#9 若者を「敵」にし続けること

田中さん

前回の、「正直言って僕(田中)も、今の若者は甘えてると思うんですよね〜」と言って、中核の人々から本音を引き出す罠を、僕は『田中トラップ』と名付けました。 

『無風状態』を読んでくれてる田中さんのお友だちたちは、「ちっ!やられた」って、そっとブラウザを閉じたと思いますよ〜。田中さんほど僕は“世捨て”してないんだからさ、お手柔らかに頼みますよw。 

田中さんが言うように、ほとんどの人は田中トラップで釣られるでしょうね。そういった意味で、僕らはうんざりしてるけど、やっぱりまだ啓蒙は必要なんだなと思った次第です。

そこでおバカな僕は改めて「啓蒙」の意味をコトバンクで調べてみました。

 けい‐もう 【啓×蒙】[名](スル)《「啓」はひらく、「蒙」はくらいの意》人々に正しい知識を与え、合理的な考え方をするように教え導くこと。

なんだって。若者は「弱い」。弱いから、こういう経済が縮小していく時代には真っ先にとばっちりにあっちゃって可哀想だよね、という事実を受入れることは、若者ではない中核の人々にはあんまり合理的じゃないんじゃないかなって思っちゃいました。

むしろ、若者はタフでエネルギッシュで、どんな時代にも明日を夢見て自暴自棄なくらいに何かにぶつかっていくもの。そう、まるで30年前の自分のようにね、って考える方が、面倒くさくなくて合理的なんじゃないかな?

そう考えた方が楽チン、だから「社会的先送り」を僕らはしているんだと思うんだよ。

世間はお盆だね。田中さんが生きてここにいてくれたことを僕は幸せに思っていますよ。 

写真は、「ひまわりとミツバチのかわいいお尻」

                                石井

石井さま

お盆に突入してきたというのに、無風状態は少しテーマが焦点化してきましたね。無風じゃなく、若干の微風を感じるというか。

ここ数回のポイントは、「なぜ“エネルギッシュな若者”を想定し続けたほうが、社会の中核的な人々(40〜60代)は都合よいのか」ということだと思います。

現実は、工藤・西田本にもあるように、数百万の「若者弱者」がいるわけです。そのことを受け入れず、社会の中核的人々は若者をいつまでも「エネルギッシュで力強く、中核的層に反逆する存在」ととらえ続ける。

石井さんはそのほうが中核層にとっては「合理的」と書かれていますが、僕も賛成です。では、どこが合理的なのか?

それは、つまりは、中核層にとっての「敵」の位置づけのようにも思えます。中核層には、いまの社会の問題の責任の所在が、彼ら(ここに僕は「彼女ら」をあえてつけません。詳述は次回以降に譲りますが、この問題は「男性権力」の問題ともリンクすると思うから)自身に向かってくるのを避けたいという欲望があると思います。

現代日本がぶつかる、少子高齢社会とグローバル化社会が背負う、社会の諸矛盾(一つひとつ挙げませんが)の解決は、つまりは社会の中核層が率先して向かっていくしかない。

が、現実にはそれができていません。流行りの言葉を使うと「問題の先送り社会」となっています。その責任(問題に直面できないこと)は、第一に社会の中核層にある。

が、その身も蓋もない事実から、彼らは当然目を背けたい。そのためには、どうしても、問題をつくりだしているかもしれない、「敵」をどこかにつくるしかない。

いつもならそれは「外」につくるのでしょう。が、グローバリゼーションがそれをなかなか許してくれません。グローバリゼーションとは、「成果も問題も、みんなが共犯であり仲間である世界」だからです。

となると、「内」に敵を設定し続けるしかない。

そのとき、やはり、「若者」は敵キャラなんですよね〜。若者が弱者ではなく、社会をかき乱すエネルギッシュな反乱分子であり続けてくれるほうが、社会の中核層にとっては都合がいい。

社会の本当の問題(少子高齢社会やグローバリゼーションに向けて変革できない日本にしている、中核層の決断と行動のできなさ)を、その問題の根幹である自分たち自身を見なくてすむのですから。

どう? ちょい紋切りすぎるかニャー? あと、そういえば僕らも中核層だニャー?

                                田中  

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