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あいつが死んだー「新橋寄り銀座10円の恋物語」①


変な言い訳

これから書くのは、60余年前に終わった貧しい恋の物語だ。裕次郎張りに銀座の恋の物語には違いないが、すこし新橋寄りになる。鴬谷から有楽町までは初乗りで10円だった。新橋まで行くと20円になる。だからあいつは彼女と待ち合わせる時は必ず山手線有楽町の新橋寄りベンチにした。まだスマホも公衆電話もない時代である。客の都合でお店をでるのが遅くなる時は終電までしっかり待った。そんな時代の10円恋物語だ。

この物語は、さいしょ継続の500円として書いた。その為に見出しも付けた。でもこのコロナ不況だから100円に値下げした。そのかわり単品売りだ。2000字から3000字の予定である。前に付けた見出しにはこだわらない。もう85歳だからコロナでなくともいつ死ぬかわからない。いまのうちに、書き終えたい。あいつの墓標として。

 よかったら是非読んでほしい。期間・人数限定だ。



ところでキミはしっているか。

なぜ地下鉄線に「一之江」駅が出来たか。江戸川区は陸の孤島といわれた。総武線には最後まで黄色のボロ電車しか走らなかった。その状況は今も変わっていない。走りつくして、海外の貧乏都市に払い下げられるまで総武線ははしり、走り終わったら最後のご奉公に海を渡ってゆく。もちろん見送る人は誰もいない。

なぜそうなるか。川向こうだからだ。

川向こうは東京じゃない。あの扇状地には4本の川が流れている。手前から荒川、中川、新中川である。最後が江戸川である。江戸川を渡るまでは本当は東京だ。でも荒川以降は川向こうという。むかしから。

東京湾は豊かな漁場だった。海苔や小魚が取れる。漁師に電車は要らない。船があればいい。船で魚を捕り船で築地に運んだ。戦後は車になった。

車で走るとハス田が並んでいた。金魚養殖池も多かった。がさつな庶民の街だ。都心からまず最初に隅田川を渡る。両国までは川向こうといわない。まだ東京なのだ。千葉行きの列車が両国から発車した。始発駅だったのだ。

荒川から先が川向こうである。窓を開けると海風が冷たく感じる。魚臭くなる。行商のおばさんも多くなる。なんとなく田舎風である。レールを走る電車の音もガタンガタンと鳴るようになる。やがて小岩につく。小岩の先に江戸川鉄橋がある。江戸川を渡れば向こうは千葉だ。

市川の国府台なんか静かな別荘地だった。でも川向こうの千葉であることに変わりはない。武蔵野や湘南とは違うのだ。同じ文士でもやや売れない作家が家を借りと。ときに瀟洒な洋館もあった。おおむね実業家として中程度に儲かった商人である。

海岸には気性の荒い漁師町がある。いまでは高層マンションとディズニーランドになっている。浦安も、もともと海苔場だった。埋め立て地にデイズニーランドが出来た。東京デイズニーランドである。浦安デイズニーランじゃないか。いや違う。あくまで東京デイズニーランドなのだ。そのことを不快におもう人もいる。でも浦安デイズニーランドなら客足は半分に減るだろう。


根岸の里についてちょっと・・・
先日ノートで、子規の「根岸の里のわび住い」を見た。読みたかったが全部は読めなかった。片眼で読むのは疲れる。片目だから。書くのはそれ程でもない。大きな活字で書けばいい。

根岸に最初に住んだのはあいつだ。サキタといった。満州からの引揚者である。父親は満鉄職員だった。保線の技術者だった。だから引揚が二年遅くなった。中国人から技術者ととして引き留められたからだ。

サキタ一家四人は一般の引揚者より二年遅れて帰国した。

満州鉄道の保線技術者として、戦後中国の満鉄再建に関わった。不可侵条約を破ったソ連軍の侵攻により、鉄道設備は破壊されている。広大な中国大陸では、鉄路保線は命綱である。その為に引き揚げを延期させられた。いわば抑留である。

その結果逆に、他の引揚者が味わったようなソ連兵や中国人や朝鮮人からの暴行・殺戮を受けないで済んだ。いわば家族を守るために仕事を引き受けたようなものだ。当然引き上げる側からの妬みをかった。なにかいいことがあったのだろう。

余談になるが、戦後街には産婦人科に「優生保護指定医」という書き込みが加えられた。満州や中国朝鮮で受けた暴辱の結果が妊娠となって帰って来たからだ。暴行されたり家族を守るために「おせったい」に駆り出され、誰とも知れぬ子供を孕んだからだ。そんな子は産めない。同胞を守るために、敢えて性的な接待役をひき受けた若い女性も多い。やはり妊娠している。日本に帰り着いたときにする仕事は中絶だ。

中絶しなければならない。彼女たちの未来のために。

でも戦後の混乱期だから、医療器具や消毒も充分にない。その為に多くの女性が死んだ。やっとの思いで日本に辿りついたのに。これが戦争の現実だ。政治も軍事も、土壇場では国民を捨て去る。気の毒に。

