あかねが淵から(第26章炎の紐、水の紐)
あたりには激しく音が飛び交っていた。音、悲鳴、音、ののしり、音、絶叫、なかでも、響き渡っていたのは、かいを呼ぶ、黒山羊のあらしと青い竜のりんの声だった。
混沌とした騒ぎのなかに、「ああああーああああああ」
一筋の嘆きのような、うめき声のような音が、耳から、胸へと忍びやかに入りこんでいった。それはすべてを無の世界へと引きずり込んでいく声だった。
歌唄いは赤く染まった煙に包まれて、ゆらゆらと揺れながら、聞く者の心を麻痺させる音色を吐きだしていた。
「消えろ。消えろ。すべてはうたかた。消えてゆくものこそまことなれ。かってありしものもうたかた。みらいもまたうたかた。消えゆくものこそまことなれ」
赤い煙となった大蛇のからだからは、けだるい虚しい歌声が低く煙りと共に吐きだされた。もはや、戦いの声も争いも途絶えようとしていた。竜たちは翼を力なく折って、湖面に漂った。どろ亀の一党は首をすくめるでもなく、ごろごろと正体を失くした姿でころがっていた。
歌唄いは炎に包まれた身体を死の楽器のようにかなでながら、薄笑いを浮かべた目で歌っていた。湖上に立つもの、湖面に影を落とすものの姿を見れば、容赦なくまといついて倒れふすまで、まといついた。歌唄いの想念のなかに蓄えられていた嘆き、苦しみ、憎しみ、呪い、いらだち、怒り、嫉妬の念が投げ出された。歌唄いの言葉が磁石にくっ付く毒針のように、その場に倒れたものたちの胸に食い込んでいった。
一人、りんだけが今は目に狂った光りを放ちながらも、かいの姿を探し動きまわっていた。
「ここだよ、ここにいるよ。」
一匹のカワウソが、自分の身の回りに備えた食べ物を、抱え込みながら叫んだ。
「カーよ、どうした・どうした?」
歌唄いの放った毒で、ぼうっとまだかいの身体に座り込んでいた水辺の生きものたちを、りんは翼で一払いした。朦朧としている動物たちの中には、ぽたぽたと水に落ちながら、奇妙な声を上げて笑い出す者もいた。
「歌唄いよ、お前は何をしでかしたかを知っておるのか?おろかものよ?
りんの翼の下から、山うばが怒りの声と共に姿を出した、
「気をつけろ。歌唄いの毒がまといつくぞ:
楠の木のおばあが手に握りしめた紐を中空に投げかけた。黒いまでに澄んだ水の一条が光りのようにきらめいた。一瞬、楠の木のおばあの投げかけた紐に、襲い掛かろうとした歌唄いが身をのけぞらせた。燃える炎にも屈することのなかった歌唄いがすさまじい悲鳴を上げた、透明な水のしぶきを花火のように噴き出す水の紐を、楠の木のおばあはきりきりと、歌唄いの巨大な身体に巻き付けていった。
ワアッと歓声が沸き起こった。
歌唄いの炎に包まれた身体から、煙が消えた。怒りに赤く毒々しく染まっていた身体が、元の白い身体へと、いや、むしろ透明な水の流れのような姿へと戻っていた。細い繊細な絹糸のような骨が透けて見えた。
「歌唄い、何がお前をこのように狂わせたのかは知らぬが、お前の今の姿は今までお前が作ってきた数々の詩のようにきれいなものじゃ。さらばよ。歌唄い、、」
山うばの声が途切れました。
楠の木のおばあは、手にもどした紐を歌唄いの首に掛けました。
「さらば、歌唄い。月光の夜に姉妹の塔をその詩で美しく飾りしものよ。」
もう、そこには歌唄いの姿はなかった。楠の木のおばあが水うばから預かった紐と、一つになったかのような 一筋の流水がきらりと光りながら消えた。(26章B面おわる)
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