させる装置」と表現してくれた。すっごくしっくりくる。大事にする。


過去に似たような旅を共にしてきた友人は、
彼が現在向き合っている “障害者” “ヘルパー” “社会の制度” のことに照らし合わせたコメントを送ってくれた。

竜平は障害者じゃないけど
べつにおれからしたらあまり変わらないんだよね

自分は自分が生きてくのにぴったりな方法をいま増やしたいし
他の誰かがその人にとっての方法を増やそうとしているなら
なんらかの真剣さと節度を持ってやるなら
現状の法に抵触しているかどうかは自分にとって問題にならないし
やりたい

そんな感じのことを考えた

長い付き合いの人やライバルだと思ってる人たちなんかが
いつもと同じテンションで
からかってくれたり、考えてくれたり、ひそかに励ましてくれるのが
ただ嬉しいです ありがとう


明日は、おととい小学校の前で出会った原住民に詳しい先生と再び会えることになった。
聞きたいことを思う存分きけるのだ。原住民と日本の武力衝突を描いた台湾映画「セディックバレ」も見せてくれるとのこと。すごく楽しみ。

日記の空白も埋めてゆけると思う。

ふたたび、台湾へ!

空港につくと、入国審査のことで引っかかってしまった。

移民署の個室に連れていかれ、そこでいろいろと尋問されることとなった。
連行される途中、高校で一番美人だった同級生とすれ違い運命を感じてしまう。

こういう部屋に連れて行かれるのはもう慣れっこになってしまって悲しいが、
この国のこの部屋は今まで経験したどんな部屋よりも朗らかな空気が流れている。職員たちの表情が柔らかい。

ツイッターの暇人が「通報するぞ」と騒いでいたから、本当にやったのかと感心していたのだけど、どうやら原因はそれではなく、前回の入国時に提出したアライバルカードの情報に不備があったことのよう。

あの謎のカード、いい加減に書いたらブラックリストに載ってしまうものだったのか、、。

おれが前回デタラメをしたのは「台湾での滞在先」のところ。
旅するわけだからそんなのないよなって思い、「ない」と伝えると、「どうやって連絡を取る?」ときかれ、「Facebookでできる」「じゃあ、Facebookの電話番号を書いて」と言われたのだった。
Facebookの電話番号ってなんだろう、、と思いながら、Facebookに登録した電話番号を書いて渡し、その場を切り抜けたのだけれど。

後日、チェック係の人が確認し「こんな電話番号は台湾に存在しないぞ?」となってしまったらしい。まあそりゃそうだ。日本で使ってるケータイ電話だもの。



「君はなにしに台湾にきたのだ?」

部屋にいるのは4人。
1人は日本語の話せるおじさん、ひとりは卓球の愛ちゃんのそっくりさん、そして誠実そうなメガネ君。あと1人はタイヤひっぱりにやってきた青年である。テーブルには4つのタピオカミルクティー。

おじさんは、徐々に浮き彫りになってゆくタイヤひっぱり男の予想外さに驚きつつも、必要な情報と発生しうる問題について冗談を交えながら説明している。

愛ちゃんはおじさんの通訳にたまに吹き出しながら、それをまじめに記述し、資料をつくり、ネガネ君は部屋を出たり入ったり。
青年は笑いながら飲んだタピオカでむせていたかと思えば、時折真剣な顔をして「NO!」となにかを拒否したりしていた。

しかし柔らかい雰囲気。

しきりに
「私たち移民署は、厳しくしすぎないようにしている」
と言っている。

台湾にもフィリピンやインドネシアからやってくる現代の移民に差別的な感情がある人たちがいる。とおばあちゃんちにいたおじさんが言っていたが、果たして、いま目の前にいる彼らは、人種によって態度をかえたりするのだろうか。

日本の入国管理局は良い噂を聞かない。
というか移民にひどいことばかりをしているって話ばかり出てくる。そして西洋人には媚びをうるような役人もいると。

考えるだけで大変な憤りを覚えるが、そんなような話にリアリティをもてるのは、やはり異国の役人に別室に連れて行かれたりする場面だよなって思う。

おれは、彼らの心情一つでどうにでもできてしまうほどに弱い立場に置かれていることに、なるべく気づかないふりをするのであった。

結局おれの活動の全てはグレーゾーン。
当然のことだが、定住社会において、全貌の把握しにくいこのような活動が積極的に容認されることは少ないだろうと思う。

「版画は“売る”のではなく“プレゼント”とすること」
「帰りのチケットを買うこと」

を条件に入国できることになった。

お昼になっていたので、みんなで一緒にラーメンを食べた。

こういう言い方は好まないけれど。
やっぱりおれの個人的な雑感として、台湾の警察も役人も本質的な気質として「やさしさ」をもってるように感じている。

「困ったら交番に行けば助けてくれるよ」と何度いわれたことか。
市民から信頼される警察官。やっぱり珍しいものに感じてしまうのだった。

花蓮に着いた時にはもう夜中に。
【花蓮】と書いてヒッチハイクしていたら大型バスの運転手が乗せてくれ、大雑把にお金をとってゆき、花蓮までのすべてを手配してくれた。今までなかった不思議なパターン。

台湾原住民について夜通し語り合った2人の家にいく。
前回「この家は世界で一番のくつろぎ空間だ!」とふざけたことを受けて、「世界一快適な家においで」とメッセージがきていたのだ。

話せば話すほど、彼らのことが好きになる。
彼とは日本サブカル映画について夜通し語り合い、翌朝は彼女と一緒に馬の世話にいった。

車内で柴田聡子の新しいアルバムを流してみると、ヤバヤバな曲で驚いた。
声がキュートだ、と言われたので、メロディーと歌詞は狂ってて最高なんだよ、と返すと
どんな風に狂ってる?と聞かれた。

「おれの英語じゃ説明できない」と言ったが、窓の外を眺めながら(日本語でも説明できないよな〜)と思うのだった。

ADHDの話をたくさんした。
おれ自身、ADHDと診断されているのだけど、彼もそうで、彼女はADHDの子供への関心がある。この馬たちもADHDの子供たちと触れ合うために飼育されているらしい。

とっても繊細な馬たちで、人間の気持ちをすぐに察知し心を通わせたりできるとのこと。そういうのが子供達の情操を育むようだ。

おれは動物があんまり好きじゃないんだけど、
うんこを拾ってわらを敷きなおした部屋で馬がゴロゴロ寝転んだりするのをみて嬉しくおもい、たてがみを梳かしてやったり、顔をかじられたりするうちに、柔らかい気持ちになってゆくのがわかった。

別れ際。
「私たちはいつまでも花蓮のあなたの家だからね、忘れないでね」
と言ってくれた。

お世辞じゃないように聞こえた。

夜は同じく花蓮でやっているおばあちゃんの誕生パーティーに参加した。

一族郎党20人くらい。台湾中から集まっている。

会場は一軒家の豪邸をまるごと貸し出すホテルみたいな感じ。貸切がちょう楽しい。
4歳のひ孫娘には同じくらいのいとこが3人もいて、今までで一番楽しそうな表情をみせた。

こんなにたくさんの種類の身内の眼差しに触れながら、自由に遊びまわる子供たち。羨ましい。

おれの心にはすでに親戚アレルギーがこびり付いてしまっていて。
それは、おれが悪いことをしすぎたってのもあるけれど、体と心の成長に単純すぎる関係性が追いつかなくなった、ということもあるかもしれない。

おじいちゃんおばあちゃん、おじさん一家、ぼくらの家族。
おれは16歳だった時のまま、野口家の親族とお互いの関係を更新できずにいるのではなかろうか…

父に関してもそうだ。
16歳のときに会話が噛み合わなくなってしまって以来、10年間ほとんどコミュニケーションがなく。

しかし今でも
「たっぺいが旅館で働きはじめた!」
「あれ、2ヶ月でやめちゃったみたい…」
そんな噂で一喜一憂しているらしい。

子供と目があったらこっそり変顔してしまうのは、完全に父からの遺伝だと思う。
お酒をのむ関係にはなれなかった、山登りでも一緒にいけたらいいけども。

夜は豪邸のソファで寝た。
次のお昼にはみんなのことを覚えてしまって。ランチは、「これが楽園か!」と心の底から思えるような、天井が高く清潔なバイキングだった。しかしバイキングという形式がもつ、基本的な馬鹿さを払拭することはできておらず、きっとそれが楽園の本質なのだと思った。

世の高級バイキングは、人間の馬鹿な欲望のもとに生れながら、その醜さを隠すために多大な労力をつぎ込んでいるよね、バカを認めながら楽しむくらいが気持ち良いのにな、なんてことを考えていた。

アダムとイブは美味しいもの食べ放題の国で、裸で寝っ転がりながら動物と戯れたりしていたらしいが(ほとんど知らないけど)、そんな世界ぶっ壊してくれてよかったよ。

楽園へのあこがれなんて、胃が膨らむにつれ、萎んでいっちゃうようなもんなのだ。

20人の親族たちのハレの場は、俺1人混じってようがほとんど影響を及ぼさず、つよく柔軟なつながりであった。
強いて言うなら、変顔のしすぎで子供達が一切近づいてこなくなったことだろうか。

去年完成したらしい、巨大ショッピングモールにいった。
メタボリズム建築なスタバが目玉らしい。

おれは恐ろしい筒型の滑り台に乗るように誘われ、勇気をだして乗ってみたら超速かった。
5階から地下1階まで、わずか15秒。筒の壁に頭をぶつけたら死にそうだなって思った。
(どんな風に着地するのだろう、まさかプールだったりしないよね、、)
と考えていたら、待ち構えていた若いお兄さんに抱きかかえるようにキャッチされて面白かった。管の中で増幅したおれの甲高い「オホホホホ〜!」という叫び声、どんな気持ちで聞いていたんだろう。

ややこしいが、その後再び花蓮の彼女の方と遊ぶことになった。

花蓮の川と海の境目、この世の果てのような石ころビーチにいった。
静かな夜に、打ち付ける凶暴な荒波。

波打ち際では、ヘッドライトを点けて、等間隔にならび、海のタイミングで網を投げる人たち。

「ホセを獲ってるんだよ」と言ってる。小さい魚らしい。
波が凶暴だから毎年なんにんも攫われてゆく。かれらの多くは原住民。

おれは寺山修司が撮る恐山のような景色だと思い、彼女にそれを伝えようとする。

狂った「秤」

タイヤひっぱり26日目

【版画は「売る」のではなく「交換する」こと】

という条件のもと入国してから、はじめてのタイヤひっぱりになった。

「売る」と「交換」は違うのか?
解釈次第でどうにでもできてしまうこの問いについては、敢えて、向こうも私も言及しなかった。

おれは学生のころ、ルール未満の曖昧な雰囲気によって自らの行動が制限されることを忌み嫌い、学生生活課や正義感の強い同級生と論争を繰り広げる日々を過ごしていたわけだけれど。
おれの最後の要求はいつだって「だったらルールをつくれ」であった。

そして、それから4年たったおれは
(ルールに縛られ、ルールに依存していたのはおれの方だったかもな、、)
という反省を感じるようになっている。

曖昧な領域(タブーや普段気がつかないこと、不本意な抑圧について)に敢えて踏み込み荒波を立て、それを議論の対象にするやり方は心がけとしてはカッコ良いけれど、本当にその活動が身の回りのことを良くしてゆくのか、っていう冷静さも必要だと思う。

学校だったら対象の範囲がわかりやすかったからいいけれど、卒業してみると、反体制を掲げ、ヒロイズムに酔う人たちを、次第に鬱陶しく思うようになっていった。
いざ体制が機能しなくなった時、大きいものへの批判を軸にしていた彼ら(私)のアイデンティティはどうなってしまうのだろうか、と。


