#106 君はココロのナイフを隠し持った高校生の前で無防備になれるか?

石井さま

生徒とともに「時空」を超え、ファンタスティックなトーク空間を呼び出すその瞬間の手法について、石井さんは「どうでもいい」はダメで、もうちょっと法則化一般化してほしいと叫んでいます。

石井さんはその動機について「自分はまだ若いから」と謙遜されていますが、その気持ちは年老いたとはいえ僕にもよくわかる。だから、がんばって言語化してみますね。

なによりも、僕自身が無防備になることです。まるで、村上春樹『羊をめぐる冒険』で「鼠」を呼び寄せたあの瞬間の「僕」のように、そのまま北海道の雪の山小屋でこのまま死んでもいいと思っている心境が大事だと僕は思っています。

別に裸の僕を見せる必要はないけれども、捨てるものは何もない、けれども何かを求め続けている、その赤裸々さを、ユーモアとともに若者たちに見せつけることが重要だと思っています。

それは、ジョンレノンが「マザー!」と叫んだ心境、ヒロトが「気が狂いそう」と歌い始めた心境、グレングールドがバッハの曲を超速弾きし始めたときの心境、いや、ドーナツトークの鈴木くんがヤケクソでアニメを語る心境、そしてドーナツのオックンが自分の苦手なことを必死になって絞り出す心境とシンクロすると思います。

なによりも「必死」になることです。必死に、かつユーモアをチラつかせながら「生と死」の境界について語る。生と死の彼岸について、笑いとともに自分の経験を語っていく。

そうした視点が重要だと僕は思います。なによりも、「死ぬこと」について、どれだけ真剣に、かつ笑いとともに語ることができるか。

それが、生と死の渚(リバーズエッジ )に佇む高校生たちに対する、最低限の礼儀だと僕は思っています。

田中俊英

田中さん

返事が遅くなってすみません。年度末に向けて講演の仕事が増えてて休みがなく、ついつい移動時間をサボってしまいます。田中さんは勤勉ですよね〜。

さて、今回の田中さんの話の中で、「無防備になること」という言葉が、とても印象的でした。田奈高校はぼくが学校に入る前のある時から、頭髪指導をやめたんですけど。そのことを当時の校長である中田さんは「武装解除」って言ってるんですよね。

ここまで田中さんと話してきた、カフェスタッフの資質に関する重要事項は、大人を捨てられるかというか、大人の持つ既得権を放棄してもなお自分としてそこに立っていられるか?みたいなアイデンティティーの話なんだなって納得が今ぼくの中に起きました。

その上で、大人たちはどうして高校生を前に身構えてしまうんでしょう?その見えないガードを高校生たちは見透かしていて、そのガードの上から意地悪な手榴弾を投げてきたり、ガードに白けて逃げて行ってしまうんですよね。これは、過酷な環境に育ち、大人たちの機嫌を伺いながら生きてきた子供たちの特性なのかな?それとも本能なのかな?

ぼくが言われて一番きつい言葉は「相談したけど何も変わらなかった」です。結局ぼくらが直接介入して解決できることって、彼ら彼女らの人生においてはすごく限定的じゃないですか?その事実をどこかで隠しながら、今まで出会ってきた大人とは一味違う大人として居ようとしてしまう狡猾な自分が居るんですよね。

そういった意味でぼくは、一時的には「無防備」になれていないのかもしれませんが、その“弱さ”を共有出来る時っていうのが相談の中にはあるんですよね。ジョンが「ジェラス・ガイ」を歌ったような感じだと、ぼくは思っています。

いしい


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