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キンキン冷えの麒麟瓶ビール

酒場「破船」は車道から入った奥にある。更にその奥には運河がある。そこからは東京湾の暗い海が見える。闇の向こうに川崎の工場地帯が見える。時に、点滅する工場地帯の光を遮るように鳥が飛ぶ。

鳥じゃない。あれはカラスだ、しかも闇カラスよ。そんな鳥いるわけがない。ところがいるのよ。「破船」のママはそういった。闇に潜む闇の芯みたいなもの。あらゆる欲望の核心のようなもの。強烈な重力が支配している。ブラックホールみたいなもの。そこでは闇が全て。その力にだれも逆らえない。

時に拡散する場合もある。闇は赤く燃えやがて東京湾の先に沈んでしまう。人には見えないが宇宙ブラックホールに繋がっている。事象が呑み込まれる。人間も同じだ。呑みこまれた人間は二度と戻れない。警察発表の行方不明者とは彼らのことだ。年3万人ほどいる。彼も呑みこまれた。彼とはママの恋人である。

酒場「破船」でもそんな話をする。だれも信用していないがママだから無視しない。「破船」というヘンな店名も此処の方が良く似合う。そんなお世辞にもならない返事をする。

実はママの恋人も闇に呑みこまれた。店を駅前から此処に移したのもその結果だ。不便にはなったが客は減らなかった。ママの人柄である。店が駅前から突堤手前の岩場の上に移したこと自体異常である。フリーの客は皆無。そそれでいいとママはいう。もともと商売気はない。食えればいい。それよりも夕陽や闇を見ている方が落ち着くとママはいった。

一説によれば在日朝鮮人三世だという。しかしだれもそのことに触れない。

ママは他愛のない話をするのが好きだ。反応がないと黙る。沈黙は酒の味を変える。客の方が気を遣っている。気を遣って金を払う。若い客が来ない理由だ。客は中年か初老である。

金離れのいい客が多い。辺鄙な場所だからタクシーで来る。歩けば駅から30分は掛かるだろう。タクシー客が多いが、その車で先客が帰宅する。だから混雑しない。ママは金魚のように客の間を泳ぐ。時にダジャレや嫌味を言う。だれも怒らない。話術の一種だと心得ている。

大手石油会社の技術者「トラ猫」さんも金融機関のテラさんも同じだ。みなあだ名で呼びあっている。お互いに素性は聞かない。漏れ伝わることもあるが広がらない。

みな、そこそこに傷を持っているからだ。
傷にはお互い触れない。それが「破船」のマナーだ。

客も彼女も庇っている。美人だし辛辣な毒舌家でもある。どこかで男を小馬鹿にしている。そんな彼女に惚れた男もいる。成功した話はない。

酒場「破船」が駅前から岩場の前に移ったのはママの恋人が消えたのが原因である。もう二十年になる。たぶん闇に呑みこまれたのだろう。だれも信じないが彼女はそう信じている。だから誰も反論しない。

ある日突然消えた。それ以来彼女は待っている。便利な駅前から不便な岩場前に店を移したのは、恋人の靴の片方だけが下の岩場で発見されたからだ。自殺なんかする男じゃない。彼女はそう信じている。闇に呑みこまれた。闇の中で生きている。だから弾かれて戻ることもあるだろう。その時目星になるものがいる。だから店を岩場に移したのだ。

以来恋人の帰りを待ち続けている。生きているか死んでしまったか?だれも知らない。靴の片方は出なかった。海に飛び込んだか、酔いを醒ましに海辺に出て、たまたま表れた闇に攫われたのもしれない。この世では想像を超えたことが起きる。

重い恋だったから忘れられない。男の思いから逃れられない。たまに見かける病院の伝言板に似ている。なんで病院に伝言板があるのか。明男さん。待ってます。そんなことが書いてある。そこで待っても死んだ者は戻らない。名前を書いても意味はない。でも掲示板はある。

「ソルベーグの唄」https://youtu.be/GbJxKe7m72Iもあるじゃないか。待ち続けて、待ち続けて、老婆になっても待っている。執念じゃない。怨念である。そうしなかったら生きられない。

私も「破船」に通うようになってから20年は経っていた。ビールを飲んで過去を振り返る。ビールはキリンの瓶だけだ。継ぎ足しはしない。じっくり泡が鎮まるのを待っていっ気に飲む。

