欲望と自転車

ごろりんごろりんご。夕方になるまで畳の上に寝転がって、こうして天井を見つめていると、なんと自分はちっぽけな存在なんだと、実に陰鬱な気分になってくる。それならば外へ出かけて、若者らしいフレッシュな夢でも追いかけるなり、女のひとつでも口説いてみるなりすればよいのかもしれないが、10年以上前に買った自転車はいたるところが錆びついていて、うまく動かないし、むりやり前進させるだけの欲望もない。ただただ、天井がそこにあって、秋の風がそよそよと吹いてくるだけだ。

自分にとっての街や世界はただそこにあるだけで、どのような接点をも見出すことはできなかった。そんなときは、静かにあの考えをめぐらせる。ぐにゃぐにゃに折り曲がった世界をこえて、小麦畑にあたたかい日差しが差し込んだような、ゆっくりと時間が進む新しい世界よ、開けと。

コンコン。
「すみませーん。宅配でーす」
おや、誰か来たようだ。俺の家に届け物とは珍しい。俺の家に何かものが届くのはおととしの誕生日に親からカップラーメンの詰め合わせと魚肉ソーセージが届いて以来だ。どれ、でてみるとしよう。ガチャ。
「はい」
「高槻さんですか、あぁ、よかった。ここにサインをお願いします」
「あ、はい」
得意の楷書で名前を書く。品を受け取る。学生時代はラグビーで鍛えてましたといったような、色黒でしっかりとした体格の男はニコッと笑うと「ありがとうございました」と言い、去っていった。

さーて、届いたものはなんであろうか。一体この私に何の用であろうかと、小物入れからカッターナイフを持ってきてこれを開けた。箱の中身は珍妙極まりない物であった。クッション剤という意味で入れておいたのだろう、その大半が新聞紙を丸めたような取るに足らないもので、その奥に、一枚の紙切れと、小さなケースが入っていた。その小さなケースにはシチズンとかかれており、中身は大方予想した通り、腕時計であった。折りたたまれていた紙を開く。なになに、
「タタタト、タタタト、タタタタ
 スグカエレ、メンドリ 2010.10.7」
箱を開けたときは、あまりに珍妙な内容物にただただ首を傾げるばかりであったが、この紙切れの内容を読むことで、だんだんとこの届け物の意図するところを理解できるようになってきた。ははーんなるほど、わかったぞ。タタタトの部分はリズムを表している。そしてこのスグカエレの部分は帰ってこいの意を表している。メンドリも簡単。雌鳥。すなわち、メスの鳥。そして、これを書いた日付だ。つまりこの送り主が言いたいことは大方つぎのようなことだろう。私は雌の鳥よ、雌の鳥って言ったって、ただの鳥じゃないわ。はっきりいってナイスバディーよ。ナイスバディー。このふとももなんか見て頂戴。どんな大金持ちだってイチコロよ。こないだだって、IT企業の代表だっていう男が近づいてきたから、話を聞いてみたんだけど、どうも野暮ったいのよね。何を話すにしたって、昔はこうだった。あれは俺がつくったんだ。今あれがあるのは俺のおかげなんだとか、恩着せがましいったらありゃしない。適当にあしらって、食事だけおごらせて、お断りしてやったわ。あぁ、それはそうと、新しいダンス。知ってる?新しいダンス。ゾクゾクしちゃうわよ。今度あれ、あのステップ。私も試してみようと思ってるの。タタタトタタタトタタタタ。タタタトタタタトタタタタ。最高よね。しびれちゃうわ。さーて、そろそろ帰らないと、農家のじじいがまたキレちゃうからね。あのじじい。キレるたびにカマ振り回して、ウスノロどもーワシの嫁ジェニファーをどこへやったんじゃー。ワシの嫁のジェニファーはどこじゃー。ってうるさいから気をつけないと。あなたもはやく帰ってきてね。あのステップ、あなたにも是非見てもらいたいもの。きっと気に入るわよ。それじゃあ、またね。ばーい。あなたの愛玩具(おもちゃ)、雌鳥。2010.10.7。

なるほど、それなら合点がいくぞ。いやしかし、こっちのシチズンの腕時計。これはどういうことだろうか。これは多分あれだ、普段から時間を守って行動しなさい。そのためにこの時計でよく時間を確認し、5分前行動を徹底するようにしなさい。ということだな。

よーし。わかったぞ。ところでまったく別件だが、俺は今、16時48分にモーレツに腹が減っている。朝食べたのは食パンひとつだけで、それから何も口にしていない。腹が減ったのは2時間ぐらい前からだが、なんとなく外に出るのも面倒くさくて、いまだに食事にありつけていない。そこで俺は適当な近所のファーストフード店でドンブリものの定食でも食べることにした。しかしながら今日は友人のライブが19時からあるということなので、18時ぐらいにはなんとしてでも家をでなければならない。外に出て食事をして帰ってきて、再び出かける準備をするまでに必要な時間は、だいたい1時間というところか。つまり最低でも17時には家を出て、適当なファーストフード店に行かなければならない。つまりあと12分以内には出かけなければならない。そこでだ、今や俺には5分前行動の哲学が備わっている。俺は以前の俺とは違い、この時計を手に入れたことで、5分前に行動し、時間をしっかり守る立派な社会人として世界に立ったわけだから、そこはもう、なんとしてでも、なんとかしよう。

というわけで、きっちり16時55分に家を出た。というところで目が覚めた。すでに日は落ち、あたりは暗くなっていた。時計を見る。20時47分。見慣れたローテーブルにマグカップ、ノート、携帯電話、読みかけの文庫本などが置かれていた。窓を開けっ放しにしていたので、カーテンがふわふわと踊っていた。この世界はまだ、別にちっともなんともなっていなかった。錆びだらけの自転車にも秋風がそよと吹いた。新しい世界には、まだ、たどりつけそうにない。


ありがとうございます。