ブランクボックス4

 それはある春の日だった。その日は春の訪れを祝う復活祭で、街中はすっかり浮かれ上がっていた。ベンジャミンとウィリアムの二人も仕事を休め、お祭りムードの街を二人練り歩いていた。
「春の訪れを祝い。収穫物の豊穣を願う復活祭ねぇ……」とウィリアムはいつものシニカルな調子だ。
「なんだい、ウィリアム。キミはこういうのは昔から良い顔をしないねぇ。楽しむことだよ」
「もともとは豊穣祭だったものを十字架にかけられた神様の復活祭にすり替える……僕はこういうのが苦手なんだ」
「ウィリアム、僕はときどき思うんだよ。キミはいつか犬儒派になんかなりはしないだろうね?」
「犬儒派……哀れなディオゲネスか……」
「そうさ」
「人の意見や慣習に囚われるのを嫌い、真の自由を求め、公共の場で便や自慰をした男……」ウィリアムは視線を宙にやった。「僕にはその傾向があることは否めないな。ベンジャミン知っているかい? 皮肉、シニカルてのは犬儒派を意味するシニックからきてるって」
「ふふ、まさしくウィリアムくんそのものだね。とはいえ、今日は年に1度のお祭りだ。例えそれが欺瞞から始まったものだとしてもね」
「うん、その通りだ。楽しもうじゃないか、ベンジャミンよ」
 こんな調子で街1番ともいわれる働きものの若者たちは、1年に数度の祭日を若者らしい反骨心を持ちながらも、しかしながら充分に楽しんでいるのであった。
「これ、本当にこの値段かしら?」
「ええ、お嬢さん、お目が高い。そちらの懐中時計は銀無垢でね、しかもそのカラクリは精巧そのもの、かの高名な時計職人ブレゲによるものでさぁ、傾けても時間がずれないシロモノでしてね、それでも安いくらいでさぁ」
「ブレゲ?」
「ええ、フランスの有名な時計職人です。あれ? スイスだったかな? とにかく有名な職人ですよ。王侯貴族御用達でさぁ」
 えへへ、とはげ頭を掻く親父。どうやら雑貨を扱う出店の店主らしい。出っ歯でこびた目をして胡散臭さしかない。祭りの雰囲気にかこつけて出所の怪しい偽装品や盗品を売る山師だろう。
「もちろん――そのブレゲという方は存じ上げないのだけど――」と山師に対するは純真を絵に描いたような少女であった。年の頃は15,6といったところか白いプレーリードレスに同じく白いボンネットを被っていた。それもあって二人の位置からはその表情を覗うことは出来なかったが、声には年相応いや、それ以上のあどけなさがあった。深窓の令嬢――二人の頭には同じ単語が浮かんでいた。「その時計のデザインは気に入ったわ。父へのプレゼントにぴったりだと思うの」
「えへへ、それはもう……お父上もお喜びになるかと……」
「んー、しかし困りましたわ……このお値段は――……」
「安すぎるな」
「へえ……え?」
「うん、ウィリアムの言う通りだ。安すぎる」
「安すぎる? ええ、それはもちろん……勉強させていただいてますよ」
「たわけ!」とウィリアムは山師に一喝する。「もし、これが本当にブレゲ技師の作品ならばこの百倍……いや、千倍の値段でも安いくらいだ。しかも、パラシュート機構はもちろん、トゥルービヨン機構にミニッツリピーター機能付きのペルペチュエル(自動巻き式)……間違いなく王侯貴族向け……」
「もしブレゲ技師だったなら、それだけの懐中時計をこんなシンプルな――」言いながらベンジャミンは、懐中時計を取り上げて指で弾く。キンと鈍い音が祭りの雑踏にあっという間にかき消えた。「銀メッキにはしないだろうね」
「……な……なんだい、お前たちは!?」
「ただの通りすがりだ」
「お節介のね。だから何が言いたいかっていうと、それがもし本物のブレゲ時計ならば――サイン細工も何も施されていないそれが――本物だとしたら――」
「安すぎる」
「という話さ。逆にまともに時間も計れないようなただのポンコツ時計なら、さすがにその値段はおかしくないかな? って話かな」
 ニンマリと笑みを浮かべるベンジャミンであった。
「ぐっ……」と山師は歯噛みをする。「しかし、それはお前たちには――」
「ああ、関係ない。さあ、後はこのお嬢さんとアンタの問題だ」
と三人の視線が一斉にその少女にそそがれた。その時に二人は――ウィリアムとベンジャミンの二人は――初めてその少女の顔を見たのであった。そこには美しさと情熱と気品、そして未熟さが奇妙に同居していた。後ろ姿と声から二人が想像していた。お嬢様然とした容姿、それ以上に整った容姿であった。ふわりとカールした栗毛色の髪、スラリととした鼻筋、ふっくらした桜色の唇、白い肌に彩りを添えるようなそばかすも欠点にはならず、そこに作りものではない生命力を宿らせるものであった。だが二人にもっとも強い印象を与えたのはその瞳であった。
