#2 天忠組と志

昨夜は有楽町のよみうりホールで行われた《天忠組シンポジウム2017》に参加してきた。

《忠》

人はただの肉体ではない。
魂の存在として、「志」こそが芯であると
それを再確認した時間を頂戴したように思う。

和太鼓と書のパフォーマンスで始まったオープニングは
耳と目と全身での響がもたらす効果か
その場所にグッと深く沈み込むような集中力を私にもたらした。

描かれた書は、
手漉の和紙三重で作ったという紙に書かれた。

その紙の持つ清潔な重みを
存在感として空間へ放ち墨色を際立てていた。

《忠》という一文字に天忠組の全てを盛り込んだという書家の心意気と
天忠組の意思の力強さと 志の高さはを会場にもたらしたように見えた。

薄墨で流された線は雲の流れ、、、
忠の部首「心」に踊るような躍動感がみなぎり若さと血気の激しさを感じ
「中」の部首の中心に走る芯の真っ直ぐさとに、まず心動かされた。
彼ら組員の志のつよさと芯のつよさが そこに見えた。
その場で掲げられた書は、一点で、その空間全てを支え
今日のテーマを目で見せてくれた。

《利他・責任・再生・・・》

岡本彰夫先生の基調講演は
時間的には 10分ほどであったにも関わらず
的確な誘導で私たち聴衆に、
天忠組の精神支柱と今日のテーマを、
「利他、責任、再生」という三語に集約し
ブレ無く的を当てて 示してくださり素晴らしかった。

その後の1時間余りの映像ドキュメンタリーも命をこめた映像だった。
登場する方がたの熱い思い、関連の土地の映像
奥大和の山また山の その村々の映像、、、
ただその場所を見ているだけでなみだが頬を伝う。

私は知らなかった。

この天忠組の志士たちが、19歳から20歳そこそこの若者たちが多かったということ。
そんなに若かったのかと、、、。
映し出される映像の顔は みな 幼い面ざしで胸が痛んだ。

玉置神社の映像と、
天誅組終焉の地という石碑の映像にも
思わず涙が溢れた。

ここは私が行ったことのある場所だったからだろうか。

玉置神社はこの7月末に、
そして、去年の10月末に丹生川上神社中社へ向かっている時、
たまたま東吉野村を走っていて、
突然 天誅組終焉の地の石碑の前に出て、
思わず車を降り手を合わせて来た場所だった。

そこが映しだされたた時
その時の空気感が一気にわたしに流れてきたから。

映像では、
こころざしの高さは空の如く、澄んだ心は清水の如く その生き方は桜の如し・・と語られた。

そう語られる志士の一人一人に当てられるスポットライトと、そのドラマ・・・

岡本先生が映像内で話された 吉村寅太郎の壮絶な最期の物語は悲しい。

最後の力を振り絞り岩の上に登り胡座した彼は
切腹の為に 刀に手をかけようとした。
敵方は 誤解し慌てて一斉に発砲したという。

寅太郎は、最後の切腹が叶わずに「残念無念・・・」と果てたという。

また、天誅組河内勢を忘れてはならないとのお話などもありましたが
いかにせん、こちらの知識があまりに浅薄にて
受け取れずに来たことは残念。

映像の中で今回登場する方がたは
お話しつつ、我が事のように なみだを流されていた。

「世を良くしようと理想に燃え、逆賊とされた彼らもの最後のを思えば、
どんなに残念だったかと、なみだがでます。
天忠組を思えば思うほど涙がでます」と、、

「最後の食事を紋付袴で饗したという先祖の話を聞いた時、ああ、ウチの先祖も偉いことをしたと誇りに思いました」と、、、
なみだを流されている。

それを聞いて わたしの目も濡れる。

150年まえに
新しい世の中を作ると理想に燃えた若者たちの生き様は
後世の私たちに 「志」によって強く働きかけ 迫ってきた。

これは、まだ、彼らが生きていることだと気づく。

そのことに 気づいた途端、
強く白檀が香った。
大好きな香り。

岡本彰夫先生のおっしゃった「再生」とは
この私たち後世人の心に
彼らの「志」を映すことなのだろうと思った。

一心公平無私、、、彼らの旗印だったという。

私たちに、自分は今、その言葉に恥じない生き方だろうかと問いかける。
この時間、彼らがわたしに迫ったことは 大きい。
志、、もう一度、志をみつめよと迫る。

このシンポジウムは今回で5年目だという。

天誅(忠)組という言葉を初めて聞いたのは3年前。

奈良に興味を持っていて何度か訪れていることを知っていた奈良ご出身のお友達から
天誅組シンポジウムがあるけれど?とお電話をいただきオススメいただいた。

その時まで、私は天誅(忠)組を全く知らなかった。
聞いたことも無く無知識だった。

奈良に集った理想に燃えた若者たちが
決死隊を結成し維新の魁になったのだと
簡単に天誅組のことを教えていただいたけれど
その時は 行かなかった。

そのお友達は翌年(昨年)も誘ってくださったけれど
予定があって行かれなかったから やっとの3年目だった。

やっと行かれたし、行って良かったと思った。

《辞世》

天忠組には、伴林光平という浄土真宗の僧侶であり
幕末の大歌人・国学者がいたということだった。

書記方として、江戸期の当時としては異例の高齢、
51歳での参加だったという。

もし、天忠組に入っていなかったら、
彼は日本を代表する歌人となっていたはずだと、岡本先生はおっしゃった。
そのためか
シンポジウムの最後の趣向は
パネラーが こころに残る辞世を紹介する形ですすんだ。

歌というのは、深くこころに刻まれる。

雲を踏み
嵐を攀(よ)じて御熊野の
果て無し山の 果ても見しかな

この時も やっぱり 背後に 大好きな白檀が香った。
二度、こうやって 白檀の高貴な匂いが香ったから
彼らも共にいるのだろう、
魂となって、この場に共にいるのだとわかった。

岡本先生が最後のにこうお話されたのが印象的だった。

思い出すことが、何よりの供養です。
弔うとは、とぶらう
訪れるということでもあります。
ぜひ、彼らの足跡を辿って奥大和の土地土地をめぐり
天忠組を思い出し、彼らに思いを馳せて貰いたいと。

思い出すことが供養であり再生。

そして志

いい時間でした。
ありがとうございました。

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