「疲れたら木の下で休むといい」
そう言ったおばあちゃんと静かなサヨナラをしたものの


開始30分くらいで集中できなくなり、疲れてもないのに木の下でアイパッドを開くことになった。「交換」のもと歩く自分に耐えられなくなってしまったのだ。

「交換」についての違和感を文字にして、ツイッターに流してみる。

タイヤひっぱりスタートしたけれど…
やっぱり、版画を「プレゼントする」というのはどこか引っかかるところがある これを渡したらあなたも嬉しいよね、的なおこがましさがあるのでは

「売りつける」という表現のレトリックを読解できない人の多さに驚いたが、それはどうでもいいとして
おれは、これから出会う人のことを何も知らない、どうやって関われば良いかもわからない

「お互いの価値観を理解しあえないかもしれない」
という前提のもと、それを忘れてしまわないように
「版画を売りつける」
という表現を、ある種の“へりくだり”を含ませつつ、自らの態度の指標としていました

お金の発生については、正直どちらでも構わないけれど
「プレゼントする」
ってのは、やっぱり違う

「版画⇄衣食住」ってのもどうなんだろう。自ら交換といってしまって良いのだろうか…

すると、
古い友人からこんな風なコメントがとんできた。

ヒッチハイクしてああなんか渡すかとトラック運転手の絵を描いて見せて喜んでくれたけどああちがうなとあげなかったことある、普段の仕事や制作でも秤がおなじになることが毎回必ずしもいいわけではないとたびたび思う

もちろんそれでおなじになる確証もないし サービスとサービスで対等になるのを徹底することが今の普通だけどそれも本当か そもそもそんな風にしてこれまでぜんぶ、生まれて育ててこられたわけない、めちゃくちゃ一方的なやりとりばかりじゃん みたいに 思う


「秤がおなじになることが毎回必ずしもいいわけではない」という言葉にハッとした。
交換は、お互いにその機能を信頼できる(共通認識とできる)1つの「秤」ありきで行われるのだ。

サービスとサービスで対等になるのを徹底することが今の普通だけどそれも本当か そもそもそんな風にしてこれまでぜんぶ、生まれて育ててこられたわけない、めちゃくちゃ一方的なやりとりばかりじゃん

と、彼が表現したとおり。
おれも、対等なんてものがあるなんてあまり思えないし、それを無理やり同じ土俵に乗せようとするからスポーツやお金が不思議で面白くなるのだと思っている。
人間の関わり合いを、お金基準の「等価交換」とするなんて無理がありすぎる、そんなに単純じゃない。


そしてその“単純じゃなさ”は、
「現代アートが5億円で買われる謎」的な果てしない世界よりも、もっとみじかなささやかなところで、社会や属性を超えた人間たちの大切な核としてきらめいているのではないか。すれ違ったり衝突したりしながらも。



あなたとの間に1つの秤を設けようとしないこと、
もし必要なら狂った秤、もしくは複数の秤を持ってきて
一緒に考えてみること、一緒に楽しんでみること







コラム
私は10代の頃から(なのでもう10年近く)お金をほとんど持たない旅をしている。
無銭旅行の類なのだろうけど、そういう誰かに憧れて始めたわけではない。
1番最初は18才の夏。
十分なお金がなかったんだけど、勇気をだしてチャリを漕ぎ出し、案の定、家から遠く離れた場所(仙台の手前あたり)でお金がなくなってしまった。
母に電話して助けを乞おうかとも考えたけれど、どうにかその場で生きる手段を探すことにした。
(どうやって生きていこう、、)そういう気持ちであたりを見回してみると、、
世界は、驚くほど豊かな可能性を孕んだまま、すでに目の前に存在していたのであった。
それまでの私にとって、(生きるために必要なこと・おもしろい体験のために必要なこと)はほとんど全て
「財布に入っているお金の量」と「お金と何かを交換してくれる施設や人」の存在が握っていたのだけど、本当の現実は全然そんなことはなかった。
水は買わなくても公園で飲めて、婆さんのみかん箱を運べばみかんを数個くれて、段ボールを拾えばホテルに泊まらなくても夜を明かせ、近くのホームレスおじさんと月を見ながら船乗り時代の話を聞く。
チャリが壊れて途方にくれ、仕方なしに道路に向かって旗をふれば。変なおっさん達におれごと軽トラの荷台に積まれ、山奥の秘密基地へ、集結していた工作好きオヤジは修理ついでに、おれのチャリに翼と目玉をつけて喜ぶ。その自転車で走っていると、それを面白がったお姉さんがご飯に連れていってくれ、彼女の弟はおれの知り合いだったことが発覚する。街道のバス停で雨宿りしていれば、耳の聞こえない若い夫婦が家に招待してくれ、彼らの軽やかな生活ぶりに呆気にとれらる。彼らと別れた後、おれはどのように彼らと話していたのか思い出せず不思議な気持ちになる。その夜また1人、寂しさを堪えながら寝床を探す。


そのすべてが、生きるために必要なおもしろい体験でした。
この世界は、めちゃめちゃ不思議で自由でエキサイティングだったのだ。


価値のわからない「版画」にそれっぽい値段をつけて売ってみる
自分でもよくわかんない「タイヤひっぱり」を真剣にやってみる


これこそが
今のおれが、この世界への最大限のリスペクトを込めてまだ見ぬあなたに差し出せる(そして本来必要ないはずの) 狂った「秤」です

たよりないもののために

タイヤひっぱり27日目

「“おれの日常が、人々に特別な日をつくる“
って言ってたけど、それってどういう意味?やっぱりはっきりさせておきたい」
おととい別れた花蓮の彼女からメールが来ていた。
(おれの日常が、人々に特別な日をつくる??)
なんておこがましい。絶望的な気持ちの悪さ…10時間かけて弁明したいセリフ。
だが、たしかにおれはそう言った。
あれは彼氏を迎えにゆく車中でのこと
「あなたはなんでお金をもたないの?」と聞かれたタイミングだった。
お金を持たない理由なんて、『持ってないから』に尽きるのだが。
なんとなく、それじゃない100個の理由の方を聞かれているような気がしてしまい、ペラペラと語ってしまった。
こういうときは決まって後悔するけれど。今回のは凄まじい。
だがきっとこの後悔が本当なんだろう。
あらゆる言葉をつかって飾り立て、その本質的な気持ち悪さを隠していただけだ。おれの英語の語彙の少なさと、彼女の鋭さがそれを気づかせてくれたのだ。

【 漂泊芸能者 】
とういうのは、文字通り
放浪しながら芸をして生きている人たちのことを指す。
おれは学者じゃないし、そもそも興味のあるところ(自分に都合のよいところ)しか調べないから、これが本来どんな文脈で使われる言葉なのかは知らないんだけど。
「漂泊」×「芸能」で起こる可能性のことなら、実感をもって話すことができる。
上記の気持ち悪い発言
『“おれの日常が、人々に特別な日をつくる“』にフォーカスしてみるなら…
人々とは、ざっくりと“定住している人”を指す。
定住している人の社会には、その土地の地形や気候ならではのルールやモラル、信仰があり、利害関係を含む、人々の関係性がある。
そしてなるべく全滅のリスクを減らすべく、食料の保存が始まり、もしそこが稲作をするコミュニティなら、米を貯めれる奴が強くなり、貯めれない奴は弱くなる。利害関係を含む関係性(役割分担)はそこに由来する。
彼らには生きるために関係性を維持する必要があり、その日常にメリハリをつけるためにお祭りなどハレの日がうまれる。コミュニティの機能をメンテナンスするためだ。ハレとはすなわち、みんなで非日常な体験をするための演出なんだと思う。

踊りや太鼓、酒、仮面などの非日常演出の1つとして、得体の知れぬ(特殊な特技をもった)よそものストレンジャーはうってつけの存在になるのだ。

折口信夫の「まれびと」に関しては以前の日記にすこし書いたけれど、それを再び引っ張ってくる。

神さまは定期的に外界からやってくる(盆踊りなど)→外界からやってくるもの(異人)も神さま的な感じがする→結局世界は「自分たち」か「それ以外」だよね→「それ以外」は畏敬の念をもって歓待しよう(お祭りに出てもらおう)→ 流浪者の派生

これも定住側の視点だ。
じゃあ、流浪者側からみたらどうなるか。

おれは生きにくい世の中に生まれてしまったな → この村にももういれないだろう → よそにいって住んでも同じだよね → いっそ住まないでみようか → 意外といけるぞ → なるべく珍しく不気味で派手な雰囲気(技)がいいのかも → 漂泊芸能者の発生

って感じだろうか(しらん)
旅芸人、見世物小屋、曲芸師、ホイト芸、サーカス芸人、
彼らは磨く技の他に、特異な雰囲気をつくること(非日常的演出)にもかなり意識的であったのではないか。しかしその本質的なライフスタイルの違いから、演出した雰囲気にすら意図せぬ微妙なズレが生まれ、わからなさ不気味さがより一層複雑なものになっていたのではないだろうか。


「非日常の演出」とは少し違う角度からもう一つ言うと。
『漂泊芸能者は、村の利害関係を一切無視して村を出入りできる』ということも重要であるように思う。
誰の味方もせず、だれの助けにもならないからこそ、“起こせる出来事”はなにか。

おれは昔から、そういう村おこし/コミュニティデザイン的視座から考える、『よそもの表現者が起こすミラクル』がすきだ。
実際に山奥の村で行った自分勝手なアートプロジェクトが、意図せず村の関係性をかき混ぜ、風通しが良くなったと各方面から不本意な感謝をされたことがあるし。
東北の農村に突然現れた舞踏家がちんこ丸出しで踊り狂い、それが伝説的なストーリーとなり、今でもその村の人々のアイデンティティになっているという話も知っている。


漂泊芸能者にしても、よそもの表現者にしても、
おれが好きなのは、両者がまったく違う行動原理で動いていそうなのにもかかわらず、みずからの都合で利用し合う(もしくは無関心の)中で、寄り添いあわずして、1つの健康的な関係性を築いてるように見えるところである。
そして両者の間にどのような秤が存在するのか(しないのか)、わからないことも。




もし実際に、おれが旅芸人の時代に生きていたとして

旅芸人がやってくるとき、村に住むおれはどんな気持ちになるんだろう。
いざ、村にゆくとき、旅芸人のおれはどんな気持ちなのだろう。

ぜんぜんわからないのだ。想像できないのだ。それはおれが今まで経験したなににも似ていないのではないか。

共感しようとしないことから広がる世界は、実はものすごく広く、豊かなのものでなんじゃないか。
おれはそういうことを確かめるためにあるきたい。


そういうようなことを話したかった。
でも彼女に伝わったことは
「おれの日常が、人々に特別な日をつくる」
になっていた…


おれは今までこういうような話を「人間社会のハレとケの普遍性」的なニュアンスで語っていたけれど、そうじゃないんだろうな。

彼女の質問に戸惑いながら考えた、今のおれの大切なことは、
まれびとの社会的機能ではなく、おれ自身が派手で不思議で不気味なものになることでもなく、誰かにとってのスペシャルな存在としてハレを起こすよそものとしてでもなく、
『異なる彼らを繋いでいたのは、いったいどんな秤だったのか。
秤で説明のつくようなものだったのか。』

それを身をもって探ることなんだと思った。

いとも簡単に無かったことにされてしまうような、たよりないもののために。

この1ヶ月の自らのふるまいを見ていてそう思うのだった。

もし次に、『お金を持ってないから』以外の理由を言わなくてはならない時が来たとしたら
はっきり簡潔にこう言おう。
⚫︎秤にのらないものと出会うため
⚫︎たよりないものになるため
わかりやすくてグッドだ!



