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機動戦士ガンダム0080 #5 LOVE PHANTOM



宇宙世紀0079.12@ア・バオア・クー


‥‥ガルマ、私の手向けだ。姉上と仲良く暮らすがいい‥‥

 陥落寸前の宇宙要塞ア・バオア・クーから脱出しようとする船を見つけたシャア・アズナブルは、そのブリッジの中央の指揮官席に座る一人の女を、撃った。
 キシリア・ザビ。激戦の中、兄でジオン公国軍総帥のギレン・ザビを殺し、自らの血と野望とで、ザビ家を繋ごうとした女である。その女を、シャアは撃った。急速発進しようとしていた彼女の船は、見る影もなくなった指揮官の亡骸を乗せたまま、ア・バオア・クーから飛び立ってゆく。行く先からは、連邦軍の戦艦サラミスが接近してきていた。恐らく船は、降伏することになるだろう。

 すべてが、終わった。

 遠ざかる船を見送りながら、シャアは手にしたバズーカ砲を放り投げた。親友を装い近づいたザビ家の三男、ガルマ・ザビは、シャアの奸計により地球に降下してきた連邦軍の最新鋭艦、あの白い<木馬>の総攻撃を受け、特攻して果てた。デギン・ザビ公王は長子ギレンの策謀により、ソーラレイ・システムの放った業火に焼かれ、死んだ。ギレン・ザビ総帥はその妹、キシリア・ザビに「父殺しの罪」を問われ、銃殺された。そしてそのキシリアを、彼が殺した。

 これで、ザビ家の血統は絶えた。もう、父ジオンの名を冠したその国を乗っ取り、我が物とした偽の王族はいない。彼は父ジオンの復讐を、ついに果たしたのだ。

 しかし、不思議なほどに何の感慨も湧かなかった。要塞の各所で起こっていた激しい戦闘も今は止み、指揮系統が崩壊したまま状況を飲み込めない兵士たちが右往左往するばかりだ。もうまもなく、ア・バオア・クーは降伏するだろう。戦争は終わったのだ。しかし彼は、連邦軍の捕虜になるわけにはいかなかった。

 なんとしても、ここを脱出しなければならない。しかし、どうやって? 

 発進していったキシリアの船のほか、彼のいる港に艦艇はなかった。しかしどこかに、キシリアの旗艦グワジンがあるはずだ。
 彼はふらふらと、要塞の深部へ入っていった。要塞内の通路には、破壊されたモビルスーツの残骸が散乱し、脱出する船を探して、ノーマルスーツ姿の兵士らが一点を目指していた。その方向に、キシリアの旗艦だった赤い戦艦グワジンがあるに違いない。
 彼もまた、その方向に向かおうとしたそのとき、耳元で囁く声がした。

‥‥大佐‥‥大佐、その船はいけません、大佐‥‥

「なんだと?」思わずそう口にして、シャアは周囲を見回した。囁くような者は誰もいない。しかし、その呟きには説得力があった。
「そうだな、あれほどに大きく目立つ船、無事に出港できたとしても、すぐ連邦軍に捕捉されるはずだ。キシリアが搭乗していると思われているなら、なおさら」

‥‥うふふ‥‥、そうでしょう? 大佐‥‥

 再び耳元で聞こえた囁きで、今度は彼にもはっきりとわかった。
「ララァ、‥‥君なのか‥‥ララァ?」

‥‥ええ、大佐。私はここにいる‥‥一緒にいるわ、大佐‥‥もうすぐ、船へ連れて行ってくれる人が来るから‥‥

 そのとき、彼は港へ向かう人波と逆行しながら、空中を泳ぐようにやってくる薄紫のノーマルスーツを見つけた。そのノーマルスーツは、彼のいる100メートルほど手前で通路を左に曲がった。シャアはその兵士の後をつけた。すぐそばまで背後から近づくと、兵士は彼に気づいて振り向いた。その手に拳銃を構えている。
「何者だ!」
 シャアは両手を挙げると、言った。
「私は、シャア・アズナブル大佐だ。見るところ、君はキシリア親衛隊の一員のようだが」
 薄紫が、彼らが自らの地位を示すカラーなのだ。親衛隊員は銃を下ろすと姿勢を正して敬礼した。返礼すると、シャアは言った。
「キシリア閣下は、名誉の戦死を遂げられた。恐らく、指揮官代理が降伏することになるだろう。我々は機密保持のため、早急にここを脱出せねばならない」
「名誉の‥‥戦死?」その隊員の表情は、ヘルメットのサンバイザーに隠れて見えない。
「申し遅れました。私はキシリア親衛隊で閣下の秘書を務める、マルガレーテ・リング・ブレア。閣下に続いて、この奥に係留してあるザンジバルで、ここを脱出する手筈を、隊長のトワニング中佐が整えております。同行なさいますか?」
「よろしく頼む」
 彼はザンジバルに乗り込み、陥落寸前のア・バオア・クーから辛くも脱出を果たした。
 船に乗り、ヘルメットを脱ぐと、額から流れ出た血が鼻筋を伝って顎から滴り落ちた。マルガレーテが驚き、すぐに彼を医務室へ連れて行って衛生兵に応急処置をさせた。彼は礼をいうと、しばらく休みたいと伝えた。彼女はパイロット用の個室を用意してくれた。彼はノーマルスーツのファスナーを下げ、胸をはだけると、そのままベッドに横たわった。とたんに、体がぐっと何かに抑え込まれたかのように、疲れが襲ってきた。

 ‥‥空っぽ、だな‥‥

 シャアは個室を満たす空気に向かって、つぶやいた。返事はなかった。耳元で囁いていた愛しい女の声は、もう聞こえなかった。

 ララァ・スンは、彼女こそニュータイプに違いない、と見込んだシャアが、キシリア・ザビ直属のニュータイプ研究施設、フラナガン機関に、その能力開発と育成を託した女性であった。長い黒髪を真ん中で分けて耳の下で丸く束ねた彼女は、少女のように笑ったかと思うと、妖艶さを漂わせた大人びた表情で惹きつける、不思議な魅力を持ち合わせていた。
 フラナガン機関では、ニュータイプの発する特有の精神波を用いた脳波電導システム「サイコミュ」の開発と軍事利用に注力していた。ララァ・スンは、サイコミュ兵器の被験体であり、シャアも当然、彼女をある種兵器の一部として当初は見ていた。しかし、被験体としての彼女は、あまりにも魅力的であった。ニュータイプ能力を持つ者としても、蠱惑的な容姿を持つ女性としても。

