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本当はなかった?「オーバーシュート」


ここでいうオーバーシュートとは新型コロナウイルス感染拡大において厚労省「専門家会議」が言った、

欧米で見られるように、爆発的な患者数の増加のことを指すが、2~3日で累積患者数が倍増する程度のスピードが継続して認められるもの[1]

という「爆発的患者急増」の意味。

「オーバーシュート」という馴染みの薄い用語の不適切さやわかりにくさは問題だが、ここでは取り上げない。代わりに、その定義で言う対象そのものを問題としたい。欧米であったというこの2〜3日で倍増する患者の爆発的急増に対し、この記事では、そうしたオーバーシュートが見かけのものでしかなく、日本だろうがヨーロッパだろうがアメリカだろうが、実際の感染者数は倍になる間隔が3日よりも緩やかな指数関数的拡大をずっと続けてきただけじゃないの?という見方に立って、それを裏付けそうなごくごく単純な数学的トリックとでも言うべきものについて説明したい。

[1] 新型コロナウイルス感染症対策専門家会議, 新型コロナウイルス感染症対策の状況分析・提言 (PDF), 厚生労働省, 2020-04-01.

われわれが知る「感染者数」とは何か?

ウイルスの拡大の媒体たる未感染の人間が巷に多くいる状況で――つまり10人に数人はもう感染したというわけではない状況で――その拡大のありさまはだいたい指数関数(下図、あるいは等比数列、複利計算、ねずみ算)に従うのだと期待される。あるところで指数関数に変わるのではなく、最初の1人が2人になり、2人が4人になる時点から、ずっと指数関数である(実際の話、専門家風の人がしたり顔に感染拡大が指数関数的に「変わる」などと言っていたら、その人は指数関数の性質をよく理解できていないと考えるべきなのだろう)。ただし、集団感染のような個別の大きなゆらぎがそれなりに存在して、そんな単純さからずれることは問題なのだけど、ここでは置いておく。

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だが、市中で感染している隠れた感染者の数をわれわれは直接知らない。誰かに症状が現れ、検査してはじめて感染していたことがわかる。わかれば入院してもらうか、病床が足りなければ軽症者施設に入ってもらうか、施設を準備していなければ自宅で我慢ということになる。願わくば、感染がわかったからには、それ以降他の人に拡げないですむような環境で適切に治療できるような体制を急いでもらいたい。

そうした現在の対応の是非はさておき、まず問いたいのは、この検査して判明した「感染者数」とは何だろうかということだ。

日本ではあまり検査をしていないのだから、われわれが知る「感染者数」は真に問題とすべき「隠れた感染者数」と大幅に乖離したものに過ぎないだろう――そういう妥当な疑念を多くの人が持っている。しかし、乖離しているから真実はわからないとあきらめる前に、もう少し突き詰めてみたい。

話を明確にするために、いくつか、アルファベットを使って集団を表すことにする。まだ感染しておらず、接触により感染する可能性がある人々  の間に、不幸にも感染してしまった隠れた集団  がいる(下の図を参照)。過去でも現在でも未来でも感染症を拡げてしまっている集団とはこの  だ。そして、感染症を終息させるとはこの  をなくすことだ。検査が受けられ感染が明らかになれば、そして、適切に対応され他の集団から隔離されれば、それ以上は感染を拡げないで回復を待つ集団  の仲間となる。 の累計数こそがわれわれが「感染者数」として理解するものとなる(ここでは図中の回復者の集団  への移行は無視する)。

必ずや名を正さんか――「隠れた感染者 と「確認された感染者、この2つはまったく異なるものだし、異なる名前で呼び、異なる変数で表されるべきものだ。

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このことを念頭に置いて、実際のデータから何が言えるか考える。複雑なモデルを立てて、多くのパラメーターの数字を推定してフィッティングとシミュレーションで実態を明らかにするといった方法は、おそらく正攻法のひとつなのだろう。残念ながら、わたしにはそんなモデルの妥当性を見定めたりする勘も、パラメーターを精度よく決めるだけのデータも、オーバーフィッティングしたかもしれない予測値を出す勇気もないので、ただ一点、われわれが目にする「確認された感染者数」 に関して、世界各地で感染確認初期にみられた単純な事実に注目したいと思う。

