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愛されることのない運命

生まれてから今まで、人の愛情を感じた記憶がほとんどない。
丁寧に接しても雑に扱われたり、親しみを込めてこちらから近づいても容赦なく傷つけられたり、いつの間にか損な役回りをしていたり、ずっと犠牲のような存在で生きてきた。

人畜無害な雰囲気のせいか、いつだって人に舐められるし、他の人には取らないような態度を自分には平気で取れてしまうらしい。
裏を返せば「人は自分に安心している」ということなのかもしれないが、だからと言って自分が人に安心できたことはない。

元々心臓が弱いのもあってか、事あるごとに自分にかかる圧力が強い。
人の輪に入っても存在が浮きやすく、不器用でどんくさくて立ち回りが下手くそだから嫌なことがあっても咄嗟にうまく反応ができなかったりする。

威厳がないから抑止もできない。
人畜無害だから怒っても迫力がない。
「こいつなら何をやっても許される」
そう思われている自分はなんだか人権が脅かされる状況に置かれていて、一人がんじがらめになる。

防衛本能に基づき、いつしか人を冷めた目で見るようになった。持てはやされるようなことがあっても、だいたいは勘繰って慎重になる。
「何か狙いがあるんではないか」
「どうせすぐどこかへ行ってしまうんではないか」

面白いぐらいに的中する。
やはりそうかと。

人を信じたいのに、関われば関わるほど嫌な思いになる。無視、見下し、マウントと、いつもいつも人の悪意に悩まされる。
常に緊張状態にあり、「また嫌な目に遭うんじゃないか」といった絶対的な恐怖がある。

誰が見てもわかるような可視化できる酷い虐待とかではなく、じんわりと効いてくる毒のようなダメージの蓄積。だから端からは普通に見られる。
でも実際は、満身創痍である。
きっと“複雑性PTSD”というやつなんだろうと分析、自覚しているが(医者は当てにならないので)、この状態を一生心に抱えたまま治ることはないんだろうな。

情けない話だが、その程度の命ということ。
軽い命。まるで空気みたいだ。
人間にはほとほと疲れた。


世の中良いことばかりで成り立っているわけではなく、むしろ悪いことの方が多い。リアリストであれば、ここに異論はないはず。憎まれっ子世に憚るとも言う。
だから俺みたいなやつは貶められる率が高く、自然と心に負うダメージの量が多くなってしまう。

「自分だけがしんどい思いをして生きているわけではない」
そんなことはわかっているが、人間関係上の苦難で言えば、相当レベルが高い方だと思う。努力ではカバーしきれないスピードで、他の人には起こらないような災いが数多く降りかかる。
運命的なものを否定している人にはわからないだろうが、恥ずかしながらこれが自分の運命であり現実である。

愛されることのない運命。
そう生まれついてしまったのが残念でならない。
軽視され、侮辱され、利用され、差別され
家族、親族、職場、関わる人関わる人、冷たい当たりの人たちばかりだった。




愛とは……
温かく、優しく、親切なもの
純真で、美しいもの
転びそうになった時の支え、安心して委ねられるクッションのようなもの
相手に配慮し、干渉しないが放置もしない
人の痛みには自然と寄り添う
時には相手のことを思って忠告する
良心からでてくるアプローチ
肌で感じる温もり、「好き」という感情
奉仕の心、癒しの力、護り

昔からこういうものを“愛”だと、おぼろげに理解していた。

しかしこれは特権なのかな。
全ての人が平等に与れるものではない。

少なくとも自分がこういう恩恵にあずかれたことはほとんどない。最初から最後まで、孤軍奮闘を貫かなければならない。

あるいは、愛されるとは才能なのかもしれない。
真面目で大人しい子より、やんちゃでムードメーカーの子の方がクラスの人気者だったりする。
どんなに悪ふざけをしても憎めないキャラであるとか、自然体でいるだけでモテるであるとか。
このような愛嬌あるものは生まれ持った才能だ。なろうと思って簡単になれるわけじゃない。

そういう意味では、自分には人から愛される才能はなかった。


確かな愛と救いを求め手に取った聖書には、見事に自分の価値観と合致するものがたくさん書いてある。何と大発見だったことか。
人生経験に照らして考えてみても性悪説の人間観は正しいと思われる。つまり人間は、罪人であるということ。

人が自分勝手に人生を説くものほど胡散臭いものはないが、聖書には一貫性と普遍的価値がある。
全ての人が平等に与れる愛なら、聖書の神にあるのは間違いない。あとは受け取る側にかかっている。

頭ではわかっているが、未熟な自分には身近ではない不可視なものをなかなか安定的には感じられないでいる……。



亡くなった愛犬の写真を毎晩眺め、公園の野鳥に時々餌をやりに行き、少しでも心の空洞を埋めたくてひとりぼっちをやり過ごしている。
今更、人に同情してもらおうとか、助けてもらいたいとか、愛されたいなどとは思わない。悪い縁起を担ぎやすい自分に、この先どんな人間が現れようとも信用しない。

もう自分の致命的な運命を受け入れている。
結末も見えている。
蛇の生殺しみたいな日常を断ち切って、この無意味な生涯をそのうち終わりにする。

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