補足として
「たよりないもののために」これはやさしい言葉で、この歌をうたう人もやさしい人だけど。

おれは、たよりないもののために、たよりあるものを破壊したりできる。
具体的に言えばコンクリートをぶっ壊したりしたい。
人知れず咲いたタンポポを守るためじゃなく。
その暴力の中でしか輝けない、たよりない美しさのためにだ。



ならばこのタイヤひっぱりは、どんなたよりないもののためになるんだろう…

スイカ農場のこども

タイヤひっぱり28日目
この日泊めくれた家族は、でっかいスイカ農家だった。
6歳と1歳くらい(?)の子供を連れたお母さんが声を掛けてくれたのだ。
家にいたおとうさんはがっちりとしして、日焼けしたハンサム33歳。
スイカの農地に連れていってもらったが、本当に巨大。
こんな大きなスペースをよくぞ、、と思って話を聞いていると、ここはもともと不毛の河川敷で、夏に台風がくるとすべてが川の底に沈んでしまう。そんな難しい土地を、彼のお父さんが少しずつ工夫しながら今の巨大農地に仕立て上げたよう。ちなみに川に飲み込まれてしまうのは今も同じで、台風が来る前に収穫し終え、台風がくれば一族そろって休暇が始まるらしい。
地球のリズムを受け入れる。
このような慎ましい態度で、ここまで巨大な単作を行えるなんて、、!
一族で経営しており、今ではりっぱなブランドになっているそう。

彼らの4人生活は、だれもが羨むようなステキな核家族だった。
ヒノキの木造で、結構古い家をいやらしくないやり方でリノベーションした感じ。
室内至る所から、気取らないこだわりが見え隠れする。
ワンピースのフィギュアが並んだり、ルフィの海賊旗が飾られていたりしてるのも好き、居心地がよかった。
超充実のキッチンにはみたことのない調理器具が並び、広いリビング、夫婦の書斎、独立した部屋が3つに、2階もある。おれは贅沢にも、そのうちの1つの部屋を自由に使っていいと言われた。
子供達は最初はおれのことを警戒していたけれど、一緒にレゴをして、隣でご飯を食べ、テレビゲームをして、ってやってるうちに完全に打ち解けた。
レゴでクレーン車を作るときなんかは、おれが楽しめるように色々と気を配ってくれているのがわかった。小学1年生くらいって大人が思っているよりも、ずーっと色んなことを考えてるんだと思う。おれもそうだった気がする。
そういえば、ニンテンドースイッチ初めて触ったけど、あれめちゃすごい、めちゃたのしいね。

お母さんが作った料理は、台湾にきて食べたものの中で一番美味しかった。
何種類ものおかずがならび、どれもこだわり抜かれてる感じ。あれを子供2人(1人はよく泣く赤ちゃん)の面倒を見ながらやるって、、想像を絶するが、全然へっちゃらって感じに見えてすごかった。

夜はお茶とコーヒーを作ってる若い人たちのもとへ案内してもらい、お茶づくり工場を見学した。
発酵したお茶をいろんな種類、たくさん飲んだ。全部おいしい。日本でも発酵したお茶飲みたい。お茶づくりのすっごく奥が深そうなレクチャーを受けたけれど、それはあんまり頭に入ってこなかった、、。
あえて地方を選ぶ、クリエイティブな30代。
そんな人たち特有の“頑なさを秘めたしなやかさ”、これは日本も台湾も同じなのかも。

翌朝、6歳のボーイはおれと別れるのを少し寂しそうにしていた。
目の前で版画を摺り、それをあげる。
版画を摺っている途中、ボーイはお母さんからケータイを借りおれの動作を記録した。
なんとなくそれがおれの行為を引き立てるためのパフォーマンスにみえて、一層彼を、おれの幼い頃に重ねる。


むかし母が本を読みきかせてくれていた頃のこと。
主人公の家に旅人が訪れるストーリーがあり、それを読んだ母が
「ああ、わたしもたっぺい位の頃この本を読みながら (なんでうちには旅人こないんだろうな〜)って思ってたよ、」
と呟いたことがあった。
おれにだって幼少期に言葉の通じない旅人とかかわる機会なんてなかったけれど。
きっとボーイは、あの版画を一番大事にしてくれるんだと思う。
大事にしなかったとしても10年後ソファの隙間から出てきた版画をみて、埃をはらい、そっと自分の机にしまったりするのは彼なような気がする。

SUMMER

タイヤひっぱり29日目。
完全に夏。
あれだけ鬱陶しく纏わり付いてきた雨や霧は消え、太陽が両脇にひろがる若々しい田んぼや南国の木々を照らす。その熱で湧きあがる靄は、両脇の山を実際よりもうっすら遠くみせる。
今日はテントで起きた。
花蓮から台東に向かう途中である。
台東までは、「海ぞい崖の道」と「山あい農地の道」の2つがある。
福島県でいう浜通り中通りって感じだろうか、海は基隆-宜蘭 でいやというほど見てきたので、中通りを歩いている。
台東までは残り70キロくらい。
この台湾にきて、一番のどかでうつくしい景色だ。
歌いながら草の束を担ぐ人とすれ違ったする。
色とりどりの見慣れぬ草花、大きい蜘蛛と逃げてくトカゲ、木に吊るされたブランコは風に揺れて。
オレンジや水色にあせた屋根、白い塗り壁、カラフルなレンガ、ちょっと錆びた緑のトタン、古いコンクリートの家、根と幹がわかんなくなったの巨木の下に置かれたベンチ。
おれは汗でビチョビチョになったTシャツを脱ぎ、上裸になって、ぐいぐいあるく。
またこうやって裸で歩ける時がきてうれしい。

原住民についてのモヤモヤはいったんケリがついた。
アミ族の彼と、夜通しそのアイデンティティの在り方を語り、その後グリードアイランドのカードで遊んだこと。
花蓮の彼女が
暗い浜辺で荒波を背景に立つおれの写真に「ハロー、ハロー、この土地の魂たち」
とキャプションをつけたこと。
今朝、テントを干している間に読んだ司馬遼太郎の本に、
高砂族(原住民)たちの名誉を重んじる気質を武士道として理解した日本人が多かった。
と書いてあったこと。
それがなにかと言われても、よくわからないが。
おれはこの旅いちばんの明るい気持ちでタイヤひっぱりしている。

田園を通る電車を撮ってる男に会った。同い年くらいだろうか知的で優しい雰囲気。少し話す。
そこからちょっと歩いたところで休憩していると、一度別れた彼がまた話しかけてきた。
「よかったらうちに泊まっていかないか?」と言う。

辿り着いた家は、これまた3階建ての大きい家。
彼は、この地域の美術館で働いているらしい。この巨大な家も、美術館を運営する財団の持ち物とのこと。
同じ職場のルームメイトの女性も現れる。
彼女の専門はランドスケープデザイン。
彼の専門はドラマトゥルク。
彼らの仕事は、美術館の運営、滞在作家のマネジメント、地域の学校での教育普及、地域のお祭りの実施、原住民の村との交流。
などと多岐に及び、とても楽しそうに仕事の内容を話してくれた。
「明日、ハイワン族の村にいくけど一緒にくる? 電気やガスがなくて苦労するけど、」と彼女が言った。
フィリピンの原住民とハイワン族の交流プロジェクトを進めているらしい。

むろん、YESだ。
行かない理由などあろうことか、!

血の通った方法

タイヤひっぱり30日目

- 血の通った方法で知りたいのなら -
知識人の知り合いから、こんな風なメールが来ていた。台南にあるグッドな資料館や活動団体を紹介してくれている。かれとはだいたい4ヶ月にいっぺんくらいしか会わないが、その度に大切な言葉をもらっているように思う。

この道中、たびたび頭によぎる「時制と人称」という言葉をくれたのも彼だ。
おれが吉祥寺で個展をやったときのこと。
彼に休日のイベントを1つ依頼し(たしか記録と体験というテーマだった)、大々的に宣伝したら若者が大勢集まったんだけれど、なんというか取り留めのない、根も葉もない言い方をすれば内容のない、結果として無意味なイベントになった。東京の休日に1000円なりを払って参加するようなイベントで期待されるようなインプットは、ほぼなかったのではないか。ぼんやりと始まってぼんやりと終わってた。
おれの(主催者として訪れた人を満足させなくていいのか、行方しれずなこの会の曖昧さを放置していて良いのだろうか、的な)葛藤もそう長くは続かず、だんだんどうでもよくなって、みなと同様、ポカーンとしたり、向かいに座る人の寝癖をみたり、うたた寝をしたり、誰かの発言に相槌をうったりしていた。といっても誰かが積極的に話しているわけでもなかったのだが。(なんだったんだ)
記憶も曖昧なんだけど、「だんだん全ては無意味だよね、」みたいな雰囲気になってゆき、謎の合意形成が起こっていたような気がする。机を囲んだ若者20人みなが、この集い、というかそもそもの、この世の無意味さを共有してしまったような時間だった。
無意味なら仕方ないね、と、イベントは終わりにしみんなで夜の公園に遊びにいった。
20代も後半に差し掛かった大人たち20人ほどが、なんのルールもなく、住宅街の隙間の公園で、ボールを蹴ったり、焚き火をしたり、ブランコに乗ったり、手持ち無沙汰になったりする。
1時間ほど遊んで解散となった。
おれは帰り道、個人的な興味としてこっそりと彼に聞いてみた。
「その無意味さを、おもしろがるにはどうすればいいんですか?」
かれは、端的に
「時制と人称でしょ、それをバラバラにしてしまえばよい」
まさか、一言で済ませられる答えをもっていたとは、、と驚くも。その答えの難解さは謎をさらに深める。だけどさんざん焦らされたあと、おれにだけ教えてくれたその言葉は我がボディーに深く刻み込まれているし、ほかで体験のしようのない、あの宙ぶらりんで不思議な集いにあった我がボディーも、今はここにある。

泊めてくれた彼らの美術館にいった。
穀物の倉庫を骨組みそのままに、イケてるミュージアムにしたところ。しかし、おれが見学にいったタイミングで大型トラックが突っ込んできて美術館の屋根が壊れてしまった。ちょっと面白い。そして展示はもっと面白かった。
東洋と西洋の間で、ひとりの台湾人(70歳)画家・美術史家。
東洋の絵画に自画像という概念が存在しなかったこと。
中国の墨で描くような風景画は、体験した風景が自身に混ざり合ったタイミングで長い巻物(別の時空間)に描かれていたこと。(キャンバスとイーゼルを持ち運び、その場で目に入ったものを四角い画面に収めるのではなく、)
山や川の動きを、動く体に宿すこと。変容を起こす時間の存在を前提としていること。内と外の境界よりも、運動エネルギーによって世界を捉えようとすること。
台湾の地で出会った複数のアイデンティティに、「我々」のあり方を考えさせらる。
この旅でおれは「ひとりの東洋人として、自らのバックグラウンドを知るべきだ」と強く思うようになっている。逆にいえば、日本というフレームの心許なさ、虚しさを感じるようになった。
知るべきは西洋と日本の関係ではないと思う。少なくとも今の私に、西洋の思考を無理やり体に取り入れようとする必要はない。
「私は東洋人でありアイデンティティは日本にある」くらいの感覚で過ごすのがちょうど良いのではないか。おれはそうする。そういう順番でやることにした。
おれの土台はなんだろう。
おれはどこに立っているのだろう。
日本、東京周辺で考えても、比較的近しい人たちの活動をみていても、どこにも所属する気持ちになれない。
おれが(彼らが)立っていると思い込んでしまう、地盤はどこのだれによってつくられたのか。おれのこの考え方は誰がなんの目的で植え付けて来たのだ。
旅は、自らの同一性のなさを、これでもかと突きつけてくる。

やっぱり台湾はいいなとおもった。
その歴史、地理が物語るように、異なるアイデンティティが同居している。かれら(少なくともおれがあって来た人たち)は異なるアイデンティティとの関わりあい方をしっている。そしてそれぞれが皆不安定だ。
宜蘭会ったカナダのジュリアンが、最大限のやさしさ(おれに対する)でアポロジニーについて語っていたことを思い出す。たしかカナダは多民族国家だった。
台湾で出会う人文系プレーヤーのもつ慈しみの正体。これは、“異なるアイデンティティをもった隣人”の存在によるところが大きいのではないか。属性の異なる隣人の子育てを、その子供が大きくなってゆく様を、近所の公園で友達を走り回っている姿を、嬉しく思ったり微笑んだりする時間が作り上げたのではないか。
かれらの語り方、間の取り方、声のトーン、表情の切り替え、などから滲み出る優しい雰囲気は自身の主義主張のもとでなく、血の通った慈しみ由来でありありとあり。
おれが彼にまた手紙を送ると、