 南米にある地球連邦本部・ジャブローから発進した<木馬>を追って宇宙に上がったシャアは、いよいよ彼女を実戦に投入するとして、フラナガン機関のある<サイド6>を訪れた。ちょうどそのとき、<木馬>もまた<サイド6>に入港していた。恐らく、補給と補修のためだろう。<サイド6>は中立国で、連邦軍・ジオン軍双方の艦艇の補修を請け負い戦争で大儲けをしていると噂されているベルガミノの浮きドックがあった。<木馬>がそこで補修を受けるべく、<サイド6>の港から出てきたとき、ドズル中将が派遣したコンスコン部隊との間で戦闘となった。それは一方的な展開となる。3分とたたず、コンスコン隊の12機のリック・ドムが全滅したのだ。しかし浮きドックは爆破され、結局<木馬>は目的を達成することはできなかった。

 <木馬>がベルガミノの浮きドックでの補修を断念し<サイド6>を出港する際、再びコンスコンの部隊が<木馬>を攻撃する。この戦闘の模様を地元テレビ局のカメラが捉えており、シャアは投宿していたホテルのスイートルームで、ララァにテレビ中継を見せた。彼女は、その不思議な能力を発揮した。テレビの画面には映っていないモビルスーツの勝利を言い当てたのだ。「白いモビルスーツが、勝つわ」と。そして彼を見て、こう言った。「わかるわ。そのために大佐は私のような女を拾ってくださったんでしょ」
「ララァは賢いな」
 そう、言葉を返したことを覚えている。それ以上に鮮明に覚えているのは、そのとき、不意に心の奥底から湧き上がってきた感情だった。「そのために」と彼女は言った。その通りだ。私は彼女の、その類稀なる可能性を秘めた能力を利用するために、彼女を拾った。だがそれを、率直に言葉として彼女の口から聞かされたとき、彼は今までになかった感情を抱いた。名付ければ、それはおそれ、であろうか。彼女は見えない先を読むように、人の心にも踏み込んで、その思いを読むことができるのか、と。そしてそれは、私自身も例外ではないのだ。
 そう気づいたとき、何かざらりとしたものが、彼の心を覆った。他はいい、だが私の心に踏み込んではならない。

 彼女の予知した通り、コンスコン隊の旗艦、チベは白いモビルスーツによって撃沈された。爆発して霧散するチベの映像を目にしたララァはソファから立ち上がり、手を広げて身を踊らせると、「ね、大佐」と誇らしげな表情をシャアに向けた。
 彼の心に生じたのは、えもいわれぬ焦燥感であった。ほんの少しの間に、あのガンダムのパイロットは、めきめきと腕を上げている。この戦闘で見せた能力は、驚異的ですらあった。そして彼は、はじめて脅威を感じたのである。
 一方で、彼の隣には先を読み、心を読む女がいる。奴に対抗し、勝利するために、彼はこの女の能力を必要としていた。誰にも、この女を奪われてはならない。この女を完全に、自分のものにしなければならない。
 彼はソファの隣に座る女を見つめた。
「さすがだ、ララァ。ご褒美に、何かほしいものはあるか?」
「ご褒美?」
「そうだ。何でもいい、叶えてあげよう。言ってみたまえ」
 彼女は人差し指を、そのふっくらとした唇に当ててしばらく考えをめぐらせたのち、口を開いた。
「では大佐、一つお願いを」
「聞こう」
「大佐の、そのマスクを取っていただけませんか?」
「ん? このマスクを?」
「ええ。大佐の目を見て、お話ししてみたいんです、いけませんか?」
 シャアは微笑むと、さっと手を挙げて顔の上半分を覆っているマスクを外した。はらり、と金色の前髪が揺れる。その下に、青い瞳が突き刺すような光をたたえている。
 その瞳をじっと見つめると、ララァはまた指を唇に当てて、ふふふ、と笑った。
「思ったとおり、なんて素敵な瞳!」
 シャアはすっと手を伸ばすと彼女の顎を軽く指で持ち上げて言った。
「私にも、よく見せてくれないか、君の、その瞳を」
 彼女は、その目を大きく見開いた。エメラルドグリーンに輝く瞳を、黒々とした長いまつ毛が縁取っている。やがてそのまつ毛がゆっくりと、舞台の幕が下りるように下がってきた。半開きのその目と、同じく半開きのくちびるが、彼を誘っている。

 そうだ、ララァ。その瞳、その唇、その首筋、その胸のふくらみ‥‥、その肉体、その心、すべて私のものだ。

 彼はその頬に手を添えると、彼女の、そのふくよかな唇にくちづけした。そして吸い、その中に舌をすべり込ませる。絡みつく彼女の舌は炎のように熱く、蜜のようにあまく、そしてその唇は熟れた果実のように艶やかだった。
 唇を離すと、彼女は恍惚とした表情のまま、ああ‥‥、と小さく吐息を漏らした。そのままシャアは、彼女の、滑らかな曲線を描く褐色の首筋に唇を這わせてゆく。彼女はそのシャアの頭を両手で掻き抱いた。彼は彼女の体の線をなぞるように手を滑らせ、ドレスの裾を捲り上げると、手のひらで、その腿の感触を味わった。
 彼は、その肌から唇を離して彼女を見た。うっとりとしたその表情は、彼女がこれから始まろうとしていることを知り、それを待ち望んでいることを物語っている。そこには一片の恥じらいも見られなかった。少女という年齢を少し超えただけのこの女は、もうすでに男がその肉体に与える喜びを知っているのだ。

