医療過誤と保険共済の踏んだり蹴ったり


医療事故は何処でも起きる、いつでも起きる、誰にも起きる。だから医療事故(過誤)の体験者の生の情報を聞こう。医者と患者では同じ病気でも向き合い方が違う。微妙な差と対処法を心得よう。

この原稿は出版用に書かれたものです。文春に持ち込みましたが丁重に断られまました。微妙な問題なので一方からの見方で纏められたものは避けたい、大手らしい対応です。

ヘタな油絵はその時に描いたものです。「眼底にみえた宇宙」です。医者は信じませんが入院中も様々なものが見えました。網膜に映ったのか、脳内神経細胞に映ったのかは分かりません。その原稿を抜書き的に掲載します。出版の機会があればしたいと思います。その為にも全部を目次通りに掲載することは止めました。

最後の賭けです。出版の節はお知らせします。

その時は是非買ってください。葬儀代の一部になります。

最初は無料です。次回以降変わる可能性があります。


■医療事故に繋がった最初の記憶

何の事故でも単純に一つの原因で起きることはない。幾つかの原因が重なって起きる。とくに医療事故の場合そうだ。技術的問題もあれば士気低下もある。麻酔医は乱暴だった。看護師は無駄話をしていた。居酒屋でももっと厳粛である。次の瞬間ストンと意識がなくなった。もう意識はないとタカをくくっていたのだろう。しかし私は麻酔が効きにくかった。だから周りの状況がよく分かった。
しかしこのようなメンタルな状況は痕跡としては残らない。

まして手術室には、さまざまな立場の人間が係わる。麻酔医に執刀医、補助医、研修医、看護師、検査技師等々である。なんらかの過誤あっても、患者は、何をどう、誰に話したり訴えたりすればいいのか分からない。
裁判になっても、訴える側の患者は病気に関して素人である。しかも手術室は完全密室である。患者側人間など一人もいない。
 
しかも患者は麻酔を掛けられて意識を失っている。しかも私の場合は全身麻酔だった。硝子体手術の場合、難度にもよるが局所麻酔である。たぶん手術室には何人かの研修医もいた。あとで分かったことだが私は完全に研修医のための実験台だった。

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満85歳。台湾生まれ台湾育ち。さいごの軍国少年世代。戦後引き揚げの日本国籍者です。耐え難きを耐え、忍び難きを忍び頑張った。その日本も世界の底辺になりつつある。まだ墜ちるだろう。再再興のヒントは?老人の知恵と警告と提言を・・・どぞ。