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花が降る

Youtubeのおすすめ欄に、五彩緋夏ちゃんの姿が見えた。更新日は1か月前で、本当は生きていたんだとサムネをタップする。喋っている。アカウントはひなちゃんじゃない。友達が上げた、生前のひなちゃんだった。

死は生と切り離されたものではなく、生の裏にあるものだ。人間がすぐ死んでしまうことを知っていて、人間の強さを引き出さなければいけない教育者として、人間はすぐ死ぬと言ってしまうことは適切ではない気もする。でも実際、人は自殺をするし、周りの人は決まって「明るい人だった」と言う。精神的に参っていた人が自殺してしまうことは当たり前のように受け入れられる事実であるとして、明るい人だって結局きっかけさえあればすぐ死んでしまう。生きるのが上手な人だったんだなと思う。

わたしはすぐに人に対して「死んでしまったのだろうか」と考える。これは人が死ぬのが怖いというよりは、本当に死んでしまっていた時に混乱するのを防ぐために、取り乱さないように、ちゃんと受け入れられるように可能性を頭の隅に置いているだけなのだけれど、よく考えてみると死というものが自分にとって全く持って実感のわかない概念なんだなと感じる。母方のじいちゃんが死んでしまった時も父方のばあちゃんが死んでしまった時も、その人が「死んだ」という事実は頭の中に落とし込むことができても、心のどこかでただ目の前から消えてしまっただけで多分どこかにまだ存在していると信じている。死ぬなんて概念は存在していないんだ、遠くに住んでいる友達とずっと会えていないみたいな、そんな感じなんだと信じている。生も死も表裏一体だから、生なんてなくて死もないんだと、ずっと信じている。

だから人間が死ぬことを特別視できずにいる。死ぬ方法が分からないだけで、なにかきっかけがあれば私は死んでしまうとなんとなく思っている。いつだか酒に溺れかけた腐れ縁とODに逃げた私がお互いにそれを止めようと誓ってもなお、彼は酒を止めなかったし、わたしもODを止めなかった。中学から続く関係は今となっては本当は嘘だったかのようになくなってしまったけれど、お互いがどこかで幸せに生きていればいいと思っていると思う。これは過信ではないと言い切れるけれど別に根拠はない。何となく、お互いに死んでほしくなくて、自分の世界のどこかに生きていてほしいと思っている。これは好きだとか嫌いだとかそんな感情の世界の話ではなくて、そんな一言で片づけられる感覚ではないのだけれど、そう思っている。いまもTwitterのTLで見かけたツイートたまにいいねし合うくらいの遠さで生きている。

ここまで書いてみると、やっぱり私は死にたくないのかもしれない。死ぬというのは他者の世界から完全に消えてしまうという感覚だ。ということは死ぬって自分以外の人間の記憶から完全に消えてしまうことなのかもしれない。自分の中で、今まで死んでしまった人が死んでいないと感じるのは、私の中に記憶として鮮明に残っているからなのかもしれない。現実を生きる上での漠然とした苦しさから逃れるために物理的に死んでしまいたいと感じることは今でもよくあるけれど、人の記憶から消えてしまうのは嫌だというのは、結構なわがままなのかもしれない。

多分これから、惰性で生きていくんだと思う。というのはかなり鬱々としているときの話であって、躁でも鬱でもないフラットな時は、自分の生きる意味なんてものがあると信じて生きたいと思っているし、それは嘘じゃないのは自分が一番わかっている。一度鬱スイッチが入ってしまうと本当に違う人間みたいになってしまうので、全然生きるのやめたいと思いながら、確実に死ぬ方法が分からないとかぼんやりと思いながら生きているんだと思う、分らないけど。こんなことを書くと私が自殺したがりのメンヘラくらいに思われそうですが、実際そうでもないです。ぼんやりとした諦念を抱えて生きているだけで、諦めを覚えたから生きていけてるみたいなところがあるので、生きるのが上手な私は絶対に死にません。他者への異常なまでの執着と無関心さ、とても気持ちが悪いけれどちゃんと抱えて生きていきます。

Youtubeでひなちゃんの動画を見つけてしまったら死ぬってことが分からなくなったので思考整理でした。世界って難しい。1時間これに費やしてしまった、時間を溶かしてしまいました。実習の勉強に戻ろうと思います。

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