 シャアは、唇の端を上げて小さく笑った。そう、おまえがそれをもう知っていたとしても、それがどうだというのだ。すべてを私が忘れさせ、何もかも私の色に塗り替えてしまえばいい。
 シャアは彼女の背中に手を回し、ファスナーを下ろして、その肌を覆っていたドレスと下着を剥ぎ取った。ソファーの上に、肘掛けに頭をもたれかけさせて横たわる彼女の乳房が、その時を待つかのように突端を固くしている。
 彼は下の先でそれに触れた。彼女が甘いため息を漏らす。ゆっくりと、時間をかけて味わい尽くさねばなるまい。彼はソファからそのしなやかな体を抱き上げると、リビングを横切り、その奥の寝室のベッドにその体を横たえた。

 それまでにも、何人かの女を抱いてきた。だが、それは己の快楽を行為の中に求めていただけのことだった。ララァは違った。彼女の体に入っていき、二人がつながり合ったとき、すべてが結び合い、二人で一つになった気がしたのだ。
 彼女はベッドの上で、完全に満たされていた。そしてシャアは彼女の、その類稀なるニュータイプ能力によって、戦場で彼女に守られる存在へと変わっていった。

 密かにア・バオア・クーを出港したザンジバルは、キシリア・ザビの基地がある月面都市グラナダへ向かっている。まだグラナダ基地、そしてジオン本国にはまとまった兵力が残存している、とキリシア親衛隊の女は言っていた。だが、頭領たるザビ家の面々の命が失われた今、その残存兵力を統率して一線を交える気骨のある者が、果たしているだろうか。少なくとも、自分にはできない、とシャアは思った。自分の中には、もう何も残っていない。ザビ家に対して誓った復讐は、果たされた。だが、ガンダムを倒すことが出来た、とは言えないだろう。甘く見てもせいぜい、相討ちである。アムロ・レイというあのパイロットとの生身の戦いもまた、そうだった。彼の剣はアムロの右腕を刺し通した。しかしアムロの剣は彼のヘルメットのサンバイザーを貫通し、その額を傷つけた。ヘルメットがなければ、彼は絶命していた。

 空っぽだ‥‥、俺にはもう、何もない‥‥

 しかし、心の空虚はそんなことから来たものではない。あれほど深く、体を重ねて繋がりあったのに、それなのに、自分ではなかったのだ、ララァがニュータイプとして交感し、分かりあうことが出来たのは。彼女の意識が彼によって増幅され、そして彼女もまた、彼の意識を増幅させた。その<彼>が自分ではなく、あの白いモビルスーツ、敵であるはずのガンダムのパイロットであったことこそが、シャアを虚脱に陥れていた。

 個室に備え付けられた通信モニターが点滅した。シャアは半身を起こし、モニターのスイッチを入れる。マルガレーテ・リング・ブレアの顔が映し出された。
「おやすみのところ、申し訳ありません」
 彼は頭の下に両手を組み敷いて、横たわったまま、その声を聞いた。
「ジオン公国政府は、地球連邦に休戦を申し入れ、承諾されたという報告がありました。地球圏全域で、組織的な戦闘は終わったとのことです」
「そうか、わかった」
「大佐はこれから、どうなさいますか?」
 一番、聞かれたくないことだった。戦争が終われば、もう自分はシャア・アズナブルを名乗る必要さえない。彼は、しばらく天井を眺めたあと、言った。
「できることなら、人知れずどこかへ立ち去りたいものだ」
「私もです、大佐」
 その意外な応答を耳にして、シャアは思わず身を起こした。
「お互いに、他言できない機密事項を抱えている。そうではありませんか? 大佐」
 ふっ、と笑ってみせると、シャアは言った。
「そうだな、確かに。‥‥しかし、できるのか?」
「造作もないことです、大佐なら」彼女が言った。
「シャア・アズナブル大佐は死んだ。彼は常にマスクを着けており、誰もその素顔を知らない。今、そこにいるのは違う名の男。そうではありませんか?」
「‥‥賢いな、君は」
 彼は再び、その身をベッドに横たえると、まどろみながら夢うつつに答えた。
「‥‥賢いな、ララァは‥‥」
 モニターの通信画面が消えた。シャアは深い眠りに落ちていた。


宇宙世紀0080.1@ジャブロー


‥‥シャアを傷つける、いけない人!
‥‥あなたを倒さねば、シャアが死ぬ!

‥‥私は救ってくれた人のために戦っているわ
‥‥それは人の生きるための真理よ‥‥

 目を閉じるたび、眠りに就こうとするたびに、その女の放った言葉が、頭の中に響いてくる。そして、彼女のと彼女の愛した男の姿が、まるで映画を見ているかのように、鮮明に見えてくる。
 戦争が終わっても、まだ地獄のような日々が続いていた。アムロにとって、それは決して勝つことのできない戦いだったからだ。

 最終決戦の地となった宇宙要塞ア・バオア・クーから、ソロモン要塞を経由して地球連邦本部・ジャブローへ帰還したホワイトベースの乗組員らは、ブライト・ノアやオムル・ハングなど一部の軍人や正規兵を除いた全員が除隊となり、それぞれの故郷へと戻る手筈が整えられようとしていた。といっても、もともとはジオン軍に襲撃された<サイド7>から避難してきた彼らに、戻るべき故郷はない。コロニーが大破し、居住不能になってしまったからだ。そこで軍当局は彼ら一人ひとりについて身元引受人を探し、それが見つからない者については、トーキョーの避難民居住区に移すという計画を進めていた。ジャブローで待機している彼らにとって、それはほぼ半年ぶりといっていい休暇であった。

 ホワイトベースの他のクルーたちは、この休暇を思い思いに楽しんでいるようだった。ジャブローは南米・アマゾン川流域の地下に構築された巨大要塞で、数万人単位の兵力が常駐しているという意味で、一つの都市のようになっていた。ショッピングモール、レストラン、スポーツ施設や娯楽施設も充実しており、そこそこに十分休暇も楽しめるようになっている。
 しかし、アムロには休暇を楽しむような心の余裕がなかった。眠るたびに襲ってくる悪夢に加え、目を覚ましているときに直面する現実にも、打ちのめされていたからである。パートナーとしてともに戦場を駆け抜け、そしていつしか恋に落ちた女性、セイラ・マスが、宿敵シャア・アズナブルの妹だと知ってしまった彼は、そうと知らずに生身のシャアと対決し、手にした剣でシャアの額を突き刺した、その手の感触に嫌悪を覚えた。醒めているときも、眠っているときも、いつも圧迫されるような重苦しさが、消えることはなかった。

 その夜も、アムロは夢の中で溺れていた。浅い眠りの中に、いつも現れるのは<サイド6>でお互いのことを何も知らずに出会い、そして戦場で敵同士として対峙することになった女性、ララァ・スンだった。アムロは彼女と、戦闘のただ中でニュータイプとして交感し、互いをわかり合った、はずだった。
 だが、夢の中の彼女は、激しく彼を責め立てた。

‥‥あなたの来るのが遅すぎたのよ!
‥‥なぜ、なぜ今になって現れたの?

