闇に描く蛍の言葉

 後ろから、激しい頭突きを食らったような気分だ。振り向けば真っ赤に目を怒らせた夏が鼻息荒く、角を振りたてていた。
 今年は、よく蛍も見ないうちに、夏が飛び込んできた。
去年、蛍を観た草原を通り過ぎながら、ふと気が付いた。草に覆われた側溝に流れ落ちる水音の淋しさ。日暮れがわずかに早くなった淋しさ。あかねに染まった雲を、山の端に追いやるたそがれの無情さ。
これから、激しい夏の季節を迎えようというのに、何故か身にそぐわない季節の衰えを感じる淋しさ。
このようにただ激しい水音が、夜の闇を動かしている七月だった。
 清滝は夏でもひんやりとしている。空を覆う樹々に棲む木霊。そして、人の心に淀む暗い思いのように、樹の差し交す闇にも、それぞれ、深く重い影が潜んでいる。
「なにをぶしつけに、私に鬼になれと申されるのか?顔を丹に染め、頭に蝋燭の灯をともした金輪をかぶり、夜の都大路を裸足で駆け抜けよと申されるのか?何を笑止な。お人違いでございましょうぞ、私は、そんな祈願をした覚えはありませぬ。」
清滝の宮の神託を伝える神官の目に宿る憐憫が、神にすがろうとした、女人の神経をさかなでにした。
 蛍よ、蛍よ、お前は闇のなかで舞いながら、言葉にも声にもならぬ無念をとぎれることなく、訴えている。
闇のなかに言葉にはできぬ思いを光りに変えて、淋しく、我が身を照らしながら、明けやすい夏の夜を舞う蛍。
闇に潜みながら、その思いの照り翳りを見つめる沈黙の蛍たち。
 清滝の暗い森のなかには、闇の中に己の光りを閉ざしてしまった女人の思いが、蛍に憧れながら、静かに冷えている。

消してゆく心ほのかにあらはれて夜の種子のごと蛍飛びかふ
夢なればぼうと蛍は動かざるまぼろしの位置にきみゐたまへな
闇匂ふ清滝の水の声深き 心触れずして素顔見せずして


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