#44 ニート、ひきこもり。それは受入れ難い青春のアンチテーゼなのだ。

田中さん

先週に起きた羽生くんの練習中の事故と、その後の演技について話題になってますね。ぼくは、脳しんとうを甘く見るな的な批判記事でこの事故の一報を知って、すごく怖くなってしまい、映像を観れずにいました。

テレビを観ると、否応無しに映像が目に飛び込んで来て、結局ぼくは観てしまったんですけど、それをいっしょに観たうちのワイフは演技を観て泣いていました。

今朝、ぼくが起きると、目を真っ赤にしていたのでどうしたと訊くと、また羽生くんを観て泣いているんです。あの出来事がワイフの琴線を掻きむしるんですね。

そしてぼくは、あの割と地味にクライマックス感のある「組み体操ピラミッド」を観て泣いているお母さんたちの涙を思い出しました。ひょっとしてそれは、危なっかしく信号を渡る『はじめてのおつかい』を観て泣いているぼくの涙と同じ成分でできているかもしれません。

「死」や「危険」と、隣り合わせの経験を乗り切った後の笑顔に、ぼくらは抗いのようのないカタルシスを見出すように遺伝子設計されているんじゃないかなと、疑うわけです。

もっとやわらか分析すると、感動というのは緊張と緩和です。羽生くんの笑顔にどれだけの緊張していた奥様方の腰が砕けたことか。ぼくらはそれが商品にもなるくらい大好きなんです。

青春のオブセッション(こうあるべきという強迫観念)もこの緊張と緩和で成立していて。若者フォビアンたちが忌み嫌うのは、死からもっとも遠く離れたノンリスキーな日の当たる自室でアニメやゲームに没頭している、緩和の連続でしかないニート、ひきこもり。

実態がどうであれ、若者フォビアンたちにとって、それは青春のアンチテーゼとして受け入れがたいんですね。

                                いしい

石井さま

そうか、若者フォビアンな大人たちは、ひきこもる若者の日常をノンリスキーと見るわけですね。

言い換えると、「青春のオブセッション」とは、死に常に直面する時期が「青春」であり、カジュアルで軽い「若さ」は、死のオブセッションとは遠いところにあるから、大人たちは「若さ」を嫌う。

そう考えると、若者フォビアンな大人にとっては、ひきこもりもそうじゃない人も同じ「若者」であって、真剣に生きているのではないように見えているのか。

なぜなら「若さ」はひきこもろうがどうしようが「死」とは遠いから。

逆に、「青春」は「死」に近いわけですね。青春とはオブセッションであり苦悩であり囚われであり妄想と空想であり、ある意味「狂気」でもある、ということですね。

そうした「青春」に対してひきこもりは、「死」からは最も遠い。オブセッションさえ抱けない、固定的で静かで安定している状態だというわけですね。そして、「若さ」全般も、固定的で静かで安定した、オブセッションから遠い状態というわけか。

なるほど、そう考えると、世の大人たちは「ひきこもり」はもちろん、「若さ」も全然理解していないということになる。

なぜなら現実は、「ひきこもり」も「若さ」も「青春」と同じく「死」に近い状態だから。

青春のようにドラマはないけれども、ひきこもりと若さは常に「死」を含んでいますよね。

ややこしくなってきてますが、これはつまりは「概念」の問題であり、「青春」と「若さ(ひきこもり含む)」という2つの概念を二項対立させるか一緒にしてしまうか、という重要な議論です。

若さから青春を引き剥がすのが若者フォビアンです。

青春だけを独立して考える。だって青春にはオブセッションが、「死」があるから。危なっかしいけど、そこには死を背景にしたロマンティシズムと美があるから。

若者支援が世間から支持されない理由がうっすらと僕には見えてきました。

つまり、世の大人たちの「青春」の概念が古すぎるんですね。オブセッションは若さすべてにつきまとい、青春ではなくてもそれは常に危なっかしい。

が、美しくて早い必要はない。ひきこもって静かで固定的でも、そこにはオブセッションがあり、「死」の危なっかしさを抱えている。これを青春マニアは認めることができない。

なぜなんだろう。★

                                 田中

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