内観で人生が変わりました。
●「人生が変わった」が胡散臭い理由
私、内観で人生が変わりました。
、、、本当なんですけど、
胡散臭く、、、感じませんか?
事実なんですけどね。
なぜ、
「カレーを食べました」
は胡散臭くないのに、
「人生が変わりました」
は胡散臭いのでしょう。
おんなじ事実なのに。
カレーは日常茶飯事のできごとで、聞いている人にも経験があるから、「あぁ、それな」とすんなり理解できるのでしょう。
人生が変わったできごとは、経験のある人の方が少なく、経験のない人の方が大多数なのでしょう。
だから、そんなことあるわけないわよ、ときな臭く感じる。さらに、ちょっと人生を変えたいと思ってる、または思ったことがあるから、よりそう思うのだと思います。
経験の貴重さを合わせて、
例えもレアな食べ物に変えます。
「ドリアンを食べました」
と聞いたとき、食べたことがない人は多いと思いますが、どうしても食べたい!と熱望したこともないため、「ん、どんな味だったん?」と何の疑いもなく聞けます。
「本当に食べたん? 嘘じゃない? 食べれるわけなくない?」とまで疑う人はいないですよね。
こういうわけで、
人生を変えたいと思ったことがあったけど、変えられていない人が他人から「人生変わった」と聞くと、胡散臭く聞こえるのだと思います。
そういう詐欺や勧誘もあるしね。
で、本題に戻すと、内観という方法で人生が変わりました(2度目)。
●「人生が変わる」とは、何か?
人生を変えたいと思う人は、(自分が変わることなく、まわりが変わることによって)人生を変えたいと思っていることが、往々にしてあります。
その人生の変え方は、メガ級の難易度ですね。
イメージにするとこうです。
目の前に海があります。深くて暗くて進めない。そこで、えいや!と杖をつくと、海が二つに割れて、そのまま進むことができます。
はい、モーゼですね。彼のようなことが起こらない限り、進む方向を変えない人の人生の道は変わりません。
人生がガラッと変わった。
私の現象をイメージにするとこうです。
電車の右側の窓から景色を見ていたけど、違う風景を見たくて、左側に移動した。はい、自分で動いて変えたのです。見ている方角が変わった、それだけのことです。
これが「人生がガラッと変わる」という現象だと思います。
つまり、自分のものごとの見え方を180度変えることができると、人生が変わったと「感じる」のです。
日々、同僚や上司や家族と触れていることによって、自分の考えは少しずつ進んだり戻ったりします。変わって当然です。
ただ、時間をかけて少しずつ変化するので、髪の毛が気がついたら伸びていたように、変化に気がつかない。
「内観」という作業は、短期間で、自分を集中的に客観視することで、根本の考え方に影響が及ぶ方法でした。
変わる幅は、人それぞれです。
肌感で言うと、自分のことが嫌いだったり、認められなかったり、自己肯定感や自尊心が低かったり、他人が許せなかったり、人に優しくできなかったり、すぐにイライラしてしまったり、他人に負けまいと競争心が強かったり、それやって当然でしょ?と思ったりするような人は、内観による変化の幅が大きいのではないか、と思います。
日々、周りの人への感謝を大切にでき、己の行動を振り返り、自らのよくないこと自らで正せる人は、変化の幅は少ないような気がします。
あくまでも、私の感覚ですが。
●私は何が変わったのか。
では、私の場合は、内観によって、何がどう変わったのか。
具体例としてお伝えすることが、私にできるわかりやすい説明方法なのではありますが、
変化を伝えると言うことは、ビフォーも説明しなければならないわけです。つまり、自分のすごく嫌な部分をさらさなければならないわけです。
それをしないと、ぼんやりと抽象的なままで、解像度が上がらず、素晴らしい方法だということが伝わらない気がします。
心が詰まって困っているひとに、ぜひ教えてあげたい。しかし、自分のドス黒さを公にしたくはない。
有料noteで綴ろうかなというのが、今のところの考えです。本当にしんどくて変わりたい人が、本気で変わりたいと思った時の役に立つように。
まだね、書いてません。
変化を綴るのは、すっごくヘビーなので、書いてないけど、書かないとなと思ってる。
そんなもやもやの気持ちを書くための一枚でした。
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