東洋医学の治療院で育った身としては、西洋的な主体/自己に限界を感じるとともに、西洋的な道具の良いところは十全に活用したいとも思う。
ー柔術を吸収した総合格闘技や南方熊楠の研究・実践のように

絵画でも、文人画や禅画のように、形態的イメージと言語イメージをぶつけて飛び散る火花を平面に/平面から飛び出すように定着させようとした表現に可能性を感じるー仏道が、瞑想をはじめとした身体技法と仏教哲学の両輪によって走破しようとしたことと同じベクトルをさしているはず。

自己は、現象(自己と他者の弁別が無効となって渦になる時空間)のきっかけ、くらいがちょうどいい。

と返信がきた。
ここでの引用に関しては、かれに許可をとっていない。そんなことをしたら野暮ったいと思われるだろう。彼のいう「時制と人称」というのはおそらく、芸術の身体性感受性から着想したこれからの人間の繋がり方に関する1つの提案なのだと思う。
難しそうに聞こえるが、本当は簡単なことなのだ。
みんな同じ人間だ、お互い尊敬し合いながら楽しく生きてゆこうよ。
ってだけの話。
“彼ら”は弱いわけでは決してない。
今所属することになってしまっている、社会の構造がそうさせているのである。
社会をつくる!社会を選択する!社会を脱する!
というのはもともとマッチョな人が考えられること、ということにはだんだん気づいて来たが。意識の持ち方で、その意識を共有してゆっくりとでも実践してゆくことで、今、所属してしまっている社会の機能を無効にしたりすることはできると思う。
おれは定住(所属すること)は苦手だから、“特定の属性の人たち”のためにという動き方はできないが。
しかしまてよ、と考えてみればまた、未来が広がってくるのだった。

表情

タイヤひっぱり31日目。

パイワン族の村で生活している。
縦床式住居に寝袋を敷いて、4人のおっさん達と、囲炉裏を囲んで雑魚寝をする、数日一緒に過ごしていてわかったが、おっさん達は族長の家の庭の工事に来ているよう。おっさん達の中に1人青年が混ざっていて、そいつはいつもfacebook line instagram を順番に点検していて、他のことにはあまり興味を示さない。たまにビールを買ってこいと言われてバイクを走らす、おれは、アイパッドの充電器が壊れてしまっているので、そいつに充電器をかりて、寝る。もう完全に檳榔が好きになってしまっていて笑える。おっさん達は皆、食べながら仕事しているけれど。おれは事あるごとにそれをもらい、この日は20個以上食べた。噛んでいるとぐうっと頭に血が上り、顔面が熱くなる、そのあとは魂の15パーセントが抜けてゆくようなフラフラと不思議な感覚が訪れる。ビールやタバコと同じで、味覚の世界で語るならこれは口に入れるに値しない、ただ単純に苦くえぐいものなのだが、慣れてくるとそんなことは気にならなくなり、脱魂の虜になってしまう。葬式のパーティーで机に置いてあったやつは、どうしてかあんまり味がしなくて、吐き出す唾液も赤くない。おれの唾液をみたおばさんが、葉っぱも食べないと意味がない、と葉っぱを食わせてくれて、そしたらちゃんと苦くて、赤い唾液がでた。檳榔はいつだって葉っぱに包まれた木の実なんだけど、この葉っぱがそんなに重要な役目を負っていたとはなあ。おっさん達は大体みんな腕に刺青が入っている。これがパイワン族の風習らしい。リストバンドのようにぐるっと巻かれた線の文様を指差しながら「こっからここまでは神さまで、」と色々教えてくれた。バーベキューが始まって、どてっとした肉塊が金網に並べられている。色の感じから最初は魚かと思っていたけれど、ボールのような塊が猿の頭部だと気づいたタイミングでそれらが切り分けられた一匹の猿であることを理解した。ツイッターでそれを呟くと、知らん人が「猿の脳みそは珍味。絶品」とリプを飛ばしてくる。この村でも、おれは子供達からおそれの存在として君臨していて、子供達は4、5人のグループをつくり、暇さえあればおれの元に訪れ(どうやっておれの居場所を知るのだろう…)目を輝かせながらからかってくる。驚かしてくるのを期待しているのだ。そして対するおれも、子供驚かすのを喜びとしており、その方法を常に探求している。一切の共感を与えぬこと、常にタイミングをずらし呼吸を乱すこと、肉体の硬直した軟体動物であること。緊張のはけ口を予想外の場所につくること。おれに師匠はいない。これらはすべて独学で身につけたものだ。地元の友達10人の連れ立って歩けば2人くらいは英語話せる奴がいるもんだけど、そんな感覚で日本語を話せる人がいる感じがする。おれが紛れ込んだ葬式のパーティーでは、おれに酒を飲ませようとおばあちゃんが囃し立ててきた「のむならのむよ、のむならのむよ、さあさあ乾杯いたしましょう〜」と台湾南の原住民の村で、まさかこんな歌をきけるとは思わなかった。たくさん飲んだ。ハイビスカスの焼酎がうまかった。ここにつれてきてくれたお姉さん、ニニは山の上に小屋を作っていて、それを見に行った。絶景。高い山の上からはるか遠くの海まで見えた。族長のサキヌがすでに作業していた。おれがくると、おれをみて話しだす。「昨日は忙しくて君とはなす時間がなかった、それを謝ろう」という言葉からはじまった。おどろいた。話は20分くらいつづいた。当たり前のようにニニが通訳してくれている。これは相互的なコミュニケーションではなかった。サキヌはおれに向かって、一方的に、おれに関係のないことを話し続けていた。サキヌにとっての先祖、サキヌにとってのこの一族、サキヌにとっての森、サキヌにとってのこの景色、サキヌにとってこの出会い。彼の目はどこまでも澄んで透き通り、表情は混じりっけのない自然な笑顔(一切のごまかしや卑屈さのない)、そのすべてが誇りと自信にあふれていた。おれは日本で出会う大人にこのような瞳をしている人をみたことがない。断言できる。日本でもあるいは江戸時代の侍なんかにはいたのだろうか、こんな男が。自らの誇りと正しさのために肉体と魂を鍛えあげ、先祖から信念を誇りをもって受け継ぎ、家族を守る、強く優しい矛盾なき男。しかしかれを前にして、おれは自らの卑小さを恥ずかしく思ったりはしなかった。ただただ、かれの表情、瞳に惹きつけられ、吸い込まれてゆくのだった。おれもここで生まれ育ちたかった。彼をみながら大人になりたかった。おれは未だ嘗てないほどの集中力で、小屋づくりを手伝った。ニニが「たっぺいはタイヤひっぱりで環島してるんだよ」とサキヌに話してくれた。サキヌはたいそう喜んで「君はサムライだ。サムライは自分の信念のために肉体と魂を鍛える。」と褒めてくれた。超嬉しいのだった。おれは7月末の誕生日に再びここにくることを決めた。それとは別に、村の子供達からは「幽霊」と呼ばれるようになっていた。おれは浜辺があるたびに岡田さんを想いながら踊るようにしているのだが、最近なにかを掴めてきているような気がしている。だけど、アスファルトの地面や人がいすぎるところだとあまり集中できなくて、砂と波の音がないとだめ。おれがビーチで1人踊っているところを、子供達の偵察隊目撃したらしい。「たっぺいは砂浜でゴーストダンスをしているの?」村の大人達に聞かれる。また別のタイミングで僧侶のようだねとも言われたから。おれは「侍、幽霊、僧侶」の性質をもったタイヤひっぱり男になれたのか、、!なれてはないだろうが、いずれなりたい。それを大事にしよう。そういえば葬式は今までみたことのないような派手派手の極彩色だった。白い鳩が舞う青空を背景にした巨大な遺影。会場は蛍光ピンクのカーテンで覆われている。原住民の村の葬式がこんなにも振り切った方法を採用しているのはちょっと面白い。キリスト教と中国の風習が混ざっているのか、墨で書かれた「芳流」「存長」なども文字もいたるところに貼られている。しかしこの色彩感覚はどっから現れたのだ、彼らの衣装や刺青、彫刻、などがつくる世界観とはまったく別物である。時間があれば調べてみたいけれど。おれが寝てる高床式住居の斜向かいには立派な教会があって、昼寝をしていたら賛美歌(?)の合唱が聴こえてきて心地よかった。彼らを支援している人たちはニニを含めて4人会った。全員若い女の人。みなインテリで、大学で研究室を持っていたり、役所で勤めていたりする。プロジェクターを使ってフィリピンの原住民の村で交流会計画(旅行)のプレゼンを行なっていた。“支援”とは、これからの生活を“一緒に考えてみる”ことだと思った。それは決して、助成金を取ることでも、文化を頑なに守ろうとすることでも、他所のものを拒絶することでもない気がする。外では、弓矢の使い方講座が開かれている。地元でやってた小学生の土曜講座のような雰囲気。アーチェリーようの手袋をつかっているのが良い。おれはここにきてよかった。そしてこの村の人々のような表情を持てない、日本での生活を悔しく、虚しく思うのであった。

人の自然

タイヤひっぱり32日目
アンちゃんの山奥の家にきた。
大学をやめて、1年間日本でワーホリし、今は山奥で木の廃材を小さく切り分け首飾りをつくる一家に居候して暮らしている。彼女はまだ23歳である。
だけどおれもまだ26歳なのか。実はおれもめちゃ若いのかも、ペーペーなんじゃないの。
彼女と将来の話をした。
アンちゃんは、いずれ自分のイラストの製品を作ってそれを売りながら自分の山暮らしをつくりたいらしい。おれは、まだ将来のやりたいことを決められていないから、今はいろんなことを知るための旅をしていたいと言った。
その後、お互いの作品を見せ合っていたら、スケッチブックから芸術探検のメモが出てきたので、それを説明していると(おや、おれはやりたいこと相当見えてるじゃん、これでいいじゃんか、この通りやればいいじゃんか)と思うのだった。変なの。
ムサビの教授の中島先生が(直接話したことないが)

作品を「人工物」と考える人々は、そこに作者のメッセージが込められていると思い込む。しかし、作品とは、たとえ既製品を用いようが「人間の自然」なのである。この「人間の自然」がわからなければ、自然素材を用いることが「自然」に近づくことだと勘違いしてしまう。

とツイートしていた。彼、どんなモチベーションでツイッターやってるんだろう。毎日すごい気づきを与えてくれる。
あの時、あの高円寺のボロアパートで、岡田さんに話したかったけれど言葉が見つからなかったのは、このことなのだ。「人間の自然」について彼と話してみたかった。あの時は、曖昧な疑問を投げかけただけで終わってしまった。
おだがい「うーん」と言い合ってタバコ吸って終わってしまった。
台湾にはベジタリアンの人が多い。アンちゃんも山の生活をはじめるにあたって、肉を食べるのをやめたらしい。
「その方が自然に良いから」と言っていた。
居候にもう1人、21歳の女の子がいて、すっごく自然な笑顔の人だった。赤ちゃんを抱きながら犬の毛づくろいをしたりする女の子。彼女はめちゃめちゃさりに似ていて、顔つきや靴を履かないところ、髪の毛の細さなんかも。本当に、そっくりさんっているよね。笑顔っていうより、なにかを面白がってるのかな。なにかが可笑しくて笑っているのかもしれない。そんな感じの笑顔。豆乳温めている時も笑ってたけれど、なにがおもしろかったんだろう。
正直おれも中島先生と同意見で、自然素材を使うことが人の自然なのではないと思う。木や布のぬくもりが好きなのはよくわかるけれど。
関係あるかわかんないけれど、秋田のプレゼンに「現代アート的なもの」という表現を当たり前のように言ってのける奴がいて驚いた。こんなにもうんざりする言葉はあまりない。現代アート的なものってなに?と聞かれて「現代アートをやっていると思っている人が作ったもの」とか言ってて、「まじめにやれ!」と思った。てか会話の中で現代アートって言葉を定義の共有なしに使う無神経なやつとは関わりたくない。最近みた保坂和志のテキストに「哲学界には“思考の権威”と“真理の追求”の2つのタイプがいる」的なものがあったけれど、思考の権威みたいなやつらほんと近寄ってくんな。そして会話の中で使う現代アートって言葉が、お前の視野の狭さを誤魔化すためにしか機能していないことを早くしれ。以上。
2日前。原住民で土木作業員のおっちゃんが、森の大木を切り倒し、枝を取っ払い、なん等分かに切り分けて、丸太にするまでも超高速でやってのける巨大重機の映像を、スマホのユーチューブでなんども見て、おもしろそうにしているのを見ていた。圧倒的な暴力性をもったハイテクマシン。おれは同じ動画を見たことがある、たしかツイッターで流れてきたんだと思う「これにときめくのが男子なのだ!」的なコメントが付いてた。