 海。
 二人の頭には共通の単語が浮かんでいた。
 海。
 彼女の瞳の色、澄んだ青は、まさしくマリンブルーと形容するにふさわしい色だった。
 もちろん二人は海をみたことはないが、かつて父親たちがこの地を訪れるために渡った海、あの誇らしく語っていた物語の中にある海の姿――それを思わせる色だった。
 そうしてその色は、ウィリアムとベンジャミン、二人の心を春雷の如くかき乱したのだった。
「私は時計のことも、お値段のことも分かりません。でも――この時計が気に入って買いたいと思っています。父にプレゼントしたいのです……もちろん、良心に則った適正な価格で」
 言って、少女はあどけなさを潜め凜とした雰囲気を纏い屹然と青い眼を山師に向けるのだった。
 驚いたな――と二人は舌を巻く。始めに受けた印象からは想像出来ない強気な態度――それは彼女が教育を受けていることの証左でもあった。なるほど、あながち世間知らずのお嬢様じゃないようだな――とウィリアムは皮肉に顎をさすり、ベンジャミンは穏やかな凪かと思えば嵐のような気性も持つ、海の神様が女性というのも分かる気がするなと神話に思いを馳せるのであった。
 ふぅ、と山師が大きな溜め息を吐く。
「負けたよ」
 こうして、時計を手に入れた少女と二人は連れ立って祭りの喧騒の中を歩き始めた。
「助かりました。お二人はお詳しいんですか?」
「ん? 何にだい」とベンジャミン。
「時計ですとか、ああいう機械ですわ」
 それを聞いて二人は吹き出しそうになる。
「その前にキミに聞きたいことがある」
 なにかしら、と小首を傾げる。
「その時計――」ベンジャミンがハンドバッグの中の懐中時計を指差す。「そんなに気に入ったの? お父さんにプレゼントしたいみたいだけど」
「ええ、どういう機能だとか、どこの職人がお作りになったとか、そういうことはとんと分からないのですけど、とても素敵な時計だと思いました、その、なんていうんでしょうか……」言葉を探すように俯き。「丁寧――丁寧に、作られている気がしたんです」
「アハハハハ」と二人声を揃えて笑う。
「え? 私何かおかしなことを?」
「良かったね、ウィリアム」
「良かったな、ベンジャミン」
 狼狽する彼女をよそにお互いを讃え合う。
「お二人して一体どうなさったんですか?!」
「その時計をさ、作ったのはベンジャミンなのさ」
「その時計を設計したのはウィリアムなんだよ」
「え??」
「その時計は僕たち二人が作ったんだよ」
「そういうことだな」
「えっと、じゃあ、お二人がブレゲさん?」
「アハハハハ」と再び笑う。「違う違う、僕たちはブレゲさんでも時計職人でもないよ」
「えっと、じゃあ……」
「僕たちは、しがない雇われの印刷工さ」
「は、はぁ……」
「ただたまに印刷所にそういう本の依頼がくる。大抵は印刷するのも馬鹿らしいゴシップ誌や広告だけどね。あまりにも馬鹿馬鹿しいものしかないから、今度二人で新聞でも作ろうかって話してるところさ、そのままズバリ時事新報っていう――おっと話が逸れたね」ベンジャミンが持ち前の特性を発揮し、まくしたてる。一度話に火が付いたら、長舌をふるうところが彼にはあった。「とにかくそういう本の依頼もあるんだ。時計造りの技術が書かれたような本がね」
「俺たちはそういう本を誰よりも早く読めるって訳だな」
「そうそう、で、たまに遊びで試したりしてる訳――で」ニヤリとベンジャミン。「そいつを作ってみたってことさ」
「すごい!!」と、少女はパチパチと手を鳴らす。「本を読んだだけで時計を作れるなんて!」
「違う違う、壊れた市販品や廃品を集めて組み立てただけだよ。パーツを加工したりしてね」
「それでもすごいです! これはますます父にぴったりです! そんな物語まであるなんて!」
「物語て……」
 すっかり目を輝かせて二人を見るので、いささか圧倒される二人であった。
「でもよ、お嬢さん、あんまし俺らみたいのと一緒にいない方がいいんじゃないのか?」ん?と小首を傾げる。「アンタ、上流階級だろ。庶民とは違う。俺たちみたいなのとはな」
「いえ、このマーサ・ジェファーソン。そのような出自で他人を判断するような愚かしい真似はしませんわ」
「ん?」
「はい?」
「ジェファーソン……?」
「もしかして……キミの父親って……トーマス・ジェファーソン博士?」
「はい」
 満面の笑みでマーサ・ジェファーソンは答えるのだった。

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