冷蔵庫じゃなく、裏の岩場に木箱に置いて自然に冷やしてある。カウンターから小窓を開いてママが取り出す。客が勝手に取り出すこともある。ママはなんにも云わない。

ビールはキリンの瓶。サッポロは味が雑だ。朝日はうすい。サントリーお遊びだ。タカラ?そんなビールあった?こんな感じである。みなそうだから此処にはビールは麒麟しかない。しかも瓶詰である。屋外の潮風で冷やす。雨が降っても小雪でも同じだ。夏場は保冷庫だけ。

当時、景気はよかった。しかしどこか病んでいた。金融機関勤務のテラさんは株をしこたま買っていた。すでに億を超えたと笑った。しかし変だ。街は輝いているのに小学校は古い校舎のままだ。年代物の市庁舎の壁には空襲の銃弾痕が残っていた。なにかアンバランスだ。誰かにどこかで仕組まれている感じだ。

建て替える金がないのか。誰も傷を癒しきっていない。どこかで傷をなめ合って生きている。戦争で子供を失った母親はひたすら息子の帰りを待ち続ける。戦後はとうの昔に終わったのに。不釣り合いなくらい大きな額に納まっている。そんな母も認知症で死んだ。とベアさんは肩を落とした。

その酒場が、何故「破船」なのか誰も聞かない。ひたすら傷を癒しにやってくる。まるで白衣を纏った傷病兵みたいに。

わたしも、むかし消えた凛子のことを思っていた。ここなら彼女が来るかもしれない。すでに二十年遇っていない。死んだのではない。消えたのである。凛子は肺結核だった。接吻すると、唇が赤くなった。私、結核なの もう治らない、うつるわよ 死ぬかも、と接吻をさけた。

無理にするとせき込んだ、ほんとうに結核が移るわよ。移ってもいいといったら、いきなり頬を叩かれた。あなたには生きてほしい。ただの客だと思って付き合ってきた。でも気が変わった。

死んで欲しくない。好きになった。そんなはずはない。私にはただの客だ。でも、これ以上会ってはいけない 来てはいけない 来ても合わない その前に他の客を取る。

そういって彼女は私を避けた。やがて凛子は消える。街娼だった。生きるために街角にたっていた。そんな不純な関係だった。それっきり会っていない 年のころは同じぐらいだろう。いきていれば初老の女になっている。

間もなく、凛子の予想通り私は結核になった。当時の国民病といわれた。治療を受けられないものが先に死んだ。私を救ったのは特効薬パスにヒドラだ。薬が効かないものもいた。特攻隊に憧れた軍国少年だった。近くに北港飛行基地があった。台湾沖海戦で多くの戦闘機乗りが死んだ。私を可愛がって呉れた手塚曹長も死んだ。それいらい、いつか自分も死んでやると思い続けた。なぜか死ななかった。しかも結核は進行していた。

気がつたら還暦を迎えた。なぜか肥った。栄養が良すぎたのか糖尿や高脂血症、狭心症になった。さらに網膜剥離の手術失敗から片目を失った。バブル崩壊後の長期不況から会社も失った。

常連客が、むがいさん、あんた顔色が悪いよと心配した。あんた死ぬよ。酒やめな。養生しよう。きっと間に合う。そうかあ。別に生きたいとは思わなかったが病弱な妻のことが気になった。

やがて入院した。何回か繰り返した。病室で天井み乍ら考えた。お人好しの日本はいつも損な役回りを押し付けられる。世界的にそうだ。戦後復興から、やっと安定にこぎ着けた段階で、バブルに誘い込まれた。仕組まれたのだ。今度は地獄への急降下である。38000円した株価は1万代にまで下がった。テラさんは狼狽えた。そして死んだ。自殺との噂だった。

この状況を取り戻すには二十年掛かる。しかしまた落とし穴を仕掛けられるだろう。十字軍のエルサレム奪還繰り返しとおなじだ。その中で確実にユダヤだけが富を蓄える。

自由と十字ってどこか似ている。善意と悪意が混在する。いつの間にか善意が偽善に変わる。更に悪意に変わる。結局は金との交換になる

同じなのね。金が介在すると全て汚れる 病人も老人も病院にとっては資源に過ぎない そんな老人になってしまった。でも諦めてはいない。とりあえず健康を取り戻して、再度挑戦してみよう。

その為に酒もタバコも、全ての遊び事を止める。酒場「破船」で公言した。常連客が宴を張ってくれた。むがいさんの生還を祈ろう。そして私は酒場から消えた。60歳で酒もタバコも遊び事も止めた。健康も会社も失った。妻や古い友人まで失った。もう何も残っていない。

八十歳になって酒場「破船」へ電話した。店は潰れないで残っていた。ママも生きていた。どうしたのよ。いきてたの?当時の客はみな死んだわ。ベヤさんもテラちゃんも、田中さんも、私の兄貴も。

