M君との対話 No.5 ー イエの欲望、長所と短所

 例えば、たまたま今このメモに書いてあるからなんだけど、8通目の手紙に《イエの欲望》って言葉が出てきて、その時に僕はその《欲望》って言葉に反応したんですよ、それは本当に《欲望》なのかって疑問に思って、Mくんが家に感じたものは欲望であるのかって、それでその時の僕にぽっと出てきた言葉が《易》って言葉で、易者の《易》、あれって中国の言葉では法則とかって言う意味なんですけど、だから易とか、法則とか、周期性とか、あるいは創発特性って言葉がぱっと浮かんだんです、創発特性は生物個体が個でいる時には現れない、けれどそれがある一定以上の集団になった時に現れる本能の特性のことなんですけど、例えば小魚とかの群れが海ですごい柱みたいにぐわぁぁってなったりするじゃないですか、あれも確か創発特性で、もしかしたら人間にもその創発特性があるのかもなって思った時に、家とか家族の共同体が要求してくるものって、さっき言った洗練もそうなんだけど、果たして後天的に生まれた構造によって要求されたものなのか、実のところ先天的に内在してるんだけど、個とか一定以下の集団の時には出てこない特性なのかなって思って、そうなると《欲望》ってのはかなり自然なものになってくるなって思いますよね、決して利己的なものではなくて、するとその《欲望》を満たそうとすることはやましくもなければ、決して不自然でもないし、ただその現れ方や満し方の方に問題があるんじゃないかって見方もできるかなって思って、だからこの問いが本当に問うべきものなのかってことはありますよね、それこそ解体を通して自分の中で変化していったものとかもあっただろうし、



 それで僕自身、そうゆう家とか家族みたいなものの圧力のようなものは特に意識せずに育ってきたかと言うと、僕もそんなことはなくて、僕は中学校を卒業する手前で中卒でできる仕事ってなにかあるかなって、風呂場でお湯に鼻まで浸かりながら考えてた記憶があります、ぶくぶくぶくってしながら、僕のお母さんは教育ママじゃないけどけっこうそんな感じだったし、お前は将来なんになるのって、弁護士、お医者さん、建築家もいいねって言う感じの人だったし、僕自身も自分でやりたいって言って始めた習い事みたいなこともけっこうやってて、スイミングやったり、バイオリンやってみたりだとか、それで友だちと遊ぶ時間がなかったってのもあるし、だから僕も意外とけっこうそうゆう感じなんですよ、意外とと言うと変だけど、ちゃんとそうゆうのを浴びて、だけどなにがよかったんですかね、けっこう僕の場合は我を通してることが多かったのかもしれないですね、怒られても言うこと聞かないみたいな、そうゆうふうだったりしたんで、でもまぁ、抑圧じゃないけど、そうゆうものは一応あったかな、あとは今でこそ僕は珈琲やったり、文章書いてみたり、絵を描いてみたりとか、いろんなことをやってることに対して負い目みたいなものはないんだけど、小学校3年の時の文集で父親が一言添えるみたいのがあって、そこにお前はマルチ人間だって書いてあって、その時の僕はそれを肯定的な意味で受け取ってないんですよ、いまだにその記憶はあって、それは僕はマルチであるってことに引け目を感じてたんですよ、僕は職人みたいなものに憧れてたんですよ、ひとつの道にずっと行くっていうことにものすごい憧れがあって、25歳ぐらいの時に俺はもう文章一本でやってこうみたいなことを思って文章書いたりとかするんだけど、ま、不毛な苦悩に満ちた5年間みたいのがそれからあって、なんで、そうゆうものはありました、普通に、それで高校はあんま行かなかったんだけど、小中はもう皆勤賞で、朝7時には学校の前で校門あくの待っている人みたいな感じだったんです、それが高校になってだらけていったんですけど、それは僕ん中では日和ったって感覚なんですよ、高校に行ったことも日和ったと思ってるし、中卒で働かずに進学したこと自体が日和ったっていう認識だし、高校に行かなかったのも怠けたみたいな感じなんですよ、それでその後に僕はアメリカ行くじゃないですか、高校を卒業して、留学で、それもなんで行ったかっていうと、それまでの自分は努力をしてこなかったと思ったんですよ、それで日本語が通じないところに行けば英語で全部やらなきゃいけないわけだから努力せざるを得ないって考えて、だけど結局は生活なんか慣れちゃうし、珈琲に出会って途中で辞めちゃうし、だからその行動自体は割と突拍子もなかったり、自分を通しているように見えるかもしれないけれど、自分の中ではそうではないんですよね、そこで自分は壁を乗り越えるでもなく、壁の抜け道を探すでもなく、どっちかっていうとそこから離れていってしまったっていう感覚の方が強いので、日和ったって感覚が一番強いのかな、選んで行ったっていう感覚よりは、でも僕は楽観的みたいなところはありますよね、軽いというか、



 それで僕はそれこそ親とわかり合えるとかぜんぜん思うことがなかったんで、わかってほしいって気持ちとかがあんまりないのかもしれないのだけど、親に対して、Mくんは自分のことをぐちぐち執着してるように書いてるけど、でもそれは現れ方として長所のように見えたり、逆に短所のように見えたりもするかもしれないけれど、僕は牧嶋くんがここで展示をした一連の作品を見た時に、その細やかさとかに対して同じものの別の現れ方として感じていて、そのぐちぐちした執着とかが発露の仕方は違っても僕はそれがとても自分にはないものとして羨ましくは見ていたし、いいなぁって思いながら、だからよく言われるのが、奥さんと付き合っていた頃によく喧嘩してさ、そうゆうところを直せとか言われた時に、これを直すと僕のいいところも失われるけどそれでもいいかって言ってましたよね、長所と短所ってほとんど同じじゃないかって思うから、だからこうゆうふうに僕のすぐ笑っちゃうところとかさぁ、やっぱ重さは生み出すのは難しいよね、絵を描いててもそこまでぐーっと深く踏み込んでいくことが得意ではないし、やっぱその分の乱高下が大きくないので、だから特性としてすでにある重さとか軽さとかの、その活かし方だとか現し方にこそ注目するのがいいのかなぁって思うことはありましたね、だから自分でもまだ親子の関係を消化できているのかっていうとそんなできてない気もするし、でもなんだろうな、わかる、わからないだとか、わかり合えるだとかよく聞くじゃないですか、結局人はわかり合えないんだとか、僕はなんでそれがわかるのかなって逆に思うわけ、Mくんも父親のことがわからないって書いてますよね、父親や美術界隈の全体について気持ちの吐露があったじゃないですか、それで今唐突に思ったんですけど、結局人はわからないって言った時に、「あなたはなんでわからないってわかるのか」って、僕にはわかり合えたって感じた瞬間は確かにあったし、その違いはなんなんだろうってことですよね、それを拗らせていくと自分は自分のことがわからないって話になったりするじゃないですか、だから家とか親子の関係とかもそうゆうことがあるのかなぁって思ったりもしますよね、だからわかり合えるとかをその人はどうゆう状態を指してそう言っているのかを、わかるって言うのはどこまでを含めてそう言っているのかってことも、それはさっきの美術論と同じようなことで、自分が思ったことの信憑性をもう一度疑い直してみると言うか、そうゆう感じがあるんですよね、

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