お銘は「黒文字」

 落葉した鋭い枝を交差させている明るい一月の森、気短に枝を鳴らして吹きすぎる風すらも、この小さな森の詩人に敬意を表しているようだ。黒文字という名の細い木。ごく目立たない灌木なのだが、緑の木肌に黒く経文が書かれている。細い字で薄く濃くびっしりと書かれている。一体、だれがこのお経を書いたのだろう?
「ボン・ソワレ、マダム。きっとあなたがいらっしゃると思っていましたよ。」小柄なその店のムッシュは私の顔を見てにこにことした。
「綺麗でしょう。この文は中国の美しいポエムなのですよ」
ベージュがかった薄緑の地色に細く経文が描かれている。丸い蓋には「阿弥陀経」と彫りこまれている。手に取って見て、はじめて気づくほどに小さい文字で書かれた経文であった。お経を美しい詩だというフランス人の感性を面白く思ったが、
「さて、これをどのように使えばいいのだろう?」と迷った。
バスの窓から、一週間も眺め、バスを降りて、十分ほども眺め、店に入るや、さっとその水差しを手にとった私である。
 中国茶の師匠であるマダム・チャンに相談する。
「なにか、心が惹かれて買ってしまったの。だけど、日常に使ってはもったいないような気がしてね。なにか特別の仏事の時でもないと使えないような気がするわ。」
「ヨウコ、物には出会いがあるわ。今のあなたには特別に思えてもやがて、納得する時がくるのでは?」
マダム・チャンは私の肩の後ろを視るような、遠い目つきをした。
 今日、散歩の時に、黒文字の枝を折ってきた。葉も枝も折り取るときに良い香りを放つ。この黒文字は窓辺に置いたガラス瓶に挿しておく。やがて、四月ともなれば、芽を吹き、静かにクリーム色の小粒の花を咲かせるだろう。細い枝に不思議な経文を浮かばせながら。
 パリで求めた水差しのお銘は「黒文字」。未だに私はこの二つの経文を読めないでいる

黄昏のやさしき不幸に包まれて一本の木昏れのこりたる
春の蘭喰うぶる猫の耳ふたつなんの憂ひも近寄りがたく
梅一樹かたき蕾に紅帯びて心無垢なる眠りなりしよ

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