雪女郎の記憶

 庵の前の石段を登ろうとしたら、うむ、ブーツを履いた足が、深々と雪にめり込み、なんと腰まで雪に埋まってしまった。
 数年前の二月、「雪はやんでいる」という情報で、気軽に京都から戻ってきたのであった。私は腕一杯抱えていた花束を前庭に向かって放り投げた。ひっぱって来たキャリーバッグを、ツツジの植え込みの上に乗せ、思い切り押した。うまい具合にキャリーは玄関近くの雪の上に滑り込んだ。
私は、こういう時、,一見、野蛮だが、冷静かつ沈着な判断力があるのである。それは何よりも元、山岳部であるという遥か昔の経験がもたらす自信。そして、きっと前身は雪女だったかもしれないという遠い記憶である。
身軽になった私は、タクシーを降りた道まで戻り、庵の裏側に回り込む。
毎朝、庵の庭を訊ねる鹿の足跡が六文銭のように、雪の上に投げ出されている。鹿の足跡のついた坂道を、お尻をつけて滑り降りる、
軒下には、胸の高さに薪が積み上げられている。私は一束づつ、薪を横に落としながら、手ごろな高さになった薪の束の上をそろそろと進んでいく。
私のこの姿を人が見ればなんと思うだろう?
昨夜は、着物で祇園のクラブでお酒を飲んでいた。その時のギムレットの味をふと思いだす。
その十日前にはペテルスブルクの舗道で、薔薇の花を買っていたのだ。
 思えば現代の私たちの行動範囲は、かぎりしれないほど広がっている。だが、薪の束の上を進む私はなんともろい足場の上にいることか?そして、このもろさこそ、本来の私の位置なのだろう。
数分後、庵に入ることが出来たが、給水栓を掘り出せなかった私は雪を溶かしてお茶を飲んだ。由緒正しき雪女郎らしく目を細めてゆっくりとお茶を飲んだ。

雪女郎の里の地図なり磁石の針しきりに遊ぶ地吹雪の白
雪に濡れ帰り来しかば我が肩に異界の鳥の羽根の匂ひす
冬菫まどろむ二月の瞑想の森は静かに雪を積みたり

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