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エイリアンズⅠ

 彼は宇宙人みたいだった。
 彼はクラスの嫌われ者で、一年中よれよれのTシャツに汚れた半ズボンで、冬はだいたい鼻の下が鼻水でカピカピだったし、ぼさぼさの頭はいつもフケだらけで、彼が近くに来ると男子は「こっち来るなよバイキン!」と叫んだし、女子は顔色を曇らせてそそくさとその場を立ち去るものだった。
 学校の成績もさんざん、漢字の小テストはいつも零点だったし、算数の九九もまともにできてなくて、足し算引き算は指を使ってやっていた。男子たちはそういう小テストが返される時には彼からそれを取り上げて点数を読み上げ、笑い者にしていた。でも、その点数だって当然だと、わたしは思っていた。だって、彼は授業中に突然席を立つと先生が止めるのも聞かずにどっか行っちゃうなんてしょっちゅうだったし、かろうじて座っていたとしてもうわの空で窓の外、空をぼんやり眺めているだけだった。
 そのかわり、体育の時間になるとうってかわって彼の独壇場。足の速さで彼にかなう人はいなかったし、鉄棒をやらせれば体操選手みたいにぐるぐる回れたし、誰よりもボールを遠くまで投げられた。そんな時、いつもは彼を笑い者にしてる男子たちはただ黙っているだけ。どことなく居心地が悪そうだった。もしかしたら、だからこそ彼が勉強ができないことを笑い者にしたのかもしれない。そうしないと、彼に負けたみたいで嫌だから。
 教室で笑い者になっている時も、グラウンドでヒーローになっている時も、彼はいつも平然とというか、憮然とというか、いつも無表情だった。自分に対する嘲笑も称賛も全部他人事みたいな感じだった。なにか見えない壁みたいなものがあって、わたしがいる世界、それは彼を笑い者にする男子や、のけ者にする女子たちのいる世界と、彼のいる世界を隔てているみたいだった。彼も別にそれでいいみたいだった。友達がひとりもいなくても寂しそうじゃなかったし、不安になったりしていなそうだった。そもそも寂しいってなに?って感じだった。
 彼は宇宙人みたいだった。
 その頃、わたしは逆上がりができなかった。鉄棒の逆上がりだ。九九なんてスルスラ言えたし、漢字テストはいつも満点だったけど、足は遅かったし、跳び箱はいつもドキドキしながら飛んでいた。体育の時間は憂鬱の一言だった。わたしは他のことは完璧に出来ていて、クラス委員だったりしたから、できれば体育の時間も完璧に過ごしたかった。見学で過ごせれば完璧なんだけど、いつもそうしているわけにもいかない。
「来週は逆上がりのテストをします」という先生の一言はわたしにとって死刑宣告みたいだった。それまではみんなで鉄棒にまとわりついて、ああでもないこうでもない言いながら逆上がりができないことを適当にごまかしていたけど、テストとなるとそうはいかない。跳び箱の時もそうだったんだけど、ひとりずつ前に出てやらされるに違いない。跳び箱の時はどうにか上手く飛べたけれど、今度はそうはいかない。もちろん、跳び箱の時も悪いイメージ、飛べずにその上に座ってしまうイメージしかできなかったけれど、跳び箱に関しては練習の時にはどうにか飛べていたのだ。それが、逆上がりとなると、一度も成功したことがなかった。悪いイメージどころか、悪い結果が確定しているも同然だ。全身血の気が引くのを感じた。無様な姿、男子の嘲笑、女子たちに励まされるわたし。「おしかったよ」とかなんとか。どうせ心の中では馬鹿にしてるに決まってる。
 その日から、わたしは塾に行く前、少し早く出て、家から離れた公園で逆上がりの練習をするようになった。図書館の裏にある、木が鬱蒼と茂っていていつも暗い公園だ。暗いのがなんだかちょっと怖くて、誰もそこでは遊ばない。そこには鉄棒があったから、誰にも見られずに練習するにはうってつけだった。
 鉄棒をしっかり握り、できるだけの勢いをつけて飛び上がる、けど、放り上げられた足は放り上げられただけでそのまま落下し、地面を叩く。ドタッ、ダメだ。その繰り返し。何度も何度も繰り返す。わたしはわたしなりに必死だった。日が暮れていく。暗くなる。一筋の光も見えない。たぶんダメだ。笑い者になる。さよなら、完璧なわたし。そんなことを考えていた。握った鉄棒の表面のざらつきに腹が立った。そして、また足の裏を地面に打ち付ける。
 不意に、笑い声がした。わたしは心臓が潰れるんじゃないかというくらい驚いた。あたりを見回すけれど誰もいない。おばけ?ざわざわする。
「ここだよ」と、頭の上で声がして、見上げると人影があった。木の上だ。それは猿みたいにスルスルと地上に降りてきた。彼だった。宇宙人みたいな、クラスの嫌われ者の、彼。
「なにやってんの?」彼は言った。初めてちゃんと聞く彼の声だった。
「別に」とわたしは答えた。逆上がりの練習をしているのを見られたのが恥ずかしかった。
「逆上がりできないのか?」と彼。グサッ。刺さる言葉。
「だから?」と強がるわたし。
「教えてやるよ」と彼。
「いいよ、塾行かなきゃ」
「いいから、すぐできる」
「いい」
「やれよ」と彼の声は優しかったし強かった。完璧じゃないわたしを見ても、馬鹿にしてないし、馬鹿にしてるのを隠してもいない。
「わかった」わたしは鉄棒につかまる。
「手をぎゅって引っ張るんだよ、ぎゅって」彼は身振りでそれを教えてくれた。ぎゅっ、だ。
 わたしは勢いをつけ、足を跳ね上げ、「いまだ!」と彼が叫び、ぎゅっ、ぐるんと世界が回った。違う世界にワープしたみたいだった。
「な、できただろ」と彼はにっこり笑った。初めて見る彼の笑顔だった。
 はじめまして、ようこそ、わたしの新しい世界。


No.188

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