#82 僕らの中の「引っ掛かり」とは

石井さま

前回の石井さんの原稿はいろいろ勉強になりました。

僕は実は記録は嫌いで、まあ規則で求められた場合は無難にこなしますが、規則がなければ記録はしません。

たぶん僕が、ずっと「上司」というか「トップ」というか「ひとり」だから、スタッフの記録は求めても自分の記録は曖昧でいい場合もあったからなんだと思います。

まあそんなのも90年代までで、ゼロ年代以降はいやいやでも記録してますが。

前回の石井さんの以下の文は、僕とまったく同じなので引用しますね。

常に心に引っ掛かりがあります。その逡巡をアウトプットしていく過程で多くの共感者が生まれている実感があり、共に成長していく仲間として連携が広がっています。それが仕事にもなっています。

まあ僕の場合、あまり共感者はいないんですが、それでもこの「常に心に引っかる」というのは同じです。

僕風に言い換えると「問い」かなあ。僕も常に「問い」があり、それは仕事してると(あるいは生きてるだけで)、毎日必ず生まれてる。だから「書くネタ」に困ったことはこれまでありません。

どうやらいろんな人に聞いてみると、こんな感じで「書くネタに困らない」人って、実はそんなに多くないんですよ。

多くの人には、「ネタ」は、あるいは「問い」は、あるいは「引っ掛かり」はめったに浮かばないようです。

代わりに、たとえば「提案」がまず出てきたり「企画」が出てくる人もいる。そんな人は、問いや引っ掛かりよりは、企画を思いつくんですね。

ただこんな企画系の人も、発信できる人でしょう。

多くの人は、引っ掛かりもなく企画もなく、よって発信もない。

この点を問う、あるいは追求するのは、それができない人にとっては酷なんじゃないかって、この頃僕は思い始めました。

僕も優しくなりました。★

                             (田中俊英)

田中さん

まったく同じと言ってもらって、ちょっとぼくは恐縮してるよ。

「実はさ」と、ぼくの引っ掛かりを告白すると…、うふふ。

若者たちに対して、どこかで「おまえらふざけんじゃねえ!」って思ってる、ハロワからたまたまやって来た一般大衆な自分が未だに自分の中にいるってことなんだ(笑)。

世のおじさんよろしく、ぼくだって「オレの若い時はなぁ」とか、バンッ!て机を叩いて「甘えてんじゃねえ!」って、ぶちかましたくなることがあったりするのさ、日常的に。

その暴力的な自分を押さえ込むために、なにがしかの理屈がいるんだな。そして、そのなにがしかの理屈(要するにデータやニュース・ソースを自分なりに咀嚼したもの)はぼくのなかで常に概ね正しいんだ。

でもちょっとするとまたぐらぐらと揺れて来てさ、ひび割れた地面から一般大衆なオレが「ガオォォ〜」って顔を出すわけ。

そうやって職業的な自分が、一般大衆な自分をモグラたたき的に封じ込めるわけ。「日本の相対的貧困率はね」(ポカン!)とか、「OECD各国の中で日本はさ」(ポカン!)とか。

これって、こんなこと言っちゃ、身も蓋もないけどさ、ぼくの中での啓発が失敗しているとまでは言わないけど、なかなか成功しないんだよ、たぶん。

てことはさ、世のおじさんたちにロックンロールな美学がないとしてもだよ、やっぱ手強いぞと思うわけ。社会的投資としての若者支援とか言ってもさ、そりゃあ、なかなか響かないぞと思うわけ。

だからまた次の一手を考えるわけ。

ぼくの場合、アウトプットしたい想いに、現場での実態が絡んだタイミング(或いはその逆で)でポンとアウトプットできるのが一番スッキリする。

ここは戦略的でもあるんだけど、極力現場のリアリティを絡めたいわけ。

それは自分自身が一番腑に落ちるからだし、自分のアイデンティティがやっぱり現場にあるからね。だからネタには困らないけど、アウトプットのタイミングには若干ムラがあるかも。

まあ要するに、自分の中で常に整合性を保とうと、ぼくは躍起になってるんだよ。それが、社会的に新しい課題に取り組む最前線の葛藤であり、これをリアルタイムにシェアしたいってのが今のぼくだね。

                                いしい

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