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偶然と共に。~coincidence~

ぼくは、勉強が大嫌いだ。

ふと考えてみると、中学生の時。
大きな偶然と鉢合わせたのを境にして、
"偶然と共に"生きている気がしている。


2013年4月に中学校へ入学し、当時仲の良かった友達と一緒に入る部活を選んだ末に、ソフトテニス部に入部する。

最終的に集まった一年生メンバーは8人。

団体戦の場合、3ペア+補欠1ペア。

争いごとが嫌いで、野心のない自分からしたら、とても落ち着くスタートでした。

一年生の時は、主に二年生とペアを組むことが多かった。

そんな中で、一年生大会の時はもちろん、一年生メンバーで組まなければならなかった。

今思えば、そんなことで?とは思うが、あまり一年生メンバーと馴染めていなかった。そもそも、7人中6人が中学校で初めての顔。自分が二年生といることが多かったため、内輪ノリについていくことができなかった。固定のペアもなかなか決まらず、陰口を言われていることも。次第に毎日のように行っていた朝練にも行かなくなり、一年生の中ではふわふわした状態に。

一年生の後半になり、ようやく固定のペアが決まった。これに関しても今思えばだが、性格がよく似ていた。ただ、3年間過ごして分かったことなので、当時は大丈夫かな?と思ってしまう、ちょっと癖のある子でした。

ペアが決まって、日に日に仲も深まっていき、その子じゃないと試合が難しくなるほどに。試合にもベスト32には常に入っていました。

そんな中、二年生の夏前。三年生の引退後の部長を誰がやるかという話し合いの場が設けられた。本来であれば1番手の前衛、後衛のどちらかがやるという風習があった。自分は2番手。ただ、どうしても部長になりたかった。理由としては、今までにやっていた練習の中で、明らかに意味もなく、なあなあでやっている練習が幾つもあった。不思議なことに、その練習が好きなメンバーが何人かいたために、ずっとやってきた。それがとてもじゃないがストレスになっていた。部長になれば練習を決めれるというただそれだけの理由で部長になりたかった。もちろん周りには適当な理由を伝えて立候補した。

物は言ってみるものだと思った。1番手の後衛が部長に立候補していたが、その子は現役で硬式テニスをクラブチームでやっている子だった。日を問わず、クラブチームの練習を優先していた為、部長にはできないという顧問の判断で、自分が部長になることができた。

それからというもの、自分達の試合内容、戦績がすこぶる良くなっていく。

二年生の秋。県西大会個人戦。
勝てばベスト16、県大会進出。
今までの最高は、地区・県西共にベスト32。
対戦相手は他校の1番手。初対戦の相手だった。

ファイナルゲームまでもつれ込み、勝利した。

その後の県大会では、箸にも棒にもかからない結果で終わった。

それでよかった。
部長になってからの変わり様は明らかだった。
その嬉しさに勝つ物はない程に。

そして、三年生の夏。引退前最後の公式試合。
個人戦。地区大会。
その当日に、ちょっとした事件が起きた。

試合会場が学校から近い場所の場合には、いつも決まって1時間前から学校に集まり練習をする。

その日も、1時間前に学校へ。

誰もいなかった。来た気配すらなかった。

5分、10分と待っても誰一人として来ることがなかったので、恐らく今日は練習がない日だったのだろうと、1番大事にしたかったサーブの練習をひたすらすることに。

いつもの出発時間15分前に練習を止め、休憩をしていたら、ぞろぞろとやって来た。

何ごともなかったかの様に、支度を済ませ、会場に向かった。

後にも先にもない、この集合時間ミスが、その後の試合に大きく関わって来る。

結果から言うと、準々決勝で肉離れが起きた。その試合は勝ち、準決勝で敗れベスト4。

当然の結果だった。今まで3試合しかやって来なかったのに、いきなり4試合、5試合とやったら、それはこうもなるだろうと。朝の練習をしていなかったらまた違ったのかもと思う反面、練習をしていたからこそのベスト4だったのだろうとも思う。いや、後者だと思う。朝の事件も必然だったのかも知れない。

とにかく、中学校で学んだことは、"自分のやりたいことを全力で取り組む、行動をする"

これを機に、巡り合わせの人生にシフトチェンジすることになる。必然的に。


2016年4月に高等学校へ入学。

時は経ち、二年生の秋頃。
授業と授業の間時間、先生から言われた一言で現在に至ると感じている。

"卒業後、何をしたいのかがまだ決まってないんじゃない?"

何も決まっていなかった。
働きたいということ以外は。

ぼくが入学した高等学校は、就職率90%以上の工業高校。家から近いと言う理由のみで選択した。

何年か経ち、当時の話を先生に聞いたら、雰囲気でなんとなくそう思ったらしい。

先生からの一言、間髪を入れずに"公務員セミナーっていうお知らせが来てるんだけど、もしよかったら行ってみない?"と言われ、迷わず行くことにした。

セミナー参加後、公務員になりたいと思ったわけではなかったが、これを機に挑戦してみるのもいいかなと思えたので、地方公務員に標準を合わすことに。

そして1年後...