あるシナリオ――早期の大規模検査が拡大を防ぐ

その前に、感染者が検査と隔離により減らされ、首尾よく終息に向かうという状況がどのようなことであるか、特に「隠れた感染者」 と「確認された感染者」H  がどのように見えるかを考えるために、感染初期におけるひとつの仮想的なシナリオを考えよう。

感染が自然の状態で、あるいは、ある程度の接触機会を減らす対策をした後で、市中の隠れた感染者が倍に増える時間(倍加時間)が5日であったとする。これは、前の日よりおよそ15%ずつ隠れた感染者が毎日増えていくことを意味する。

*  *  *

第0日、それまで感染者は渡航者を中心に30例ほど確認されているに過ぎなかったが、この日になって、大規模に一部地域で感染が拡がっていることが把握された。知る由もなかったがすでに「隠れた感染者」は2000人を超えていた。あわてて大規模な検査が開始されたものの、対象の探索にも困難があり、最初の一週間ほどは1日にそれらの6%ずつしか発見できなかった(以下ではこの率を発見率と呼ぶことにする)。感染が確認された者がそれ以上感染を拡げないよう隔離されたとしても、1日15%の拡大に対してその半分以下しか発見できてないので、この状況では感染は正味の拡大を続ける。

第6日、「隠れた感染者」は3000人を超えた。本来の倍加時間を1日超えても倍の4000人を超えなかったのは、それに相当する部分を検査で発見できたからだった。このときの累計の「確認された感染者数」は実際1000人に迫っていた。すなわち、この6日間で「確認された感染者数」は約30人から約1000人へとおよそ30倍に増えたこととなる。ここから単純計算された見かけの倍加時間は1.2日という極めて短いものとなった。外から見れば、まさに感染の爆発が起きているように見えただろう。

一方、同じころより検査体制が大幅に強化され、「隠れた感染者」を見つけ出す割合は本来の感染率を超えていった。翌第7日に「隠れた感染者」は3000人余りで頭をうち、さらに翌日から減少に向かった。

およそ半月後の第16日になって「隠れた感染者」は1000人ほどまで減少した。第7日から第16日の9日間でおよそ1/3になったので、その「半減期」(すなわち負の倍加時間)はおよそ5日の計算となる。一方、「確認された感染者」は毎日500人以上増加し、このとき6600人ほどとなっていた。「確認された感染者」による見かけの倍加時間は、依然として3.8日に見えた。

しかしこのときには、大規模検査の発見率が1日あたり2〜4割、すなわち「隠れた感染者」の全体のうち1日で20〜40%を見つけ出すような効率的な感染者の発見に至っていた。その後は長期戦となったが大勢はすでに決したに等しかった。

*  *  *

このシナリオは「隠れた感染者」 と「確認された感染者」H、そしてその動きから見える実際の倍加時間と見かけの倍加時間がまったく違ったものであって、まったく違って見えることの例となっている。また、この記事で述べたいこと――見かけの倍加時間の短い「オーバーシュート」とは実際の感染拡大状況とは対応しないということ――は、この例の中にすべて含まれている。

そして、このシナリオは、実際に韓国で起こったと考えられることをある仮定を元として再現したものだ。あらっぽい再現なので、数字や日付は信頼に足りないが、起こったことの大まかな流れはこのようであったと思う。詳細な導出は省くが、韓国での感染がほぼ終息したと考えれば、元の倍加時間を仮定することでそれまでの「隠れた感染者」と「発見率」とを逆算し見積もることができる。

以下のグラフが、倍加時間5日を仮定したときのそれらのグラフで、上のシナリオはこれに基づいている。見かけの「確認された感染者数」H (緑の線)と真に問題にすべき「隠れた感染者数」 の推定値(赤線)とがまったく異なりうることに注意されたい。

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韓国においては、ここでいう第0日、2020年2月19日に大邱(テグ)市で宗教団体に関係する数十人規模の集団感染の発生が認識された。2月24日(第5日)までの検査数は1日4000件ほどであり、日本に比べれば多く見えるが、こうした初期であっても感染を抑え込むにはまだ足りなかった。その後は、1日1万件を超えるような検査が行われた。このころ宗教団体に関係する者に関しては網羅的な検査が行われたようである[2][3]。

3月8日の韓国疾病予防管理局による報告では、この宗教団体関連の「確認された感染者」が4500件近くあり、これはその時点での韓国全体での「確認された感染者」の6割以上を占めていた。韓国にあって、その後の市中感染の大きな拡大も防いでいることから他の要因は重要であるものの、上のシナリオで再現した部分に関しては、この広い意味での大規模な集団感染の割合が大きかったことが効率的な探索と検査に与したのだろう。大規模な検査はヨーロッパやアメリカでも行われているが、ここまでの成功を収めてはいない点は注意する必要がある。

[2] 2020 coronavirus pandemic in South Korea, Wikipedia, as of 2020-04-18.
[3] Joe Hasell, Esteban Ortiz-Ospina, Edouard Mathieu et al., To understand the global pandemic, we need global testing – the Our World in Data COVID-19 Testing dataset, Our World in Data, 2020-03-31.