 遅すぎた? 遅すぎたって、どういうことなんだ?

‥‥だって、あなたが来る前に、私はもうシャアを、シャアを愛してしまっている!

 シャアを、愛している? それが、どうだっていうんだ?

‥‥どうだって、ですって? あなたは知らないのね、愛するってことの意味を‥‥まだ、知らないのね、二人が一つになる、ってことを‥‥、ふふふ‥‥、それなら、見せてあげる、私がどれだけ、あの人と愛し合っているのかを‥‥

 やがて彼女は、その薄い黄色のドレスを剥ぎ取られ、滑らかなその褐色の肌を露わにする。一糸纏わぬその体が、鞭のようにしなやかにうねり、男の腕に抱き上げられた。そしてその体はベッドの上に投げ出される。束ねられていた黒髪がほどけて、白いシーツの上に乱れている。

‥‥そう、あなたの来るのが遅すぎた‥‥のよ‥‥

 ベッドに横たわる彼女の上に、やがて男が覆い被さる。男は彼女の唇を吸い、その舌を首筋に這わせ、そしてその顔を胸の谷間に埋めた。

 夢だ、これは夢だ、そう自分に言い聞かせながらも、アムロはそこから目を逸らすこともできず、カラカラに渇いた喉から、か細い声を振り絞る。やめろ、見せるな、そんな貴方を見たくない、と。しかし、夢の中のララァは、なおも彼にその媚態を見せつけ続ける。

‥‥愛しているの、こんなにも、シャアを‥‥、あの人は私をこんなにも愛して、‥‥愛して‥‥気持ちよくしてくれる‥‥

 ちがう、ち・が・う! それは違う! シャアは貴方を、ただ利用しているだけだ、戦争の道具に、兵器の一部として。愛じゃない、それは、愛じゃない。そうでなければ、僕たちの、この出会いはなんだっていうんだ?

‥‥何も知らないあなたに、何がわかるというの? 
‥‥私はシャアを愛している、だから、彼と一つになった。私たちはもう、二人ではなく一つなの‥‥、わかるでしょう? 

 二人の体は一点でつながり合い、そのつながりをより深くしようと、大きく腰を振っている。その光景を目の当たりにして、アムロは息が詰まりそうになりながらも、自分の中に湧き上がる、どうしようもなく湧き上がってくる衝動をどうすることもできずにいる。

‥‥あなたは、シャアを傷つけた、シャアをビームで貫いて、刺し殺そうとした。そして、私を刺し通した。なぜだか、わかる? そう‥‥見たでしょう? 私たちは、二人ではなく一つだから‥‥

 湧き上がる衝動をとどめておくことができず、彼はそれを自分の手で慰めるよりほかにない。すると、その手は二人の血で真っ赤に染まり、アムロは自分の指先からしたたり落ちる血を呆然と見つめるのだった。

 やがてアムロは呻きとともに目を覚まし、今見ていたすべてが夢だったことを知る。そして自分の深層心理が編み出して見せつけるその光景のおぞましさに、一人嗚咽を漏らすのだった。

 力なく体を起こすと、アムロは立ち上がり、洗面台のところへ行った。蛇口をひねって水を出し、汗と涙でぐしょぐしょになった顔を洗う。そのときふと、背後に気配を感じて振り向くと、そこに、さっきの夢の中にいたあの女が立っていた。

「ラ‥‥ララァ、君、なのか?」

 彼女は<サイド6>で、雨宿りに立ち寄ったコテージで見たときのままの、清純な少女のような姿で、やさしい笑みを浮かべてこちらを見ている。
「君は、シャアを愛しているんだろう? なぜ、彼のところに行かないんだ」
 するとその声が耳の奥に囁きとなって聞こえてきた。

‥‥さびしいのでしょう、アムロ? あなたは、ひとり‥‥、母親は違う男とどこかへ行った、フラウ・ボゥはあなたから離れていった、セイラ・マスはあなたを信じず心を隠した‥‥、かわいそうに‥‥

‥‥あなたには、家族もふるさともない、守るべきものは、何もなかった‥‥、それなのに、多くの血を流して、ほら、あなたの手はこんなにも汚れている‥‥

 そして、彼女はアムロの手を取った。アムロは言った。
「ララァ、君はどうしたんだ? どうして、ここに?」

‥‥私も、今はひとりよ、ひとりぼっちなの、あなたの手で、別の世界に送られてしまったから。ここに、あの人はいないわ。だからお願い、一緒に来て‥‥、私と愛し合いましょう、アムロ、今ならあなたと、一つになれるわ‥‥

 その手は氷のように冷たく、悪夢にうなされつづけて熱くなっていたアムロの手には心地よかった。ずっとそのまま、その手を握っていたい、そして彼女に抱かれてみたい。ふらふらと、彼はその手に引かれていこうとしていた。
 そのとき、部屋に無機質な通信の呼び出し音が鳴り響き、アムロははっと我に返った。目の前に立っていたはずの、ララァの姿は、もうなかった。


宇宙世紀0080.10@サイド6


 湖の畔の三角屋根のコテージは、変わらずそこにあった。
 ニュータイプを研究するためキシリア・ザビが極秘に設立したフラナガン機関の所長、フラナガン博士が、ララァ・スンを住まわせていたコテージだ。
 あれから1年が過ぎようとしている。ジオン共和国でキャスバル・レム・ダイクンのIDを取り戻した彼は、終戦後の日々を所在なく過ごしていた。<サイド6>を訪れようと思ったのは、それまで滞在していたグラナダにいられなくなったためだった。

