僕らは「アキバ」の夢を見た

 己の趣味に日々を費やしていた中で、そのニュースは突如としてインターネットにあらわれた。「オノデン」のビルを含むひと区画が、なくなる。

 JR秋葉原駅、ホテルメッツの通りを潜って見えた景色。

 ラジオ会館が建て替えられ、駅前のGiGOはバンナムに。同人を漁ったとらのあなは一つ残らずなくなった。「ネジの西川」の閉店は、オタクの幅を超えての衝撃だった。

 コスプレや美少女アニメ・エロゲの看板もすっかり影を顰めた(エロゲに関してはおおっぴらに出してる昔の方が色々おかしい気もするが)。いまや観光客でごった煮で、多国語が日本語に混じって山ほど聞こえてくる。

「あれ?もうアキバってオタクの街じゃなくね?」

 直感。Twitter(今はXだけどどうにもしっくりこないのでこのまま)で「秋葉原 観光地」で調べてみればガンガンそういった意見が出てくる。検索してるから当たり前だけども、やはり同じ思いをしている人々がいることは確かだ。

 オタクは随分と大衆化した。アイドルがアニメやゲームを語るようになり、「私結構オタクだよ ワンピースとか毎回見てるし」という旨のコピペないし画像ネタがそれなりに貼られるようになり、「俺オタクだから」とおおっぴらに言っても大顰蹙を買うという時代ではなくなった。「鬼滅の刃」「けものフレンズ」のように、深夜アニメが社会現象化することも珍しくなくなった。それがかえって「モノホンのオタク」の肩身を狭めているとも言えるが。

「好きなものを好きなだけ好きと言おう」
 私の好きなアニメにしてまあまあ酷評を食らってしまった「魔法少女マジカルデストロイヤーズ」にて頻出するセリフである。それに対して「今はオタクとかそんな糾弾されてるわけじゃないし」「好きなもんいくらでも好きと言える時代に……」という意見をチラホラ見かけた。

 確かに、大多数の人々にとってはいくらでも言えるだろう。昭和や平成初期のような差別ぶっちぎり偏見モリモリNo.1の空気は今の所大衆化されたサブカルにはない。「アニメや漫画見てます」という程度では「へー見てるんだ」程度のリアクションで済む。

 だが、「少数」は全くもってそうではない。
 LGBT+に端を発するポリコレ問題のような事態が、オタクにも起こっている。

 性犯罪に対するオタクへの偏見による「無意味な」表現規制を叫ぶ人々や「ホワイトウォッシュ」や「声優の人種」といった重箱の隅をつつくような意見が噴出し、美少女キャラが露出度の高い衣装で登場する際には「性的搾取」と批判されることも少なくない(これに関して、双方の言い分はそれなりに筋が通っているのでここではノーコメントとする)。

 追撃と言わんばかりに「オタク」と括られるコミュニティですら、AI問題やアニメ評価でさえ、かなりの亀裂が走ってしまっている。過去にあったそこそこの一体感さえも、SNSなどの台頭によるグルーピングで消えつつある。どんなに個人の意見を集めたとしても「インフルエンサー」の意見一つで民衆の意見は変わるし、その流れで「この○○好きだった」という意見が異様なまでに浮いてしまう。言ってしまえば、奇異の視線の格好の的になってしまうのだ。SNS全盛の時代にそんなことになれば、匿名の暴力に晒されることになる。何事もなくとも、確実に不安を抱え込むハメになるのだ。「好きを好きと言う」という行為自体が、非常にリスキーなものとなってしまったのである。

 だがそんな中でも、確実に「好きを好きと言う」オタクは確かに存在する。荒波の中、全身を有刺鉄線で巻かれ、全身の傷から大量の血を噴いてもなおインターネットを泳ぐ者は確かにいるのだ。ある意味私もその一員である(「健全微カートゥーン系ケモノとかどんだけニッチ市場だよブ○アカ描けよFGO描けよ」と言われればぐうの音も出ない)。どうしても好きなのを抑えられずに、幾重にも重なる矢の雨を受けながらも邁進する「オタク」は何があろうとも止まることはない。

 たとえそれがシャドウバンでも財政難でも鬼のように低い民度でも限界集落ギリギリの界隈でもpixivでカプ名で検索かけたら自分のしかなかったとしても同志を見つけた瞬間に両手をあげて喜ぶほどの荒野だとしても、止まらない。止まらないのだ。

 そんな「オタク」でさえも、「アキバ」が変わりゆくのには耐えられなかった。一度足を止めざるを得なかった。ある意味生まれ故郷ともいえる場所(関東及びその周辺限定)が、役目を終えつつある現状を、足を止めて受け止めざるを得なかった。

 駅前にキャッチが増え、ぼったくりの被害が出るようになり、空テナントが目立つようになった。さよならを告げるのか、「それでも」と最後まで抗うのか、それは個々人の自由である。