初期の急増は「なぜ」起こったのか?

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さて、上のシナリオにも現れている初期の状況で注目したい点について考えたい。英フィナンシャル・タイムズなどが繰り返しサイトに掲載している上のようなグラフを見たことがあるかもしれない[4](上は同じやり方で筆者が作成したもの[5])。同種のグラフは、4月11日のNHKスペシャルの冒頭でも取り上げられ[6]、朝日新聞も挿絵として何度も用いていた[7][8](下図、著作権法32条に基づく引用)。

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朝日の図では、イタリアやニューヨークやその他の国々の初期の「確認された感染者数」の急増が示され、そこに「オーバーシュート」や「爆発的な感染拡大」の文字が添えられている。一方、専門家会議の活躍を――あるいは失敗の予兆を――活写したNHKの番組では、同種のグラフを根拠に、日本では欧米のような爆発的拡大が見られず、まだ踏みとどまっているといった趣旨のアナウンサーの説明が被せられていた。おそらく専門家会議の見解にも沿ったものでもあり、そして――わたしの考えでは――まったくの間違いだ。

上2つのグラフは、それぞれの国で確認された「感染者数」がある決められた値に達した時点を時刻0にそろえるよう時間軸をシフトしている。またこのグラフは、「片対数グラフ」、すなわち縦軸に「確認された感染者数」H の対数をとって表したグラフとなっている。つまり、その目盛りは 10、100、1000、10000 が一定の間隔となっている。動きが指数関数的な拡大となっていれば、それはこのグラフ上で右上がりの直線となる。

日本はそうなっている。細かい凹凸はあるものの、総じてみれば見事なほど直線に乗っていて、その傾きは倍加時間がおおよそ7日であることを示している。ヨーロッパ諸国やイランやアメリカなど多くの国々はそうではない。これらの国々では最初に急激な上昇を見せ、しばらく後に傾きが緩やかとなる。最初の急拡大のため、傾きが日本と同程度となったころには「感染者数」で10倍以上の開きが生じている。

NHKが日本では見られなかった爆発的拡大、日本が踏みとどまっているとした根拠はこの初期の急拡大のことだろう。このとき、倍加時間は確かに3日より短い状態、韓国、イタリアやニューヨークなど場所によっては2日より短い状態が続き、専門家会議による「オーバーシュート」の定義にも合致する。専門家会議も諸外国のこの種の動きを見て恐れおののき、即時の医療崩壊が避けられないとオーバーシュートと名付け警戒したのかもしれない。

しかし、自然な疑問がわく。それはなぜ起こったのか?――なにより先に、この問いに答えられなければ、「オーバーシュート」の議論はできないように思う。

大規模な検査の開始は、イタリアやニューヨークで遅れてしまった。多かれ少なかれ他の地域でも、本格的な検査の開始は感染が大なり小なり広まった後だった。実際の数はわからないが、100人か1000人か10000人の「隠れた感染者」I が市中にすでに広まった後になって検査は本格化した。であるならば、まずは「確認された感染者数」H がこのときどう見えるかが問われなければならない。時刻0で例えば1000人から始まる「隠れた指数関数」I と、時刻0で本格検査数がほぼ0である「確認された感染者数」H との関係は?

[4] FT Visual & Data Journalism team, Coronavirus tracked: the latest figures as the pandemic spreads, Financial Times.
[5] データには CSSE, Johns Hopkins University, Novel Coronavirus (COVID-19) Cases, GitHub の 2020-04-28 取得の時系列データを用いた。
[6] NHKスペシャル, 新型コロナウイルス瀬戸際の攻防~感染拡大阻止最前線からの報告, 2020-04-11. 再視聴できていないので、内容は記憶に基づきます。
[7] 土肥修一他, (新型コロナ)オーバーシュート、起きるのか, 朝日新聞, 2020-04-05.
[8] 岡村夏樹他, (時時刻刻)感染急増、一転緊急事態宣言へ 経済懸念、当初は慎重論 新型コロナ, 朝日新聞, 2020-04-07.