中国では日本人の子供を引き取ってくれた。子供のいない夫婦には幸運だったろうが、働き手として馬蓄並みに扱われた例もある。それも戦争の現実だ。東北部の旧満州では、多くの女性がソ連兵の牙に掛かった。朝鮮も同じだ。戦争は人間をケダモノに変える。

日本は朝鮮には多くのインフラ投資をした。本国内以上に。そういった資産の全てを朝鮮に置いてきた。一方米軍の絨毯爆撃をうけたあとの日本国内都市の土地は、多くの不良在日朝鮮人によって略奪された。地主は死んだか疎開している。そこを狙ったのである。地主が帰ってきても立ち退かなかった。戦勝国じゃないが、勝った側の第三国である。三国人誕生である。

サキタ一家は、遅れて引き揚げてきたことから、そんな危険に身をさらすことはなかった。その分幸福だった。その代り二年遅れて引き揚げてから苛めにあった。もともと鹿児島は閉鎖的なところなのだ。

方言でなければ通じない。標準語は馬鹿にされる。とうぜん仲間はずれになる。当時二年前に引き揚げてきた私たちは、すでに地元の子供にも受け入れられるようになっていたから、サキタを地元住民の苛めっ子から守る役目を引き受けていた。二年前に帰国したから先輩引揚者の役目である。

なかでも秀才乍ら喧嘩の強い「二十紋の足袋」はみなの守護神だった。

かれは現地のワルガキから引揚者の子弟を保護した。秀才だから頭が大きく「過分数」ともいわれた。「過分数」はもと校長の子供である。ラサール経由東大派を目指している。しかも喧嘩は強い。顔は安藤昇ふうである。目が熱く涼しい。

喧嘩は簡単に終わる。やるのかね、キミ。けがをするよ。彼は標準語で説諭する。殴りかかってきたら間髪を入れ頭突きをかませる。相手は顔を血だらけにしてうずくまる。


浦安の女

浦安にもいきな女衆がいた。その一人が松子である。浦安は趣味のよい女性の隠れ家でもあった。松子は喧嘩の強い文学少女だった。ダンスがうまかった。生活の為にダンサーになった。新橋寄りのダンスホール「フロリダ」に勤めていた。サキタと出会ったのは昭和32年の夏である。

60余年前はまだ山手線のことを省線山手線といった。鉄道省が走らせている郊外電車だったからだ。その省線日暮里―田端間で60余年前に大雨が降ったことがある。水が急な坂道を滝のように流れた。数人の少女が小高い場所に取り残された。救出したのがサキタを中心に電車に乗っていた男どもである。

省線山の手線も大雨で止まっていた。ガード下は濁流である。その濁流にどこで仕入れたのか麻のロープを担いだサキタたちが飛び込んだ。崖上に取り残された女子高生を何人も救出した。その一人に松子がいた。おさげ三つ編みのレインコートを着た少女だった。

サキタは私に命令した。ゆくぞ。返事を聞かず救出を敢行した。言い出すのはいつもサキタである。可愛そうに、彼女らを放っておけるか。いいから手伝え。と私に命令した。

彼女たちは恐怖と寒さで震えていた。少女と思えたのはじつはダンサーの松子だった。病弱な母に頼まれて日暮里の駄菓子屋に買い物に来た。途中で大雨になり電車が日暮里―田端間で止まった。電車を降り坂上に避難しようとしたとき鉄砲水が起きた。ながされた。助けたのはサキタだった。

女学生にみえた。おさげの松子だ。歳より若く見える。彼女こそ「新橋寄り銀座の恋物語」の女主人公松子だ。高校生みえたのは、三つ編みのせいだ。化粧も全くしていなかった。鴬谷の借家に連れてゆき衣料を乾かした。サキタと松子の恋の始まりである。②へ  つづく

良かったらこのこの唄を聴きながら先を読んでほしい。

あいつが死んだ 小椋佳 
 YouTubeーhttps://www.youtube.com/watch?v=WqyI0aFlr28

タワマン林立の「夢の島」には、古い恋が埋まっている。女の恋は上書きされるから見えないが、男の恋は別書きだから透けて見える。古い恋も終わり暮らしも終わるころ、恋の骸は既にビルの下。泥に塗れている。百年後には別な建物に立ち替わるだろう。

「夢の島」かあ。誰も辛い恋をした。多くは実らなかった。暮らしの中で霞んだ。なぜか余命を数えるような時点でなぜか思い起こされる。こうやって儚い恋の思い出も泥に塗れる。これが人生だ。そこな何となくわかってきた。でももう時間はない。2021.01.31

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満85歳。台湾生まれ台湾育ち。さいごの軍国少年世代。戦後引き揚げの日本国籍者です。耐え難きを耐え、忍び難きを忍び頑張った。その日本も世界の底辺になりつつある。まだ墜ちるだろう。再再興のヒントは?老人の知恵と警告と提言を・・・どぞ。