タイヤひっぱりで地球を歩くことは。正直、自然さのかけらもない。そんなことをやるのは不自然だ。でもおれはこういう事をやっている時に一番清々しい気持ちになれる。
この前、武士ということばが出てきたから考えてみるが、武士は切腹という超不自然な行為によって、自らの命が自らの意思のコントロール下にあることを証明する。その周りには、それを前提にしたコミュニケーションと行動様式が生まれる。

中央広場でいつも瞑想してるの、全然自然じゃなかったよ。異質だった。それでも彼は、きっと無理をしてでも自然な風を装い貫ぬき通すことによって、ゆっくりと彼にとっての自然を獲得してゆき。あの場の風通しを良くし、ほかの様々な活動と交流を生んでいた。彼の瞑想やふらふら歩きがその土壌をつくっていたように感じている。あの時期あの世代の身体表現・パフォーマンス表現に関する柔軟な跳躍力は、彼が不自然なまでにコントロールしようとした自らの言動の蓄積、その恩恵だったのではないか。そしてその流れは時と場所を超えて色んなものと混ざり合いながらいまも大いに続いているように感じている。

複雑な世界に生まれてしまったけれど、まだまだやっていきたいと思う。
ぜんぜんこれからだと思う。

歩くスピード

タイヤひっぱり35日目

海岸線。
はるか遠くの岬に向かって、考えごとをしながら歩くのはよい。水平線で気分が遠くに広がってゆくのがよい。人と話したり道を選んだりしない分、脳みそにスペースができるのかな。「タイヤひっぱりで台湾を歩いている」ってことをまったく意識しなくなる時間があって、だけど歩みは止まらず、目や耳は危険を察知するために働き続ける。遠くに見えてた岬がいつのまにか近くになっているのに気づくと、「ああ、そういうば今歩いているんだった…」みたいな不思議な感覚に包まれる。たぶん、考え事をしようとカフェに行ったりするよりも、ずっと集中できているし、いろんなアイデアが出てきている。

途中、工事現場のおっちゃんたち(みんな刺青あり)に招かれたので、そこで休憩がてらアイデアをワープロで言葉にしてみたらなんにも内容がなくて驚いた。あんなに最高の企画だ!とワクワクしていたのに、いざ、その魅力を文字情報にしようとすると、こんなにも味気のないものになってしまうのか、少し飾り立ててみると今度は嫌味ったらしいものになった。

しょんぼりとかなしくなる。

その後の道中はずっとかなしみを感じながら歩いていた。
このタイプの悲しみは、思えばずっと昔から抱えているような気がしていて、いったいなんだんだろうって、考えながらあるく。

そして気がついたのは、「ずっと文化祭をしていたい」っていう心の奥底にある感情であった。本当のおれは文化祭をしていたかったのだ!だから文化祭ができないほとんどの日はかなしい。ほかのことをやって気を紛らわせることはできるけれど、いつだって俺が欲しているのは文化祭なんだ。

これは重要な気づきだと思い、重要な人に報告すると「ラムちゃんみたいだね」と言われた。
おれは馴れ合いが嫌いだったり、反骨精神が強かったりするのに、なんで文化祭は好きなんだろう。それがわかんない限り、憧れのお祭りディレクター的な仕事はこなせないのだろうなって思った。

とにかく今はタイヤを引きづろう。

遠くで路地でバスケをしている子供達(小2くらい)がいて、おれも入れてもらった。ゴールの高さは160センチくらいで、小2でもダンクできる。ドリブルが超うまくて、めちゃくちゃすばしっこくて驚いた。おれはゴール前(上?)でのシュート(カゴの上からボールを落とす)だけは自らに禁止し、しかし他のすべてを全力でやったけれど、なかなかいい勝負だった。子供らは、軽やかに柔軟にすばしっこく、得点していった。

夜も深まってしまったが、やっぱりもう少し歩こうと思った。真っ暗闇の山に入ってゆく。
この道の先にあるのは、台湾の西側。

そうかこれで、東の旅を終えたのか。美しくのどかで人生に満ちあふれた土地だった。

暗闇で視界の情報がなくなると、さらに集中して歩けるようになった。多分結構な山登りなはずなんだけど、あんまり大変じゃなかった。これは引き算だ。物と同じように「情報」も減ればそれだけ体は軽くなる。

移動に関しては「物」「人」「情報」を分けて考えるようにしているのだが、この旅で「人(俺)」の存在が薄まり溶けてゆくような感覚はなんどもあった。それは移動が促しているような気がしているけれど、どうなんだろう。

山にはすっごいたくさんの蛍がいた。
車が通るときはライトで見えなくなるけれど、おれ1人になると視界いっぱいに蛍が広がる。きっと車の人たちは見れないのだ。自転車でも見えないだろうな。というか自転車はこんな時間に走らない。

歩くスピードだからこそ確かめられる世界をかみしめていた。

おれが使う謝謝という言葉は、“ありがとう”というよりも、“おれはあなたを受け容れる余裕があります”というようなニュアンスになってきている気がする。それだけでもとっても尊いコミュニケーションだよな〜、時に“ありがとう”よりも大事な場合がある。

途中から山のどこからか音楽が聞こえてきて、それがだんだん大きくなってきて、明るくなってる一帯がみえてきて、向こうの尾根に会場を視認できるようになり、ロックバンドが野外フェスをしているのだとわかり、逸る気持ちそのままに山を駆け上り、やっとの思いで辿り着いたタイミングでライブは終わってしまった。フィナーレの花火が俺の到着を祝福してくれているようで、なんでやねん!とつっこんだ。

もうちょっと早く着けてたらな〜と思いながら休憩していると、浮かれた家族がビールと弁当をくれたので、それを晩飯とする。

汗でリュックもびちょびちょで、内側にあるテントと寝袋まで濡らしていた。
濡れた寝袋いやだなって思いつつも、山に吹き抜ける心地よい風がそんなことどうでもよくさせてくれる。

平らな芝生に寝袋を敷き、シャワーも浴びずにそのまま眠る。
気候のことで神経質にならなくていい生活。電車賃を考えなくてよい生活。それだけで、こんなに自由だったとはなあ。

夜空の星を眺めながら、東京で過ごした1年半を思い返すのだった。

ビリヤード台でねむる

タイヤひっぱり34日目
たんたんと歩く。朝に歩き、昼に休憩し、夕方から夜にかけてまた歩くってやり方で25キロ近く歩けるようになってきた。
今歩いている道は、地獄の蘇花公道に似ていて、山が差し迫る海岸線を地形に抗えぬ一本道がくねくねと、どこまでも続く。
最近のおれは、あんまりお腹が減らなくて、なにも食べず、食料も持たず平気で歩いていたんだけど、やっぱり夕方になると空腹で元気がなくなってゆき、途中から悲観的なことを考えるようになってしまった。道端でしゃがみこんで、リュックの中から食料を探す。猿がからかってきてムカつく。石を投げる真似をするが、逃げる素振りすら見せない。け、そんなだから撃たれて食われるのだ。
リュックをひっくり返すがなにもでてこない。うう、こういう時は決まって過去の自分が粗末にした食べ物のことを考えてしまう。一昨日は歩いてるうちにぐちょぐちょになってしまったバナナを捨てたんだった。うう。バナナ食べたい。
諦めずに探していると、1週間前くらいにもらった小さい昆布がでてきた。嬉しくて急いで口にいれると、昆布の出汁が口いっぱいに広がっていく。最高〜。途端に元気になってくるのであった。しかし胃に入れてからパワーがみなぎるまでの時間が短すぎやしないだろうか。なんとなく嘘っぽいな〜、と自分の体への疑いがでてくるが、おれはまた先へ進めるぞ!
というくだりがありつつも、昆布くらいでタイヤひっぱり成人男性の腹が満たされるはずもなく、根本的な空腹を抱えたまま歩き続けること3時間。夜の9時くらいになってやっと街についた。ナイトマーケットの輝きに目がくらむ、こんなに田舎の村でもこんなに盛り上がるのか、、!ナイトマーケットというのは大通りに面した路地とかで開催される屋台の集まりで、明るくごちゃごちゃしていたところで賑やかにご飯を食べ、子供達ははしゃぎまわる台湾カルチャーである。おれは楽しくなってしまい、寿司5貫、ホットドック、まるごとステーキうどん、台湾ビール(瓶)などを爆買いし、大事にしようと思っていた昨日貰った400元をほとんど使い切ってしまうのだった。
バカぐいして幸せだった。
子供が集まってきたので似顔絵を描いてやった。やっぱりずっとやっていればこなれてくるもんで、今ではその場にある適当なペンと紙でスラスラ描ける。自分の線の感じを生かしながら。ペンに力を入れすぎないことが大事かもね。もうちょっと芸風を固めたら自慢できる特技になりそう。
子供にも飽きられ、おれも飽き。ナイトマーケットを去ることにした。檳榔の酩酊感も手伝い、超気持ち良いふらふら歩きで寝床を探す。
ビリヤード台がある家があった。
おれはビリヤードを一度もやったことがない。上手な人の映像をみるのは嫌いじゃないが、自分がやるのは気分がのらない。うまくできないに決まってるし、だけど狙った玉に当てるくらいは普通にできちゃいそうな中途半端な感じが嫌。すぐ玉を打つのが面倒になり、ぐだぐだしそう。動きに躍動感がないもん。
とはいうものの、今の俺は気持ち良くなった酔っぱらいである「おやま、こんなところにビリヤード台、」と言いながら、座ってたじいちゃんに軽く会釈したあと、玉を打ち始めた。爺さんはよろよろしながら赤い玉や青い玉を台に追加してくれている。赤に当てろってことか?とやってみると、案の定簡単に当たった。しかし当てた玉が穴に入る感じはしない。この棒の持ち方もイマイチわかんないな。左手の指で穴をつくって、それで方向を定めていたような気がするけれども。そのうちコツを掴むかなとやり続けたけれど、どうしたって棒を押し出す方向がブレてしまう。やっぱりおれはスポーツに関しては上手い人におしえてもらうのが好きだな。その人が言ってることを自分の体で再現して、それが実感になる感じがすっごく好き。そういうえばおれが美大に入った理由は芸術家になるためでなく教員免許をとるためだった。先生になりたいというよりも、ソフトテニスを子供に教えて強いチーム作りたいって思っていた。美術の先生が一番楽そうに見えたから美術を選んだのだ。随分と違う未来になってしまったけれど、今も悪くない。俺が休憩してると、爺さんはよろよろと頼りない動作ですべてのビリヤード玉を端に寄せ、穴に落としてしまった。ゴロゴロと玉の落ちる音。ビリヤード台に手を置きながら「今夜はここで寝るといい」と言った爺さん。日本語話せる人だったのか。ここというのはビリヤード台のことらしく、この人にとってのビリヤードってなんなんだろうな、と思うのだった。