幻想としての「オーバーシュート」

「隠れた指数関数」I と「確認された感染者数」 との関係を、可能なら見通しよく理解するため、仮設的状況でその関係を考えてみる。

市井の人々からランダムにピックアップして毎日一定数の検査を行うとしよう。これは極端な場合だが、隠れていた感染者が日々発見される人数は、市中にいる「隠れた感染者数」I に比例するだろう。逆に、厳しく検査を絞ったとしよう。感染の疑いの症状のある一部の人が重症化して、そういう人だけに選択的に検査を行ったとしたら――これは日本の状況に近いが――重症化する率は一定とみなして自然なので、やはり日々得られる「感染者数」の増加は市中の「隠れた感染者数」I に比例するだろう。

どうやら検査の条件が大きく変わっていない間は、おおむね「隠れた感染者数」I に比例した量をわれわれは日々発見される感染者数として把握しているといって大きな間違いはなさそうだ。これは、大きなゆらぎはあるものの、毎日報告されている新規に発見された感染者数の数を――何百倍かどれだけかわからないが――定数倍に拡大すれば  になるのだとの仮定だ。

そこで、「隠れた感染者数」I が指数関数で増えている状況で、(1)「確認された感染者数」H が時間あたりに増える大きさ(つまりグラフの傾き)は「隠れた感染者数」I に比例していて、(2) 時刻0では H は0となるという条件をつけると、どんな H ならこれらを満たすか考えてみよう。

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天下りに言えば、これは上のグラフのオレンジの線のような指数関数から1を引いて原点を通るようにした関数が候補となる。(1) 指数関数を1だけ下にずらしたものなのでその各時刻での傾きは元の(I に対応する)指数関数のままであり、指数関数の傾きはその値そのものなので指数関数の値にも等しい。(2) そしてオレンジの線は原点を通る。

「確認された感染者数」H の傾きは I に等しいのではなく比例するだけなので、実際には指数関数から1を引いたあと、ある定数を掛けたものとなる。ここでは示さないが、計算すれば、それは時刻0の隠れた感染者数(Io とする)と、「検査で隠れた感染者数 I のどれだけの割合を単位時間にあぶり出しているか」(先に発見率 c と呼んだもの)と、しばしば時定数と呼ばれる「倍加時間」に比例する量(倍加時間の約1.44倍〔= 1/ln 2 倍〕を掛けたもの、大文字 T とする)の積 c×Io×T であることがわかる。以下ではこれを(いい名前を思いつかないけれど)検査係数とでも呼ぶことにする。

ともかく、初期に注目すると H は、時刻0で0となり、隠れた初期感染者数や相対的な検査量が大きさにかかるということがみそとなる。そしてこの指数関数から1を引いた関数を「片対数グラフ」であらわすと次のグラフのオレンジの線のようになる。

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時刻0で0から始まる関数を対数にすると、0で無限に下に行ってしまう。しばらく時間が経つとグラフは寝て、片対数グラフでは直線に見える指数関数(薄い青の破線)に近づいていく。また、「検査係数」が小さければこの変移はオレンジの線のように小さな H の辺り(グラフの下の方)で起こり、この係数が大きければ赤線のように大きな H の(上の)辺りで起こることもわかる。

ならば、前節のフィナンシャル・タイムズ式のグラフのように、ある基準の人数に達したときを時刻0とするようずらすなら、検査係数が小さければすでにグラフが寝た後となり、大きければ寝る前となる(下のグラフを参照)。

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つまり、その最初期に、0から始まる「確認された感染者」が「隠れた感染者」をあぶり出し、それに追いつこうとして、つかのま短く見える見かけ上の倍加時間がこの感染初期で各国で見られたオーバーシュートの正体ではないか。

あるいは、この単純な数学的からくりだけで動きのすべては説明できないかもしれない。しかし、こうした効果が働いていないとする理由もなく、その効果のほどは確かめられなければならない――実際、先の韓国を元としたシナリオは、この効果を示しており、それは少なくとも現実のデータと矛盾がない。

