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父と映画と私

「あなたも行くかい」
と、父が私を映画館へ誘ったのは、あとにも先にも一度だけ。
あれはたしか高校生になった年だったか。
連れて行かれたのは神保町にあった岩波ホール。
あった、と過去形で語らなければならないことが本当に残念であると、きっと父は私の10倍は感じていることだろう。

映画を愛する人びとなら誰しも、入り口になった作品や映画体験を持っているのではないかと思う。
私の入り口はあの日の岩波ホールだ。その扉を開けてくれたのは父だった。

ミニシアターの草分けと言われる岩波ホール。1974年の発足以来、エキプドシネマでは商業ベースになりづらいとされる名作を世に送り出し続け、2022年の閉館まで66の国と地域の274作品を上映した。写真は千代田区観光協会より。




映画の入り口になった日

その日上映されたのは「ファニーとアレクサンデル」。スウェーデンの巨匠イングマール・ベルイマン監督の自伝的大作は5時間を超える作品で、岩波ホールでは間に休憩を挟んで上映された。

「ファニーとアレクサンデル」パンフレットより

白状すると、ストーリーや登場人物の関係をきちんとは理解できていなかったかもしれない。イングマール・ベルイマン監督が長きにわたり、名だたる映画監督たちに多大な影響を与えてきたことも知らなかった。
けれど、行儀よく椅子が並んだ客席にゆったりと座り、それはそれは長いこと座り続け、暗闇の中で大きな画面の光と影、字幕を見逃しそうなほどに目を奪う美術や衣装に魅了されたという記憶は鮮明に残っている。
今は当たり前になっている映画館の各回入替え制を取り入れたのは、岩波ホールが最初なのだそうだ。
周りを見れば、自分より確実に年上のお客ばかり。そこに混じった自分が急に大人になったような、背伸びをしているような、誇らしい気持ちさえしていた。

長い映画の記憶と共に思い出されるのは、上映前に入った岩波ホール近くの喫茶店だ。
父はいつものブレンドコーヒー、私はプリンアラモード。いや、高校生になっていたからカフェオレだったろうか。
開演時間まで何を話すわけでもなく、父は自分の本を読み、私はやはり読書をしている人の多いほかのテーブルのお客をぼんやりと眺めていた。


うちのお父さんは

幼い頃から、父は私をさん付けで呼んだ。
子ども扱いせず対等に向きあうという目標を掲げ、それを忘れないためのさん付けなのか?
というのは、大人になった私があとからした推理だが。

「うちのお父さん、ヘンなおじさんなんだよ」
小学生の私はよく友達に言っていた。
ごく一般的な、昭和世代のよそのお父さんとはどうも何かが違うのだ。
暇さえあれば本を読んでいる。
寝る前にレコードをかけながら本を読むうちにうとうとして、額を読書灯で照らしている姿が常だった。
毎日料理をする。掃除もする。酒は飲めない。
母は私を出産したあと「女性も一生の仕事を持つ方がいい」と父に言われ、30代で専門学校へ通い保育士になった。
背は高めで顔が大きめ、声も大きいのだが、怒っている姿を見ない。不機嫌なときはたまにあるが、母がどんなにまくしたてて文句を言っても、苦笑いをするか黙っている父だった。
若かりし頃、アルバイトで学費を貯めて市立大に通ったものの、演劇部に熱中するあまり留年したのだという。俳優になりたかったが、生活していくため会社に勤めたそうだ。

いつも、流行りのおもちゃは買ってくれなかった。
おみやげにも、お菓子やおもちゃはくれなかった。
どこかに出かけて帰ってくると、ハードカバーの童話や、岩波少年文庫の本を渡してくれた。
学校の持ち物のクレヨンは24色でも多いのに、36色を用意した。
リビングの壁一面は父の本棚だった。
そこには小難しい社会学や経済学、歴史、哲学の本がずらりと並び、さらに日本と世界文学の古いものから新しいもの、そしてモノクロの多い写真集、百科事典が埋め尽くす。下の段に並んでいた「世界の博物館」という箱に入った大判の豪華な全集は私のお気に入りだった。

私はずっと鍵っ子だったが、留守中のルールがあった。
近所の本屋で毎日マンガの立ち読みをしてもかまわなかったが、子どもだけで電車に乗って出かけるのは禁止だったのだ。
中学生だったある日、マンガの原作も読み、テレビアニメも欠かさず観ていた「うる星やつら」が映画になると知り、どうしても観たくなった。同じ部活の友達に話すと、一緒に行こうと言ってくれた。
しかし電車に乗らないと映画館には行けない。
迷ったあげくついに、友達と2人で電車に乗って、内緒で映画を観に行ったのだった。
バレていたのかもしれないが、その小さな冒険についての自白はまだしていない。

そして中学卒業近くになった頃、また、どうしても観たい映画を見つけてしまった。
「綿の国星」だった。
大好きな猫が、耳のついた小さな女の子の姿で描かれている。人間になれると信じているチビ猫。新聞の大きな広告をひと目見たとき、
「お父さん、これを観に行きたい」
と直訴していた。
堂々と電車に乗って、映画館に行きたかった。
結局、父は私に同行して「綿の国星」を一緒に観た。まだ、開場と同時に席取りをする自由席がほとんどで、立ち見もできた頃。私はなるべく真ん中辺りの座席を狙って座り、父は後方で立ち見をしていた。

