#108 「家を出る」ための文化資本が得られない時代。

田中さん

こんにちは。例年のように年度末に向けて校内居場所カフェ関係の仕事が立て込んで来ています。ようやく鍬が入るようになってきたってところなんでしょうね〜。

さて、「家を出る」ための強制発射装置=カタパルトが文化資本による勘違いだ、というようなことを前回書きましたので、その続きになるようなことを書いてみたいと思います。

A地点の葛飾金町の団地の10階で悶々と過ごしていたぼくが、遥か遠いZ地点であるニュージャージーのブルース・スプリングスティーンに辿り着けるかもと勘違いして家を飛び出したことを、ぼくは時代の豊かさ=文化資本だったんじゃないかと解釈しています。

余談ですが、スターたちの住むZ地点は、ピストルズやクラッシュなど、パンクの台頭でMとかNくらいの近さになり、ヒップホップの誕生でFとかGの辺りまで身近になり、ぼくはYAMAHAのリズムマシーンを買って先生の悪口をラップしました。

そんなことはさて置き。「豊かさ」というのは「なんとでもなるだろう」という南国のような楽観さを若者たちに与えていたんじゃないでしょうか?

或いは、情報量の乏しい時代のイマジネーションの産物だったのかなとも思います。

少ない情報の点と点を、姑息で猥雑なイマジネーションで繋ぎ合わせ、都合良い虚像を映し出しうっとりしていた。ぼくは小6でジョンが死んだことに気づかずに中学時代を過ごしていましたからね。

それがティーンエイジャーだったぼくで、カタパルトに両足をセットし、継父との緊張関係の日常の中で、全身をトリガーにしてその時を待っていたのでした。

いしい

石井さま

今日(2/15)、「フリースクールの狼煙をあげろ!」イベント(いい名前だなあ)で80年代のフリースクール運動の雰囲気を参加者と思い出して感じたんですが、あの頃は確かに「情報量の乏しい時代」であり、そこにさまざまなイマジネーションが渦巻いていました。

僕が編集者として初めて淡路プラッツを20代で訪れた時、当時の塾長の故・蓮井さんは、「まあ飲め」と言って翌朝まで彼の岡林信康ソングを歌ったのでした。

そんな話も交えながら、当時のフリースクール運動のパワーとルサンチマン(現在のフリースクール運動の体制への取り込まれ方は、システムに入ることをずっと憧れていたメンタリティ抜きには語れません)を振り返った2時間でした。

そんな蓮井さんの話を聞きながら、「学生運動の自慢話はもういいよ」と僕は思いながら、それでも「変な大人」全開の蓮井さんに憧れたものでした。

僕はその後、編集の仕事を徐々に減らして不登校支援に移るのですが、今から思うとあれは、明らかに新しい世界への旅でしたね。

ただでさえ独立系出版社という変な世界で生きながら、さらに変な世界に僕は突入していったのでした。

今から思うと、自由な時代でした。わがままできる時代でした。僕の親にはたくさん文句を言われましたが、その文句も含めて、子どもと若者には「自由」を求めることが許された時代なのでした。

また、「家を出る」理由を正当に表明できる時代でもありました。そして、家を出たあと、こっそり親たちが支援してくれた時代でもありました。

田中俊英

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?