日本と他の諸国で違ったもの

確認された感染者数にかかる検査係数は、上で見たように発見率、すなわち検査の相対的な量によって変わる。そこで浮かび上がってくるのはこういうストーリーだ――。

日本もヨーロッパなど他の諸国も初期にその感染に気づいたころ、桁で言えば同程度の初期の隠れた感染者 Io がすでにいたと考えるのが自然だろう――積極的な検疫体制が採られたわけでもなかった日本でそれが桁で少なかったという幸運はありそうにない。「隠れた感染者」I が感染の拡大を続ける様子も同様だった。生活習慣の違いかウイルスの系統の違いか、倍加時間( に比例)に多少の違いはあったかもしれないが、感染拡大の自然な性質としておおよそ指数関数に従って拡がっていった。

よってもちろん、違ったのは検査の数であり、すなわち発見率 c だ。ヨーロッパは積極的に検査を進め、数週の内に1日あたり数万という検査体制を整えた。そして次々に確認されたものとしての感染者数 H が増えていった。この作業で見かけの倍加時間は2〜3日に見えたが、これは実際の「隠れた感染者」I の拡大の倍加時間ではない。先の韓国の例で見たように、むしろ隠れた感染者 I をあぶり出し、それを削って、将来の感染者の発生を未然に防いでいく効果的で大切な作業だった。

その感染拡大を抑える点ではまったく不適切なことに、日本は検査を厳しく絞り込んだ(c が小さかった)。そのために、あぶり出し効果はすぐに消えてなくなり、わずかに判明した「確認された感染者数」H は直後から相対的に長い倍加時間で推移を続けた。その倍加時間はおそらく実態を反映したものだった。しかし H の値そのものはそうではなかった。

専門家会議や行政は、日本でも倍加時間が2〜3日のオーバーシュートが起こるかもしれないと恐れたが、しかし、そうした倍加時間の大きな短縮は現在に至るまでなかった。なぜなら、そんなものはどこにもなかったからだ。オーバーシュートがあろうとなかろうと日本もヨーロッパも「隠れた感染者」I は最初から同程度にいて同程度に拡大していた。日本が大規模な検査を始めない限り、それは単に表に現れないだけのことだった。

違いは、早い時期からの検査によってヨーロッパは隠れた感染者を削っていったことだ。1人の感染者を見つけ出すことは10×倍加時間後(2〜3か月程度だろう)のおよそ1000人の感染拡大を防ぐことになる。初期に大規模な検査と隔離を行うことは極めて有効な措置だった。ある意味で、移入例も含めた初期にいた感染者の「子孫」をこうして削りつくせば感染は終息する。もちろんロックダウンや社会的距離を保つといった施策で感染の機会を少なくすることももう一つの方法だ。把握された「感染者数」もそれらに応じて、徐々に倍加時間を長くし、ヨーロッパのいくつかの国でもイランでも治療中の患者は減り始めている。

日本は検査により隠れた感染者を削るという施策を採らなかった。十八番のクラスター対策がどの程度効果的だったかわからないが、結果的に指数関数的拡大はほぼ一様に継続した。感染の機会を減少させる方法と隠れた感染者を発見する方法の両面作戦のうち、日本は奇妙にも前者だけに頼った。緊急事態宣言の発令後もその偏りはあまり変わっていないように見える。強い接触機会の抑制によって隠れた感染者が減り始めればよいが、行く末は不透明に見える。

理由もなく日本だけが特異にオーバーシュートから逃れ、踏みとどまっているということはない。それは日本にも諸外国にもなかったのだし、医療崩壊は医療を必要とする患者が適切に見出だされないまま拡大を続けていたために起こるのであり、彼らを見つけ出したことによる見かけのオーバーシュートとは端から無関係なのだから。日本と諸外国とでウイルスは感染拡大におけるその振る舞いに違ったところはない。違ったのは人の対応だけだった。

日本の実際の感染者数がヨーロッパと見かけほどの大きな違いはないと見るのは何も極端な見解ではない。クラスター対策班の西浦博氏は2020年4月24日に開かれた報道関係者を前にした意見交換会で、問いに答えて「10倍を超えるような規模で感染者がいるという認識をしています」と述べている[9]。

[9] 厚労省クラスター対策班の西浦博・北大教授「少なくとも確定感染者数の10倍を超えるような感染者はいる」と明言!他方、試算の根拠となったデータに信憑性はない!? そうであれば早急な政策の修正を!, IWJ, 2020-04-28;  千葉雄登, "8割おじさん" こと西浦博教授がPCR検査について語ったこと。実際の感染者数、現在の10倍いる可能性にも言及, BuzzFeed, 2020-04-25.

