#4 ビルが怖かった

石井さま

こんにちは、今日も37度だとか。もう僕は50才なので、ほんと身体に応えます。いつの頃から夏よりも冬が好きになってますね〜。

さて、前回は、自分の高校時代の話を思わずしてしまい、「自意識過剰」とか「偽善が嫌い」とか、微妙に恥ずかしいネタを書いてしまいました。

石井さんはRCサクセションか〜。で、「雨上がりの夜空に」か〜。青春だなあ。

僕は、同じRCでも「ヒッピーに捧ぐ」でした。確かあの歌は、清志郎の友達が死んだ時の歌で、NHKの「サウンドストリート」で渋谷陽一がかけた時、僕は泣いてしまいましたよ。

しかも、「電車は動き出した〜、豚どもを乗せて、僕を乗せて〜」「30分泣いた」のくだりは、清志郎のように友達を亡くしたわけでもないのに、大きな悲しみに包まれてしまいました。

というのも、あの頃の僕は、毎日自分が自殺することを夢見ていました。

自殺を夢見るとはとても不謹慎ですが、まさに「思春期の甘い欲望としての死」にひたすら憧れていたんです。

自分がもし死んだら、自分のクラスメイトや教師、あるいは親はどんな感じで驚くだろう。

ものすごく驚いてもらいたい。その驚くさまを見ることができたら、とても爽快だろうと、死んだ後も周りの反応を期待するという、まさに非現実的あるいは夢想的死にとりつかれていましたね。

ああ、恥ずかしい。けれども事実です。

おもしろいことに、一方でそのような夢想的死への願望を抱きながら(だから実際には死ぬ気なんてたぶんなかった)、現実に(田舎でしたがいくつかはあった)「ビル」のそばを歩くとき、本当に怖かった。

自分が思わずそのビルに登り、屋上から飛び降りてしまうのでは、という恐怖感にとらわれていたのです。

当然死ぬこともなく、僕は大学に入り、やがては本当の「他者」たちと出会うことになります。

でも、前回も書きましたが、高校生の頃のそうした思い出は、それらのネタ(実際に話すことはなく、「感触」を覚えている)だけで、若者たちといまだに近い距離でトークできる原因になっています。

  石井さんは僕のような甘えた記憶ではなく、アルバイトとかを通した、もっと現実的でハードな思い出が中心なんでしょうね〜。

                                田中

田中さん

この『無風状態』を通して、僕は田中さんがほんのりと纏う影について理解してきたような気がします。

「夢想的死」ですか…、ロマンチックなガキンチョだったんですね。ビルが怖かった田中さんとが対照的に、僕は団地の10階に住んでて、15階の屋上に登りフェンスを越え、その縁に座って葛飾区から大都会を見下ろしていました。

なんとなく浜省的な心持ちというのか。スプリングスティーン的な面持ちというのか。今いる自分の住む世界に居心地の悪さを感じ、この大都会にどこかに本当の居場所があるはずだ的な。そういった意味では僕もロマンチックなガキンチョでした。

僕にとっての死は。あるいはロックにのめり込んでいた連中にとっては、マーク・ボランの「俺は30歳までは生きられないだろう」と言って30歳の誕生日の前に死んだみたいな話とか、ジャニス、ジム・モリソン、ジミヘンの27歳という年齢に対する憧れとしての「死」というのがありましたね。

奇しくも僕は27歳で長男を授かり、思い切り「命」について考えさせられ、生きなきゃって強く思った年になったんですよね。若者支援していると、どこかで自殺年虜を抱えた若者に出会うのは宿命ですよね。

僕は子どもを持つ親としての、生きて欲しいという思いを伝えます。あと、よく前職のNPO時代は、利用者の若者を小さな子どものいる我が家に呼びましたね。「おまえもこんな小さなときはこんな風にかわいがられてたんだぜ」って。

田中さんは最近お子さんが生まれたけど、なにか支援者としてのスタンスというか、変化はありましたか?

ちなみに「ヒッピーに捧ぐ」のヒッピーは、当時のRCのマネージャーのあだ名なんだって。

                                石井

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