数日して私は「破船」にいた。なぜこの店が「破船」なのかわからない。たしかに破船だ。船の形をしてる。帆柱は折れてる。船員はだれもいない。乗客もいない。なのにママはいる。よくこんな店が生き残ったものだ。やっぱり夢だろうか。

ママに聞いてみた。ねえ、なぜ破船なの?
「きいてどうするのよ」
「別に理由はない。ただ聞きたかった。ママの恋人ってどんな人だったの。いつも想像している。きっといい男だったんだろう。美男子だろう。ママは面食いだから。だけどなんで結婚しなかったの。彼がダメでも他に男なんか腐るほどいるのに。ゴンさんだってママにほれていた」
「死んだわよ」
「だれが?」
「ゴンさん」
「なんで?」
「しらないわよ。彼も自殺だった。あなた知らなかったの?新聞にも載ったわよ。家も焼けた」
「焼死?」
「どっちでも同じでしょ。死んだことに変わりはないから」
「トシだし」
「あなたもそうよ。いくつになった?」
「八十歳」
「長生きするわね。馬鹿は長生きするっていうからねえ」
「ママも同じじゃないか」
「・・・」
「女房も死んだ」
「だから?」
「別に理由はない。独身になってしまった」
「間に合ってるわよ。男なんか」

 こうやってまだ過去に拘っている。夢だろうか。悪い習慣が蘇った。しかしひょっとして、現実のような気もする。いや夢だ。間違いなく夢だ。もうあの岩場の酒場まで行く体力はない。金もない。すくない年金でかろうじて生きている。多くの飲み仲間も死んだ。

 教頭先生は生きているだろうか。
 定年退職して、公務員だから退職金もいっぱい入っただろう。その金で飲み歩けばいい。年金も多いだろう。タクシーだって呼べる。老人になればその差が身に凍みる。教員なんて気楽なものだ。
 そんな時に携帯が鳴った。

 あたし、とママの声だ。
「「破船」やってるわよ。営業中よ。年金ないもん。やらなきゃ食えないじゃない。代わるよ」
「だれに?」
「教頭先生よ。校長のなりそこない」とママは大声で笑った。

あれっきり、本当に酒やめたの。ほう、えらい。だから長生きできたのね。来ない?潮風でキンキンに冷えたビールがあるわよ ムガイちゃん好みの麒麟、しかもキンキンだよ。箱もむかしのまま。プラスチックじゃない。木箱だよ。昔の場所で冷してある。飲みたくない?

もう飲めない。

いいわよ私が飲んであげるから、

私は黙っていた。もし行ったら誘惑に負けてキンキンに冷えた麒麟瓶ビールを飲みたくなるだろう。飲んだら全て元に戻る。20年の努力が泡になる。特別なんかしたわけじゃない。でも生き延びた。コロナにも、まだ罹っていない。生き抜くために来年にはワクチンもうとうと思っている。

あすは、妻の墓参だ。それに私は誘惑に弱いから。今度にする。

そう。ご縁がなかったのね。ざんねん、と電話先でママは笑った。 

私は「破船」横に流れる小さな運河を思い出していた。酔って立小便をしたこともある。多くは闇だったが早目に来たときは夕焼けが見えた。こんな小さな運河でも、東京湾を通じて大海に繋がっている。人間なんてこの小さな運河を流れるゴミみたいなものだ。たまたま出会って、流れて、くっ付いて、時に沈む。時には大洋に流れでるゴミもあるだろう。間違って海鳥が呑み込んだりする。その先は分らない。

私たちの出会いは、単なる偶然の積み重ねに過ぎない。拘っても意味がない。流れるように流れる。すべてがたまたまの出来事だ。その連続に過ぎない。運河の役目もそこまで。出会って、ときにさかのぼって、別れる。大洋に出るまでの細やかな時間を楽しむのもいい。人生なんてその程度のものだ。此処だけのわずかな出会い。単なる夢。凛子もむかしそんなことをいった気がする。そんな彼女も妻もさってしまった。

運河の先の東京湾に、真っ赤な夕陽が落ちる。
なぜか、シャンソン「運河」が聞こえる。https://youtu.be/hye-gWIawp8


 

満85歳。台湾生まれ台湾育ち。さいごの軍国少年世代。戦後引き揚げの日本国籍者です。耐え難きを耐え、忍び難きを忍び頑張った。その日本も世界の底辺になりつつある。まだ墜ちるだろう。再再興のヒントは?老人の知恵と警告と提言を・・・どぞ。