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立つ、 と辰年。 意を味わう。

三年間、ずっとなんとかしたいと思いながら実力ないし、と思って抑えてたものを、そんな躊躇してる場合じゃないや。ここから飛び立つ人だってきっといる、その踏み台になるだけでいい出来ることをやろ!と思い立ったのが11月。
立つ、をテーマにしてラボと名打って始めてしまった。

この三年間のあいだに、病は身体のものではなくて「わたし」のものだと思うようになった、なんなら怪我もどこを怪我するかは「わたし」が決めているという思いが強くなった。
「わたし」の肉体のまわりには、無数の大小のものごとがいて、それぞれの法則で動いている。さらにそれらを包むより大きな法則、「わたし」だけでは抱えきれないものが「わたし」の外やたぶん内にも広がっている、いわゆる自然と言われるもの、その自然の方から一方的にやってくることだってある、それを放り投げてしまわないから「わたし」に引き渡されたまま、一瞬のことで離す間もなくやられることだってある、自然よりも小さな法則である社会が「わたし」に手を離さないよう呪いをかけてもいる、つまり本当は多くの物事は手放してしまえるが離せないと思わされてる、それで「わたし」がその大きな動きにやられたりもする。そういう「わたし」のせいではないことがあるのが自然だ、でも病や怪我の全てがそれじゃない、というか多分ほとんどは「わたし」の問題だ、

田植え前に草刈りをしていて小指をざっくりと切った。
なんで薬指でも親指でもなく小指を鎌で切ったんだろう
指は、体の中では末端の、わりと小さな部位だからそのことに気づけた。
霜焼けも
なんで右足は薬指、左足は中指だけがまず痒くなるのか
裸足で田んぼをしていて、両足のふくらはぎをめちゃめちゃにブヨに刺されたこともあった、何日もパンパンで掻きむしった、一週間して腫れがひいたら、ずっと両瞼の上にあった黄色腫がきれいに消えていた。身体の繋がりを観る精度が高い人なら、それらはきっかけや出口であって、気にするなとは言わないが他にも入り口や、それよりもっと気にすべき道筋だってあるじゃないか、となる。

全身がくまなく偏りないままではたらくなら、そこで起こる病や怪我は世界の方からやってきたものだとわかる。台風で大木が折れるみたいに。その苦しみは「わたし」が引き受けるしかないものだ。
でも今は「わたし」が多くの偏りを生み出す、手放した方がいいものを大事に抱いてしまったり、押し付けられたりしている。そんな中で、いつだって身体はつねに意識に上らないほどの細やかさでバランスを取っている。病や怪我はその振り幅の閾値を超えたことの顕れ、身体はいつもそのときの最良のバランスの中にいる(バランスだからそこにはゆらぎがあって)、病や怪我は身体が起こしているのではなく「わたし」が大きくバランスを欠くから起こる。つまり病や怪我も最良のバランスの結果のことが大いにあるってこと。

そんな風に身体は僕に語った、身体は言葉で語るわけじゃないから色んな反応や動きで、僕が言葉に翻訳している。とはいえ言葉も口から(今は指先から)。口だって身体だ、身体が声を出すときだってある。いま口から出してるその声を出したのは身体か、「わたし」か。その違いすら普段僕は無自覚だ。
言葉より先に声があって、昨日友達が赤ちゃんを連れて来てくれた。抱いたらコアラみたいに僕にしがみついた、木になった気になった。外に興味が向いてる、でも赤ちゃんの身体はそこに充実してあるって掌を通して聴いたようだった、
内があって外に興味が向っている状態がとてもいい。色んな人に囲まれて抱かれてたら、ちょっとして泣き出した。お父さんに戻ったらすぐ泣き止んで、もう外に興味が向いていた。その声と身体の動きはひとつだった、声を手足と同じ動きとして赤ちゃんは発していた。