 彼が最終決戦の地となった宇宙要塞ア・バオア・クーから辛くも脱出した直後、ジオン公国政府は地球連邦に休戦を申し入れ、受諾された。ザビ家一党が倒れたそのとき、誰がその決断を下したのか、彼は知らない。しかし、すべての戦闘が停止されたのち、<サイド3>で主導権を握ったのは<サイド6>にジオン共和国亡命政府を設立していたダルシア首相以下の穏健派だった。ザビ家独裁体制が崩壊したことで、国外に脱出していた彼らが政権に復帰したのである。そして休戦協定締結から半年後の宇宙世紀0080年7月、地球連邦とジオン共和国との間で終戦協定が結ばれ、一年戦争は終結に至った。講和の条件として提示されたのが、ジオン公国領だった月面都市グラナダの割譲だった。ジオン共和国政府はそれを受け入れ、グラナダは地球連邦の統治下に入った。そのとき、グラナダに居住していた多くのジオン国民がそうしたように、彼もこの地を離れたのである。
 そのまま、すぐに<サイド3>に戻らずに<サイド6>に立ち寄ったのは、その時の気分としかいいようがなかった。シャア・アズナブルでなくなった彼だが、まだ、キャスバル・レム・ダイクンと名乗ることにも慣れていない。シャアとしてジオン公国に入り、士官学校を出て軍に入ったその期間に、キャスバルが過ごしていたはずの空白の時期の経歴を、偽りと悟られないよう自分のものにしなければならない。その前に、何者でもない自分でいる時間が、ほしかったのかもしれない。

 コテージは周囲がきれいに掃除され、植栽の草木も整えられている。ガレージにはエレカが駐車してあり、まだ、そこに誰かが暮らしている形跡があった。湖に面したテラスの方に行ってみた。ちょうどそのとき、白い猫を追いかけて、中から誰かが出てきた。薄紫色のゆったりとしたチュニックに、黒いスキニーパンツを合わせたショートカットのスラリとした少女だった。彼女は猫の名を呼び、抱き上げると彼の方を見て、驚いた様子を見せた。
「だれ?」
「これは失礼」彼は、かけていたサングラスを外すと、スーツの胸のポケットに挿して言った。
「以前、このコテージにフラナガン博士が住んでいたと思い、訪ねてきたのだが‥‥」
「今も、お住まいよ。お呼びしましょうか?」
「ああ、頼む。私は‥‥、シャア・アズナブル。そう言えばわかるはずだ」
 少女はうなずくと、踵を返してコテージの中へ姿を消した。
 そのとき、背後で水音がして、彼は思わず振り向いた。見ると、湖面で白鳥が、羽を広げている。2回、3回、と羽ばたきをすると、やがて翼を閉じて、静かに水面を漂い始めた。
「よく、ここまで訪ねてきてくれたな、大佐」
 奥から、フラナガン博士が姿を現した。
「テキサス・コロニー以来ではないか? 君には一度、会って話をしたいと思っていたのだ。さあ、入りたまえ」
 彼はコテージへ、招き入れられた。

 博士は彼を客間のソファに座らせると、先ほどの少女がコーヒーを持ってきれくれた。カップを受け取り、彼女が客間を出てゆくと、彼はたずねた。
「あの少女は?」
「フォウ・ムラサメ、戦災孤児だ。あの子の持っていた能力を彼女も持っていると見込んで、引き取ったのだ」
 彼は、うなずいた。
「まだ、ニュータイプの研究を続けておられる?」
「もちろんだ、大佐。私のライフワークだ」博士が、言った。
「思えば、キシリア・ザビ少将直属だなとどいう言葉に踊らされて、軍に協力などするのではなかった、と思っているよ。私の研究は純粋に人類という種の能力の進化を検証するためであって、兵器として利用するためではなかった」
「ララァ・スンのことは、申し訳ないことをしたと思っています」シャアは言った。
「サイコミュ兵器によって彼女が上げた戦果は、めざましいものでした。だが、正直に申し上げて、想定外のことが起こったのです。連邦軍にも、彼女に匹敵する能力を持つニュータイプがいた」
 博士はコーヒーのカップを手に取り、目を閉じて数口、ゆっくりと味わっていた。しばらくの沈黙のあと、博士は言った。
「おもしろい映像が残っている。見せてあげよう」
 博士はフォウという少女にコンピュータを持ってこさせると、画面を開いた。
「彼女を初陣させるため、君が<サイド6>に来た前後だと思うのだが、この家の防犯カメラに、こんな映像が残っていた」
 テラスの椅子に腰掛けているララァに、何者かが近づき、何か一言二言言葉を交わしている様子が、そこには映っていた。そのあと、不意にララァは立ち上がり、テラスを降りて湖の方へ駆け出してゆく。
 彼は映像を巻き戻し、ララァに近づき何か話しかけた人物に注目した。連邦軍の非正規兵の青い軍服を着用したその男は、まだ年若い少年のように見えた。表情はよく見えない。だが一目見て、彼は確信した。アムロ・レイ、あの、ガンダムのパイロットだ。
「面白い現象があったのです。この映像が録画された翌日でしょうか、彼女の精神波の感応テストで、どういうわけか、飛躍的に感度が上がった。何が、そのトリガーになったのかを、彼女の死後もずっと探ってきました。その中で、この防犯カメラの映像に行き当たった」
 フラナガン博士が言った。
「大佐、この少年兵をご存知か?」
 彼は、うなずいた。
「アムロ・レイ。地球連邦軍のモビルスーツ、ガンダムのパイロットです。‥‥彼が、ララァ・スンのエルメスを撃墜した」
「やはり‥‥」博士が言った。
「君の、あのときの戦闘報告は読ませてもらった。君の口から、そのときの状況を詳しく聞きたいと思っているが‥‥、どうでしょう、<サイド6>にしばらく滞在されるということなら、うちに泊まられては」
「いいのですか?」
「構わんよ、この広い家に私と妻とフォウ、今は三人だけだ、ゆっくりと話せるし、君もいろいろと、心の整理がつくだろう」
 博士にいろいろと詮索されるのはおもしろくなかったが、それ以上に、ララァがここでアムロと接触していた、という話が気になった。シャアはその申し出を受け、しばらくフラナガン博士のコテージに滞在することにした。

