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藏の町へ行く

バスは、車体を左に傾げたまま、うねうねと曲がりくねった林道を走っていた。乗客は20人ほど。うち5人は平均的な成人男性の3倍もあるお相撲さんで、全員が左側のシートに座っている。
 バスが傾いているのはそのためだ。
(バランスよく、左右に座ったらいいのに)わたしは、心の中でつぶやいた。
 峠の急な右カーブで、あやうく崖から落ちそうになる。運転手がいくらハンドルを右に切っても、左半分へ重心が偏っているので、思うように曲がれないのだ。
 幸い、ガード・レールをゴリゴリとこすっただけで済んだけれど。

標高5千メートル、日本一高い国道を登りきったあとは、ただひたすら下る一方だ。ギアはたぶん、1速に入っているのだろうが、若干重量オーバーなので、エンジン・ブレーキもさほど効いていない。
 それが証拠に、コーナーへ差しかかるたび、嫌な音を立ててブレーキを踏んでいた。
 おまけに、シートごと左斜めだったから、ふだんはクルマ酔いとも縁のないわたしでさえ、かなりひどい有様となる。
 ペダルの踏みすぎでそのうちブレーキが効かなくなるか、それともハンドルが間に合わず、崖を飛び出してしまうほうが先か、正直なところ、生きた心地ではなかった。

下り始めてしばらくすると、さっきまでの枯れ木林が一変し、うっそうと茂ったジャングルになる。
 「ジャングル」などと言ってしまったが、例えでもなんでもなく、まさしくジャングルだった。テレビや映画など、メディアを通してでしか見たことのない熱帯地方の植物が囲む。
 お相撲さんたちは、見慣れない景色にすっかり興奮し、短い首を窓から覗かせ、「ごわす、ごわすっ」とはしゃいでいた。
 5人が一斉にそんなことをするものだから、一瞬、バスがグラリと倒れかける。
「お客様、窓から身を乗り出さないよう、お願いします」
 しまいには運転士に注意され、しおしおと座りなおすのだった。

わたしはここで、個人的に「困ったぞ」、と顎に手をやる。実は、旅先での昼食は熱い天ぷらソバと決めていたからだ。
「ところがどすこい、知らない間に熱帯地方へと連れてこられてしまった。すでに車内は、蒸し蒸しとして暑い。こんな日に天ぷらソバなんか食べたら、それこそ体が沸騰してしまう。どうしたものだろう」
 妥協してざるソバにしてしまおうか。まだ、誰にも宣言していないので、問題はないはずだった。
 ところで、この熱帯地方に、ソバなどというものがあるのかなぁ。
 舗装などされていない道を、ガタゴトと揺られながら、わたしはうーん、うーん、と悩み続ける。
 ちらっとお相撲さんを盗み見ると、騒ぎ疲れたのか、隣の者の肩を枕にしてぐうぐうと眠っていた。1番端っこのお相撲さんは、枕に出来る相手がないので、カメのように首を縮めている。
 
 ジャングルも奥深くへまで進むと、ゴツゴツとした岩が目立ってきた。とうとう、目の前に大きな岩山が迫り、さてはここで行き止まりかと思う。
 バスは止まりもせず、ずんずんと進んでいく。間近まで来て、岩山の土手っ腹に隧道があることを知る。現地の人が長年かけて手掘りをしたと見え、豪快かつ荒々しい。バスが1台、ようやく通れる幅と高さしかないので、自然、運転も慎重になった。
 お相撲さんたちが起き出して窓から頭を出さないか、わたしは心配になる。そんなことにでもなったら、トンネルの壁で顔をしたたかこすってしまうに違いない。
 太った5人ののっぺらぼうなど、まっぴらごめんだ。

暗い岩穴を出ると、再びジャングルが広がる。ただし、だいぶ開拓されていて、街道沿いにはなます壁の蔵がずらっと並んでいた。
「うーん……うっ?! ごわす、ごわすっ!」お相撲さんの1人がふいに目を醒まし、窓の外の様子を見て、嬉しそうな声を出す。
「ごわす、ごわすっ」ほかの4人も次々と起き出し、蔵を発見して興奮しだした。どうやら、お相撲さんたちは蔵が好きでたまらないらしい。それとも、蔵の中に蓄えてあるであろう、食べ物がお目当てだろうか。
 さかんに首を回して、声をかけ合っている。あの蔵だ、いやこっちの蔵だ、そう言っているのかもしれない。
 さっき、運転手に怒られたことを覚えているようで、今度は顔を外へ出さなかった。

途中にある、標識だけの停車場で、ようやくバスが停まる。
「終点、『蔵の町』に到着~。どなた様も、お相撲さんも、お忘れ物、置き忘れのないよう、いま一度、身の回りのご確認を願います~」運転手がのんきな声でそう告げた。
 バスを降りる時、ついでに尋ねてみる。
「あの、この辺りでソバ屋ってありますか?」
「ああ、それなら、この先真っ直ぐ、最初の角を左に行くといい。紺色ののぼりが立ってるから、すぐにわかるよ」
「ありがとうございます」わたしは礼を言って、道を歩き出した。後ろで、「ごわす、ごわす」と声がするので振り返ると、お相撲さんたちが転がるように降りてくるところだった。
 ステップを蹴って、ポーンと地面に飛び降りるのだが、そのたびに、バスがグワン、グワンと大きく揺れる。その様子があまりにも面白くって、わたしはつい、笑い出してしまった。

教わった通り大通りをしばらく行くと、角に当たった。曲がると、50メートルばかり向こうに、「そば」と白抜きされた紺色ののぼりが見える。もちろん、ここも蔵だった。
「あった、あった。気候は温暖だけど、ちゃんとソバもやってるんだなぁ」わたしは感心する。
 のれんをくぐって引き戸を開けた。鰹の出汁が、鼻をプーンとくすぐる。
「いらっしゃい」店主が声をかけてくる。
 奥の席で、母子らしい客がソバをすすっていた。この暑いのに、天ぷらソバである。
 空いているテーブルにかけると、まずはメニューを手に取った。ざるソバに冷やしキツネソバもある。どちらにしようかな、と迷っているところへ、母親が天ぷらをカリッと囓る音。
「すいません。あの……温かいほうの天ぷらソバを」わたしは、つくづく流されやすい性格だ。

天ぷらソバを持ってきてくれたとき、聞いてもいないのに店主が言う。
「この辺り、蔵ばっかりで驚いたでしょう。でも、ちゃんとした訳があるんですよ。何しろ、この暑さときてますからねえ。昔ながらの蔵ってえのは、真夏だって冷房要らずなんです。まあ、この気候にはぴったりというわけでして」
 なるほど、それで藏の町なのか。
 割り箸をぱきんと2つに裂き、ソバをすくった。


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