女細工師の娘(悲劇の夜。プロローグ後半)
娘の枕もとに置かれた櫛の光りで、娘の顔が一瞬、美しく見えた気がした。女細工師は、急いで顔をそむけた。
隣の部屋で娘が低く歌を口ずさみながら髪を梳り、男を迎える支度をするのが聞こえた。身体を洗っている水の音もかすかにした。
女細工師にとって、長い時が過ぎた。つい、うたた寝をしたらしかった。
娘の幸せそうな歌声が続いている以上、まだ、男の来る時間ではないのかもしれない。
不意に天井に隣室の灯りが反射した。女細工師はすっと身を固くした。
「ありか」すずし気な男の声がした。
「あい」恥ずかし気な娘の声が鳩の声のようにせつなかった。
「お前に持って来てやろうと思ったものが手に入らなかった、、。あっ。」男が息を呑むのが感じられ、女細工師は床の上に起きあがった。
「その櫛は?」
「あい、母さんが私にとくれました。」
「なに?、それではあの細工師はお前の母なのか?」
女細工師は胸元に隠し持っていたノミを握ると、ずかずかと娘の部屋に入っていった。
「お前はいったい何者だ?私の娘を慰み者にしおって、どのような手を使おうとも、お前のような虫けらに、わしら地霊一族の宝石を渡しはせぬ。」
しっかりと男を見据えた女細工師の目は、美しい男の姿に、煮えくり返るような怒りがわきあがった。そして、娘を見ると、いたたまれぬ惨めさと無念の思いが燃え上がった。
男は澄み切った瞳に、軽いおどろきの色を浮かべて、女細工師を見た。
母親の手に光るノミを見た娘は、声にならない悲鳴をあげながら、男の胸に飛び込んだ。
一瞬のことだった。銀色の蛇のように、細工師の手からうなりを上げて、飛び出したノミは、細い娘の背をつらぬき、胸を打ち砕いた。
頭に飾られた櫛が、長い娘の髪から滑り落ちた。ひとしずく、そしてまた、ひとしずく。娘の泪のような血が櫛を染めだした。
女細工師は床に倒れた娘の姿を見下ろしながら、茫然とその場に立っていた。(私は何をしたのだ?)
幻のように男の姿は消えていた。だが、粗末な床の上に倒れている娘の姿は本物だ。
使い慣れたノミが、娘の血の匂いで曇るのが見えた。女細工師は娘の背から、ノミを引き抜くと、娘を抱き起した。もう、すでに息絶えたはずの娘が、薄目を開くのを見た。細工師は、娘の口元に耳を寄せた。
「母さん、あの人を許して。」
(このおろかな娘。何故、このようなことが起きてしまったのだ。)
女細工師は狂ったように叫びながら、まわりを見回した。男の姿はどこにもなかった。
「逃がすものか。」
女細工師はきりきりと歯がみをすると、ノミを握りしめて、男の後を追った。
娘の血の匂いが湿った地下の道にかすかに流れていた。片手に持った宝石の炎から、男の身体から零れ落ちた娘の血の滴りが、道を染めているのが、なんなく認められたのだ。
宙を飛んでいるのだろうか?男の足は速かった。
女細工師は夢中で後を追っている内に、自分が太古からの湖、星神たちの休息の場である星の湖に向かっているのに気が付いた。
「そこまでだ。もう、追ってくるのではない。」
不意に前方の冷たい霧の向こうから、男の声がかかった。女細工師の身体の中の力がいっぺんになえてしまった。
「帰るのだ。帰ってお前の優しい娘のために、あの櫛を仕上げるのだ。お前はその櫛と共に、櫛に込められた娘の永遠の命とともに、時を彷徨っていくのだ。いつか、心より、お前の娘の真の愛を信じるときがくるまで。」
男の声は激しい怒りと絶望をにじませながら、遠くへ去って行こうとしていた。
「待て、私の娘を返してくれ。」
女細工師は冷え切ったノミをゆっくりと持ち上げると、目を閉じて、長年鍛えた勘を頼りに、声の方向へと投げつけた。
冷たい稲妻のような光りが反射して、細工師は激しい衝撃を受けてその場に倒れた。
その後、どのくらい時が経ったのか判らない。ものぐるしい獣のような自分のうめき声と、耳を濡らす泪で気が付いた。
女細工師はよろよろと起き上がった。意味のない言葉をうなりながら、娘の部屋へと戻って行った。
部屋には娘の身体が転がっていた。驚くほど安らかな顔で口元には微笑みすら浮かべていた。だが、もう、娘の目が開かれることはない。
その時になって、女細工師は自分の手が握っているものに気が付いた。それは地霊一族の者なら、だれでも一度は触れてみたいと憧れる、しかし、誰も手にすることが出来ない、星の命が宿っている「涙」と呼ばれる赤い石だった。時を未来へと旅することの出来るという石だ。
カルラはこの不思議な物語に読みふけってしまった。文章は始まったときと同じに、突然にぷつりと切れてしまった。
本の余白は続いていたが、まるで蜻蛉の羽根を閉じ合わせたように、薄い紙は溶け合い、ようやく引きはがしたどの紙にも、何も書かれてはいなかった。ただ、溶けてしまった紙の小さな塊を触っていると、突然、赤い光りが、カルラの指を染めた。
美しい赤い石が閉じ込められていた。
(女細工師の娘のプロローグ終わる。次回から、本稿『砂師の娘』へに続く)
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