 その日はフラナガン博士とその妻が、心尽くしの夕食を用意してくれ、フォウという少女も交えて四人で食卓を囲んだ。17歳で、妹のアルテイシアとともに彼を匿い養っていたマス家を飛び出し、シャア・アズナブルの偽名で<サイド3>に入国して以来、このような家庭的な時間を持つことのなかった彼にとって、それは気恥ずかしくも懐かしい時間となった。
 食事を終えて、用意されたゲスト用の寝室に案内されたときには、シャアはすっかりリラックスしてしまっていた。調子に乗って、少しワインを飲みすぎたかもしれない。おやすみの挨拶をして部屋のドアを閉じると、彼はネクタイをほどき、着ていたスーツを脱ぎ捨てると、シャワーを浴びた。濡れた髪と体をバスタオルで拭うと、白いバスローブを羽織って、そのままベッドに倒れ込む。
 すると、また、終戦からずっと感じてきた虚脱感が、彼を襲った。ここから、どこへ行くのか。これから、何をしようというのか。父ジオン・ダイクンの復讐をやり遂げた、今。ア・バオア・クーで図らずも再会した妹、アルテイシアには、こう言った。「ザビ家打倒なぞもうついでの事なのだ、アルテイシア。ジオン無きあとはニュータイプの時代だ」と。しかし、それがどうだというのだ。ニュータイプだったララァ・スンはもうこの世にはなく、彼女と交感したというパイロット、アムロ・レイはシャアの指し示した道にいくことを拒絶した。

‥‥ララァ、私を導いてくれ、と、私が言ったのを、覚えているか、ララァ‥‥、今ほど、君の導きが必要なときはないというのに‥‥

 かつて愛した女を思いながら、いつしかシャアは眠りの中に落ちていった。

 すべてが寝静まった深い夜、シャアはふと何かの気配を感じて目を覚ました。シャワーで濡れた体を覆ったバスローブの湿り気が、彼の体を冷やしている。

‥‥いけないわ、大佐。そんな格好で寝入ってしまっては。風邪をひきます。

 懐かしい声が耳を打つ。体を起こすと、彼の枕元に、あの愛しい女が見慣れた黄色いドレス姿で腰掛けていた。

 君こそ、どうしたのだ。こんな夜更けに。まだ、このコテージに君もいたのか?

‥‥ええ、うれしいわ。懐かしいこの場所に、大佐が来てくれて。

 彼は、愛しい女の肩を掻き抱いた。しかし、その腕は空を抱いただけだった。そうだ、彼女はもうこの世にはいないのだ。しかし、目にはその姿がくっきりと見えている。亡霊か、これが愛の力が見せる亡霊なのか。
 そう思ったとき、不意に彼の中に怒りに似た感情が湧いてきた。昼間に見た、防犯カメラの映像が、そうさせたのだ。
 皮肉な笑みを浮かべて、彼は言った。

 ララァ、君は私ではなく、あのガンダムのパイロットを愛したのだ、そうではないのか?

‥‥まあ、大佐、それは違うわ。私が愛したのは大佐、あなただけ。

 しかし、奴のところにも行ったのだろう? その亡霊の姿で。

‥‥ええ、訪れたわ。何度も。だってアムロはほんとうに、ひとりぼっちなんですもの。‥‥だけど、何度呼んでも、私の方へは来なかった。まだ、この世で何も成し遂げていない、それに、見ていたい人がいるんだ、ですって‥‥

 何も成し遂げていない、だと? それは私に対する嫌味か?

‥‥ふふふ、大佐、そんな膨れっ面はよして。アムロは大佐とは違うのよ。大佐のことを、みんなは赤い彗星と呼んで恐れていたわ。でも、アムロは違う。彼はただの一人の兵士のままで、誰にも知られずに、軍を離れた‥‥今はトーキョーで、ただの高校生。

 それで、見ていたい人、とは?

‥‥まあ、大佐。それは大佐の方がよくご存知なのでは?‥‥、妹がいらしたでしょう? 彼のとなりに。恋をしているのよ、うふふ‥‥、だから私は、彼の心の中に入れてもらえないの。

 その一言が、シャアの心を苛立たせた。彼は言った。
 では、なぜあのときは奴、だったのだ。私ではなく。私にニュータイプ能力がなかったからか? あれほど愛し合い、繋がり合っていたというのに。

‥‥大佐‥‥、あのとき、というのは私とアムロとの間にあった、交感のことを言っているの? ‥‥、それは大佐のニュータイプ能力がなかったからではないわ、そうではなくて、大佐は私の体を愛したけれど、心はいつも隠していた‥‥、私に心を読まれまい、と。違うかしら?

 確かに、そうだ。私は恐れていた、心の中に踏み込んで来られるのではないか、と。

‥‥でしょう? 大佐は、大人だから‥‥、でもアムロは違うわ、心を隠すことをまだ知らない、少年だから‥‥

 それなら、なぜあのとき逃げなかったのだ? 二人が心通じ合っていなたら、戦闘を止めて、二人だけの世界へ逃げていけばよかったではないか。

‥‥なぜ? 大佐、なぜ、そんな悲しいことを? 私たちは二人で一つ、愛していたの、大佐を。私は大佐に拾われ生かされた、そして大佐は、アムロに勝つためには私の力が必要だった‥‥

 言うな!
 思わずシャアは拳を握って叫んでいた。それを言うな、たとえそれが真実であっても。そうやっておまえは、愛を使って私を支配していた!