足跡だけちょんとつけ

タイヤひっぱり33日目。
プチ炎上時に擁護してくれた唯一の知らない人(お兄さん)からメッセージが来ていた、「台東にいるから良ければ会わない?」とのこと。
台東から少し外れたタンメン屋で休憩していると、その彼が入ってきた。
30代半ばだけれどめちゃ若々しい顔をしている。普段は台北に住んでいて、原チャリをゲットしたことに浮かれて台東まで来てしまったらしい。小学校から大学までサッカー一筋、その後消防士になって、お金が貯まったタイミングで車を買うか世界を旅するか考え、世界の旅を選択。その旅でコーヒーに目覚め、原宿のコーヒー屋で数年働き、今は台湾で中国語の学校にいっている。中国語の発音が好きだから、だとか。
背が高くてまっすぐな笑顔で、声がよく通る人。
簡単に挨拶した後、この前のプチ炎上の話になった。
しきりに、
「悪口言ってくるやつらバカだよな、理解できない。直接話してみたいよ、直接話したら全然大した奴らじゃないでしょ」
と言っている。まさに体育会系って感じの口ぶり。彼はネットで叩いてくる人たちのことを「ダサい卑怯者たち」的なニュアンスで語っている。


「僕らが彼らを理解できないように、彼らも僕を理解できないんじゃないの。わざわざ会いに行っても良いことないと思う。」と返してみた。

その時のことを思い返す。
たしかに、全然まともに反応しなくていいと思った。よく知りもしないのにちょっかいかけて来る奴らの意見なんて、何一つまともにうけあう意義が見当たらなかった。おれは去年から初対面の人とはなるべく議論しないように決めているし(経験的によいことがあまりない)、嫌いな奴は相手にしないことにしたし、そもそもツイッターで意見の擦り合わせが行われているところなんてほとんど見たことがない。違う属性同士で行われる主なやり取りは、わかりやすいキャッチコピーをつけた紹介(消費のための)と、不毛な水掛け論ばっかじゃんか。
彼はすっきりしない顔をしているが、たしかにこれは体育会系の世界とは程遠いかも。おれもバリバリ現役の高校時代だったら同じように考えていると思った。運動部ってのは体と心のぶつかり合いである、その繰り返しの中で強くなり、世の不条理と、分かり合えた時の喜びを知るようになる。おれらはいつだって、ぶつかり合いの先には今とは違う関係生が広がっていったことを、経験してきたのだ。大学生になって始めて貧乏旅行にでた時も、部活がないことによるエネルギー発散のためってところが大きかった。いつのまにか随分違うところに来た気がするけれど、それらは全部繋がっている。
「てか、君めっちゃメンタル強いよね。どう思ってたの?」と聞かれ、
少し考えた後に
「本当のことを言うと、彼らの指摘がどれもこれも的外れで心に響かなかったんですよね、」と話した。

だけどもっと本当のことを言うと。
彼らが的を外していたのではなく、そもそも的が無かったんじゃないかな、と思うようになっている。
おれはインターネットで社会的な主義主張は表明していない上、「芸術探検・タイヤひっぱり」だって、おれが勝手に1人でやっているもので、なににも属しておらず、なんの責任もない。(かつ、よくわかんない)
なににも属していない=なににでも属せそうな感じに見える
ってことでもあり、知らん誰かが「旅人系」「芸術家」「目立ちたがり」「意識高い系」「大学を出た大人」「乞食」などとレッテル貼りに戸惑っている様子も、(ほほ、そうでしょ、大変でしょ?おれも自らのモラトリアムに苦悩してるんだよ、、)と共感さえ芽生えるのであった。そのうちの一つに「自称芸術探検家」ってのがあって愉快だった。
ちなみに今回のプチ炎上は、おれが3ヶ月前ツイッターを再開するにあたり考えてみたインターネットでの露出方針
⚫︎自らの人格とは切り離す
⚫︎なるべく多くの人(属性)の目に留まるよう心がける
⚫︎どのイデオロギーにも属さないように心がける(例えばアーティストっぽく振る舞わないようにする)
などが、見事に引き起こしてくれた状況のようにも感じた。
おれが欲していた刺激やインターネットの違和感、多くの関わりのない人々の潜在意識なんかが、おれの活動を通して表出してくるのがちょっとした快感でもあるのだった。
今ならわかるけれど、インターネットの炎上って火起こしみたいなもんで、薪の組み方次第で自分でコントロールできるようなところもあるんだろう。きっと炎上を肯定的に捉えてうまく活用している人も大勢いるんだと思う。
お兄さんはインターネットの向こう側の人を「敵」として、僕の肩を持ってくれようとしていたけれど、釈然としないおれの話し方に少しモヤモヤしていたかもしれない。


また会いましょうと言ってサヨナラをする。



やっぱり丸一日あるくとたくさんの出会いがある。その中には、物をくれる人たちもたくさんいる。
今日はパイナップルだったり、檳榔だったり、お茶だったり、パンだったり、タバコだったり、お金だったり、そういうものを貰いまくる日になった。
そういえば、この前たまたま道ですれ違った写真家のおばさん(花蓮でレジデンスしてるらしい日本人)に色々質問されたんだけど、「お金をもらったり、」の「お金」が出てきた瞬間、突然ヒステリックに批判し始めたの、ちょっときもいって思ってしまった。なんでパイナップルは良くてお金は嫌なんだろう。パイナップルもお金もそれを持つ人によって価値はそれぞれでしょ。過度な拝金主義者ってことでいいの?少なくともおれのこの旅においては、お金なんてあってもなくてもあんまり変わんないんだだけども。しかもあんたと全然関係ないし。
という、ちょっと批判的なモードになってしまっています。
いちど自分の立ち位置を確認しようと地面におりれば、簡単に人のことを批判できるようになってしまうんだな。いや、その批判行為こそが、自分の立ち位置を確認するための活動になっているのかもしれない。その表明がもたらす「安心」はたしかにある気がする。

殺伐としたイズムの地平で活動することは、底なし沼で足掻くようなことのように思える。やればやるだけどんどん体が重くなっていく。やればやるだけ断絶の深さへの絶望でいっぱいになる。人や社会を批判しつづけて疲弊し、動きが鈍くなってゆく人を大勢しってる。おれは、おれが真剣に生き残るためのことをやるよ。
足跡だけちょんとつけて、また宙にかえる。

夕日が差し込む校庭でバスケをした。
相手は少年。6点マッチの1on1。真剣勝負である。
「何才?」「16」「おれは26」「10も違うじゃん!」「おれバスケ部じゃないよ」「おれもだ」
台湾の若い人たちは英語を話せるので、こういう会話ができる。思えば今日はじめての英語でのコミュニケーションだ。(ほかの人たちとはほぼ全て身振り手振りだった)
20分の死闘の末、6対4でおれが勝った。
少年は「あんたの勝ちだ」と言って帰っていった。お互い清々しい笑顔だった。
こんな簡単な会話でもできたらだいぶ違うんだな、年齢をきいて答えてくれるってだけで、こんなにも安心できるんだ。

中国語を覚えようとしないおれを情けなく思うのだった。

よそものパーティー

タイヤひっぱり36日目。

朝から外が騒がしい、テントから顔を出し、近くの小学生になにをしてるのかと聞くと、運動会の準備だという。昨日のライブ会場はバスケコートになっていて、ユニフォームを揃えた屈強そうな男たちがボールを突いたりランニングしたりしている。

山の上だからかとにかく日差しが強い。じっとしてるだけでもじんわりと汗が吹き出しオレンジTシャツに滲む。逆に昨日の山登りでびちょびちょになった水色Tシャツは手すりにかけるだけでみるみる乾いてゆき、泥だらけの北斎Tシャツはリュックの底で眠っている。

3つのTシャツ。ぜんぜん洗濯できてないけどあんまり気になんないな。大雑把に過せるのが楽しい。
東京で病気してた時は、清潔が大事だと狂ったように洗濯し掃除してたけどなあ。おれはきっと汗を流す運動をしてないと身体が悪くなっちゃうんだと思う。中高はストイックな運動部だったし、大学でも体育大かってほどに朝から晩まで何かしらの球技をやっていた。さらに夏休みとかは自転車とかで遠くに出かけるし。思えば卒業後も、リアカーで歩いてる時は体調がよくて、展示したりバイトしたりする時期は体調が悪くなっていた気がするような。

それにしてもお金がない。15元しかない。
後半戦が始まってから2週間くらいたったが、この期間の収入は400元のみである。看板に版画500元と書いていたときは1日に2000元ゲットする日とかザラにあったのに。お金って欲しいと表明すれば集まってくるもんなのかな?

現金を持っていないからといって、特別不便しているかというとそういうわけでもない。看板に書かれた「食住⇆版畫」の通り、寝る場所や食料があれば、べつに欲しいものなどなかったのだ。むしろ看板を変えたことで、多くの人がおれの旅の趣旨を理解して面白がってくれるようになっている気もする。
看板、タイヤ、芳名帳のような版木、などから読み解けることはおれが思っているよりもたくさんあるんだと思う。

そんなことを考えながら山道を歩いていると、ついに次の村にたどり着いた。ここもパイワン族の村のようである。どういうわけかみなパーティーをしており、家の表に丸テーブルをだしてそれを囲うようにあらゆる肉やビールが並ぶ。おれは一つの家族(12人)のパーティーに招かれて、ベロベロになるまで楽しくのんで、くって、うたい、おどり、としているうちに眠くなってしまい、言われるがまま室内にはいり、ベッドで眠ってしまうのであった。

気づいた時にはもう夜になっていた。
フラフラしながら下に降りるとパーティーは終わっていて、だれもいないピロティーに空き缶や肉の骨が散らばり、外は激しい雨。みんなどこに行ったんだろう。

どうしようか、と思いながら途方にくれていると、泥酔したおっさんが1人現れ、なにかをおれに吐き捨てるように言った。おれは言葉がわからず、わかんない素ぶりをすると、おっさんはおれの荷物を抱きかかえ雨打ち付ける路上に放り投げて、「出て行け」というように腕を振り回しながら悪態を付くのであった。


驚いたけれどべつに悲しくはなかった、失礼なことをしたつもりもないし。そういうもんだよねと思った。いっときの感情で歓迎され、いっときの感情で追い出される。その一瞬に強く反応し続けることでおれは此処まで来れているんだから。

気持ちは昂ぶったが同時に、どこか安心できるような出来事でもあった。彼は彼でいいのだ、そしておれはおれでいい。おれはおれのことをやるぞ。

雨の山道をあるくのは何度目だろう。タイヤの音がシュルシュルと暗闇に擦れて響く。

賑やかでたのしい爆発

タイヤひっぱり37日目

山の村を追い出されたのち、おれは夜通しあるき、ついに念願の島の西側にきた。午前3時ごろ、ちょうど良い道の駅で眠る。

翌朝。近所の人に卵や芋をもらい元気をつけたあと歩き出す。
久しぶりにヒヤヒヤする道をとおる。照りつける太陽のもと、猛スピードの車やバイクがビュンビュン走っている。
これは大変、体力も神経も消耗が激しい。木陰があれば本を読み、本に飽きたら歩く。というようなリズムで進んだ。

大きいワゴン車がとまり、白い服をきた仙人?みたいな老人が7人、ヒゲだったりコブだったりを蓄えながら、ぞろぞろ出てきた。なにかの宗教なのかな、おれは今までこんな集団をみたことがない。彼らは優しく微笑みながら500元と蒸しパン7つとポテチをくれた。

「向こうにいったら寺があるからそこで休むといい」と言われる。

その寺では昨日の村と同じく、たくさんの食べ物でパーティーをしていて、それに混ざる感じになった。
どれもこれもすごく美味しい。魚や豚がふかふかとろとろに調理されている。

千と千尋の神隠しに、お父さんとお母さんが美味しそうなものをタプタプ食べる描写があったけど、本当にそんな感じのバイキング。
なんでパーティーしてるの?と聞くと、「この3日間は親戚で集まって墓掃除をする日なんだよ」と言われた。なるほど通りで。この3日美味しい物ばかりにありつけられているわけだ。

