緑の呪文

雨の日の森の中、緑の呪文が呟かれている。
緑の香気に染まった雨の呪文は、私たちが普段、気付くことのなかった古い道をひと筋、ひと筋目覚ませていく。
けもの道、無宿人の道、へんろ道、旅芸人の道、山ひとの道。
歴史の裏側を歩かねばならなかった人たちの願いに応えて、山から、山へと、山奧深く確かに続いてゆく細い道。
果無し山脈と呼ばれ、暗闇峠と名付けられて、特別な山の道を知る人々の記憶にのみ語り継がれてゆく。地図には決して載ることのない幻の道の数々。
 漆の枝が破天荒な勢いで、葉を茂らせ伸びてゆく。もともと、山人がらみの木地師が多かったという、この地なので、なんと漆の木が多いことか。秋には地獄の炎のような朱色で空を焦がす漆の林
その向こうにも隠された古い道が続いているのだろうか?
 山人を客としたタクシーの運転手さんの苦い話を聞いた。
「無口な人でしたがね、自分が蘭を好きだと言ったら、それは見事なえびね蘭の群生している処に連れていってくれましたよ。始めは家内と二人で採掘していたのですが、つい、人に教えてね。それでもう、次の年はおしまいですわ。どんなに、そこへ行こうと思っても行きつけない。もう、その山人にも会うこともない。」
 
 森はエメラルドグリーンの巨大な鳥かもしれない。古代にはしかるべき儀式で祀られていた。既に、名すらも忘れられた孔雀に似た静かな鳥。
いまだに太古の風をまとった翼には、決して眠ることのない数千の目を隠し持っている。森。

遠き世の白き藤むら映しゐる春の真昼の鏡の狂気
夢かよふ夜の川波かきつばた心揺るがず生きゆくはかなし
日の照りをひとところに花菖蒲 気のおとろへし五月の思案

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