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さよならの花びらを

昨日、大好きなひととのお別れを、しました。

つい先日、モノコンにあげたエッセイの祖父の妻、祖母のお葬式でした。

病気が分かったのもあまりに急で、あまりに急にいなくなってしまいました。心の整理がつかず、夜になると大きな波に飲まれるように胸が苦しくなってどうしようもないさみしさに心が揺れています。

5月に結婚式をして、中座で母とともに歩いたことも、つい最近の出来事でした。握った手の温度も、こんなにまだわたしの右手に残っているのに、昨日触れたおでこが硬く冷たく、ここにもう祖母はいないのだと突き付けられ、いかないで、いかないで、と大人の自覚なく呼びかけ、火葬場の炉に入る祖母が見えなくなるほど泣きました。


谷川俊太郎さんの有名な詩のなかに


生きているということ

いま生きているということ

それはのどがかわくということ


という冒頭の部分がありますが、本当にそうなのだと思います。


生きることはかわくこと。潤いがあるということ、からだの70%は水分だということ。わたしたちは水なしに生きていくことが難しいということ。その水を自らのからだの力で取り入れることができるということ。

それがどれほど尊い奇跡のような行為であることか、と思いました。また、常日頃、愛するひとには、愛している、と、大好きだと、言葉にすることを心がけていますが、それをなお、大切にしていこうと、今はさらに気が引き締まる思いでいます。

祈りの対象が増えた今、少しずつ時間をかけて、目の前にある大切な人たちへ向けて、自分がなにができるのか、向き合っていこうと思います。

わたしの言葉を、残していこうと思います。


話は少しそれてしまいますが、今年度のあたらよ文学賞は残ることができませんでした。けれど、惜しかった作品のなかにのせていただき、作者の感性が鋭く、という講評をいただくことができました。

この数ヶ月間、それこそ創作の種になるような、感情や言葉がわたしの胸のなかにたくさん生まれました。苦しいことも、嬉しいことも、たくさん。

それはもしかしたら、わたし以外のだれかを救うような言葉になるかもしれないし、そうではないかもしれないけれど。

けれど、それを少しでも整った形にして、だれかを傷つけることのないようになるべく配慮しながら、言葉を書きつづけなければ、と思います。


わたしの物語を愛してくれた祖母のためにも、なによりわたし自身のためにも。


まとまりのない文章になってしまいましたが、どうか創作仲間と思っております、みなさまの心が、日々穏やかに、美しいものに囲まれて、幸福なものであることを祈っています。


【追記】

また、最後にこの数日、コメントしたかったけれどできずにいたおふたりに、メッセージをおくらせてください…!


はがねちゃん(勝手にちゃん呼びしてごめんなさい)、あたらよ一次通過おめでとうございます!

モノコンで一緒に創作したときのこと、(わたしはそのころ別名義だったけれど)、覚えています。そしてはがねちゃんの物語を読んで、このひとの書く物語がわたしはとても好きだ、と思いました。monogataryの使い方もいまいち理解していないころに、一緒に創作をしてくれたこと、とても感謝しています。だから、本当に勝手だけれど、これからも書くことをやめないでほしい、なんて思っています。良ければこれからも仲良くしてもらえたらうれしいな…!

葉一朗さん、執筆活動をいったんおやすみするというツイートをみて、こういう状況だったこともあってか、泣いてしまいました。本当に自分勝手ではありますが、とても心近く感じていた方だったからです。いつもわたしの物語を好きだと言ってくださり、それがどれほど支えになったか分かりません。

センペルビウム・ライラックタイムという物語がとってもとっても好きでした。

創作の交流の場から、まったくいなくなってしまうわけではないことに、とても安心しました。いつでも戻ってきてください、と言わせてください。大好きです



2024.9.1 糸野 麦