日が暮れるまで休憩したいと言っただけだが、どこで伝達ミスが起きたのが、敷地内にあるホテルの一室に連れていかれ、3日でも4日でもここで休みなさいと言われるのだった。立派なホテルである。共同運営なのかな。寺の中にホテルがあるのちょっと不思議。
せっかくだから今日はここで泊めてもらうことにした。

日が暮れて、ビールを買いに外にでると、子供達が花火をしていた。台湾では行事やお祝い事の度に、なにかを燃やしたり爆発させたりする。

子供がやるには危なっかしいほどの強烈なロケット花火やトンボ花火。
日本のやつの3倍くらいのパワーがある。

おれが台湾に来た2月も、旧正月のイベントで至る所で爆発が起きていた。最初はいちいち驚いて、神経に障る音だなと嫌だったけれど、今ではもう賑やかで楽しいものと感じるようになっている。

タイヤの壊れ

タイヤひっぱり39日目
海に沈みゆく太陽。
そうか、これはサンセット。島の西側にきたのだ。太平洋と日本海の印象が違うように、台湾の海も東西でだいぶ違うようである。東の海は深くて遠くて寂しくて、飲み込まれてしまうような恐ろしさがあったけれど、こっちはなんだか、こまごまとした愉快なものたちが太鼓を叩きながら待っていそうな感じ。どうしてこんな具体的なイメージがわくんだろ。
タイヤひっぱり環島はここからが折り返し、残り500キロ。
高雄、台南、台中、などを通って北上!台北に向かうのだ!
歩いていると、バイク旅のカップルがおれのもとにやってきて「あなたのことをインターネットでみたよ、台中にきたら私たちの家に泊まってね」といって去っていった。彼の方は原住民で、素敵な首飾りをしている。台中は「タイチョン」って発音するみたいだ。
しかし本当、明らかに雰囲気が違う。こっちにきて街の香りが変わった。街が変れば考え事もいっしょに変わる。
東側の道は、海や川の近くの傾斜が緩やかなところに頼りな〜い一本道があって、それに沿って進むだけだったけれど。対して、この西側からの北上にはたくさんの道がある。どの道を選ぶかによってこの先に起こる全てが変わってくる。どれかを選ぶことは即ち、なにかの可能性を捨てることでもあるのだ。
枝分かれした道の前でアイパッドの地図を開き数日先まで計算しながら最短の道を選択しようとしたとき、いままで気づかずに排除してきたものたちがヌメッと目の前に現れてくるような感覚に陥った。
まあ、そんなのも歩いていれば晴れてゆくんだけどね。

ついにタイヤの底がぬけた。

タイヤの底ってのはへんな表現だな。
つまり、タイヤひっぱりで地面側になっていた面が摩耗によって外れてなくなったのだ。数日前くらいから穴があき始めて、それがだんだんとタイヤの形に沿った切れ込みになってゆき、その切れ込みがぐるっと一周した感じだろう。タイヤは横にすると、たったの500キロ進んだだけで壊れてしまうのか。断面がつるっと綺麗。
消失に気づいたのは深夜、高雄へ向かう一本道でのことであった。
街道沿いに魚の加工工場や精密機械の工場だったりが連なり、それぞれの臭いを放っている。いい臭いとは言えない、犬もちょっと狂った吠え方をしてきて、嫌な雰囲気の場所である。
(なんかタイヤの振動が変だな…)と明確に意識したのは、体が気づいてからずいぶん経った後のことだった。そう、いつだっておれより先に体は気づいているのである。
(普段のタイヤは「ズルズル」だけど、このタイヤは小刻みに「ボミボミ」してる)と思い振り返り確認すると、タイヤの底面が綺麗さっぱりなくなっているのだった。
すっごく間抜けな風体。こんなものを引きづりながら異国の地を歩く自分がどうしようもなく恥ずかしいことをしているように思えた。タイヤひっぱり特有の、雨にも砂利にもアスファルトにも動じない無骨なスライド感はなくなり、進もうとするといちいちボミ跳ねり、座るとぐにゃっと潰れ、持ち上げると重力に任せデローんと垂れてしまう。こんなに情けない物体は滅多にないぞ。
しかし片割れが見当たらないな。ドーナツ型の円盤が落ちてるはずなのだが。
と、荷物を置いて元来た道を探しにいったが2キロ歩いても見つからず、諦めて引き返す。
見つからなくてよかったと思う自分がいた。もし見つけてしまっても、その片割れをどうすれば扱えば良いか見当がつかなかったのだ。
おれはタイヤひっぱりをはじめてもう5年になる。
もちろん筋トレがしたいわけじゃない。タイヤという存在と、それをひっぱる人間に興味があって続けてきたのだ。「なぜタイヤなの?」ともう100回は聞かれてきたが、これは100の答えがあるからこそ何一つ答える気になれなれなかった。
しかし、今この状況ならそのうちの一つを答えることができるぞ。なにを隠そうおれは、タイヤという存在に神話のような絶対的信頼を寄せていたのだ。動じない、壊れない、壊さない、という無骨な佇みに安心し、いざ動く時には地球の法則をいなすように転がって進むという突飛かつ普遍的なあり方に美しさを感じていたのだ。
人間社会になくてはならない「物流」の陸地部門を一手に引き受ける、圧倒的な力強さ、シンプルなフォルム、傷つけあわない柔らかさ。その全てが、おれが決して持ち得ることのない性質であり、憧れであった。
そんなタイヤを横にして、それを俺がひっぱる。
完全なものを不能にし、不完全なものがひっぱる。
タイヤひっぱりのおかしみはそこにあるのだ。
このタイヤの壊れは、タイヤ神話の崩壊を意味する。
おれのバラバラとした心持ちと視界は、いつだってタイヤがつなぎ合わせてくれていたことを痛感した。タイヤ神話が、人間社会を歩くおれを社会的な属性から解放してくれていたのだ。
地球との接点であったタイヤが壊れ、おれは宇宙に放り出されそうになっている。いったいどうしよう、タイヤを替えるか替えないか。これは、おれの神話を守るか壊すかの話でもあるのかもしれない。

守るか、壊すか。
だったら答えは出たようなものか、だがまだ口には出さないぞ。
体にきいてからだ。大事なことはいつだって、体が先に知っているのである。




ガジュマルだけ植えてあとは黙ってろ!

タイヤひっぱり40日目。

外が騒がしくて目を覚ます。テントの隙間からのぞいてみると、体操服をきた子供達20人くらいが箒をもって広場を掃除している。たのしそうな感じ。過度に不審がられるのも嫌なので一度挨拶しようと顔を出すと、テントのすぐ脇のベンチに爺さんが3人、なにをするわけでもなく座っている。「早安(ザウアン)!」というと、ザウアンと笑顔で返ってきた。

特に迷惑そうな顔をされなかったので、ふたたび眠る。

2時間後。もうかなり陽も昇ったはずだが、あんまり暑くない。だいたいこういう風な二度寝をする時はサウナ状態になったテントの息苦しさで目覚めるもんだけどな。外にでると小学生はいなくなっており、爺さんが増えている。日差しは巨木防いでくれていたみたいだ。すごい巨木、たまに見かける根っこなのか枝なのかがうじゃうじゃ集まり太くなった南国の樹木、広場の空を屋根のように広く覆っている。爺さん達もこの木陰に集まっていたのだ。

巨木の写真を撮り花蓮の彼女に送ってみると「榕樹」と返ってきた。
「榕樹の下が涼しいのは幽霊がいるからなんだよ」と古くからの言い伝えを教えてくれた。

なんて美しい話だろう、うっとりする。そして榕樹って語感もぴったりだ。視覚的にも頷けるし、たしかにこの木の下は涼しく不思議な安心感がある。

榕樹。翻訳すると「ガジュマル」だった、なるほど〜

子供達が掃いていた広場はバスケコートだったようだ。所々ひびの入ったコンクリートの地面にはうっすらとセンターサークルやスリーポイントラインの白線が確認でき、榕樹が落とす枝や実ですでに散らかりはじめている。
バスケゴールは西側の片方にしかなく、先日の尾根のライブ会場でも同じもの(重そうなローラーによる可動式)が使われていた。その左後方にはかまぼこ屋根の祭壇で、その右隣には寺がある。

ああいう赤と黄色と金を基調にぐねぐねした文様がある寺は道教のものみたい。でも寺ごとに違う神様が祀られてるイメージ。おそらく「道教」と一言で片付くような世界でもなさそうな気がするが、ネットでちょろっと検索するくらいじゃよくわかんない。
祀られているモチーフでよく見かけるのは、幸せを呼びそうな太った髭爺さん、強そうな将軍、冠や衣装で飾り立てられた女性(ひな壇みたいになってることが多い)。それらは一緒にいることもあるので、同じ種類だと思う。
全然雰囲気の違う神さまもいて、初めてみたのは2日目に泊まった寺の中だった。中央の奥のボスがヒンドゥー教のカーリーに似て濃い血の色って感じで、全体に異様な雰囲気を醸す。カーリーを取り囲むように槍使い、妖術使い、怪力、などのメンツが立ち並び、RPGゲームのラスボスと四天王とその幹部達が勢ぞろい!的なおどろおどろしさがあったが、あれも道教なのだろうか。あの日の子供が扮していたのは、いつもカーリーの正面を守るようにポジショニングする槍使いだと思う。槍をもった舞だった。

「般若心経」と書かれた仏教の寺(お経が流れている)もあり、あとは大きい岩を祀ってたり、道の開拓者を祀ってる感じの建物もみた。原住民の村には教会がおおい。たまに日本統治時代に建てられて鳥居もある(神社はない)。

この40日間で徐々に区別できるようになってきた気がする。

ついでにいうと、ほぼ全ての人の家にかなりのスペースを用いた祭壇がある。この前招かれたバナナ農家の一家8人は小さいトタン小屋で貧しそうな暮らしをしていたけれど、その室内の半分がゆったりとした祭壇のスペースになっていて驚いた。

なんとなく、この部屋を効率よく使おうとするより豊かなことのように感じるのであった。

寺の半屋内なところにも、爺さんたちが広場を眺めながら座っている。幼児を連れた爺さんがおれにいろいろ質問してきたけれど、おれは中国語がわかんないし、暑くてまともに受け答えする気になれない。どっかにいったかと思ったら牛肉弁当と梨みたいな果物を持ってきてくれて、子供の絵を描いてくれと言われた。

看板の「食住 ⇆版畫」をみて、気づいてくれたのだろう。版畫のことを知らない人は「畫」の字で、おれが似顔絵描きだと思うようである。

子供の絵を2枚描いて渡した。随分とすらすら上手にかけるようになったな〜、それに対して日記は集中できる時じゃないと書けない。ハエが足に寄ってくるだけでダメ。

似顔絵描いてる間も、爺さんたちは木陰のベンチに腰掛けなにかを話している。ちょっとずつメンバーが入れ替わっていて、朝に挨拶した人たちはもういないのが面白い。なにをするわけもなく集まってぼーっとできる場所、どうして日本には少ないんだろう。
遊具奥の遊歩道の木陰には、車椅子の老人が集まっていた。若いお姉さんが1人立ってるところをみると、近所の福祉施設の散歩なのかな、と思ったけど違うかもしれない。なんとなくこの村には老人ホーム的なものは要らないように感じる。みんなこの広場にくればいいのだ。

寺で涼んでいた爺さんは全部いなくなり、気づくと今度はスマホゲームをする青年たち5・6人の集会が起こっていた。日本の若者同様、みなで奇声をあげながらゲームを楽しんでいる。真っ昼間の祭壇の前であんな風に遊べるなんて羨ましいと思った。周りの爺さんやゴミ拾いをしている男も全然迷惑そうにしていない。そういえば、テント畳まずにもう4時間くらい放置しているけれど、それについても誰もなにも言ってこないな。寺にアイパッドの充電をしにいくと、ホームレスっぽい人がお茶を飲ませてくれた。

充電をしながら日記を書いていると、榕樹の前に屋台みたいな車がきて、老人も増えていたのでテントを畳みにいった。車はどうやら移動するカラオケマシンのようで、荷台にテレビとスピーカーがある。荷物の片付けながら様子をみていると、準備がおわったのか青空カラオケ大会がはじまるのであった。おれも歌うように勧められ、「津軽海峡冬景色」「涙そうそう」を歌った。

