#61 ぼくらの高校内カフェ ビジョン編

田中さん

小学校から大学にいたるまで、
学校の勉強が、ともすれば退屈に思われやすいのは、
問題と答えの両方を知っているものが、
先生という名で、すでにいるからだ。

これは、ぼくの敬愛する糸井重里さんの引用なんだけど。

田奈高校の学校司書の松田さんは、「学校の中で、評価しない大人っていうのは、生徒にとって貴重な存在なんだよ」みたいなことを言ってました。

そして、ぼくは、親でも先生でもない第三の大人として若者たちに関わることを大切にして、これまで活動してきました。

「第三者性を失っていないか?」は、ぼくにとって最大のセルフチェックのポイントかもしれません。

サマーキャンプや塾、何かのサークル活動や、親の友人など、そういう大人たちにふんだんに出会える生徒にはどうでもいいことかもかもしれないけど、

ぼくらが出会う、社会関係資本が希薄で、ともすれば親が社会的に孤立している可能性のある生徒にとっては、何気ない大人との会話は貴重な機会だと思うんだよね。

(自分事ですが、うちの高一の娘が帰路に立っていて。娘の高校にぴっかりカフェがあったらなぁと、当たり前に思った自分に、今朝、小さな驚きがありました)

ましてや、ぼくらのような専門性のある大人は、社会関係資本の1人としてだけではなく、社会関係資本を広げる入口になり得るわけでしょ。

その入口にあるドアの鍵が、一杯のミルクココアだったりするのかなあ、なんて、生徒にドリンクを渡しながら感じてます。

ちょっと漠然とした書きっぷりになりましたが、ビジョンを語る序章として。

                                                                                               いしい


石井さま

学校はね、なんとなく、しんどいんですよ。それは生徒にとってもだけど、もしかして先生にとってもなのかもしれない。

それは糸井さん風説明のほかにも、「セカンドプレイス」としての学校(子どもにとっての「就労」場所)とか、「ディシプリン(規律)権力」としての学校(フーコーの権力論)とか、いろんな説明ができるでしょう。

僕が印象に残っているのは、大阪大学臨床哲学の某知り合いが言っていた、「学校という建物が、自分に襲いかかってくる」という表現です。

まるでそれが「怪物」のように、子どもである自分に向かって大きく立ちはだかり、覆いかぶさってくる、その存在感だけで自分は押しつぶされそうになる。

苦しい表情を浮かべながら学校時代を思い出す、その知り合いの語り口を僕はありありと思い出せます。

高校内サードプレイスを考える時、我々はどうしても「サードプレイス」という新語に呼び寄せられてしまうのだけど、やはり、「高校/学校」という要素を常に意識している必要があると思うのです。

そんな「怪物」のなかにある、ぴっかりカフェやとなりカフェだからこそ、その「サード」としての意味、そして「ドア」としての役割の重要性をより理解できます。

そして、そこにいてミルクココアをサービスしてくれる石井さんのもつ雰囲気が、大きな鍵になってくると思います。

僕は、某高校のサードプレイスでの仕事が終わって近所の商店街ですれちがった、その高校の先生の雰囲気をいまもよく思い出します。

学校の中ではジャージという鎧で独特の雰囲気を出すその先生も、商店街で自転車に乗る私服姿は、まったく別物でした。

商店街の先生は、普通の自転車にいちゃんだったんですね。

ここでも、「怪物」が包み込む、学校という大きな力を感じます。

しんどい学校を、カフェの力で楽にしてあげたいね。怪物を、猫の肉球みたいに変身させたいね(肉球はなんか違うか)。

                                                                                                   田中

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