#67「思春期エリア」、それがジモト?

石井さま

前回から話題になり始めた「ジモト」という概念はなかなか奥深く、ジモト=地方ではないにしろ、ジモト=アンチ東京(中央)だとして、すでにアンチ東京では「高齢社会」にとっくに突入していて、

突入どころか地方消滅の手前まで来ているのだから、ここまで差し迫ると、案外この「ジモト」概念がどん詰まりの地方を何か突破してくれるのでは、なんて僕は考えています。

が、それはあくまでも空想レベルの話でして、自分のジモト(香川の農村部)で、こうしたことを全面展開して仕事するのも、何か恥ずかしいというかめんどくさいんですね。

そんな人、それほど珍しくはないんじゃないかなあ。

自分が生まれ育ったジモトは、自分の子どもの頃からのすべてを知っているエリアということでもあり、その「すべて」はたいてい恥ずかしいこと8割・忘れたいこと1割・甘酸っぱいこと1割、みたいな感じで、一言でいうと、ザッツ思春期エリア、それがジモトなのでは、と思うのです。

そんな思春期エリアで、自分の思春期記憶に封印していけしゃあしゃあと仕事するのは、僕には何となくできないですよ。石井さんはどうかなあ。

でも、石井さんの思春期はそんなに恥ずかしいものじゃないか。

僕はでも、そんな思春期エリアに、人生の最後の10〜20年の本拠地を戻してもいいのかなあとこの頃は思っています。やっぱりニホンの田舎の美しさの魅力には勝てなくなってきているのです。★

                                 田中

田中さん

心の概念としてのジモトの形成のされ方がいろいろあるんだなあ、と田中さんの文章を読みながら思いつつ、こう書きながら故郷(フルサト)とはどう違うのかなあ、なんてことを考えました。

ぼく的には、田中さんのいう思春期エリアである香川はジモトではなく、「故郷」なんじゃないの?って思います。特に人生の最後の10〜20年に戻ろうという感じ、これは故郷以外のなにものでもないんじゃないかな?

かくいうぼくは、子どもの頃の家庭事情が複雑で、離婚や再婚のたびに引っ越しをしていたし、ぼくが家を飛び出したあとに親が建てた千葉の家は、どう考えても故郷ではないわけ。

また、親のいなくなった元ジモトに帰る意味もなく、昔自分が居た場所をジモトとはどうしても思えない。ぼくにとっては、24歳から住み着いている福生、昭島エリアがぼくのジモトなるわけ。

だから、僕の言ってるジモトは、今住んでいる場所を指しています。田中さんだったら大阪の住んでるエリアだよね。

そして、ぼくが前回書いたことは、“ただ住んでるだけの自分”が、横浜では“地域の方々と恊働”しつつ、社会を1ミリでも前進させようとしている気持ち悪さと後ろめたさなんだよ。

また、このジモト感は、子どもの成長にもすごく密接に関わってて。田中さんのお子さんもこれから大きくなって小学校に行き、地域の人に見守られて一人で学校に行ったり、可愛がられたりすると変化があると思う。

この辺を整理しつつ、田中さんの冒頭の部分をもう少し掘り下げてくれると、このジモト論がもっと面白くなるような気がする。そして、一通り書き終わったころ、ぼくはジモトにコミットしはじめていると(笑)

                                いしい

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