#43 若者フォビアと青春のオブセッション

田中さん

今朝、村上春樹の『意味がなければスイングしない』という、彼が好きなミュージシャンについて語る文章を読んでいて、こんな一文を発見しました。

そしてそのときから、ビーチ・ボーイズは僕の青春の、ひとつの象徴のような存在になった。あるいはひとつのオブセッション(ついて離れない概念)になった。

これはブライアン・ウィルソンについてのコラムからなんだけど、「あっ!」と思ったんですよ。

誰にでもこの「青春のオブセッション」があって、村上春樹はビーチ・ボーイズなわけで、僕はビートルズで、人それぞれあるわけだけど、ここに“一定のあり方”が象徴としてあって。

その概念から外れるものに対して大人たちはフォビア(恐れ)すると。その概念の外側にいるものの象徴として、「ニート」や「ひきこもり」がいるという。

なんかぼくはいったんスッキリしてしまいましたが、ここで概念付けして終わると能書き垂れてる研究家と変わらないので、実践家であるぼくらは、この概念の内側に新たな青春像としての「ニート」や「ひきこもり」を包摂していく流れを作りたいよね。

と、書きながら、割と若い子たちは「ちょっとした苦悩の時期」として、「ニート」や「ひきこもり」であった頃の自分をカジュアルに表明しているように思うんだよ。

前職NPO法人で、僕は採用面接にすべて立ち会ってたんだけど、ある時期から、「実は自分もひきこもっていた時期がありまして」っていうエピソードが増えていったんだよね。訊くと全然ひきこもりじゃないんだけどさ。

この辺、どう思います?

                                いしい


石井さま

今回のシリーズでは、ダイバーシティ(多様性)やオブセッション(強迫観念)という言葉が出てきてて、いまの大人がこだわるそれぞれの多様性や強迫観念と外れる人たち、それぞれの大人の「こだわり」の枠の外にいる人達がフォビアされ、それが「若者フォビア」と括られる現象だということなんですね。

僕は上の最後のほうに出てくる、「カジュアル」という言葉が、こうしたダイバーシティやオブセッションと逆の概念だと思っています。

若者は、ひきこもりやニートを「カジュアル」に過ごしている時期を持つ。それはそれで構わないんだけど、そのカジュアルさがどうやら大人には「軽さ」という意味をもっているようです。

つまり、多様でも強迫でもいいんだけど、軽くだけはなってほしくない、それが軽くなった途端に、大人は嫌い、フォビアンな感情を抱く。

大人は、「重さ」が好きなんですね〜。

これは僕、わかります。重さというか、真剣さを大人は求める。それが「多様」であろうが「強迫」であろうが、カジュアルはいやなんですね。

なんでだろ、どうして大人はカジュアルはダメなんだろ。

僕はどうして、カジュアルに抵抗があるのか、あるいは「重く」生きることを「よい」ことだと思ってしまうのか。

それはたぶん、人生を軽くやりすごすことができないからなんですね。生きていくことがカジュアルなことではないからなんですね。

でも「若さ」は、生きていくことをカジュアルでもいいと思う。どうしてかというとそれは、若さは生きていくことに軽いから。言い換えると、「死」がすぐそこにないから。

ちょっと謎めいた感じで石井さんに投げてみます。

                                 田中

この話の終わり方に合ってるような気がするの張らせて下さい(石井)

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