M君との対話 No.7 ー サイズの重要性

それはこの家ってものにも関連してて、サイズの問題ですよね、作品のサイズとか、住空間や作業スペースとか、家のサイズもそうだけど、僕はサイズはすごく重要だと思っているんですよ、それを維持していくのって今みんなすごく辛くなってきていると思うんですけど、経済的にも、人数の問題としても、だってMくんの家ってそれこそ養蚕やってたからけっこう大きかったでしょ、本棟造りってことは、ある程度の大きさって絶対あったでしょ、それをひとりで維持していくのって日々の掃除も含めて相当大変だと思うんですよ、それはあの家が、それこそ《イエの欲望》とも繋がると思うんですけど、その家が存続していくために絶対必要な成員人数ってのがあって、それを下回るとそこに住む人の負荷は相当でかくなると思うんですよね、それは経済的な面も含めて、維持費もそうだし、単純な日々の作業も含めて、だからおそらくあの家ができた時は、僕はその家をなまで見たことがないけど、その家を成り立たせるだけの数の人がきっといたはずだし、でもそれが核家族化していったりとか、丁稚奉公がいなくなるとか、近所のお手伝いが消えていくとかを考えると、そのサイズがもたらした負荷ってけっこう大きかったって僕は思っているんですよ、そう考えた時にMくんはこの《解体日誌》では割と自分の質的な問題が深くあるように認識をしていると思うんですけど、僕はやはりそこにサイズの問題もあるんだろうなって、それこそ解体作業の辛さとかってどうですかね、今、家の跡地にできた小屋を解体するってなったらけっこう簡単にできるんじゃないですか、うん、そう、だからけっこう僕はサイズってのがすごく重要なファクターだと思っているので、

 だけど僕は自分が住んでるところがそうじゃないから僕も苦しんでるんですよね、自分の場所を探してるって言ったじゃないですか、今住んでいる家も含めて、例えば僕は今、ここアートハウスを週二日お借りしてお店をやってるじゃないですか、それは僕がもっと前に自分で場所を見つけられてたらそこでやればいいんですよね、てかやりたいから場所探しをしてるんですけど、だけどそれが自分のサイズに合った空間なのかどうかってことで決めることができずにいるんですけど、それは心地よさとか快適さに繋がってくるんですけど、掃除のしやすさとかもそうで、だからけっこう単純なんですよ、だけど日々の作業ががしやすいかどうかって相当大事じゃないですか、さっき言った絵を描き続けたいかってことも含めて、僕は今、絵は寝室で描いているんですよね、だから布団たたんで、机出してきて、紙広げて、もの準備してってのをやんなきゃいけなくて、それで描き終わったらしまって掃除してってのをやんなきゃいけないじゃないですか、例えばそこがアトリエだった場合に入ったらすぐにできるってのとはぜんぜん違うじゃないですか、だからその下條の家も京都から来る、埼玉から来るってのと、すぐ近くにその家があってやるってのと、そこに向かう姿勢としてやりやすさは相当変わってくるじゃないですか、そうゆうものの小さい積み重ねみたいなものもものの捉え方とかにすごく影響してると思うので、だからでかい絵を描こうと思ったらそれなりにやっぱりうぅんて考えちゃうし、だってこれくらいの小ささの紙に描くのとはやはり違うというか、その意味でジャコメッティとかすごいなぁって思っていて、何年か前に東京の美術館でやった回顧展を見に行って、ジャコメッティのすごいでかい細い彫刻があるじゃないですか、あの彫刻を見て、それでその脇に本当にMくんが作るようなサイズのちっこいやつもあって、それを見た時にまったくサイズが違うのに変わってなかったんですよ、同じものがそこにあると思って、すげぇってなって、どうしたってサイズのおっきいものを作ったらそれに合わせたものができたりとか、あるいは力量がなかったらおっきなサイズを作った時に気の抜けがどうしたって目についちゃうのに、2メートルもあるようなものと10センチとかのものがおんなじものとしてそこにあるということが僕の中ではすごくて、ジャコメッティってすげぇって思って、その時に僕はたぶん初めてサイズってものを意識したと思うんですよ、なんの話だっけ、そう、サイズの重要性を僕は意識し始めて、それは不足しても過剰でもだめみたいなのがきっとあって、


それで僕はここで生まれ育っていて、実家もすぐそこだけど、僕は墓参りとかはほとんどしてこなかったし、お墓とか、家とか、家族とか、むしろそれをあんまり僕は重要とは思ってなかったんですよ、でもそれが今になって体を通して見たりとかするようになってから、型や歴史の大事さってものが僕の中で反転して、僕には逆にそれが欠落してるなって思って、すごくいいなってそれは思うんですよ、僕ね、歴史をばかにしていたっていうか、それこそ美術に関しても僕が今描いている絵とか、今自分から生まれるものがあれば美術なんか勉強する必要ないって思っていた時期があったんですよ、すっごいもったいなかったなって思うし、それを少しだけ振り返り始めていて、それに自分だけじゃないんだってのがわかって、僕、これ、去年の夏の田植えの時期に草刈りしていて、小指をぼろい鎌でざくっと切ったんですよね、それでべたってその場で自分で引っつけたんです、病院には行かなくて、そこの用水路の水で洗って、自分で口に咥えてわーっつって、それで人間がすごいのってけっこう骨が見えるくらいに切れてたんですけど普通にくっついたんですよ、どうなるかわからなかったけど、それでその時に思ったんですよ、もしも人類で、あるいは人類に至るまでの変化の過程で僕が初めてこの傷ってものを受けたとするじゃないですか、だとしたらたぶんこの傷は治らなかったと思うんですよ、だからこれは過去の人たちが免疫や治癒能力を獲得してくれていたと言うことができると思うんですけど、それはつまり他者の経験がこの指にはあるんですよね、その経験を僕は今、体験してる、個人的な体験と共に、過去何億年とかの経験をここで再現していると言うか、また現実に立ち現せながら生きてるってことを含めてみると、僕って存在は僕だけじゃないんだと、むしろそうゆう他者の膨大な経験を僕は常に体験してる、追体験してるって言うと変だけど、それらが常に体験として僕に立ち現れてきているということを考えたりもして、だから絵を描くということも、なにかを作るということも、決して個別では済まされないものがあるなと、例えば《わたくし》と《わたくしならざるもの》とか、それは僕にもわからないですけれども、僕にも僕っていう感覚があるから、感覚なのかもわからないんですけど、やっぱ僕とMくんは違うっていうふうに認識しちゃってるから、今、でもそれは今何時間か話をしているうちに勝手に出てきた言葉とかもあるわけですよね、その言葉とか、僕とかMくんが想起した記憶やイメージとか、それはこの場がなければ生まれなかったものだとすると、その現象に着目した時には《わたくし》とか《わたくしたち》とかの重要性はそんなになんか大きくないのかなって、

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