「今日一日無駄にしたなー笑」の呟きに込められたモノ。
「今日1日無駄にしたなー笑」
こんな呟きをTwitterで見てふと感じた。
「ああ、私も今日1日を無駄に溶かしてしまったと。」
そして、私の今日1日を無駄にしてしまった所謂、敗因は何であったのだろうか、と延々と考えていると、面白いYouTubeを見つけてしまって、2時間近くを溶かしてしまったことや、たくさん課題がある中で、編み物を息抜きにと思ったら、熱中してしまって、ついでに、本を読んでしまって、全然進まなかったとか。そんな類いである。
だが、じゃあ、無駄にした要因を全て行わなかったと仮定したら、「無駄な1日じゃなかったのだろうか。」
とふと考えてしまう。
だって無駄じゃなかったというのは一体なんだろう。
そして、そもそも。
この「無駄」の対義語が「無駄でなかった」や「有意義」だったというのは、私の中でなんか少し取ってつけたような気がしてしまって、
「無駄」と「有意義」の間にはきっと何かあるのだな、と思っている。
だって、どんなに楽しい1日を恋人と過ごした日だって、「有意義」というのは少し違うのではないだろうか。
きっとその1日は、「有意義」などではなく、きっともっと違った言葉「楽しかった」や「嬉しかった」のようなもっとありふれた言葉の中に集約されて、きっともっと日常のありふれた幸せの1つになってしまうだろうから。
此処で私は、もう一度、
「無駄」という言葉を見つめてみる。
そこには、きっと「効率的で」「生産的で」というような資本主義的概念が言葉の裏に隠れているような気がしてならない。きっとそうだろう。
ただ、
いつからだろう、生産的な1日を過ごさなければ無駄と感じてしまうようになったのは。
いつからだろう、生産的な1日を過ごさなければ、その1日に何の価値もないと感じるようになったのは。
私たちは、いつからか、いつだったか分からないけど、生産的=価値があるという認識を持ってしまった。
小さかったあの頃、時間を忘れて没頭した大好きな本。
ページが折れて、破れるまで父親に読んでとせがんだあの日だって、きっと今の私の中では、「1日を無駄にしてしまった」という概念に収まってしまうだろう。
だって、一日中友人と遊んで、ご飯を食べて、本を一冊読んでもらって寝る日の中にどんな生産要素が存在するだろうか。
(エリック・カール『パパ、お月様とって!』より)
話を少しだけ違う角度から見てみたい。
こんな考え方もできる。
私たちは、「無駄」という言葉を使って、無駄ではない、だけど有意義とも違う「日常」を区別しているのではないか。と言うことである。
それは、ソシュールが述べるように、
「日常」を「無駄にしてしまった1日」という言葉の「差異」によって発生させているのであろう。
(小林英夫訳『ソシュール一般言語学講義』より)
でも、これは私にとって、とても不思議なことである。
だって、これは、「無駄にしてしまった」ことが意識の中にあることで、
初めて無駄ではない何かが生まれるからである。
つまり、私が言わんとしているのは、
「日常」は意識されない。
誰だったか、忘れてしまったが、こんな言葉を本で読んだことがある。
人間は、普段自分の身体を意識しない。
当たり前であるが、自ら呼吸をしようと思って息を吸ったり吐いたりする人はいないし、心臓だって意思とは無関係に動き続けている。
ただ、これは例えば、
料理をしている最中、包丁で手を切ってしまった時どうだろう。
きっと、指からは血が流れ、痛みとなって私たちにその血管や神経の所在を認識させるだろう。
病気になって、腎臓が悪い、肝臓が悪い。などと医者に言われた時、私たちは初めて見えない自身の体に思考を巡らせるだろうし、指を切ってしまった時はじめて、今まで一体になっていた体の指の血管ないし、神経を自分の体の中で「差異」となって意識されるだろう。
私はこの問題ついて、
実際に痛みが走るか否かは於いておいて、
認識による差異は「痛み」から生まれると思う。
つまり、差異は「痛み」を伴う。
最近、とてもハマっているインスタグラマーの方がいる。(ここでは具体的な個人名は控えさせて頂く。)
彼(もと彼女)は、所謂トランスジェンダーの方なのであるが、彼女のInstagramのリールは常に、「もと女子の彼が教える」と言った言葉から始まる。
なかなかに人気があるのか、(いや彼女に才能があるのだろう)私が見つけた一カ月後には、フォロワー数が5倍近くまで増えていて、正直久々に覗いたInstagramのページを見て驚いた。
ただ、一方でこんなことを思う。
もし、彼のような所謂LGBTQの人々が社会でマイノリティーではなかったら、、、
彼らは、きっともっと違ったことを発信していただろう。
趣味である洋服集め、メイク、子育ての悩み、イラストなどなど。Instagram上には文字通り、いろんな人のいろんな日常がありふれているが、彼らもそんなありふれたモノの1つになって混ざっていったに違いない。
少なくとも、彼は自分のアイデンティティを告白することなく、説明することなく淡々と日々を綴っていたに違いない。
最近、安田浩一さんの本を2冊選んで購入した。
その1つは、在特会について書かれたものである。
(一応必要ないとは思うが、補足)
この在特会については、今此処では書かないが、
この「在日韓国・朝鮮人」に対になる言葉は何だろうか。私はふと思った。
それは、「日本人」だろうか?
本当に「日本人」だろうか?
在日韓国人・朝鮮人に対して「日本人」という言葉を使うのは、なんか取ってつけたような感じがして、パズルのピースのようにしっかりと当てはまっているような感じはない。
しっくりこない。
「日本人ってなんだろう。」
これだって、きっと色々ある筈だ。
そもそも、
私たちは、「在日韓国人・朝鮮人」という言葉を使うのに対して「日本人」として私たち自身を意識することはあるだろうか。きっとないだろう。
私たちは、自分たちを意識しない。
それは、私たちが差異として意識される存在ではないからではないだろうか。
私たちはマジョリティであるからではないからだろうか。
それが初めて、「マジョリティ」になった時、
初めてそれは「差異」になって「痛み」と共に私たちに意識させる。
それは、例えば、
不運にも交通事故に遭ってしまって、半身不随になった時、初めて「身体障害者」として、一般人から切り離されるように。
私はこう思う。
こうやって、区別されて、意識されることで、「差」は生まれるのではないだろうか。
だったら、そもそもマジョリティーになるということは、「意識」されないことなのか。
私が時に想像するユートピア的な差別のない世界。
これはきっと「意識」されない世界なのだろうか。
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