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あきらめどき

PS3が壊れた。本体の電源ボタンを押したらバチンとわかりやすくショートした音がして、その後の静寂に「遂にきたか」と項垂れた。
Blu-rayを再生することができて、テレビ番組を録画できる唯一の家電だった。
PS3はもうとっくに販売中止していて、手に入らないらしい。中古で買うか、いっそのことPS5を買うか。しかしPS5を買ったとて、私はゲームをしない。プレステはただAmazon Primeで映画を観るかBlu-rayでライブかお笑いを観るかトルネで稀にテレビ番組を録画するための家電でかしかない。なので、PS5はどう考えてもオーバースペックだ。オーバースペックなんだけど、なんだか、Blu-rayレコーダーは別になんかそんな…そういうの必要?という気持ちがある。
私はずっと「プレステはパソコンと同じくらい賢い」という言説を抱えているので、どうせ買うならパソコン買うわ、あと良いレコーダーとPS5の価格はそう変わらないからなんか……それならプレステ買ったほうがよくない?と思っている。まあ、急ぎでもないしな、と放置していたら、壊れてから3か月は経っていた。
その間に手持ちのBlu-rayは20枚くらい増えていた。積みに積んでいるが、観るのかこれ?

話は変わるが、久しぶりに社会人になった。正しく社会復帰をした。
仕事ってこんなにしんどいものだったかと日々悩んでいる。ひと月ごとにしんどさの質が変わっていき、現在、けっこうギリギリなところに立っている。任された仕事はほぼやったことのないことばかりで、教えを乞う人もおらず、3か月目までは夜を徹して勉強した日もあった。したからなんだっていう話だが。新卒のときも2社目のときもスタートはここまでつらくなかった、それはただ前例があり、ひとまず型を見ていればある程度はどうにかなるから。
今回はそれがない。何もかも手探りでやっている。

成果が出ないと悩んでいるが、初めて出せた成果に対して感慨深さがなかった。5分くらいはうれしかったが「ああそう……」とすぐに虚無に襲われた。
自分は比較的エンゲージメントが高いと思うが、自身のモチベーションは低い。貢献できていないという気持ちのみが先立ち、焦燥で心臓が揺れる。だがその焦燥を解消する動きをしない。なぜなら、ただただやりたくないから。どうせやるなら早くやったほうがいい。先延ばしにすることによる成功体験はない。
動いても動かなくても自分の精神にかなり負荷がかかる。その負荷でパフォーマンスが大きく左右される。これは職場で説明のしようがない、感情を理性的に言葉に乗せるのが下手なので伝わると思えない。
ひとりでできるという理由からこの仕事を選んでいるが、目標設定が苦手かつ嫌いで、管理ができないので、目を背け続けているそこにテコ入れされたら逃げ出すかもしれない。今まではなんとなくやれていた。でもそれはなんとなくだ。
何がつらいのかを言語化しないと誰も、何も手の打ちようがない。やりたくないという理由だけで納得できるほど他人も自分も甘くはない。並走する共感者がほしいのか、役割を細分化して業務を減らしたいのか、仕事の仕方を変えたいのか、誰かに指示されたいのか、これらを果たすために自分が何をしなければならないのか。また、的外れだったとしたら対案を出せるのか。
すぐ明日が来る、3時間しか眠れない日があった。このままだと適応できないで仕事ができなくなる。同じことを繰り返す。
まあ、同じメンタリティではあるが、あのときは逆だった、怒りで満ちていた。エネルギーを使い果たして今がある。
脳が縮んだと日々の端々で思う。不眠も不安障害も大した材料にならないと思っている。不安で不安で仕方なくなるが努力から目を背けている。
以前受けた適性検査では「プライドが高くて打たれ弱い」という結果が出たと伝えられた。たぶん正しい。成果が出てもなんとも思わないのはできて当たり前だから。どう転んでもただただ疲弊していく。カウンセリングでも受けるか?効果を実感した試しはないが。

帰り道、自宅近くの交差点で信号待ちをしていると希死念慮が湧いてくる。懐かしい。忘れてはいない。これはずっと根を張っている、気持ちが上向きになると見えなくなるだけで背骨に巻き付いている。そこには危機感も何もなくて、ただ今の状態が健全ではないということだけがわかる。みんなよく生きていられるな。人によってはもっとひどいこともあるか。絶対評価で見たほうがいいんだろうが。心を守る最善策がわからない。

PS3を買ったほうがいいかもしれない。PS5でもいい。適当な映画を、適当なライブ映像を流そう。
近くにできた映画館に初めて行った。アリ・アスターの新作であるボーはおそれているを観た。つまらなかった。序盤30分くらいでこれぜんぶで2時間半あるんだよな、今チャプター何?と思って、笑って帰った。ちゃんとつまらなかったと思う。私にはこの映画を楽しめる学がない。
家のテレビでヘレディタリーを見返そう。私はこの作品を一種のセラピーとして捉えていた時期があった。今ならまた同じような気持ちで観られるかもしれない。

真っ赤っかに燃える都市ビルの表層、部分にはりついた、天狗が飛んだ、黄昏の空、早くも出現する満月の中に浮かび上がった、この一節を呟いて歩く。
BLUEを通り越して躁、脳内浮浪の旅にGO GO GO、人がぼんぼん死ぬこの世、投げやりに死んじゃっちゃおしまいよ、俺の日常自問自答、公の面前で大袈裟に吐露、生の実感だけは持っとこう、頭どんだけ狂ってもと私のアイドルが言う。
この曲、CRAZY DAYS CRAZY FEELINGは最近ライブでよく演奏される。ああそうですか、と思う。言うなあ、とも。思春期の頃から刺さり続けているがぜんぜん救済にならなくて最高にいい曲だ。

ちゃんと選んだのか。この先どうしようか。楽にしていくにはどうしたらいいんだろうな。サイクルをうまく回せなかったときに上長から、それじゃ幸せになれないよと仕事中に言われたが、そんな抽象的な…と思うと同時にそれはそうだよと頭を抱えた。ひどい時期は大体日々の救済として何かしら新しいコンテンツに膝から下を持っていかれるが、今回はその様子がない。延々と、ただ切れ目なく暗い気持ちが続く。
これで職場の中で明るい人間だって言われてるから笑うよな。声だけは出るから。薄皮一枚剥がしただけでこんなもんだよ。

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