おれが熱唱している間も、遊具・榕樹・寺・遊歩道・広場の一帯では、自転車練習の子供、バスケをする子供、井戸端会議のおばちゃん達、と同時多発でいろんなことが起こる。この村にとってのちょうど良い規模感、狭くも広くもない、開きすぎても閉じすぎてもいない。
台湾の街は、公私の間のバランスをとったスペースをつくるのがとても上手な気がする。

朝から夕まで、このゆるく不思議な広場を観察していたが、最後まで寺の管理人的な人物は確認できなかったな。ずーっと人がいるけれど、常に入れ替わり続けている。だれもこの場を管理しようとせずに、いろんな人たちがお互いを許しながら見守りあっている。

陽も傾き、涼しくなってきたので出発の準備をしていると、散漫にも人々が集まってきた。みんな広場でおもいおもいに突っ立ったり話したり。ラジオ体操的なものかな?と思ってみていると、ゴミ収集車を待っていることがわかった。
台湾は自分のゴミは自分でゴミ収集車に投げ込むルールがある、彼らはゴミ収集車がくるのを待っているのである。

結局みんな30分くらい待っていた。夕日で染まる広場でなんとなく集まって、自然に関わったり関わらなかったりする人たち。

やっぱりおれは、こっちの方が豊かだと思う。心の底からそう思う。
老若男女ご近所の人たちと、広場で30分ゴミ収集車を待つ彼ら一人一人の佇まいには、一切の苛立ちもストレスも現れていない。のんびりとゆっくりとやさしい時間が流れる。

おれが生まれ育った日本は、時間やお金の無駄を嫌がり、なにごとにも「合理性」を強い、焦らせ、競わせ、それがうまくいかないと怒りはじめるような社会であったが。
ぼくらは、ぼくら自身の目標である「幸福」に対しての「合理性」について考えてことがあっただろうか。そもそも幸福と合理性が無関係であることに気づけるタイミングはなかったのだろうか。

きっと昔の日本にはこんな感じの広場がいくらでもあったんだろう。
多くの人が当たり前に享受してきたこの余白の豊かさ健全さを、「合理性」という暴力がさぞや正しそうな顔をしながら奪い去っていったんだ。寺であり、バスケコートであり、老人ホームであり、小学校の校庭であり、カラオケ場であり、ゲームセンターであり、ゴミ収集車の停車スポットであるこの広場は、どれか一つのために存在してはいけないのである。

ぼくらの営みに目的なんてないのだ。


『!従わない自分への応援歌!』

都会の真ん中でカラオケか居酒屋しか楽しみを見出せない可哀想なおれをみろ!
ほかの遊びをしようするたびに排除されそうになる悲しみを知れ!
人間はあとから意味をつくれる生き物なんだよ!自分らのあり方を自分らで考えて、試して、ちょうど良さを見つける生き物なんだよ!現に、しらん偉い人が勝手にデザインした生き方なんかちょっとしたことですぐに壊れていってるじゃんか!

偉そうな顔で公園なんかつくるな!公園の使い方をデザインしようとするな!それ以外を排除しようとするな!与えられた公園でまんまと遊ぶな!

どうしてもお節介したいならな
広場にガジュマルだけ植えてあとは黙ってろ!

くう!おれはあくまで従わぬぞ!
おれはおれの幸せのために排除はしないぞ、、!排除せぬためのデザインをするぞ!

おー!
おー!


潰される生き物たち

タイヤひっぱり53日目

鳥の声で目がさめる
フラフラとテントから這い出し、サンダルを履き、ねぼけ眼で近隣住民に挨拶してまわる。これはテントで起きた朝の恒例行事になりつつある、行事というより処世術で、挨拶をしておけばその場でダラダラしていても許してもらえるような感じになるのだ。

しかしどうしても朝はグダグダ。いつもいつも寝袋が湿ってるなり手がベタベタするなりの、さして重要じゃない不満ポイントを見つけては、(この不快をどうしよっかな)と無意味な考えごとをはじめ、動作が停止してしまうのだ。
この深層心理には(片付けるの面倒だな、出発を先延ばしにしたいな)という気持ちがあるのは確かであり、できることならまたテントに入り横になりたいと思うんだけど、そこで実際に横になったらそのうち蒸し風呂みたいになってさらに不快になるのが面倒だなって考えて、すると次は(このテントに冷房を取り付けるとしたら…)みたいな考え事が無限に続くのである。

本当は無理にでもきびきび動いてみるほうが良いはずなのだ。例えば探検部の合宿の時なんかは面倒くさい気持ちを押し殺し、軍隊のようにサッと起きてすぐに寝袋をしまい、服を着替えて出発!みたいなことをよくやっていた。最初こそめっちゃ嫌な気持ちになるけれど、15分もすれば完全に切り替わるんだよ、ああいうのはすごい。まあやるとしても明日からかな。おれはなるべく自分に優しく生きてゆくぞ。

いろいろな考えごとをしたが、とりあえずシッコから先に済ませようと思い、しっこが出来そうな小川沿いの林へいくと、そこにどでかいカタツムリがいた。
こんな大きいのは滅多にお目にかかれないぞ、、と思い観察していると、近くにもう一匹いる。これも大きい。もしかしたら台湾ではこの大きさが普通なのかもしれないな、と思い、影の木にシッコをする。

シッコはちょっと手に引っかかり、はてこれはどこで拭くべきかとあたりを見渡すと、コンクリートの地面にグシャッと潰れてしまっているカタツムリがいることに気がついた。結構大きい。殻がバキバキに壊れ、中身がデロンとはみ出ている。
近づいてみるとまだ生きていた。ちょっと動いてる。これがカタツムリにとってどれくらいやばい状況なのかわからんが、このままでは確実に死ぬだろう。ここは小川沿いの林に続くコンクリートの上で、近くには日を遮るものがないのである。あと2時間もすればカンカン照りの太陽に地面ごと熱せられ、干からびてしまうのは明白だった。

ちょうどよいしゃもじのようなものが落ちてたから、それで壊れたカタツムリを掬い上げ、みずみずしい草が生い茂る日陰に移してやった。いずれ死ぬにしても、熱くて干からびるよりかはだいぶマシだろうと思ったのだ。

ついでにコンクリートにいた他のカタツムリも茂みに放る。

そこで気づいてしまったのだが、おそらくあのカタツムリを壊したのは昨日のおれだ。ぼーっとしてて考えが及ばなかったが、そういえばおれは昨晩遅くにこの小川にたどり着き寝床を探したのだ。真っ暗すぎてなにも見えず、結局ここからちょっと離れた荒廃した駐車場っぽいところにテントを張ったけれど、たしかにおれはここにきて、なにかを踏んづけ「カチャチャシャ」という音と同時に、左の足の裏に小気味よい感触を味わった。それを思い出してきたのだった。
この小道は頻繁に人が通る感じのところではなく、今はまだけっこう朝。実はまだ踏んでから5時間くらいしか経ってないぞ。柔らかい島ぞうりを履いていたことも、致命傷にならなかった理由かもしれない。

うーん、あの時は。
とくに意識はしながったが、たぶん湾曲したプラスチック的なものを踏んだと思った気がする。本当はあの巨大カタツムリだったんだ。悪いことをした。

一通りカタツムリのことを考えて、湿った寝袋やベタベタの手のことも済ませ、途中で見つけた心地よい日陰も離れ、やっとのことで出発する。起床してから3時間が経過していた。



道中、めちゃめちゃたくさんのカタツムリがいた。全部巨大。そして結構な頻度で潰れている。なんなんだ。

どういうことだろう、なんで今日からいきなりカタツムリ大量発生なんだろう。いままでもいたっけ?いないよ、こんな大きかったら絶対覚えてるはずだ。時期的なものなのか、地域的なものなのか、この生活では検証できない。

タイヤで巻き込まないように注意しながらあるいた。

潰れた鳥もやけに多い。
国道脇で死んでる動物は台湾に限らずよく目にするものだが、今日のこの道は異常だぞ。

羽を広げた形でぺちゃんこの鳥、羽しかない鳥、安らかな顔で横たえている鳥、死んでから数日経過しボロ雑巾のようになっている鳥…
カタツムリ、鳥、カエル、ヤモリ、も合わせて30くらいの死骸を見た日になった。

夜になると、でかいゴキブリが這い出てきて道路を闊歩しはじめる。例にもれず潰れたゴキブリもみる。

旅の前半に聴いていた曲に「命は漏れたり溢れたり〜」と素っ頓狂な声で歌うものがあったが、今日のおれは終始それを口ずさみながら歩いていた。

この53日間で、おれのタイヤは一体どれくらいの生き物をすり潰してきたのだろう。おれの知らぬ間に、おれに殺された生き物がきっとたくさんいるのだ。ごめん。

数々の命の情景が、描きたい絵として浮かんでくる。
その夜はキリスト教の教会で眠るのであった。

ーーーーーーー

2019.6.1

お元気ですか。
私は今、台北にある宝蔵巌という小高い丘にいます。斜面いっぱいに古い建物が密集し、隙間を縫うように細い路地が張り巡らされた村です。上の方まで登ると大きな川と高速道路が並行して通るのが見え、夜になればそれらの光がすーっと流れ、ちらちらゆらめきます。

私はつい先日、タイヤひっぱりでの台湾一周を終えました。1000km。70日間の旅になりました。

朝は小鳥のさえずりで目をさまし、昼は野良犬やサルがいちいち鳴き喚き、夜はカエルの声と蛍の光が疲れを忘れさせます。小鳥やネズミやカタツムリが潰れているのもみました。漏れたり溢れたりする命の情景を、ひたすらに淡々と通り過ぎてゆく毎日でした。

漂泊の日々は、自分自身の変化をも浮かび上がらせます。全てが等しく変容してゆく世界で、霞みがかった海と陸のきわを歩くとき、私と私以外には明確な境はなくなり、いつだって魂は肉体よりもすこし遅い。水平線といっしょに、気分まで遠くへ伸びてゆきました。

無意味なはずのタイヤひっぱりは純粋な移動を写し取りはじめます。さっき私が食べたトウモロコシは汗と動力に変わり、ひきずられるタイヤは地面をこすり、音がなり、そこにまた別の熱をおこす。流れる風景はそうやって、たしかに作られてゆくのです。

そしてそのタイヤは、私とあなたの間に無意味なものとして置かれ続けました。そもそも、私たちの出会いはいつだって不思議に満ちたものであることを。出会いはそれだけで美しく尊いものであることを。間にあるものが、お金や言葉じゃなくても、私たちは同じ時間を過ごすことができたのでした。

この島はすべての川を受け入れる大海のように、違う流れの人々が共に暮らす多様で複雑な場所でした。その包容の風土と寛容な気質を感じ続ける日々で、だからこそ、私が日本人であることから目を背けられなくなるときがあります。私があなたと出会う時、あなたについて、わかること、わからないこと、わかれること、わかれないこと、どっちでもいいこと について考えます。

1日1枚の絵を描いていたら、70日分の70枚は物語となって1つの本となりました。しかし私が描きたいのは、私の物語ではありません。

ここにあり続けて来たこの島と
タイヤの動力となったいくつもの命と
たまたま潰されたいくつかの命と
老人が見つめるタイヤひっぱり男と
転がるみかんを追いかけていったあの犬と
走るトラックに巻き上げられる雨と
彼にとってのあの森と
彼女が乾かす洗濯物と
私たちにとってのあの木陰と

それらすべてが、それぞれの方法で瞬く動きの景観そのものなのです。

私の体内で寝たり泳いだりしているそれらは、空いっぱいの星のように捉えようがなく、そして私も、常にその中の1つであろうとしていました。
いま、私の右があなたの左であるためにやるべきことは、重力や時間や肉体をなくした時に起こる広がりを、この空間に作ってみることなのだと思っています。


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