集中しない。努力しない。

集中すると他が消える、
そう勘違いしていた。これぞ錯覚、
どこか一点に集中するとき、そこ以外はどうしてるのか、休んでるわけじゃない、むしろ偏りが一点に集中したそこを他のすべてが支えている。
集注すると、そこ以外の全てが支える集中と違って、集注したところが他とつながり一つになりだす。
庭先に伸びていた松から一本葉っぱをとって、初めてその葉っぱをしがんでみたとき、身体の一部分に溜まっていた何か、言葉にしたら疲労とでもいう何か、滞って固まったものが溶けて全身にゆっくりと広がっていくのを感じたあの感じに似ているか。集注の、一つのイメージ。

四つ足で歩くと自然と背面に気持ちが向かう、私の意識と関係なく背面に集注されていく。
意識を向ける
意識が向かう
気持ちを向ける
気持ちが向かう
どれも違っていることがなんとなく分別できるようになってきた、そうなると暗闇はもっと広く、もっと先にまで小さく深くあることが観えてきた。先はまだまだ長い。
四つ足の感覚を保ったまま対面すると動じない。
相手に意識が向かうと振り回される。

四つ足のとき、手足が乗っているのは地面。沼のように、そこにズブズブとはまりこんでいったりしない、手足に無駄に力も入らないし、無用に力も抜いてない。脱力って、力を抜くことじゃなかった。これも意識のなせる業だったのか、「そうする」が抜く、なら「そうなる」が脱ぐ、に近い今の僕が感じられる程度のことで言うなら。

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