 ではもし「さよなら」をした時に、次はどこへ行けばいいのか。あまりにも大きすぎる荷だった。

 中野サンプラザは再開発が始まり、ブロードウェイも老朽化により進退が問われている状況。池袋は女子オタクには救世主であるが、男オタクやディープなオタクには少々物足りないしこちらも再開発計画が立っている。
 それ以外の街はそもそもそんな受け入れる余裕もない。地方ではサブカルメインの町おこしなどが見受けられるが、オタク文化が良くも悪くも大衆化された今では「アキバ」の代替になるとは思えない(そもそも観光という要素が入り込む故「オタク」の領分は必然的に少なくなる)。

 「ニコニコ超会議」なるイベントが存在することはご存知だろうか。私は大好きだ。何ぞやという方に解説すると、「ニコニコ動画を(だいたい)地上に再現する」をコンセプトに、さまざまな企業・団体(法人個人公私問わず)が幕張メッセに集結し、手作りアクセサリーから伝統と最新技術と組み合わせた全く新しい「超歌舞伎」まで詰め込んだ一大イベントである。

 これがまっこと「オタク文化」と相性がよい。今年開催の超会議では、コミケのような個人ブースが「クリエイタークロス」として大々的に解放され、個々人の趣向を前面に押し出した企画が可能、過去にも「まるなげ広場」として類似するイベントが登場するなど、行動力のあるオタクにも、文化の最前線をゆく創作者にも、一歩を踏み出したいニューカマーにもぴったりとニコニコの間口の広さが伺える。本当に何をやってもいいので「ベイブレードやります」「物販と交流会やります」「映画上映します」「ワークショップやります」等、バリエーションあふれる活動が可能だ。全く知らないジャンルへの門ともなる。昔、ドラクエのすれ違い通信に特化したスペースが秋葉原にあったのを覚えているだろうか。あそこでもさまざまな出会いがあった。中野のまんだらけで同人語りをしたあの兄ちゃんは元気だろうか。待機列にてハイクオリティのリオレウス装備を着込んでいたあの人の熱意は凄まじかった。そんな場所は減りつつある。そんな中でも、オタクの「一期一会」が確かに超会議には息づいている。

 コミケもそうだ。全く別界隈、別ジャンルの本を興味本位で買ってみる。「エロ本と漫画がコミケの花」のような印象を持たれる方もおられるかもしれないが、案外それ以外のものも多い。対戦ゲームの攻略・考察本から写真集、フォントの解説やメイド喫茶の風俗文化の観点から考察した同人誌等、知らない方からすれば「んなもんまであんの!?」という本まである。そういった本を見かけて、面白そうなので買う。そこから新しい扉を開く。現代の「統一化された多様性」ではない、なかば闇鍋じみた「多様性」がそこにはあるのだ。

 ここである程度勘づいた方もおられるかもしれない。「オタクの街」の請け負ってきた役目は、「オタクのイベント」へと移りつつあるのだ。よく「インターネットがそうなりつつあるんじゃないか」という話が出てくるが、コロナ禍で顕著になった陰謀論の台頭、そこで語られた「エコーチェンバー現象」と「フィルターバブル現象」の2つの壁が大きすぎる。上記した「異文化交流」が起こりづらい構図になっているのが大きい。むしろ分断を産みつつある。

 コミケ以外にも多様なジャンルの即売会やイベントが徐々に知名度を上げていき、その情報がインターネットにより広まりやすくなった中で、秋葉原の「オタクの街」という、オタク文化の集中点としての役目は「イベント」へと移り始めた。だがやはり、「アキバ」が大きく変わるが故の寂しさはある。だが永遠に続くものはない。エヴァが完結し、こち亀も連載が終了、不定期の読み切りへと変化した。平成も「生前退位」という形で終わりを告げ、私の祖父はついに昨年亡くなった。身内も卒業・入学ラッシュだ。

 「アキバ」という夢から、我々は目覚めなければならない。悲しいかな、秋葉原は「オタクの街」ではなくなりつつある。観光地化したそこに、我々「オタク」の立場はなくなり始めた。だが、その目覚める直前まで、アキバを私は愛したい。駅前のバスケコートも、CLUB SEGAの看板も、オノデンのでかい看板も、今や我々の思い出の中にしかない。ならばせめて、アキバならオタクの火が消えるその瞬間まで、心に焼き付けておきたいのだ。


 しがないオタクのしょーもない語りになったが、ここまで読んでくれた方に最大限の感謝を。反論もいっぱい受け付けるし「気に入らねーなー」と思ったら色々コメントしてもらって構いませんが、誹謗中傷と迷惑行為だけは本当に勘弁してください。誰も幸せにならんから……(ちょっと荒れそうな話題なのでフォトギャラリーより持ってきたヘッダー写真をトラブル防止のため一旦解除しました。ごめんなさい)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?