あかねが淵から(第23章C面あかねとかい)

 かいは扉の向こうで激しく言い争っているりんと白竜の声も耳に入らなかった。
赤い竜の姿は静かで眠っているようにも見えた。翼に覆われた肩が時々大きく上下して、その度に夜中、遠くに聞く谷風のように激しく翼がうなった。
かいはここに横たわっている赤竜がまぎれもなく自分の母であることは、何故か苦しいほどに判った。
忘れたような時に、激しく喉を鳴らして息をする。その口から細く透明なよだれが流れた。
「かいちゃん、、。」
少しまのびしたとよの声が、かいの耳に聞こえてくる。かいを見るたびにほほえみがうかぶ口もとから零れていたよだれ。かいはおそるおそる竜の口元のよだれをぬぐった。
苦し気に息をする赤竜の口が大きく開かれ、苦い味のする煙がかいの顔に吹き付けられた。かいは思わず身を引いた。
「おーい。カー。大丈夫かあ。塔が沈みだしたら、母さんの翼のなかにもぐりこめよ。いいか?」
りんの気遣う声のうしろで、黒山羊のあらしが仲間に急を告げる声がしている。
「おーいカー。母さんは死んでいるわけではないが、人間の記憶がのこっているかどうかはわからん。それが判るまで、あんまり近よったらいかんぞ。」
かいは苦し気に身体を曲げる竜のそばから離れた。
「かーよ。じいさまは母さんが元の力をとりもどすことを望んでいる。俺たちも同じ気持ちだ。お前にこの塔へ来てもらいたかったのも、そのためだ。だが。物事が狂ってしまったよ」
りんの声が急に大きくなった。
「ひとおーつ、この塔がたおれかかっている。ふたあーつ。お前の姿が人間に戻ってしまった。みっつ、お前の相棒のアリが傍におらん」
突然にかいは生暖かい竜の匂いをかいだ。赤竜が起き上がり、かいをつかみ上げた。熱のためか、うるんだ目が奇妙な色に光っている。
「カー、母さんはこの姉妹の塔の持ち主なんだ。この塔を守る力があるはずだ。お前は母さんを起こして、その力を目覚めさせてくれ。じいさまのやり方はきたなかったが、これは俺からの頼みだ。俺はお前を助けにいけない。この扉は竜の力だけでこわすことは出来ないのだ。」
「母さん、かあさん」
かいは声にはならない口をぱくぱくと動かした。
あかねはかいをつかんだまま、よろよろと後ずさりすると倒れた。床に頭をぶつけた拍子に、鼻からもやのような煙を吐いた。かいをつかんでいた力がゆるんだ。
「母さん、母さん。起きてくれ、かいだよ」
かいは倒れているあかねの身体をおおっている真赤な鱗にかびのような汚れがついているのに気が付いた。
かいは、又、気を失ったようなあかねの身体の鱗に、息を吹きかけて、ごしごしとこすった。こぼれる涙で手元が見えなくなっても、かいは、竜の身体の鱗を一枚一枚きれいに磨いていった。部屋の隅に置いてある大きな壺から、水を汲んで、赤竜の身体をきれいにしていった。
「母さん、きれいになったよ」
かいはあかねの目がいつのまにか開かれているのに気が付いた。はっと息を呑むかいに、竜は再び目を閉じた。
「かいちゃん。わたしはもう元の竜には戻れない。人間のとよにも戻れない。お前に会いたがっているとよに人間の姿を返してしまった。そうだよ、かいちゃん、とよは必ず生きているはずだ。わたしは自分がおかした罪を思うといたたまれない。なんという思い上りであったことか?自分の浅はかな知恵にいきりたっていたわたしを思うといたたまれない。追い求めていた神に讒言をする神官というのが正しくこのわたしであったこと。わたしを信じて、あかねが淵から出てきたじいさまや、りん、「智にさとき一族」をこのようにみじめな滅亡に追いやってしまった。
かいちゃん、この姉妹の塔は筆頭巫女であったわたしが、神から譲り受けたものなのに、今、こんな風に、水の中に沈めようとしているのだから。」
あかねは半分、自分をあざわらうようにつぶやいた。
「母さん、そうではないよ。そうではない。」
かいは自分でも判らない強い思いがこみ上げてきて、あかねの目をのぞき込んだ。
塔がきしみ、激しく揺れ始めた。
「母さん、おれの母さんは一人あかねはとよなんだよ。、ごめん、今までごめん、おれは母さんを助けるためにきたんだよ。さあ立って。願文を読み続けるんだよ。きっと、間に合うよ。」
(第23章あかねとかい終わる)

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