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新「芙美湖葬送」

第一章 芙美湖死す

1-妻「芙美湖」に還る

街も人も風景も変わった。私も八十七歳になる。幾つかの大病を抱えているが、あと十年は生きたいと思う、が、そうはいかないだろう。人も変わった。ものごとの見方も感じ方も変わった。もう老人には見知らぬ国である。

人は老いてみなボヘミアンになる。グーグル・ストリートビューで青山界隈をあるく。前に何十回となく行った。目的も相手も違っている。若干の時間差はあるが何故か青山だった。246は石畳で電車が走っていた。道路沿いは平屋かモルタル二階建てで裏地は畑だった。野菜が植えてあった。

外苑前も青山も駅はみな昔のままだ。地下鉄外苑前は旧電電公社外苑前電話局ビルに消えていた。甲状腺専門の伊藤病院も旧い昔の建物だ。そこへは甲状腺疾患の治療の為に何回も通った。芙美湖(妻の別称:その由来については後に書く)を伊藤病院に乗せてきた。

いまはない都営住宅が裏側に広がっていた。エレベーターもない古びた建物になぜか若者が集まった。ピーナツ・ハウスもあった。ピーナツのむきガラが床に敷き詰めてあった。ピーナツと心中するつもりだったのか。

「見たことないもの、造らへん」展を見たのも青山だ。全盲の子供が想像力と手で粘土と格闘した、その形跡が彫刻として残っていた。近くにある岡本太郎作品の、何倍もの逸品群だ。でも売れない。売れることと作品が素晴らしいことは別である。

病院での芙美湖(妻の呼称)の検査を待つ間、青山通りのパーキングで時間をつぶした。そんなときに、芙美湖と付き合う前に付き合っていて、悲劇的な別れをした秋絵のことを思った。家はこの近くだ。何回か行った。

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満85歳。台湾生まれ台湾育ち。さいごの軍国少年世代。戦後引き揚げの日本国籍者です。耐え難きを耐え、忍び難きを忍び頑張った。その日本も世界の底辺になりつつある。まだ墜ちるだろう。再再興のヒントは?老人の知恵と警告と提言を・・・どぞ。