役所、役場を3つ受けた。
結果は全て不合格。
正直、なんとも思わなかった。
違ったんだなと。

それから1ヶ月後...

公務員になることが決まった。
理由としては、落ちた役場から連絡があり、再試験。
後に聞いた話によると、決まっていた人が内定を取り消し、補欠の自分が上がったという。

その役場は唯一、筆記試験で落ちた役場。
公務員試験の勉強はほぼしていなかった。

運良く公務員になれた。

その数ヶ月後に入庁し、1年2ヶ月で退所した。

当時18〜19歳。
安定をとるほど、人生に焦っていなかった。
それに尽きる。

人生に一度あるかないかの経験が出来て、とても良かったと今でも思っている。


その数ヶ月後...

8人目の彼女が出来る。

幼稚園児から学生の期間、とにかく家族優先。

にも関わらず、この子を優先したいと思える存在だった。

自他共に認める行動力の鬼。
2ヶ月でお金を貯め、彼女のいる京都へ引っ越す。

貯めたお金で家は借りていて、半同棲の形ではあったが、ほぼ同棲状態だった。

その2年後に別れることになる。

結果はどうであれ、彼女を選んだことで、数々の経験をし、自分が明らかに成長をしているということがわかった。

とにかく落ち込んだ。
ずっと一緒にいたいと思っていた人だったから。

毎日のようにいなくなりたいと思った。
呼吸をする様におしゃべりをしていた自分がいなくなった。
常に笑顔だったはずの面も、辛くなっていた。

そんな時、昔からある能力が自分を助けた。

自分のいる空間に、さも監視カメラがあるかの様な視点で自分を見ることができる。屋内外関係なく。

別れて2ヶ月が経ち、気がつくと不意にその能力を使っていた。


遡ること1年。

京都に引っ越して最初のバイトが居酒屋の仕込みだった。

その2ヶ月後に、金銭面を考慮して個人経営の居酒屋を掛け持ちする。

その1ヶ月後に、コロナの影響で営業をしてはいけないという期間に入り、補助金生活が3〜4ヶ月続く。

営業が再開し、1度目の給料。補助金の方が多かったのをみて、ふたつの仕事を辞める選択をした。

次の仕事を選ぶ中で、やってみたい仕事というのが高校生の頃からあった。ただ薄膜程度の気持ちで、自分の中でも目立ってはいなかった。

その仕事に挑戦するのなら今しかないだろうなと思い、接客業にチャレンジをしてみる。

11月終わり頃からの2ヶ月間、短期でアパレルの仕事をする。年末年始の繁忙期で、勉強するのにはもってこいのタイミング。

2ヶ月間で、こんなに接客に熱が入ることがあるんだと思うほどに自分が磨かれた気がした。今までにやってきた仕事の中では明らかに天職だと今でも感じている。

その後ももちろん接客業をやりたいと思い、フルーツ大福の接客販売の仕事に。


真っ暗な6帖。正座でテーブルに向かい合い、俯く自分。流す涙もない。

そんな自分を見て、泣き笑い。

もともとポジティブともネガティブともとれない性格の人間が、2ヶ月で地中深くまでに掘り進めた感情を、一気に陽を浴びさせることが出来た、言わば人生のターニングポイントになった。

とにかく自分を変えていきたいと思い、今までやってこなかったことや、苦手なことに挑戦してみることにした。

ちょっとしたことではあったが、それがポジティブになって行くきっかけになる。


格闘技を見ることが苦手だった。
たまたま見た番組でプロレスの話が出ていた。
その流れでプロレスの動画を。
気がついたら、好きな選手が出来て、何本も観て、何度も感動して泣いての繰り返し。

この時、自分になかったもの。苦手だったものに触れるということが楽しいことだと気づいた。

映画をあまり観てこなかった。

ドラマは、何話も見るほどの面白さがあるとは思えなかった。ただ、好きなドラマも数本ある。全部が全部ではない。

そんな中で、とにかくこのドラマは自分史上永遠の一位だと思える作品がある。

それが、海外ドラマだった。

あまり観たことがない映画。
洋画も見てはいるんだろうが、記憶にない。

なら、自分に合っていそうな海外の作品、洋画を字幕で観てみることにしようと考えた。

この様に、パッと考えついたことを即座に行動し、趣味にする。プロレスと洋画以外にもいろいろやっていき、どれも自分を高める力になった。


そんなこんなで、フルーツ大福のお店も2年間働いて、京都全店舗が閉店することになった。

このお店が終わったら、自分も京都を出るタイミングだと前々から決めていた。

そして現在、地元の神奈川で家族と暮らしている。

大袈裟に言えば、半分以上を割愛しています。
その割愛しているところでさえも数々の選択をしています。

自分の人生は、巡り合わせと選択でできていると言っても過言ではありません。

ぼくは、人生経験という"勉強"が大好きだ。


松里莉多

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