映画のあとはやっぱり喫茶店。
父は本を読みながらブレンドコーヒー、このとき私は確かにプリンアラモードを注文した。
何度か2人で向かい合わせに座って言葉少なに喫茶店で過ごした記憶は、思いおこせば大きな本屋に一緒に出かけた帰りだった。
毎回、私が選んだ本1冊と、父が選んだ絵本や読み物を合わせて数冊買ってもらった。
電車に乗るのも禁止して、アニメの映画にもついてくることだけを見ればただの過保護だが、子どもの私にはわかっていた。
1人の人間として大切だと考えているからこそ、私を守っているのだと。

父は古本を買ったり売ったりするのに神保町をよく歩いていた。おそらく通っていたのであろう岩波ホールの映画館に、私を連れて行ったのはこの翌年のことである。

大島弓子原作「綿の国星」映画ポスターより



父と映画と私


5時間超の「ファニーとアレクサンデル」を一緒に観て以来、父と映画に出かけることはなかった。
高校で電車通学になり、自由を手に入れた私は映画館にも好きなときに出かけるようになった。
大学生になると小劇場の舞台へ演劇を観に行ったりもして。

岩波ホールへも何度か1人で足を運んだ。
アンジェイ・ワイダ監督「愛の記録」「コルチャック先生」、霍建起フォ・ジェンチイ 監督「山の郵便配達」などなど。
気に入った映画があったら同じ監督の作品を探すことを知り、アジアの映画と出会ったのもこの頃だ。
父は何も言ってこなかったが、チャップリンのモノクロ映画番組を食い入るように観ていたり、自分と似たようなジャンルにハマっていく子どもの様子を微笑ましく、もしくはしめしめと思いながら見ていたかもしれない。

「創る人はすごいけど、それを観る人も必要でしょう」と、いつか父が言っていた。
俳優になる夢を諦めた父は「私は観る人になるんや」と笑った。
その通りだ。私も生涯全力で観る人になる、と全ての映画を創る人たちへ約束したい。

印象に残る映画があると、私は父に「マトリックス」ってすごいんだよ!などと力説したが、いつも気のない返事で興味を示してくれなかった。
「インディー・ジョーンズ」シリーズに何年も夢中になり続け、「指輪物語ロード・オブ・ザ・リング」を夢にも見るほど映画に溺れていても知らんぷりだった。

ところがよく覚えているのが、「幸せになるためのイタリア語講座」を観たと話したとき。
父は「ああ、それはまだ、観ていないんや」と言った。
観ていないんや。これから見る予定や。
ということである。
先を越されたか、というその口調に内心ガッツポーズをする気分だった。
自分のセレクトを認められたから?
というよりは、単に父と同じ作品を観ようとしたことがうれしかったのだ。

ロネ・シェルフィグ監督〝Italian for Beginners〟「幸せになるためのイタリア語講座」の配給会社ZAZIE FILMSは、奇しくもイングマール・ベルイマン作品のリバイバル上映をしていた。


映画を観ることで別世界にダイブし、感覚と感情を圧倒されるのは中毒になる。
なにしろ映画はどこまでも自由だ。
2次元も3次元も、パラレルワールドも飛び越える。歴史ものは過去へ、SFでは未来へ、時間の行き来さえ思いのままだ。
それでいて、たとえば海の中や砂漠の砂嵐、宇宙空間、戦禍の渦に飛びこんだとしても観客は呼吸ができる。
あるときは知らなかった世界、気づかなかったり、目を逸らしていた現実社会の問題をも目の前に突きつけられ、両肩をつかんで揺さぶられたりもする。
映画を観ることは辛いときの隠れ場所にもなり、忘れたいときの旅先にもなり、誰かとの思い出にもなり、涙と笑いの治癒薬にもなる。

父から渡された児童文学の本に囲まれたこと。
演劇や映画を楽しむ父の姿を見ていたこと。
そして、同級生の誰とも共有はできなかったが、岩波ホールへ長い長い映画を観に連れて行ってくれたから。
小学校の教室で、1人だけ36色のクレヨンを使って絵を描いたから。

映画がいつも近くにある人生へと通じる扉を開けてくれた父から受け取った、あらゆるものを混ぜ合わせると、

みんなと同じだからといって、
安心してはいけない。
みんなと違うからといって、
不安になることはない。

というメッセージが浮かびあがる。
いつも心のどこかで、そう感じている。

数年前に入院して、年齢からしても奇跡の生還を果たした父は、この記事を書いている現在、木版画を制作している。
好きだった舞台俳優の肖像画や、広島の原爆ドームを刷った作品が代表作だ。やはりまだ、「創る人」はやめられないらしい。

もしもまた入院して長いお別れが近づいたら、この記事を印刷して感謝の手紙として渡してみようか。
それまでは各自、時間の許す限り、創る人、観る人として存分に人生を楽しむことにしよう。
エンドロールを記すのは、まだしばらく先のことであれと祈りながら。


懐かしのプリンアラモード
(photo byるるぶ&moreもふさん)



最後までおつき合いいただき、
thank you so much!

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