やさしさをつむぐ。

やさしさってなんだろう。
ふと考える。

ひとがいうやさしさという言葉には、とっても強い呪縛をはらんでいる。
「ほんとやさしいね」「やさしくしてくれてありがとう」「やさしくして」
ひとがいうやさしさという言葉はわたしを封じ込める魔力がある。
わたしはわたしで居てはいけない。
ひとのいうやさしさの中で生きなくてはいけない。
学生時代、他人主体で生きてきたわたしはやさしさの呪縛を受けてやさしさの仮面をアロンアルファで貼り付けた。
どんな感情になっても、決して剥がれることはないように。

ひとがいうやさしさとわたしが思うやさしさは相違が生まれることがある。
わたしがひとの人生を想ってお伝えすることは、ひとにとっては耳障りな雑音になってしまうことがよく有った。
今となっては思うことだが、結局わたしがひとにお渡ししたやさしさもひとにとってはひとの本質を封じ込める魔力となってしまうのだ。
その魔力にはきっと適切なタイミングがあって、早くても遅くても心の奥底には届かない。
ベストなタイミングで魔法を掛けたとき、本質を封じ込める魔力と化してしまうのだ。
だが、そうは言ってもわたしが考える理想とひとが考える理想、千差万別十人十色である。
社会においての常識と言われていることと直属の環境においての常識もこれまた違う。
こんなに色々違う世界で、ひとにやさしさの魔法を掛けるのは非常に繊細で難しいことである。

やさしさの魔法を掛けられた人間は、やさしい人間で在らねばならないと強迫観念を持ち始める。
そして、そのやさしさは誰にとってのやさしさか判らなくなってくる。
甘いものは一瞬の幸福を与えるが、我慢は一生の幸福。
甘やかしは一瞬の幸福を与えるが、指導は一生の幸福。
その場限りのやさしさはひとにとってのやさしさになりうるが、嫌なことに対してのご指摘はひとにとってやさしさとは捉えられない。
その相違が、やさしさの呪縛に蝕まれたわたしにとっては苦痛でしかなかった。

わたしにとってご指摘をしてくださることはひとと接する上で最上級のやさしさだと解釈している。
それは社会人になって後輩が出来てから解ったことだが、今目の前のわたしでなく将来先輩方の前から居なくなったわたしにおっしゃってくださっていることだからである。
まあ、おっしゃっている内容によってはただ後輩に指導して気持ちよくなっているだけと捉えられかねない場合もあり、ただわたしを使ってオナニーしているだけなのだなと興醒めすることもある。
だが、意外とふとしたときにご指摘いただいた内容を思い出しハッとさせられ反省する場面もよくある。
そのため、ご指導を受けたばかりの自分が必要無さそうと判断してもゴミ箱に入れず、念のため頭の片隅に置いておくのが大切なのである。
そのやさしさがどんな罵詈雑言でもわたあめのような甘い言葉でもどんな形のものでも、ひとがわたしだけのために紡いでくださった言葉は大切に扱いたいものである。
ひとが紡ぐ言葉ほど、貴くすてきなものはない。

わたしは突然、やさしい人間であることを辞めた。
いや、辞めたという表現は相応しくないのかもしれない。
アロンアルファで貼り付けたはずの仮面は、表皮ごと剥がれ落ちてしまった。
わたしはやさしい人間ではないらしい。
わたしはやさしい人間になりきれなかったらしい。
ひとを想ったやさしさはひとを壊す凶器になり、ひとを甘やかしたやさしさはたくさんのひとを悲しくさせてしまった。
わたしは、やさしさの使い方を間違えてしまっていたみたいだ。
結局ただのエゴ。オナニーしていたのはわたしだったのか。
ひとを想ったやさしさほど、心苦しいものはない。
ひとがこわい。わたしにとっての理想はひとにとっては不必要なもの。
ひとがこわい。絞り出した言葉で多くのひとをころしてしまった。
もしかしたら考えすぎかもしれない。でも、実際傷付いたひとがいる。その事実は変わらない。
わたしは突然、やさしい人間に成れなくなった。

やさしさってなんだろう。
ふと考える。

今わたしはやさしい人間から卒業し、傲慢な人間となった。
他人主体から自分主体の人生に変貌を遂げたのだ。
やさしい人間時代からすると否定的な意見をいただくことはかなり増えた。
それもそうだ。ただでさえ集団行動できない人間が更にひととの交わりに重点を置かなくなってしまったのだから。
でも、それでもわたしは今の自分がだいすきだ。
そして、ひとがだいすきだ。
今の人生が楽しくてしょうがないと、胸張って言える。
それが本当にしあわせで仕方がない。
わたしには夢は無い。だがやらなければならないことはごまんとある。
極めたいものも無い。だが世界中のこと全てを経験するつもりだ。
今は自分のためにやさしさを使おう。
それがまわりまわって誰かへのやさしさに変われば、それはきっと素敵なことだ。

考えても考えても、やさしさという言葉を表す表現は今のわたしは持ち合わせていない。
いつか、最高にだいすきなわたしになれたとき、表現できたらいいなあ。

名前も知らないあなたへ、また見に来てね。

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