おわりに――オーバーシュートを目指す

最初に図を掲げた指数関数は、そのグラフの傾きがその関数の値そのものだったり、足し算を掛け算に換えたり、つまり時刻をずらすことが縦軸のスケールを伸び縮みさせることと等価であったり、それと関連して――グラフの見かけからは納得し難いが――その動きを特徴づける「時間」はあっても特徴的な「時刻」はないとみなせたりと、実数の世界だけでもいろいろ魅力的な性質を持っている数学的には何かとても基本的なものだ。

一方で、あまりに急激な上昇を見せ、何かひどく極端な振る舞いをするものでもあって、われわれが日常生活で出くわす大体のものとはどこか隔たったもののようにも見える。指数関数が生き物の世界と無縁だということはまったくなく、ウイルスの感染拡大にしろシャーレの中の細菌にしろ米蔵のネズミにしろむしろ密接に関わってもいる。ミクロの化学反応の世界や、さまざまなスケールでカオス的な振る舞いをする自然界でも微細にはそうした動きが現れる。

けれど、昨日と同じく日が昇り、去年と同じく春が来るといったような、未来も過去とだいたいは同じという平和な環境に馴染んでしまった人間の精神とは、どこか相容れないところがある。学校の数学で多くの人が覚えるべきことは指数関数の拡大の感覚ぐらいだと一刀斎森毅氏がどれかのエッセイで書いていた覚えがある。懲りもせず、ネズミ講的な罠に引っかかってしまうようなそんな人間の感覚との馴染みにくさを踏まえてのものだろう。

倍加時間が2日とか3日とか7日とかにあまり関係なく、指数関数に引っかかってしまうことが問題なのだ。オーバーシュートはなくとも、上向きの指数関数が続く限り医療崩壊は起き、多少の倍加時間の違いは大した慰めにはならない。そして感染者数に掛け算することは、時間に足し算することでしかなく(感染者の2倍は、時間の倍加時間分のずれでしかなく)、時間こそが貴重なものとなる――永遠の瀬戸際の2週間のように、いますぐやるか手遅れかという状況が永遠に続く。

「隠れた感染者」が何もしなければ指数関数でふくらみ、両面作戦の片方だけでは指数関数的拡大を止められないとなれば、両面作戦の欠けた軸足を確立するのが真っ当だ。貴重な時間を失い、よって掛け算で効く拡大を許したが、検査体制を大幅に拡充し、大規模な軽症者隔離施設を用意して、隠れた感染者を積極的に削るべきだ。

初期の1人はいまはずっと拡大し1000人になってしまっているかもしれない。そのときなら1人で防げた感染者のあぶり出しの効果は縮小し、われわれは諸外国と同じことをするのに1000倍の体制で挑まなければならないかもしれない。「フェーズ」が変わったからではない。検査は感染初期には必要なかったが、「フェーズ」とやらが変わったから検査が必要になったというあと付けの理屈は、検査の効果を考えるならむしろほとんど逆向きの理屈ということになる。だが、それでも結論は一致する――検査・検査・検査。

日本は、接触機会を減らす努力が行われている今のうちに体制を整え、そして隠れた感染者のあぶり出しと、結果としての確認感染者数の増大へと向かって進むべきだということになる。逆説的だがそれは見かけのオーバーシュートを目指すこと――2〜3日の倍加時間をもたらせるような「隠れた感染者」の発見を行うこととなるかもしれない。そのとき発見される隠れた感染者はいまはまだ市中でそれを待っており、それに応えるのがわれわれが期待する医療というものだと考える。■

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筆者は元研究者のフリーランスのエンジニアで、大学にいる間は力学系やら脳科学やらに多少なりとも関わっていましたが、医療・疫学に関する詳細な知識は持ちません。この記事内容の基礎となっている見解は、一般的知識と一般に公開されているデータの観察内容から筆者の責において導いた内容です。

記事内容に関するより詳しい説明は、筆者の個人ブログの記事をご参照ください。また、ここでの解釈が少なくとも矛盾はしないことを実データに基づき行った説明は、上リンク先に続く2本のブログ記事をご覧ください。なかなか厳しい状況ゆえ、活動をご支援頂けますと喜びます。↓↓↓

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