 気がつくと、シャアは仰向けのまま枕を涙で濡らしていた。そこにいる、と思っていたあの女の姿は、どこにもなかった。

 数日の滞在ののち、シャアはフラナガン博士とフォウとに別れを告げて、そのコテージをあとにした。一本の電話で、彼は<サイド6>のリゾート・コロニー、フランチェスカにあるホテルに呼び出された。
 スーツ姿にサングラス、という出立ちのまま、彼はそのホテルのプールサイドを訪れた。ビキニ姿で肌を人工太陽の光にさらしている女が、手招きした。
「キシリアの秘書が、私に何の用だ」両手をスラックスのポケットに入れたまま、彼は言った。ビキニ姿の女はサングラスを外すと、その柄の先を唇に当てた。
「元秘書として得た情報を、あなたに伝えておかなければと思って。キャスバル・レム・ダイクン、あなたに」
「まだ、その名で呼ばれるのには慣れていない」
「慣れなければね」マルガレーテが言った。
「ドズル・ザビ中将には妻があった。それは知っているわよね?」
「美女と野獣、と密かに呼ばれていたな」
「ええ、そして二人の間に、子どもが生まれた。ザビ家の血を引く、女の子がね。ソロモンが陥落する前に、ドズル中将は妻と幼子を脱出させ、その子は今も生きている」
 シャアは微動だにせず、その話を聞いていた。彼女は言った。
「あなたは、<サイド3>を取り戻さなければならない。その子を王座に掲げて、サビ家を再興しようとする勢力が動き出す前に」
「それが、君と何の関係がある?」
 彼女はデッキチェアから身を起こすと、シャアを見上げた。
「あるわ。ドズルの娘に王座を明け渡す前に、キシリア様の夢を叶える。閣下はザビ家の枷を超えて、ジオン・ダイクンの理想、ニュータイプによる世の革新を実現しようとしていた。そのための、フラナガン機関だったのよ、そしてあなたとララァとの出会いも」
 シャアは、ポケットから手を出すとネクタイの結び目に手をやった。
「で、私は何をすればいい?」
 マルガレーテが、にっこりと微笑んで言った。
「そうね、とりあえず水着に着替えて、泳いでみてはどうかしら」


宇宙世紀0082.8@トーキョー・シティ


 空港の展望デッキで飛び立ってゆく飛行機を見上げながら、フラウ・ボゥはつぶやいた。
「戦争が終わったばかりのときは、みんなで一つの家族みたいと思ったのに、こうやって一人ずつ離れていって、結局、みんな離れ離れになってしまうのね」

 ハヤト・コバヤシが地球連邦軍の幹部候補生学校に入学するため、トーキョーの<避難民居住区>を去って、旧ホワイトベースのクルーでここに残っているのはアムロとフラウ・ボゥ、カツ、レツ、キッカとミライ・ヤシマだけになった。見送りにきた空港は、夏休みの旅行に出かけようという人々の活気に満ちていて、フラウ・ボゥのしんみりした気持ちも、旅立ちの興奮に声をあげる子どもたちの声にかき消されてゆく。
「そんなことは、ないわ」
 彼女の気持ちを掬い取るかのように、ミライが言った。
「確かに、離れ離れになってしまうけど、それはホワイトベースという家族があって、みんなの気持ちを支えてくれているからできることなのよ」
「ミライさんは、さびしくないんですか? ブライトさんと離れ離れで」
「さびしくない、といえば嘘になるけど、でも、ジャブローから北米基地に異動になっただけでも、よかったと思うわ。去年の秋にもみんなで集まれたし、北米ならお互い、ときどきは会うことだってできる」
 フラウ・ボゥは、少し離れたところから窓の外を見ているアムロの方に目を向けた。ハヤトを乗せた飛行機は、もう見えなくなっていた。
「アムロも、もうすぐだったわね」ミライが言った。
「さびしくなるわね」
「別に」とフラウは肩をすぼめる。
「戦争が終わってからずっと、顔を合わせば喧嘩ばっかり」
「せめて、出発前には仲直りしておかないと、ね?」
 ミライの言葉に、フラウははっとしたような表情を見せ、もう一度アムロの方を見た。彼はまだ、何も見えない空を見つめていた。

 その日の夜、いつものようにフラウ・ボゥが夕食をとるため<避難民居住区>の食堂へいくと、彼女がいつも座る席の近くに、アムロがいた。
「珍しいじゃない、こんな時間に食堂に来るなんて。いつも閉店ぎりぎりだったでしょ?」
「邪魔かな、と思ってたからだよ」アムロが言った。
「いつも、ハヤトと一緒だっただろ?」
「びっくりね、アムロにもそんな気遣いができるなんて」
 フラウの嫌味に、アムロがむっとした表情を見せる。
「こんなことを言うからダメなのよね、アムロだってもうすぐ北米に行っちゃうから、その前に仲直りしないとって、ミライさんに言われてるのに」
「仲直り? 別に喧嘩なんて、してないだろ?」
 フラウは一瞬、きょとんとすると、ほっとした表情を見せた。
「僕も、1週間後にはここを発つから」
 フラウが、肩をすぼめた。
「大学生になるのね、アメリカで。軍からスカウトが来ていたんでしょ? またアムロもガンダムに乗るのかなあ、って、少し思ってたけど」
「ハヤトが、軍に入るのは嫌がってたじゃないか」
「だって、軍に入ったらどこに赴任するか、わからないじゃない。また宇宙に上がっちゃうかもしれないし。それに、ひょっとしてまた戦争が起こるかもしれない。だから、止めたのよ。でも、行ってしまった。軍がね、一度除隊したけれど、従軍経験があって階級も伍長だったのが除隊前に軍曹に上がったでしょ、それで、幹部候補生学校に入れば、半年で士官として再入隊できるからって、ハヤトに推薦状を送ってきたのよ。人手不足だから、とにかく経験者をだれでも引き入れようとしてるんだ、って、私は言ったんだけど、ハヤトは自分の戦績が認められた、って、そればっかり」
「いいじゃないか、ハヤトらしくて」アムロが言った。
「いつも戦局を冷静に分析していたし、戦術のアイデアも持っていた。判断力もあったし、いい指揮官になるんじゃないか?」
「サッカーチームの監督とは訳が違うのよ、アムロ。ほんと、何もわかってないのね」
「どういうことだよ」
「ハヤトはね、ずっと言ってたの。アムロに勝ちたい、勝ちたいって。結局、パイロットとしてはアムロに叶わなかったけど、アムロが軍のスカウトを断ったって聞いて、がぜんやる気になったのよ。除隊したアムロは曹長どまり、だけど自分はこれから少尉になって、アムロを超えていくことができる、って」
「羨ましいよ、あの従軍体験をそんなに前向きに捉えられるなんて」
「アムロはどうなの。なぜ、もう一度その才能を活かしてパイロットになる道を捨てて、アメリカに行くの?」
「戦う理由が、なくなったからだ」アムロが言った。
「早く忘れて、何もかも忘れて、何もなかったかのように、普通に生きていきたい。それだけだ」
「忘れてしまいたいことなの? 全部? 私たちみんな、アムロがいなければ死んでいた。戦ったこと、誇りに思っていいはずよ」
「フラウ・ボゥ、君が僕のことを、そういうふうに思ってくれているのは、うれしいよ。だけど‥‥」
 アムロは視線を落として、テーブルの上にかざした自分の両手の掌を見た。
「だけど、僕には君の知らないことがいっぱいある」

