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#3 合宿的な思考

2021年の元旦から「合宿」と称して、いつもより少しだけ自分のお尻を叩く日々です。もちろん三日坊主との闘いもありましたが、何とか継続中です(笑)。今回は、その中でみえてきたお話。

「合宿」ときくと、日本では部活を思い起こします。私自身、ずっと運動部だったこともあり、馴染みのある響きです。とくに大学時代は、いわゆる古きよき厳しさの残る部だったこともあり、そこにはある種の思考停止がありました。

つまり、自分でアレコレと決められない。先輩が決めたことに倣うというか。慣習的なところもありました。ここでは一旦、その善し悪しは置いといて、意思(意志)決定の及ばない環境に身を置く、ということに光を当ててみたいのです。

何でも自分で決める・決められる方が何かこう、良さそうな気配がします。社会がせっせと夢をみせて、こしらえてきた「自立した一人の市民」的なやつです。ただ「合宿」となると、参加した時点で思考のスキマは埋まっているようなところがある。

「何故コレをやるのか…」は、過去の自分が考えてくれたはず。

「果たして、コレは手にしたいものに繋がるのか…」は、未来の自分が応えてくれるはず。

ある意味で他人任せっぽいというか。今・ここ以外の自分を放っておく。そして、只やる。そんな過ごし方が「合宿」なのかもなーって。

もちろん、一連の流れとしてみると、そこには「何かを決めた私」がいるのですが、時間軸を細やかにしていくと、時折「決めるとか決めないとかの外側にいる私」が浮かんでくる。そして、その私が意外と良い仕事をしていたりもする。

そんな自分の在りように漂うくらいで良い。そのうち、うっかり力をつけているかもしれないし(笑)。

ゴリゴリに気合の入ったものでなくても良い。血を吐くほど追い込むようなものでなくても良い。こういう狙いで「合宿」をやってみるのもアリじゃないかと思います。お試しあれ。

ではでは。

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