ブランクボックス0

 彼の父親は神を見たと言った。
「ジュニアよ」と彼の父親は、小枝のように細く節くれ立った指からは想像出来ないほどの力で肩を掴み、灰色の目を、――彼の透き通るような水色の目は母親から授かったのだ、――炎を滾らせた灰色の目をじっと彼に向けた。「私は神を見たのだ。私は神の言葉を人々に伝え広めなければならない。わかるね?」たっぷりと蓄えた口ひげの隙間から覗く黄色く濁った歯と酒臭い息に、彼は頷くしかなかった。
こうして、彼は一晩の間に、理不尽なまでに唐突に白いパン、甘い砂糖菓子、ふかふかのベッド、ペルシャカーペット、整備された舗装路、もうもうと煙を吐き出す煙突たちと別れを告げることになったのだ。
待っていたのは、硬く黒いパン、出涸らしのコーヒー、薄い毛布、回転草《タンブルウィード》、そして荒野であった。岩と砂だけの果てしなく続く荒野。永遠に続く荒野。それが彼の日常となった。だが、彼が耐え難かったのはそんなことではない。たった二つだけだった。彼が耐えかねたのはたった二つのことだった。それ以外は取るに足らない些事でしかなかった。彼は過去を回想して想う。
あの二つの事柄さえなければ、遮ることのない太陽の燃えるような日射しも、果てのない渇いた荒野も、全て楽園に思えただろう。
たった二つの不遇。
一つは母親を失ったこと。
もう一つは、彼の父親が神など見ていないということを知っていたことだ。
彼の父親は神など見ていない、父親の周りの人間たちがそう信じたかっただけだし、彼の父親もまたそれを信じたかったのだ。そのことを知るのは彼だけだった。父親の周囲はもちろん、彼の母親も、父親自身もそのことを知らなかった。
ささやかな秘密。
しかし猛毒を伴った秘密。
知っていたのは、彼、ウィリアム・ホーク・ジュニアだけだったのだ。
ある時、ウィリアム・ホークは、ジュニアに囁いた。
「ジュニアよ、神は空白の箱《ブランクボックス》であった」と――――。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?