あかねが淵から(第25章かいを呼ぶ声)

 かいは赤竜となったあかねが自分を強く見つめているのを感じた。感情を表すことのないはずの竜の目が、薄暗い部屋のなかで、何か強い意志を持って、瞬き始めた。始めは弱弱しく、やがて、かいの視線をとらえるには充分な強さの動きとなってきた。
あかねの体内からわきあがってくるような波の音。そうこれは確かに波の音。かいが子供の頃、夜中におびえて、悩まされた波の音だった。
「おいで、おいで。帰っておいで。」
かいはその波の音を始めて、懐かしいものと思った。あの波の声は、まちがって、外に出て、途方に暮れている自分に呼びかけてくる声だったのだ。
かいはその声をもっと聴こうとして目を瞑った。
「かいよ、お前はもう、水を恐れることはないであろう。かいよ、お前は私の息子、水のむすこなのだから。お前が水を恐れたのは、お前が近い将来に水に起こるであろう異変を予測したからであったのだ。そうして、今、お前が悩まされた悪夢がすでに始まってしまった。かいよ、お前がなすべき運命の戸が開いたのだ。進んでいくのだ。」
 かいは願文を読み始めたあかねを残して、部屋を出た。かいの姿はふたたび、竜の姿に戻っていた。そして、そのかいに遠く呼び掛けてくる声を聞いた。
「あれはひろの声じゃないか?それもひどく哀しそうだ。」
かいはその声のする方角へと泳ぎだした。頭のどこかで、「何か違う?」という気がしたが、それでも無性にひろの声が聞きたいと思った。
 かいは、ものがひどく焦げたような、鼻を刺す臭いに気が付いた。
そこは塔のような建物が傾き、水底に沈んだところだった。割れた灰色の敷石やひん曲がった柱が転がり、崩れ落ちた岩のかけらが、濁った水のなかに積まれていた。かいが近づいたので、汚れて赤茶けた岩肌にまといつく黒い水草がゆれていた。動くものの影もない世界だった。
かいが動くたびに腐った水の匂いがまとわりついてくる。
「ふふふ、どうやら、お目当てのものが近づいて来たような、、」
ほの白い巨大なひものようなものが、するすると濁った水を潜り抜けて、かいの方へ近づいてこようとしている。呪いの歌を歌うという巨大な白鳥の首のようにも見えた。
歌唄いだった。ひろを襲おうとして、森の詩人の長老の樹の下敷きとなった歌唄いだった。
「ほほう、わたしがあの小娘からうばったものは、いろいろなものを呼び寄せてくるわ。私の運はまだまだつきはせぬわ。いや、ますます、思うように事が運びだしたというべきか、、。やはり、たまには書を捨てて野にでるべきですな」
歌唄いの声はなめらかで、得意そうだった。かいはその声の聞こえてくるあたりを仰いでみた。奇妙なことに歌唄いは、かいの姿を目でとらえているようには思えなかった。ただ、かいの動くことで出来る波や水の揺れ具合に反応して、その行くてに立ちはばからうとしていた。そして、絶え間なく独り言をくりかえしていた。
(みすみす、向うの思いどおりになってはいけない。じっとして、様子を見てみよう。)
しばらく、無言で様子をさぐりあっていた。長い時間が過ぎたような気がした。
「あっ かいだ」。
突然、明るい花が咲いたようなひろの声がした。かいは思わず声のしたほうへ進んだ。白い巨大な歌唄いの尾が、竜となったかいの首に巻き付いた。
「ほほほう、なんとこれは、これは。」
歌唄いの陰険な笑い声が水中に揺らめいた。
(第25章B面終わる)

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