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親とワクチンと信頼

前提

久々に両親と電話する機会があった。

当たり障りもないしょうもない近況報告。

ただ、ワクチンを打つまで(帰るのは)避けたいという話が出たとき、「打つのはやめとけ」「やめときなよそんな人体実験みたいな」という話をされた。

存在を知ってはいたが、こんなところにいたとは。しかもそこそこ馬鹿にしていただけにショックもそこそこ食らった。

まぁ当然こちらが何を言おうとも立て板に水で異なる意見がぶつかり合って終わり。

前提その2


僕はワクチン肯定派です。


なぜ?

なぜ、何故、こうも意見の違う人間が生成されるのか。割と考えた。

そこで一つ思ったのは、

「信頼の先が違う」

という点。

まず、僕も親も自己への信頼がある。これは同じ。どっちも自分が正しいと思っているから、お互いに意見が対立する。

その意見の違いが生まれたのは信頼するものが違うから。

僕は一般人よりはウイルスのこと、ワクチンのことを知っている自信がある。自分が得てきた知識への信頼がある。一般的なメディア(NHKとか)を信頼してるし、なによりも、ワクチンの製造、検査、国の承認というプロセスを信頼している。(あとワクチン自体の合理性も一応信頼している)

親はそれまでの人生で同様に読んだ本とか彼らが触れて得てきた知識を信頼している。そしてその上でワクチンは危ないといった誰の噂かどこの記事か知らないが信頼している。

この違いだと思う。

信頼

どちらも「ただの信頼」に過ぎない。確固たる証拠(ここではある証拠が証拠足り得る証拠もすべて含むもの)があって自分の意見がある訳では無い。

僕は理系の、しかも生物系の学生だが、ワクチンについて全て理解できている訳ではない。

本当に詳細なメカニズム。特定のある企業が作ったものの特徴、他社製品との差。体内に注射する全成分の組成。

多分それは何に対しても誰にとっても同じ事で、本当に1から100まで「確固たる真実」を理解し
すべての正しい情報を得て判断することはできない。

そこで、承認プロセスや与えられた範囲の情報への信頼、それまでの人生で培われた価値基準、判断基準への信頼がここで出てくる。

何を信頼して、結果何を信頼するのか。それが人の判断、価値観を生む。

よく言えばアイデンティティの形成。

悪く言えば他人との分かち合えない壁の形成。

だから何?

わからないです。

信頼しているものが根本から違うと理詰めでの説得とか何もない。(これが養老孟司が言うところの「バカの壁」なのかもしれない)

説得しようとする側もされる側も最終的には己の信頼するものへと辿り着くのだから、結局「俺がこう思うからこうである」という話に行き着く。

どうしたらいいとかも多分ない。

僕が信頼してきたもので導いた僕にとっては信頼に足る結論です。くどい。


おわりに

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

初投稿であり、拙い文章で申し訳ありません。

また、この記事に、人を腐し貶める意図はありません。

もし、気分を害された方がいましたらすみません。この記事は閉じて忘れてください。

良い一日を。