立つ、も「わたし」より先にあるはずだ。

赤ちゃんみたいに内が充実、いやあのからだ全部が充実してる感じは充実というより充満だ!してる状態なら、ちょっとした変化もちゃんと存在としてわかるだろうなぁ。でも大きくなって身体より頭で考えることが多い人間が腰痛肩凝り、反り腰だ猫背だ、それらを違和感として自覚するころには偏りはきっと相当だ。
そうして病院、カイロ、整体、ネットの書き込み、このサプリを飲むといいこの運動をするといいあの食べ物は避けろ1日何時間寝て働き何回食べて糞して、
外に頼るということは自分の身体より外を信頼するということだ、式にしたら
身体・肉体・からだ=わたし
ではなく
外の情報、外力=わたし
外に軸があるのだから、振り回されて不安が増す、それで身動き取れなくなるのも当然だ。
でも二本足で立つことが先天的か後天的かはわからないけれど、鳥が羽を持ったように魚が鰓を持ったようにヒトは立つようにこの体を変えた、そうして「わたし」があれこれ勉強して教えてもらう前から、立つ。身体は立つ欲求を持って立った。
身体はきっと、立ち方をすでにわかっている。それを待ってみればいいのではない?この立ち方はいい、あの立ち方は悪い、それは身体が判断してるのか外の関係ない頭が判断してるのか、まずどっちを信頼するのか。
息を吸って吐くのも食べるのも歩くのも走るのもなんでも、きっと習得してそうしたという実感がないから、そこに信頼を置くのが不安になる。でもその実感こそが曲者だとしたら?

四つ足は二本足より先にあった。
四つ足で歩いてみると、肩や腰が消えていく。それでいて二本足より安定しているし、身体全体が楽に繋がって動いていくのがわかる。つまり、実感が薄らいでいく。肩や腰がないのにどうして肩こりや腰痛になるだろう、ね?

僕はこの文章を打ちながら、僕かわたしか「わたし」か身体か、とても気にかかっているが、そこを雑にしてしまってる。ここはもっととどまる必要がある。来年の目標にしよ。
身体が「立つ」をするとき、観察してもうまくいかない。観察すると「わたし」が生まれる、

観察ではなく、味わう。

観察と味わう、は違う。そのことに身体ラボのしている最中に気づいた。
味わう、は今しかできない。
観察も今にされることだけれど、そのとき主が観察になって、行為はすでに過去にいる。立つ、を観察してしまうと今していることは一瞬過去の立つを「観察」していることになる。味わうは、今立っているその「立つ」と分かち難くある。
意味。

立つってなんだろ、と考えてみるうち浮かんできたのは、座る、と立つ、の違い。
武術の稽古会で教わった型に、しゃがんだ状態から立って、またしゃがむというのがあって、それをすると身体の、特に骨盤のあたり(骨とかじゃないからあたりとしか言えないのだけど)に何かが内に向かう傾向を感じたり、体全体のうちに何かが上に向かう傾向を確かに感じたりした。
きっと立つ、というのは外から見たその形だけでは立ったことにならないんだと思う。姿勢、という言葉もある。姿の勢い。それがどこに向かうか、どんな形をとっているか。
奇しくも来年は辰年だ。辰、と、立つ。辰は、地面から空に向かって昇っていく。身体のなかの何かが上に昇っていく傾向にあるとき、立っているということなのかもしれない。それも「飛ぶ」でも「浮く」でもなく「立つ」からには、ただ上に昇ることに集中してしまってはダメで、「地面から」というのがミソだと思う。地面にまだ足がついている状態。あるいは今まさに上に昇ろうとしている傾向。そして「今まさに」起こっていることは味わう以外に捉えることができないようだ。

不思議なもので、ラボで1日通してみんなで「立つ」を味わっていくうち、終わりのほうでは立っているとき、上半身が浮いているように軽く、足の裏から地面の内に沈んでいる感じがともにある状態があった。同じように感じた人もいたみたい。

来年は、立つ、をもっと味わっていく。そうする。そうして欲しい。
ここにもう体があるということはタダでできちゃう。誰でもできちゃう。

辰(たつ)年を迎えるこのときに立つ(たつ)に向かう、ってとってもタイミングがいいきが、しない?する?笑



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