‥‥、そうだ、いつも夢の中でララァが言っていた、僕の手は、僕が葬り去った兵士たちの血で汚れている、血で汚れた人間なんだ、って。私の血で濡れたその手で、他の女を抱けるというの? と‥‥

「何なの? 話してよ」
「知らなくていい、知らない方が、いいんだ」
 アムロは首を振ると、立ち上がった。
「今まで、ありがとう。フラウ・ボゥ。君のことは、忘れないよ」
 フラウ・ボゥは釣られて立ち上がると、突然の別れの言葉に、ただ呆然と立ちすくんでいた。

 夏の日の1週間は瞬く間に過ぎ、アムロは空港のロビーで、北米の都市ボストンに向かう定期便の搭乗ゲートが開くのを待っていた。この日のこの便で出発する、ということを、アムロは誰にも伝えなかった。同じ大学に入学する同級生のヒロ・サイトウは、三日後の便で来ることになっている。<避難民居住区>の退去手続きに手こずっていて、同じ便が取れなかったのだ。
 まだ少し時間がある。コーヒーでも飲もうかと座っていたベンチから立ち上がったとき、アムロはキョロキョロと周囲を見回し誰かを探す様子の少女の姿を見つけた。

‥‥フラウ・ボゥ!

 その彼の目線に気がついたのか、彼女はアムロの姿を認めて、手を振り、歩み寄ってきた。
「どうして、ここへ?」
「ヒロに聞いたの。同じ大学へ行くんでしょ? なら、知っているはずだと思って」
「そうか‥‥」
「ひどいわ。黙って行っちゃうなんて。ちゃんと、お別れさせてくれたっていいじゃない。友達でしょ?私たち」
「‥‥ごめん」アムロが言った。こういうふうに見送られると、フラウはきっと、泣くだろう。アムロは彼女の涙を見たくなかった。

 ‥‥皆様、デルタ航空<ボストン>行き107便は、ただいまより搭乗を開始いたします。小さなお子様をお連れのお客様、特別なお手伝いを必要とされるお客様は、ただいまからご搭乗ください。一般のお客様のご搭乗は、およそ10分後に開始されます‥‥

「もうすぐね」フラウが言った。
「元気でね、アムロ。あれから考えていたんだけど、もし<サイド7>が戦災に合わず、私たちが戦争に巻き込まれなかったとしたら、やっぱりアムロはあのコロニーを出て、どこかの大学へ行くんだろうって。そう思ったら、アムロの選んだ道を、私も祝福できるって思ったの」
 アムロが、うなずいた。
「だから、いつか時がきたら、私が今知らなくていい、って言ってたことも、聞かせてね」
「いいよ、そんなことは」
「どうして? 私だって、ホワイトベースで一緒に戦ったのよ。少しはアムロの苦しみも、他の人よりはわかってあげられるって思うわ」
「そんなことより、僕は君に、幸せになってほしいんだ」
「おかしいわよ、アムロ」フラウが言った。
「それなら、どうして離れて行ってしまうの?」
「僕じゃ、ダメなんだ。フラウ。僕は、たくさん殺した。今も、その夢を見て毎晩、うなされているんだ。今も。自分さえこんななのに、君を幸せにできるわけがない」

‥‥皆様、デルタ航空<ボストン>行き107便は、ただいまより一般のお客様の搭乗を開始いたします。窓側の搭乗券をお持ちの方は、搭乗ゲートへお越しください‥‥

「もう、行かないと」
 フラウが、うなずいた。
「アムロ、私は幸せだったわ、たとえ苦しくても、ずっとアムロが守ってくれていたから」
「ありがとう」
「でも、もしよかったら、最後に一つお願いしていい? あのね、お別れのハグをしたいの」
 戸惑いながら、アムロは小さくうなずいた。フラウ・ボゥは輝くような笑みを見せると、少し開いたアムロの腕の中に飛び込んで、彼の背中を抱きしめた。
 その体に帯びた温もりが、アムロの中に染み付いた悪夢のうめきを溶かしていくようだった。

‥‥皆様、デルタ航空<ボストン>行き107便、中央部の搭乗券をお持ちの方は、搭乗ゲートへお越しください‥‥

 やがて、その体を離すと、フラウ・ボゥはアムロの顔を見上げ、そして小さく微笑むと、その唇に唇を重ねた。

「さようなら、またね」
 手を振る彼女の目に、涙はなかった。


inspired by this song  B'z:LOVE PHANTOM


〜Fin〜


<ちょっとしたあとがき>

本作のタイトルが、B'zの名曲「LOVE PHANTOM」から取られていることは、すぐにおわかりかと思います。
あの曲を聞いて、その歌詞を読んでからずっと、あの曲を聴くたびに、これはアムロとシャアと、そしてその間をたゆたうララァの亡霊のことを歌った歌だ、と思えてなりませんでした。

一年戦争の、あの激闘が終わったあと、シャアとアムロはそれぞれに、この歌の中で歌われている通り、カラのカラダでとぼとぼと、街を歩いていたに違いありません。そこに入り込んで魂を揺さぶるララァの幻。そこには生きていながら死んでいるような、死に引き込まれそうになるような、そんな時間があったでしょう。

そんな断片を切り取って、ひとつの短編にしてみました。アムロとシャア、二人はそれぞれに、愛という名の支配を断ち切ったのです。


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